紅蓮地獄


ぐれんじこく【紅蓮地獄】八寒地獄の第七。ここに落ちたものは、酷寒のために皮膚が裂けて血が流れ、紅色の蓮華に似るという。

(広辞苑 第二版)




「トーキョー・ダモイ」と言いながらも、列車は夕日に走っていった。

 おおよそ人の住むところではなかった。そこは地獄だった。肌を刺す氷点下の世界は息さえ凍る。囚人には当然のように防寒着のような御立派な物は支給されなかった。襤褸切れを繕い繕い、穴が開けばそれまでだ。ある者など、底の抜けた靴で雪を踏みしめ、凍傷で指を失った。人間の身体はある程度以上の寒さを感じないようにできているらしい。感じずとも限界を超えた極寒の環境は容赦なく、体力を消耗させ身体を蝕み損ない、命を奪っていった。囚人の群れはさながら亡者の列のようだった。

 獄卒の鬼共も、故郷を遠く引き離されて不安げに苛立っているようだった。

 悴んだ手を必死で揉む。ジンジンと感覚が戻ってきた。このダイナモを動くようにしなければ死んでしまう。慣れ親しんだ母国の物と仕様は違うが原理は同じだと自分に言い聞かせる。

 妻は無事だろうか、子は息災だろうか。

 機械整備の技術を持っていると知られて、針葉樹を切り出し凍土を掘るような肉体労働は免除された。稗と燕麦と高粱の薄い粥のような食事に、特別に一切れの麺麭や干し肉が付くこともあった。鬼がこっそりと僅かに底にウォッカが残った小壜を渡してくることもあった。それらの厚遇は、同じ地獄の亡者のやっかみを無駄に買った。

 亡者共は、僅かな待遇の差の為に、いとも簡単に裏切り見下し妬んだ。少しでも鬼の歓心を得ようとする者、それを軽蔑する者、助け合う者、虐げる者、様々だった。

 鬼共曰く、この地は、身分の上下も貧富の格差もない全ての人民が平等な地上の楽園なのだそうだ。ならばこの地獄の様相は何なのだ。この地で所詮亡者は人ではなかった。鬼共の唱える理想と理屈では素晴らしい。素晴らしいが、伴うものではなかった。故国を離れ妻と共に骨を埋めるつもりで訪れた沃野は、共和の理想を高く謳いながら、やはり伴うものではなかった。そもそも、開拓される大地は新雪のようにまっさらな手付かずの土地ではなかった。夢と理想は人間の現実の前に遠く脆い。

 妬み、やっかみ、恨み、つらみ、裏切り、赤心、嗜虐、媚び、蔑み、嘲り、慈しみ、里心、絶望ーー地獄だった。人の心が、地獄だった。

 妻は無事だろうか、子は息災だろうか。もう、どうでも良かった。

 唸りを上げてダイナモが動き始める。動かないままで凍て死んでもいっそ構わなかった。何も考えず、機械とひたすら向き合っていたかった。故郷に帰れる展望は、ない。




 胸に抱いたドロップ缶を握り締めた。

 夏。瓦解は一瞬だった。一夜にして国が消えた。それまでの生活は一瞬で崩壊した。取るのも取らず、子を抱いて着のみ着のまま逃げた。勤めに出ていた夫の帰りを待つ余裕はなかった。恐ろしい噂ばかりが飛び交う。一足先に撤退した兵隊のあとの橋は落ちていて、一同は呆然とした。泥を這いずり泥に塗れ泥を啜り泥を食んで、先へ先へ。櫛の歯が抜けるように脱落していく。捨てて先に行くしかなかった。略奪、暴行、陵辱、殺戮。恐ろしい噂は嘘ではなくて、現実は更に悲惨だった。置いて行かれた者たちの末路に怯え、目を瞑る。何か一つ間違えれば、それは我が身だ。歯を食いしばり齧りついて、逃亡の群れからはぐれるわけにはいかなかった。腕に抱いた我が子とともに、故郷に帰るのだ。

 秋。母国に帰る船はなかった。国に見捨てられた。母国がどういう状況なのかも分からない。まともなことにはなっていまい。腹を空かして泣く子を宥めすかす。砂利混じりの雑穀の握り飯を少しずつ齧る。幼子は消化できずに腹を下す。体力のない幼い子供では持ちはすまい。大人でさえ危うい。亡くすよりは、と泣く泣く子を手放す親も出てきた。引き取る地元の人間は、自分たちも厳しい生活だろうに、子は宝だ、我が子と思って育てる、立派な大人にするから安心しろ、と慰めた。ただ刻々と短い秋は過ぎる。男達は穴を掘り始めた。

 冬。厳しく長い冬が来た。雨を遮る屋根も風を防ぐ鞄もない剥き出しの棄民の一団を、極寒の嵐が襲う。寄る辺のない雛のように身を寄せ合うしか抗う術はなかった。凍った大地は足元から深々と冷える。暖を取るための木切れは尽きていた。少しでも風から護ろうと、女子供は群れの中心に寄せられた。雑草を齧る、革靴を齧る、土塊を齧る。そんなものでも口にしないよりはましだった。秋の間に用意していた墓穴は、半月を待たずに足らなくなった。凍てついた土にシャベルの歯は立たない。荼毘にふすために燃やす資材はとっくにない。亡骸は並べられて寒風に吹き曝されるだけだった。屍は無情に増えていく。母国に帰る船は来ない、船が来るという知らせも来ない。

 胸に抱いたドロップ缶を握り締めた。腕に抱いていた我が子はこんなにも小さくなってしまった。スチール製の缶は冷えて、振るとカラカラと小さな音がする。荼毘にふして弔えてもらえただけでもこの子は幸運だった。何が幸運だ。こんなに小さくなってしまって、幸せなはずが無い。それでも、これ以上に悲惨な地獄を見た者がいる。

 帰るのだ。そこには夫も子もいないが、それでも故郷に帰るのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る