赤旗破る
プロレタリアはこの革命において鉄鎖のほかに失う何ものをも持たない。
彼らが獲得するものは世界である。万国の労働者、団結せよ。
カール・ハインリヒ・マルクス
フリードリヒ・エンゲルス
『共産党宣言』
活動の一貫としてアジって投石したら、もみくちゃにされどさくさに紛れて捕まっていた。抵抗はした。だが公権力に敵うものではなかった。警棒で殴られ頭に呻いているところを捕縛された。うつ伏せで後ろ手にされ頭を地面に押さえつけられた。殴られた内出血は青染みどころか黄色だし、頬の擦過傷はヒリヒリどころかジンジンとして、口の中が切れて血の味がする。
睡魔は襲ってきているが、痛みが気になっていまいち寝入れない。留置所の床は硬くて冷たくて臭かった。じめじめと芯から冷えて、カビ臭い。複雑にブレンドされたアンモニア臭とアルコール臭を鼻が嗅ぎつけた。
仲間と肩を組み、シュプレヒコールを上げ、投石した段階では確かに使命感に燃えていたが、殴られた段階でその情熱は霧散してしまっていた。今は燻る気持ちがぶすぶすと黒煙を上げている。
「ああ、俺ってなんて不運な」
不運の星の下に生まれついている、と思った。でなくば、今、ここで、このように惨めな思いはしていまい。そして、この不運さの度合いは、誰しもが認める不幸ではなく、犬のふんを卸したての靴で踏む程度の、微妙なツイてなさだった。その微妙さも、また不運だと思った。ありふれて埋没して、誰からも理解されない。Sは確かに惨めな気持ちで横になっているのに、それを誰も理解しない、理解しようと試みない。同じ境遇の者の同情も望めないだろう。
小説も書いてみたし、漫画も描いてみたし、ギターも弾いてみたし、野球もやってみたし、演劇もやってみた。常に、もっと素晴らしい何かがあるのではないか、自分はもっと何か違うことができるのではないか、という可能性への期待と予感があった。思い付くもの全てに挑戦し、その都度挫折を繰り返した。
そんなSを妹は冷めた目で見ていた。捕まった自分を、妹はまた見下した目で見るだろう。その自覚もまた、憂鬱の素だった。妹から馬鹿にされていることを、Sは知っていた。妹は、夢というものを持っていなかった。妹は、自分の将来について何ら期待をしていなかった。幼くして生活に疲れているようなところさえあった。馬鹿にしているのはお互い様だ、とSは嘯く。妹は何が楽しくて生きているのだろう。
Sは、自分の人生を微妙に不運だが微妙に恵まれている、と捉えていた。上京して四年制の大学に入れるほどの学力と資産があった。無論、努力はしたし、両親にはかなりの無理をさせている。Sを東京の大学にやる為に、両親はずっと骨身を削るように働いている。微妙ではあるが恵まれているからこそ、恵まれていない者の為に闘争せねばならないし、より良い将来の為に挑戦せねばならない。それは義務で権利だ。それがSの行動原理だった。
凍えるほどではないが、肌寒い。鳥肌が立っている。毛布の一枚ぐらい欲しいと思う。連続ドラマの主人公が羨ましい。誰からも認められる不幸の連続で、それは絵になって物語になっているからだ。Sの人生では話にならない。そして何より、連続ドラマの主人公には、窮地に陥るたびに魔法のように救いの手を差し伸べる者が現れるのだ。そんなありがたい人物は、Sの人生には現れなかった。現れなかったから、挫折の連続だった。
うつらうつらと朝を迎え、雀が鳴き止んだ頃、母がSの身柄を引き取りに来た。遠路はるばる夜行列車を乗り継いで出向いた母は、深く腰を折り背中を丸く曲げ警察の人間に謝罪を繰り返していた。その姿を見て、Sは、田舎者丸出しだと感じた。
怒っているだろうと予想していた母は、粛々としていた。
「S、こん馬鹿たれが! 警察のご厄介になるようなことして!」
「うん」
ごめんなさい、の一言がどうしても出なかった。
「親父はなんち?」
「Sがどうしても正しいと思うんなら仕方ない。でも、人様に迷惑かけるのは違う、って」
「そっか、親父が、そう」
父に言葉は期待していなかった。だが、父の言葉は予想に反したものだった。どうせいつものように何も言わないか、よくて頭から反対していると考えていた。
「Kは……」
言いかけて、噤んだ。訊かずとも分かる。
「Kはそりゃもう怒っとったよ。何も言うとらんけど」
「そうだろうなあ」
恨みがましく押し黙って怒りを抑えている妹の姿がありありと想像できた。「大学までやってもらって何をやっているのだ」「恥知らず」「恩知らず」「浮かれ者」「情けない」「びったれ」と、妹が言ってもいない罵倒まで聞こえてきた。それは、そのままSの自省の声だった。
妹は、頭の出来は悪くないし、実生活に当たってはSよりよっぽど気が利いていた。だが、「女が学問しても仕事がない」と、家の手伝いばかりやらされていた。反対にSは、長男だし学業の成績はいいからと、雑事は免除されていた。そのことも、Sが妹の反感を買う一因だった。だけどそれは自分の所為ではない、とSは思っていた。
「そうだろうなあ」
感慨を持って相槌をもう一度Sは繰り返した。
母と二人で遅い昼食にうどんを啜った。
「出汁が醤油辛かね」
「そりゃ、ここらはうどんより蕎麦の地域だからだよ」
珍しく食べ物に小さく不平を零した母に、Sは得意げに語る。
「美味しい鴨南蛮の店知ってるよ。食べ行こうか」
そう言えば、母は妙にうどんが好きだった。気付けばすぐに食事がうどんになっていた。昼食なんかはほぼうどんだったし、風邪を引いたらうどんだった。手早く準備できるのもあるだろうが、やはり好きなのだろう。食べ物の好き嫌いを決して口にしない人だったが、一緒に生活をしていればなんとなく分かるものもあるのだ。思い出して、懐かしくなった。
「いや、食べたばっかやし、もう帰るけんが」
首を振った母に、残念だなあ、と呟いた。言い訳だけは山ほどあったが、語るべき言葉など何もないというのに、母がすぐに帰るのは残念だった。
郷里から母は、どっさりと米やら味噌やら漬け物やらを持って来ていた。急な出立だっただろうに、よくぞここまで、という量だ。「米ぐらいこっちでも買えるよ」と憎まれ口を叩きながら、妙に嬉しくて仕方なかった。
列車に乗るまでの間、母は幾度となく「体に気を付けるんよ」「ちゃんと食べえよ」「しっかり勉強するんよ」と繰り返した。いつもだったら上の空で適当に生返事をするのだが、今ばかりは一つ一つ身に染みて「うん」「お袋こそ」「分かった」と真摯に頷いた。
列車が見えなくなるまでホームで見送った。最後まで謝れなかった。ごめんなさいと、言えなかった。空を仰いだ。日が傾きはじめて金色の空だ。固く目を閉じる。どうかこの決意が揺るぎませんように、と全霊で祈った。今日まで折れてばかりの人生で、この決意だけは貫かねばならないはずだ。
夕日の差し入る部屋だった。立て看板やら横断幕やらビラやらガリ版やらヘルメットやら鉄パイプやらビールの空き瓶やらが乱雑に散らかっていて、実際以上に狭く感じる。
「俺は抜ける」
「そう」
細い首のわりに豊かな胸で、いいおっぱいだなあ、と場違いの感慨を改めてSは抱いた。真っ直ぐに切り揃えられた前髪の下のアーモンド型の目は、誤魔化しを許さずSを射抜いていることだろう。彼女の目は、妹に似ているように思う。彼女は窓を背に立っている。逆光で表情は窺えない。対して、眩しさに目を眇めているSの有り様はありありと日に照らし出されているだろう。
「革命は……」
「この国において革命は暴力を以って成されるべきではない」
「そう」
彼女の顎が僅かに持ち上がる。「たかが一晩留置所に入れられたぐらいで」と、蔑んでいるのが分かる。「転向」とか、そういった一言を持ち出されるとSの決意が崩される実感があった。唾を飲む。拳を握る。足を踏ん張る。今この一瞬に、一生分の勇気と決意と意志の力で臨んでいた。これは、勇気ある撤退なのだ、誰が何と言おうと。
「分かった」
と、彼女は一言だけ発した。
それを聞いて、あからさまにSは安堵して肩の力を抜いた。それを見て、彼女は思わずといったように笑みを零す。
「頑張ってね」
「あ、ああ。うん、うん」
しどろもどろに頷く。
彼女に対して対等に格好良い男でありたかったのだと、Sは今更ながらに悟る。
淡い思慕も、青春の熱気も、高邁な理想も、浅薄な夢想も、赤い旗に託した夢は破れてしまった。自ら破いた。己の選択が正しいかは分からないが、間違ってはいないはずだ。Sの誠意ではたった一つの物、家族しか選べなかった。一生分の勇気と決意と意志の力を、この場で使い果たした。これからもこれまで通り、流され後悔するだけの人生かもしれない。だからこそ、ここで貫いた唯一のこの決意だけは悔いてはならず、誇るべきだ。祈るように、Sはそう心に決めた。
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