夕焼小焼

なばな

夕焼小焼

夕焼小焼で 日が暮れて

山のお寺の 鐘が鳴る

お手々つないで 皆帰ろ

烏と一緒に 帰りましょう


子供が帰った 後からは

まあるい大きな お月さま

小鳥が夢を 見る頃は

空にはきらきら 金の星

 作詞:中村雨虹 作曲:草川信




 歓迎は強烈なものだった。

 窓が割れて人が飛んで怒号が交って歓声が沸く。なみなみと入った一升瓶を遠慮なく頭に振り下ろす。額が割れて流血しているのに構わず歯を剥いて拳を振るう。夕日が赤い。

 それが、Kがこの街に着いた初日に目にしたものだった。喧嘩の光景が日常茶飯事だと、暮らしていくうちに追々知ることになる。


 車窓を景色が流れていく。人家が消えて山に入る。見えるのは木々ばかりだ。そのうちに開けて海が見えると兄はしたり顔で語ったが、それまで意識が持ちそうになかった。既に飽きている。

 その兄は、寝息をかいていた。今寝てしまったら夜眠れなくなるのに、とKは嘆息した。向き合う両親は押し黙ったままだ。瞼が重くなる。目をこすって必死に窓の外を見る。景色は変わらない。

 揺り起こされて、駅に到着したと知らされた。日が傾いている。いつの間にか寝入ってしまっていたようだ。Kを起こした兄が、しょうがない妹だ、という顔をしているのが気に食わない。

 駅舎は立派な木造二階建てで、ホームが複数ある。日も暮れようかというのに、人の多さに面食らう。活気があって言葉が荒い。改札を出る。駅前の広場の地面はよく均されていて、四輪駆動が走っていた。そして、喧嘩。

 兄は、この街には映画館が三軒もあるのだと浮き足立っていた。Kは、随分と騒がしいところに来てしまったものだと、ただ仰天していた。生まれ育った田舎とは別世界だ。日も沈まないうちから酒をかっ込んでいる人間がいて、ここは年中お正月なのだろうかと、真剣に疑問に思った。Kの常識では、昼間からお酒を飲んでもいいのはお正月だけだ。素直に疑問を吐露すると、兄は「Kはアンポンタンやね」と言い、母は「お正月は一月一日ですよ」と言い、父は「うん」と頷いただけだった。

「誰がアンポンタンか。アホ!」

 兄の言い様に腹が据えかねて足を出すと、「Kが蹴った!」とこれ見よがしに兄は騒いだ。騒ぐ兄を、両親は取り合わなかった。


「さあ」

 と、父が歩き出す。

 初っ端からの騒動でいよいよ不安はいや増したが、密かに期待で高揚してもいた。興奮を隠そうともしないで浮かれる兄をみっともないとも思ったが、その気持ちはよく分かる。これから向かう先は我が家だ。自分たち家族の家だ。これまでのような居候とは違うのだ。浮かれずにいられようか。

 それまでKの一家は、父の親戚の家の離れ居を借りていた。親戚は気の良い人たちで、Kの一家も家族のように遇してくれていたが、やはり肩身の狭いものはあったのだ。不自由のない暮らしではあったが、常に遠慮があった。

 Kの父は大陸で電気技師をしていたが、田舎には技師を必要とするような機会はなかなかなかった。なので父は黙々と雑務に従事していた。その父に「炭鉱は景気がええよ」と仕事の斡旋があった。聞けば、売りに出されている家屋もある。父の決断は早かった。

 かくしてKの一家はこの街に越してきたわけだ。


 働き者の、というか働くことにしか興味のない母は、間もなく新居で雑貨屋を始めた。余所者や新参者に対する嫌味は多少あったが、所詮は流れ者が集まった街だ。その頃になるとKもこの街に慣れて、友人の一人や二人もできていた。いつも店や家事の手伝いをやらされていて、それが不満だった。田舎での居候の頃は、遊びの誘いも農繁期の合間といった感じだったが、ここではしょっちゅう誘いの声がかかる。生活の形態が違うと、生活のリズムがずれる。兄は、家の手伝いを放り出して遊び歩いていた。

 兄は、家の手伝いを全くやらない、というわけではない。だが、ただひたすらに要領が悪い。Kが一笊分の海老の殻を剥き終わっているのに、兄は半分も片付けいないなんてことはざらにある。それでも兄はやる時は至極真面目にやっている。責めるにも責められない。ついでに酷く飽きっぽい性格で、手伝いに関して兄はあまりあてにされていなかった。その割をK

が食らう形となっていた。

 兄は決して悪い人間ではない。調子が良いだけの人間だ。Kは兄を、そう評していた。形から入るタイプで凝り性で飽きっぽく、何一つモノにならない人間だった。少し歳の離れた妹のKを「小さいから」「女だから」「足手まといだから」と邪険にはしなかった。甚く可愛がって、遊び仲間に不評でも連れ回し、結果Kは兄の気紛れに巻き込まれることが多々あった。兄の所為で面倒な目に遭っても、Kは兄を嫌いにはなれなかった。


 母が雑貨屋を営みはじめて分かったことだが、この街の人間は手元に金がなくても平気で買い物をする。それが生活必需品であろうがなかろうが「ツケといて」と当たり前に言う。ヤマは給与が高く福利厚生が充実しており、多少の借金で生活が破綻して困窮するなんてことはないのだ。景気が良く、金遣いが荒いので、手元から金がすぐに消える。命と隣り合わせのヤマでは、宵越しの金など持たぬほうが賢いのだ。あの世に銭は持っていけない。遺された家族には手当てが出る。

 街に着いた当日に「ここはお正月なの?」と発言し兄に馬鹿にされた件は、すぐに解消した。昼間から酔っ払っている人間なんて、Kの育った田舎では、ハレの日である元日ぐらいにしかいなかった。昼間から酒を飲んでる者は放蕩者だ。だが、ヤマは二十四時間営業で、働いている人間は三勤交代だ。夜働いていた炭鉱夫が、仕事明けの一杯を引っ掛けていたのだ。

 肉体労働者である炭鉱夫たちは皆逞しい。腕っ節を自慢する者も多い。陽気で面倒見が良く腕力の強い者が尊敬を集める。日に当たらないので、肌は避けるように白い。下手をしなくてもKのほうが黒い。Kの住んでいた田舎では働き者ほど日に焼けていたので、青白い皮膚の下を逞しい筋肉が動く様には、なかなか慣れなかった。


 Kの両親はとにかく無口な人たちだった。ついでに無趣味だ。兄ばかりがお喋りで、Kは普通だ。気付けばKと兄ばかりが会話している。Kが生まれるまで、兄はどう過ごしていたのだろうか。兄はKが生まれて話し相手ができて、嬉しかったのかもしれない。

 母は陰気とまでは言わないが、愛想笑いは苦手であまり笑わず、必要最低限のことしか口にしない。何かしら仕事を見つけては没頭し、それをKにも手伝わせていた。

 父は、もっと程度が酷い。必要最低限のことも滅多に口にしない。「ああ」とか「うん」とか「そう」とかぐらいしか言わない。勤めから帰ってきても「ただいま」も言わず、店先で働く母の顔を見て「うん」と頷くだけで、真っ直ぐに自室にこもった。父がどうやって勤めを果たしているのか、Kにはさっぱり検討が付かない。存在感が希薄で、幽霊と暮らしているみたいだと、Kは感じていた。

 何故か幾度か父に連れられて遠出をした記憶がある。潮風の匂いがした。兄も一緒だったり一緒でなかったりした。母と出歩いた記憶はない。無言で海を眺めていたり、すれ違う列車の型番を淡々とKに説明したりしていた。Kにはわけの分からない呪文にしか聞こえなかった。父と過ごす時間は手持ち無沙汰で所在がなくて居心地が悪かった。父の心は此処にはなくて、何処か遠くに置き忘れているみたいだった。

 父は紅蓮地獄から帰ってきた人間だ。帰ってからの父は人が違っている、と母が零したことがあった。父は何も語ろうとしなかった。ただ、「とても寒いところだった」とだけ、Kに呟いた。


 その日、とにかくKは遊びたかった。友人と遊びたかった。フラフープとかゴム飛びとかをしたかった。放課後、いつものように遊びに誘われて、いつものように断った。「しょうがなかね」と笑ってくれて、決して「付き合いの悪い人間だ」と非難しなかった。それがKにはありがたい。それでもたっぷり一時間半、長い家路を遊びながら帰った。けれどもKは家の手伝いなんぞせずにまだ遊びたかった。だって兄は遊び歩いているのだから。

 店番を頼まれて、Kは「いやだ」と言った。

「K、親の言うことは聞き」

「嫌! なんで私ばっかり。たまには兄ちゃんに頼んでよ!」

「K、聞き分けり」

「なんで私ばっかり! Sのやつにやらせればいいんよ!」

「お兄ちゃんは呼び捨てにせんよ」

「アンタ、Sばっか贔屓して、私のことは可愛くないんだ」

「親をアンタ呼ばわりとは何事ね」

「贔屓、贔屓、依怙贔屓!」

 ダンダンと足を踏み鳴らす。鬱屈が爆発して、身体が付いていかない。顔を真っ赤にし、髪を振り乱し、涙目で睨みつける。

 反抗的なKを、母は眉を寄せて非難の目で見た。その目を、ふっとKの背後に逸らす。手を揃えて腰を折る。戸を引く音がする。

「おかえりなさいませ」

 父が帰宅したのだ。父は、対峙しているKと母を、怒り心頭に発しているKと、そのKに戸惑い気味に困った顔をしている母を、黙ってたっぷりと眺めた。そうして、何も言わずに「うん」と一人頷いて奥に入っていった。

 父がKの激情を見事に無視して横を通り過ぎた時、いよいよKは我慢がならなかった。

「もう、いい」

 言い捨てると、戸を叩きつけるように開けて走り出す。涙が零れた。


 半狂乱で泣き喚きながら走った。帰りたかった。家に帰りたかった。故郷に帰りたかった。

 走っても走っても胸が破れそうなほど走っても、水を讃えた田の向こうに連なる青い山並みも、滔々とした清流も、高い青空も、見えてこなかった。田畑の向こうに聳えるのは草の一本も生えていない黒いボタ山。川は石炭を洗ったが為に真っ黒で、ゴミが流れてうっすらと虹色の油が浮いている。空気は埃っぽくて、いつも何処か霞んでいた。

 そして、空。夕日。落ちる日は焼け爛れた鉄のようにぐずぐずと赤い。火事でも起きているかのように、空は赤く焼けている。夕焼けは、こんな色ではなかった。こんな異常な赤さではなかった。それは分かるのに、もう生まれ育った土地の夕焼けの色が思い出せない。

 異常に赤い夕日は奇妙な迫力があって歪に美しかった。呆然と西を眺めて、もう帰れない、と悟った。Kの家があるのは、この赤い夕焼けの街だ。

 いつの間にか、故郷は遠くなってしまっていた。

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