霊山の裁き

聖岳郎

霊山の裁き

『一通の手紙』     


 一人の中年のハイカーが、初夏の明るい陽の中を、東京奥多摩の御嶽みたけ神社からの杉の大木で鬱蒼した参道を下っている。この昔からの御嶽神社への急坂の参道は、今は舗装されて御嶽の宿坊への運搬道となっている。ケーブルカーを使わずに下るハイカーは滅多にいないが、この中年ハイカーがこの参道を下るのは何度目だろう。およそ九百本の杉の大木の中を歩くのが好きなのか、ケーブルカーに乗る金が惜しいのか定かではないが、歩くのが苦ではないことは確かなようだ。

 この男の名前は、空木健介、空木と書いてウツギと読む。中央アルプスにある名峰の名前と一緒だ。彼はこの姓を大いに気に入っている。この姓であるがゆえに、自分は山を趣味とすることになったのだと思っている。年齢は四十二歳、厄年を終えて後厄を残すのみとなった年である。今年の三月、勤めていた会社を辞め、探偵業という仕事を始めた。「スカイツリーよろず相談探偵事務所」と、自分の姓「空」スカイ、「木」ツリーから命名した。事務所名は時をてらっているが、事務所は自分の住むマンションの一室で、電話もファックスも無い。事務員も当然いない。管理人の許しをもらって郵便受けに「スカイツリーよろず相談探偵事務所」の張り紙を出しているだけ、それを見たマンションの住人は首を傾げている。

 その日、いつもは広告チラシしか入っていないその郵便受けに、珍しく郵便封筒が混じっていた。差出人の名前は「仲内和美」住所の記載は無かった。空木は封筒をチラシと一緒に握り四階の部屋に向かう。大岳山から御嶽山、御嶽駅まで歩いた足は心地良い疲れはあるが、エレベーターは使わずに階段を登る。よほど歩くのが好きらしい。

 部屋に戻ると、汗の染みた登山服を脱ぎ、シャワーを浴び、冷蔵庫から冷えた缶ビールを取出し一気に渇いた喉に流し込む。喉が鳴り思わず声が出る。山の頂上に登りきった満足感、景色に会えた喜びもさることながら、山を終えた後のこの一杯は格別だと空木はいつも思う。

 ビールを飲みながら、白い封筒を開けた。封筒の中には、ワープロで書かれた、一枚のB5用紙と「スカイツリーよろず相談探偵事務所」のホームページが印刷されたA4のコピー用紙が入っていた。ワープロで書かれた文章は、ある男性を尾行してもらいたいが、引き受けてもらえるか、という内容の依頼文で、そこには携帯電話のメールアドレスだけが書かれていた。返事をメールでよこせという意味だろうと空木は思った。

 この事務所を開いて以来、仕事の依頼は、ペットの猫探し一件、病院への付き添い一件の都合二件だけ、暇を絵に書いたような状況であった。だからこそ平日にも関わらず、山登りに行けるのだったが、内心焦っていた。空木は依頼の手紙を見て、事務所のホームページを苦心して開設した甲斐があったと思った。

 封筒の消印は、都内千代田区で昨日の五月二十四日だった。

 早速、空木は自身の携帯から、依頼者と思われる携帯のメールアドレスに、引き受ける旨の返事をメールし、おおよその料金も付け加えた。通常の探偵が尾行料として請求する料金よりかなり安い金額を書いた。少々安くてもこの仕事を請けたかった思いがそうさせた。

 空木にとって今日は良い日となった。ビールをもう一缶飲み、芋焼酎をロックで四、五杯飲んだ。この男は、山も好きだがアルコールも大好きだ。

 依頼主の仲内和美から返信メールが来たのは、翌日の昼近くであった。受けてくれた御礼と、後日改めて依頼の詳細は送る、という簡単な内容だった。調査内容の詳細が分からない不安感はあったが、探偵業を開設してから初めての、探偵らしい仕事の依頼を受けたという喜びの方が勝っていた。

 ほろ酔いの空木が、今度はどの山に登ろうか考えていた時、携帯にメールが入った。発信者名は土手と出ていた。それは空木が勤めていた会社である万永製薬の後輩で、山仲間でもある土手登志男だった。

 土手とは空木が名古屋支店の勤務時代に山仲間となり、年に二、三度は山行していた仲だった。北アルプスの槍ヶ岳、穂高、表銀座縦走、南アルプスの甲斐駒ヶ岳、仙丈が岳、そして八ヶ岳の赤岳。最も思い出深いのは残雪の五月の奥秩父金峰山きんぷさんから雲取山までの四泊五日の縦走だった。

 その土手からのメールの内容は、久し振りに一緒に山行しましょう、という誘いだった。今度の土曜日に霊仙山りょうぜんざんに行きませんか、ということで、空木は断る理由も無いというか、渡りに船である。早速、オーケーの返信を出し、五月二十八日土曜日に現地の登山口で合流することとした。


 関西地方は梅雨入りが報じられていたが、関が原の空はうす曇。午前八時三十分過ぎ、東海道線柏原駅で下車したのは空木を含めハイカー姿の男三人。土手は一本前の電車で到着、すでに駅の待合室で待っていた。土手とは仕事で一年前ぐらいにあっているが、山行するのは瑞牆山みずがきやま以来五年ぶりだった。

 二人は舗装された道路をしばらく歩き、砂利道の林道に入る。杉と檜の鬱蒼とした道で、新緑の季節ではあるが、この林道は新緑の木々はまばらで大部分は杉と檜の針葉樹だった。

 霊仙山の名は、日本唯一の三蔵法師と言われる高僧の名前が由来で、高さは1094メートル、鈴鹿山脈の最北部に位置し、山体は石灰岩で頂上部はカルスト地形の特徴であるカレンフェルトを形成している。春から夏にかけては福寿草から始まり、トリカブト、リュウノギクなどが咲き、花の百名山に上げられている。ただ夏はヒルが多く発生することでも有名で、空木も一度だけヒルの被害に遭っている。

 二人は新緑の薄緑色に染まる一合目で休憩し、非難小屋のある四合目からは伊吹山を眺める。過去、春夏秋冬何度もこの山に登っているが、この景色は何年ぶりかと空木は思った。

 北霊仙山の手前の、立て直されて新しくなった非難小屋で、登り始めてから三時間が経った。昼食のラーメンを食べ頂上へ向かう。近江盆地、琵琶湖の景色が一望出来る頂上には、今ブームの、カラフルな出で立ちの山ガールもいて、喜びの声を上げている。空木も土手も久し振りの霊仙山に満足した。下山路は北霊仙山に戻り、お虎ヶ池から槫が畑くれがはたの廃村を抜けて、林道を五キロほど歩き醒ヶ井さめがいの養鱒場へ下った。

 バスで醒ヶ井の駅まで出た二人は名古屋まで戻り、久し振りの山行を酒の肴に、杯を交わした。土手は、空木が何故会社を辞めたのかという話を聞きたかったのだろうが、空木が言葉を濁した事で遠慮したようだった。

 

 名古屋から東京に戻った翌日からは、梅雨空が続いた。

 六月に入った小雨まじりのある日、郵便受けに数枚の広告チラシと一緒に、やや大きめの封筒が速達で入れられていた。差出人は「仲内和美」とあり、消印は前回同様千代田区であったが、ただ違うのは前回の封筒の厚みよりかなりふっくらしていた。

 空木は中身を見て、驚いた。何と新券の一万円札が五十枚入っているではないか。それと一緒に、いやこちらが本来待っていたものであったが、男の写真とワープロで作成された依頼の詳細が入っていた。

 依頼の内容は、写真の男が来週の六月十日金曜日、朝八時半ごろから、鈴鹿の霊仙山に登るので尾行してほしい。東海道線の滋賀県と岐阜県の境近くの柏原という駅から女性と一緒に登るはずだから、何枚か証拠の写真がほしい。絶対に気づかれないようお願いする。という内容で、撮った写真の送り先はまたメールで知らせる。同封のお金は手付金で、写真が送られてきたら交通費実費とともに残りを支払う、という文章が添えられていた。五十万という金は空木が提示した額の数倍であり、この五十万に加えてさらに払うという。空木はきな臭さを感じたものの、やはり仕事を請け負った喜びが勝っていた。

 写真の男は二十メートルほど離れた場所から撮影されたらしく、紺色のスーツ姿で顔は鮮明ではないが、眉は薄く、唇は比較的厚い。銀縁の眼鏡をかけて目は細い。年齢は五十歳で伸長は一七三センチ位とある。空木より五センチほど高い。これ以上の情報は書かれておらず、男性の名前も住所も、仲内和美との関係も何も分からなかった。空木は仲内和美の携帯メールに承諾したことと、この男性の名前、住所、関係を教えて欲しい旨、書き添えたが、返信は無かった。

 その日の夜、空木は、友人のある男とJR中央線国立駅のすぐ近くの居酒屋で焼酎を酌み交わしていた。

 国立市は東京都国分寺市と立川市の中間にある。国立の名前は「国」と「立」から命名したと言われている。安易なつけ方の街だ。国立駅の南側が国立市、北側が国分寺市で、その居酒屋は南側の国立市にある。

 その友人は、空木の高校時代の同級生で石山田巌いしやまだいわおといい、国分寺警察刑事課1係刑事、階級は警部補である。出世は決して早くはない。空木は石山田とも山行経験があり、何年か前の夏の奥穂高岳にテント泊をしたが、石山田のいびきはテント場中に響き渡り、空木はほとんど眠れなかった。それ以来、石山田とは泊まりの山は行っていない。

その石山田が勤務する国分寺警察署管内もここしばらくは、平和なようで、非番の石山田からの呼び出しに空木が応じた。

 二人は「健ちゃん」「がんちゃん」と呼び合う仲で、空木は、石山田に初めて探偵らしい仕事が入ったことと、依頼内容、そして現金五十万円が同封されていたことを話した。石山田は胡散うさん臭いし、偶然かも知れないが、先週登った山にまた登るというのも不思議な話だ。いずれにしてもうますぎる話だから「健ちゃん用心した方がいいよ」と赤ら顔で忠告した。空木は承知顔で「そうだな」と答えたが、不安感は無く、アルコールが入った今は、好奇心が勝っていた。

 二人で四合瓶の芋焼酎を一本空けたところで、石山田が「健ちゃんご馳走さん、気をつけなよ」と言って席を立った。飲み代を払う意志はないようだ。お金が入ったんだから当然という顔付きだ。時刻は夜の十時を回っていた。

 部屋に帰った空木は、石山田が言った、先週登った山と同じ山、というのが気になった。そんな偶然があるのだと。送られて来た写真の男性はどこに住んでいるのか、「霊仙山」に登るということは、恐らく名古屋から大阪の間に住んでいるのだろう。いずれにしても下山後、尾行を続ければ分かるだろうと考えた。

 来週の木曜から二日間の宿を、以前宿泊した名古屋駅近くに取り、時刻表で柏原駅に八時半までに到着する電車を調べ、名古屋発六時四十五分、柏原着七時四十九分を確認した。天気予報は前線が南下するようで、来週の現地の天気は木曜から金曜は、雨は無さそうだった。雨が降っても写真の男は女性を連れて登るのだろうかと思ったが、自分はとにかく依頼を果たすだけだと思い、余分な事は考えることは止めにした。

 翌日からは連日の梅雨空だった。空木は、近くの体育センターに行き、連日汗を流し、山行に備えながら石山田からのお誘いへの準備をしたが、毎日一人酒ならぬ一人焼酎であった。



『廃屋の影』


 木曜日は予報通り、雲は多いが青空も時々のぞく天気であった。空木はザックを担ぎ、山靴を履き、午後三時半ごろ部屋を出た。中央線国立駅から東京駅を経由し、新幹線で名古屋に向かう。名古屋に着いたのは夕刻六時少し前、空は青空でまだ明るく、少し蒸して暑かった。駅で明日の時刻を確認し、今日と明日の宿「ミユキ駅前ホテル」にチェックインを済ませる。岐阜に住んでいる土手に電話しようかと考えたが、金曜のこの時間から岐阜から出てくるのも辛いものがあるだろうし、自分も明日の仕事を控えていることを考え、止めた。酒好きの空木も、さすがに緊張していた。

 この男もアルコールを飲まない時がある。それは始めての山に登る時、厳しい山に登る時、緊張する山に登る時であった。明日の山は何度も登っていたが、今回は探偵らしい初の仕事であるという緊張感のせいで飲むのを止めた。

 空木はホテルの部屋で、仲内和美から送られてきたオフィスビルをバックにした男の写真を見ながら、被写体との距離感を考えた。この距離での写真しか無かったのか、仮にあったとしても他人が映っているか、自分の手元に残しておきたい写真ばかりだったのだろうか。だとすると仲内和美という、女性と思われる依頼主は、どんな気持ち、目的で今回の依頼をしてきたのか、単なる嫉妬心なのか、離婚のための証拠集めなのか、考えない訳にはいかなかった。

 六月十日金曜日、天気は曇りだ。通勤客に混じっての登山姿は違和感があった。空木はこの違和感が嫌いではなかった。以前、この名古屋のバスセンターから南アルプスの玄関でもある信州伊那駅に向かう時を思い出していた。登山靴を履いて大きなザックを担いで歩くと、通勤している人たちの目が「どこにいくんだろう」という羨望の眼差しに空木には感じたのであった。実際は、好き好んで重い荷物を担いで「何が楽しくて山なんかにいくのか」が正しかったかも知れないが。

 写真の男はどんな気持ちでいるのだろう。違和感よりも楽しさの方が勝っているのではないかと、空木は思った。

 六時四十五分の大垣行きは、通勤の混雑の逆方向であるのか、時間が早いせいか、空いていた。網棚にザックを置いて座る。大垣で米原行きの電車に乗り換える。車両の乗客は座席の半分程度が埋まっている。関が原はガスが出ていた。天下分け目の大戦おおいくさは九月であったが、こんな感じだったのだろうと空木は思った。

 七時四十九分、柏原の駅で降りた乗客は空木一人であった。通学の高校生が何人か乗った。恐らく米原、彦根、長浜の高校へ通学する生徒なのだろうと思った。空木は改札を出て、さてどこで目的の男を待つか、駅の待合室から外を眺めた。待合室は五、六人ほどが座れる長いすだけで、ここではとても待つわけにはいかない。依頼人からは絶対に気づかれないようにと言われている以上、ここで待つのはいかにも具合が悪い。

 駅を出て右手にある駐輪場の陰で待つことにした。

 通勤の女性や通学の女子高生が、ザックの上に座っている空木に何をしているのか、という目を向けながら駅に向かっていく。

 八時十五分過ぎ、上り大垣行きの電車が到着する。降りた客は誰もいなかった。八時三十分過ぎ、下り電車が入ってきた。空木はじっと目を凝らし、駅の出入り口を見つめる。緊張で身震いした。

 男が一人ザックを担いでいる。半そでの白のTシャツにグレーのズボン。眼鏡をかけているが色つきの眼鏡だ。加えて帽子をかぶっているため写真との照合が難しい。しかし、降りてきたのはこの男ただ一人、しかも登山靴にザックを担いでいる。身長もほぼあっている。この男に間違いないと空木は確信した。

 男は駅の出口で辺りを見回しながら、ザックを降ろし、駅の左手にあるトイレへ向かった。トイレから出てきた男はすぐには出発しなかった。携帯電話を取り出して画面を見ているようだ。落ち合う女性とメールで確認でもしているのだろうか。男は携帯電話をポケットにしまうとザックを担いで歩き始めた。

 霊仙山の登山口までは三十分ほどだ。空木はどの位の距離をおいて歩くか考えていたが、カメラのズーム距離から約百メートルが限界と考えた。上に行けばもう少し距離を近づけても怪しまれないだろうと思うが、出発間もない時では姿を見られると、電車から降りた客は空木が尾行する男一人しか乗っていなかったのだから、当然どこから来たのだろうかと怪しまれる可能性が高い。登山道に入るまでは極力、距離を開けようと思った。

 往時は中山道と言われた国道を渡り、名神高速道路をくぐり、林道に入る。男の姿は見えないが、霊仙山に登ることはわかっているのだから慌てる必要はなかった。男の足がどの位健脚か分からないが、休憩はするだろう。一合目のコル、四合目のコンテナの避難小屋、北霊仙手前の小屋では顔を会わせない様、気を付けなければならないと空木は思った。幾度となく登った山道だけに、姿を確認する所として空木は何ヶ所か思い浮かべていた。

 登山道に入る直前の林道で二、三百メートル見通せた。前方を歩く男を確認できた。空木の歩行速度とさほど変わらないようだ。女性とはどこで落ち合うのか分からないが、落ち合うとしたら、七合目の梓河内からの合流地点か北霊仙山、もしくは頂上のいずれかだと、空木は考えていた。休憩場所をずらしながら、一合目のコル、四合目の避難小屋を通過する。汗が滴る。二週間前より山の緑が濃くなるとともに暑くなっていた。

 六合目の辺りが第二の確認ポイントである。やはり二百メートルほど先を男が歩いている。空木はカメラを最大ズームにして二、三枚写真を撮るが、顔は映らない。ザックはグレーに黄色のコンビの三十リッター位の小ぶりのザックだ。七合目へは急登を登り、少し下る。梅雨の時期で登山道はぬかるんでいる。

梓河内からの合流地点を覗くように目を凝らす。誰もいなかった。次の合流点は北霊仙山だ。ここからはある程度接近しても何とかなると考え、歩く速度を早める。汗が滴り落ちた。

 九合目の急坂を登ると避難小屋だ。男は健脚だ、休憩を取らずに歩いている。空木はザックを降ろし、北霊仙山山頂を見るが、人影はない。カメラをまた最大ズームにしてファインダーを覗くがやはり人影はない。前を歩く男一人だけだ。ここでも男を撮るが後ろ姿だ。ここから北霊仙山まではおよそ四百メートル、遮る物はなく人の存在は肉眼でも確認できた。男がザックを降ろすのが見えた。食事を取るのだろう。空木も緊張で空腹感はないが、ここで持参したコンビニのお握りを二個、三個と食べることにした。時間は十一時四十分だ。ここで落ち合わないとしたら、下山後しかない。どちらのコースを下山するのか。お虎が池からくれが畑に下るのか、あるいは霊仙山頂上から笹峠、落合、今畑に下るのか。空木は距離をもう少し詰めることにした。

 空木が歩き始めて五分、男がザックを担いでいる。視界から消えた。空木は足を速めた。北霊仙山に着いた。男はお虎が池方面に歩いている。下山路は槫が畑だ。ぬかるむ道を下る。ここから槫が畑の廃村を抜けて、林道までは一時間程だ。空木は男が視界から消えない程度に距離をとって歩いた。男は汗拭き峠の分岐を槫が畑方面に下っていく。

 「カナヤ」という看板が置かれた小屋が見えてきた。男は真っ直ぐに林道に向かう。

 止まった。空木も五十メートルほど手前で立ち止まった。男は廃村の中の、朽ちてはいるが、比較的家の原型を止めている一軒の家の中に、入っていった。空木は小屋の角で男が出てくるのを待った。

 五分たち、十分が経った。男は出てこなかった。空木はおかしいと思い、近づいてみる。朽ちかけた家に、覗き込むようにしながら入っていく。暗くてよく見えなかったが、柱に寄りかかって座り込むような格好をした影を見た。暗さに目が慣れてきた。ザックを背負った人間が座っている。白い半そでシャツ、帽子を被り、眼鏡をかけている。その瞬間、空木は「あっ」と声がでた。天井の梁からロープが降り、そのロープが男の首に巻きついていた。空木は思わず後ずさりし、尻餅をついた。空木は、葬儀以外では死体を見たことはなかったが、咄嗟に死体だと感じた。

 「カナヤ」という小屋は、平日は無人で誰も居ない。携帯電話は圏外表示だ。空木はザックを置き、林道を走り、携帯電話のアンテナが立つ場所から警察に通報した。時間は午後一時三十分だった。

 およそ二十分後、サイレンの音が谷間に響いてきた。滋賀県警湖東警察署のパトカー二台が登山口の標識前で立っていた空木の前で止まった。数人の警官と鑑識課と書かれた上着を着た警官が降りてきた。

 「あなたが通報された方ですね」色黒で小太りの五十がらみの警官が言った。

「はい、空木と申します」

「湖東警察署刑事課の赤池です」赤池は警察証を見せた。

 空木は赤池たちを廃屋の男の所に案内した。

「あなたの知り合いの方ですか」赤池が聞いた。

「いえ‥‥‥」空木は答えながら、慌てた。何故、廃屋に入ったか聞かれたらどう答えるのか‥‥。

 林道から十分ほどで廃屋の現場へ着いた。赤池たちは、座っている男にゆっくり近づき、ライトを照らし、その死亡を確認した。頸部をほぼ水平に走る索痕。絞殺である。赤池は警官をパトカーに走らせ、本部に至急の連絡を入れさせた。

 「一見、自殺のようにみせかけていますが、首の周りの索痕を見れば、我々でも自殺ではないとわかります。まあ、検死解剖すれば死因、死亡推定時刻もわかるでしょうが」

赤池が空木に向けて話した。

「殺された?」空木は呟くように言った。

 混乱していた。この男と自分以外に誰かが居たのか。自分が見ていた限り、自分とこの男意外に誰もいなかったのは間違いない。この男はこの廃屋に約束でもあるかのように躊躇することなく入っていった。

 赤池は詳しく話を聞きたいので、一緒に警察まで来てもらうことになると思う、と空木に言った。

およそ二十分後、けたたましいサイレンの音とともに、何台かのパトカーと救急車が到着した。

 鑑識のフラッシュが眩しく光り、廃屋の内、外を丹念に調べる。靴の跡も入念に調べている。死体は救急車に乗せられ、病院に向かう。司法解剖され、改めて死因、死亡推定時刻が明らかになるだろう。

 赤池が半そでの白い開襟シャツを着た四十半ばと見える細身の男と話している。

開襟シャツの男が空木の前に立ち、挨拶する。

「湖東警察署刑事課の大林です」

「空木と申します」空木は軽く会釈した。

「通報されたのはあなたですか。亡くなっていた方とは知り合いではないということですね」

「はい、‥‥‥」どう説明するのか、一瞬目が宙を泳いだ。

「山登りに来られたんですか」

刑事の大林は空木の顔、目を見て聞いた。

「はい、柏原から登って、ここに降りてきて、廃屋が気になって覗いてみたら、ロープに繋がった人が座っていて、びっくりして警察に連絡しました」

 嘘はついていない。空木は廃屋に入った訳をどう言おうか考えていたが、全ては話さないまでも、嘘はつかないようにしようと、考えた上の返答だった。

「空木さんはどちらからこられたんですか」

空木の言葉に関西弁の臭いがないと思ったのか、大林は聞いた。

「東京から登りにきました」

「ほー、東京からわざわざこんなところに来られたんですか」

 刑事は、とても信じられない、という顔だ。

 「ところで、あの男性とは山でお話されましたか」

「いえ、ずっと私の先を歩いていましたので、話す機会はありませんでした」

これも嘘ではない。

「空木さん、そんなに時間は取らせませんので、署でもう少し話を聞かせていただけませんか」

刑事は当然来てくれるだろう、という表情で空木に言った。

「分かりました。今日は名古屋に泊まりますので、大丈夫です」

空木は躊躇せずに答えた。

「名古屋にお泊りですか。じゃあ署の人間に送らせますよ」

 空木は、それには答えなかった。パトカーでホテルに乗り付けるのは勘弁してほしいし、まさか電車がなくなるような時間までかかるのだろうかと、困惑したからだ。


 湖東警察署は米原駅の近くにあり、四階建ての灰色の建物だった。入口から入って、右手の階段を上がった左側に刑事課の部屋があった。室内は、他殺と思われる死体が発見された直後だけにあわただしかった。

 大林は課長らしき男と話をした後、一人の若い刑事を連れて出てきた。空木を、一つ部屋を隔てた小ぶりの会議室に案内した。取調室ではなく、会議室にしたのは空木への配慮だった。

 婦警がお茶を運んできた。

 「じゃあ、空木さん、あそこで死体を見つけるまでのことを、覚えている限り話して下さい」

 大林も、若い刑事も手帳を手にしている。

 空木はここに来るパトカーの中で、依頼を受けてあの男を尾行していたことを話すべきかどうか思案していた。

 尾行していた男が死んだ。しかも殺人の可能性が高い。通報者は自分だが、尾行していたとなれば、疑われるのはまず自分だろう。まして、依頼者の居場所も、素性も分からない、知らない。当然会ったことも無いから、顔も知らない。また、都合が悪いことに、五月の末の土曜日に同じ霊仙山に登っている。これはまずいことになった。

 「はい、柏原の駅には八時半ごろ着きました。あの亡くなった方も同じ電車だったと思います。たまたま私は一番前の車両でしたので間近には顔は見ていませんが、後姿は見ました。私は駅のトイレで用足しをしましたので、その方とはかなり距離が離れたと思います。一合目と四合目で休憩しましたが、一緒にはなりませんでしたので、かなり距離はあったと思います。九合目の避難小屋に着いた時、北霊仙山の頂上を見たら、人影がありました。多分その方だったのではないでしょうか」

 空木は、自分が探偵を業としていることは勿論、尾行であったこと、写真を二回にわたって撮ったことも話さなかった。

「その山の頂上には一人だけだった」大林が確認するように聞いた。

「ええ、私の方角から見えたのは一人だけでした。南側、つまり向こう側にだれか居ればわかりませんが」

 空木は、その避難小屋で昼食のお握りを食べたこと、その男は頂上で食べていたと思うこと、自分が頂上に着いた時は、その男はお虎が池に向けて下山していたことを話した。霊仙山に登りながら、霊仙の最高峰である頂上には行かなかったことは話さなかった。

 大林がまた確認する。

 「あの男性は頂上で食事をして下山した。下山の時もあの男性以外は誰も見なかった、ということですね」

「ええ、間近で見たわけではありませんが、時間的に考えても食事をしていたと思います」

「廃屋に入って、死体を発見するまでの状況をお願いします」

「ぬかるんだ道を、見晴台、汗拭き峠と下っていきました。男性も同じコースを下っていて、私の五、六十メートル先を下山していました。下り坂が終わって、小屋を過ぎたところで、その男の人は、スッと廃屋に入って行きました。私は小屋の前で休憩しましたが、その男の人が中々出てこないので、何をしているのかなと思い、覗いてみることにしたんです。そしたらああいう状態だったんです」

 空木は、一つだけ嘘をついた。小屋で休憩ではなく、男の様子を窺っていた、というのが真実だ。

「あの男性が廃屋に入る時、誰か一緒に入った様子はなかったということですか」大林が念を押す。

「はい」空木は頷いた。

「空木さんは何故、この山にわざわざ東京から登りに来たんですか。旅費も宿泊費もかけて」

 空木は、やっぱり聞いてきたか、と思った。

 「この山は、私が名古屋にいた四年間で何回も登っている好きな山でした。もう十年近く登っていなくて、会社を辞めたこともあって、久し振りに登ってみようかと思ったからなんです」

 空木はここでも嘘をついた。二週間前に土手と一緒に登っている。

 大林は、自分は伊吹山には登ったことはあるが、霊仙山がそんなに良い山だとは知らなかったと言い、他にどんな山に登っているのか興味深げに聞いてきた。

 「わかりました。では空木さん、身分証明になるものがありましたらお見せください。それと連絡場所を教えてください」

 大林がメモ用紙を差し出した。

 空木は、国分寺の住所が書かれた免許証と国民健康保険証を見せ、連絡場所には自分の携帯電話の番号を書いた。

 「健康保険証をお持ちなんですね」大林だ。

「ええ、山に行く時は必ず持って行くようにしています」

「固定電話はお持ちではない」大林が確認する。

「独身なので、固定は止めました。携帯だけです」

 大林は納得顔で頷いた。独身だからいろんな山に登れるのだと、その顔は言いたげだった。

 その時、大林の上司らしき刑事が入ってきた。何か、耳打ちしている。

 大林は空木の方を向いて言った。

「他殺と断定されました。持ち物からは身元は判明していません。それと少しおかしなところがあります。空木さん、申し訳ないのですが、被害者の顔を見て、山に登っていた方と同一人物かどうか確認してほしいんです」

「見るのは構わないんですが、はっきり顔を見たわけではないので、確認できるか自信はありません」

空木は時計に目をやりながら、答えた。時間は六時を回っていた。

「被害者の遺体はあと一時間ぐらいでここに搬送されてきますので、食事でも取っていただいてお待ちください。名古屋のホテルには送ります」

大林は、そう言うと今度は、宜しくというように頭を下げた。

 空木はまた混乱した。同一人物かどうか確認しろ、ということは別人の可能性があるというのだろうか。それに顔の確認と言っても全く自信は無い。

 「刑事さん、身元が判らないと言っていましたが、財布の中にカードはなかったんですか」

「お札以外は何も入っていませんでした」大林が答えた。


 七時を回った頃、空木は地下へ案内された。そこは遺体安置所だった。室内灯に照らされた遺体の顔はどす黒かった。

大林が被害者の身長、体重、血液型、およその年齢を空木に説明した。身長は一七三センチ、体重八十キロ、血液型は0型、年齢は四十後半から五十代半ばとのことだった。眉の濃淡はあまり判然とはしなかったが、唇は比較的厚かった。帽子、服装は尾行していた男とよく似ていた。

「色付きの眼鏡はありませんでしたか」

 死体の顔を見ても、空木には判断は出来なかったが、眼鏡は記憶に残っていた。空木が北霊仙山で見た男は、色付きの眼鏡をかけていた。

「これですか。色付きではありませんよ」

 大林が遺留品の中から銀縁の眼鏡を取った。

「遺体にかけてみてくれませんか」

 空木の要請に大林が死体の顔に眼鏡をかけた。

「うーん、何ともいえません」

 空木は、仲内和美から送られてきた写真の男に良く似ていると思った。身長、年齢は合致する。服装も良く似ている。しかし、写真の男が尾行した男、つまり霊仙山に登った男とは確信が持てなくなっていた。今思えば、柏原の駅で見た時が、その男との距離としては最も近かったが、色付き眼鏡と帽子で写真との照合はできなかった。もし、登った男が、写真の顔と照合されるのを避けていたら、それは何故か。別人なのか、と考えた時、大林が言った。

 「検死、司法解剖の結果、この被害者は死亡推定時刻が昨日の夜、十時から十二時、死因はロープのようなもので首を絞められたことによる窒息死、絞殺です。それと、胃の残留物に蕎麦がありましてね。さっきの空木さんの話からすると、登山していた男とは別人ではないかと」

「別人‥‥‥」

 空木はそうかもしれないと思った。そして。

「刑事さん、この人が履いていた靴とザックを見せてもらってもいいですか」と言った。

 大林の後ろのビニールを敷いた机の上にはザック、靴、帽子が置かれていた。この被害者の持ち物だ。持ち物の中にあるはずの携帯電話が無いことに、空木は気づいたが、これは話すのは止めた。

 空木は、廃屋から運ばれていく死体を見た時、靴が比較的きれいなことに、違和感を感じていた。

ザックは三十リッターのグレーに黄色のコンビで比較的新しい。靴は国内製の軽登山靴だが、よく履かれている感じだ。

「刑事さん、この靴あの山から下りて来たにしては随分きれいです。私の靴と比べたら判ると思いますが、泥はもう乾いていても、ソールには泥が入り込んでいるはずなのに、全くない。あの山から下りてきた靴じゃないと思います」

空木は自分の登山靴の靴底を見せながら、別人の靴だと確信したように言った。 

「そうですね、靴底はきれいですね」

 大林は手袋をはめた手で登山靴を取り、空木の見せた靴を眺めて言った。

 空木は刑事にザックの中身がどこにあるのか聞いて、その答えに驚いた。何も入っていないと言うのだ。

「刑事さん、山に登るのに空のザッ クを担いで登る人なんかいませんよ。それと携帯電話を持っていないというのも不自然かも知れません」

「その通りです。私も伊吹山に登った時は、昼飯は勿論、水筒やらお菓子やら入れて登りました。カメラも持っていく人も多いと思いますし、今では携帯電話は必ずと言っていいほど持っていくでしょうね」

「やっぱりこの人は登っていないと思います。別人だと思います」

 空木は言いながら、もう一度登山靴の靴底を見た。5ミリぐらいの石粒が靴底の溝に固く挟まっていたが、泥は全くと言っていいほど挟まってはいない。

 空木は、死体安置所に用意された線香台に手を合わせ、二階の刑事部屋に案内された。入口には「霊仙山殺人事件捜査本部」と書かれた長細い紙が張られていた。所謂、戒名という貼り紙だった。

 大林から、何か思い出すようなことがあったら連絡してほしい、と名刺を渡された。湖東警察署刑事課、大林宏とあった。

 現場に最初に到着した赤池が待っていた。時間は八時半を回っている。空木は、赤池が助手席に乗ったパトカーの後部座席に座り、名神高速道路を名古屋に向かった。サイレンこそ鳴らしていないが、赤色灯を回しながら走ると、まるで大名行列のように、走行車線側に一列縦隊となった。パトカーの前方も一列縦隊だ。先を急ぐ運転者にとってはいい迷惑だろう。

 赤池も山が好きらしく、車中、北アルプスの槍ヶ岳に一度は登ってみたいとか、鈴鹿の御在所岳は観光客だらけでつまらないとか、話しながら、あの被害者も山好きだったのだろうかとか、空木に話しかけていたが、空木はじっと目を瞑りあることを考えていた。

 被害者はあそこで殺されたのだろうか。被害者は山には登ってはいない。自分が尾行していた男は、どこに消えたのか。廃屋には間違いなく入っていった。そして死体を見ている。見ていて通報していないというのは何故だ。面倒なことに巻き込まれたくないからか。

 いずれにしろ依頼者の仲内和美の依頼である、男と女性が一緒にいる写真は撮れなかった。いや、それはあの男が女性と落ち合うことが、山ではなかったから結果として仕方がないことだ。と思った時、空木は仕事が成功しなかった事を依頼者に報告しなければならないことを思い出した。

 パトカーがホテルの前で停まった。時間は九時半を過ぎているが、名古屋駅前の人通りは多く、赤色灯を点けたパトカーから降りるのはやはり気まずいものがあった。しかも赤池が敬礼している。空木は送ってもらった礼もそこそこに、足早にホテルに入った。

 自販機でビールを買い、部屋に戻った空木は、石山田に電話した。石山田は自宅にいた。小学生になる娘が電話に出て、石山田は風呂に入っていると言った。風呂から上がったら携帯に電話してくれるようお願いして電話を切った。空木もシャワーを浴びる。こんな時でもビールが美味かった。携帯電話が鳴った。石山田だった。空木は今日の一連の出来事、事件を石山田に話した。

 「健ちゃん、その柏原とかいう駅で、待っている姿を誰かに見られていないか。通学通勤時間だし、誰かに見られているとしたら、警察の聞き込みでばれるよ」

 石山田は、空木が被害者と同じ電車で降りたという説明が、警察にはすぐに嘘だと判ると言い、依頼されて尾行していたことも含め、全部話した方が良いと勧めた。

 「それから、依頼主には連絡したかい」石山田が聞いた。

「いや、携帯メールしか方法はないけどまだだ」

「‥‥‥多分、連絡は取れないだろうけど、やってみて」

「わかった、また後で電話する」

 空木は、電話を切り、すぐにその携帯電話で、目的の写真は撮れなかったと、仲内和美に送信した。すぐに返信が帰ってきたと思ったが、それは送信先不明の表示であった。すぐに石山田に電話した。

「巌ちゃん、アドレス不明で帰ってきたよ」

空木は力なく電話の向こうの石山田に言った。

「やっぱり。アドレスから持ち主が判る筈だから、消したんだ。健ちゃんめられたかも知れないよ。昨日の夜のアリバイはあるかい」

 石山田の「嵌められた」と言う言葉に、空木の頭は真っ白になった。これが五十万の代償なのかと。

「ずっとホテルにいて、十一時過ぎには寝た」

 空木は、後輩の土手に電話して飲めば良かったと、後悔した。

 石山田は、自分が空木の身元証明人になるから心配するな、と言って電話を切った。

 空木は、湖東警察署で大林から貰った名刺を出し、電話した。刑事課の直通電話だった。大林はまだ署に居るようだった。

 「思い出したことがあるので明日伺います」

「どんなことですか」

「いえ、明日伺ってお話しないと、電話では説明しにくいので」

「判りました。ではこちらから迎えを行かせましょう」

「いや、パトカーはもう結構ですので。電車で行きますから」

 空木は、さすがに朝からパトカーのお迎えは、ホテルもびっくりするだろうと思った。

 「心配しないで下さい。パトカーでは行きませんから」大林は空木の心配を察して言った。

 刑事課の車で迎えに来るということで、ホテル前で九時に約束した。

 翌朝、空木は迎えに来た大林とともに、刑事課の車で湖東署に向かった。

 空木はパトカー以外の警察の車に乗ったのは初めてだった。

 車中で思い出したこととは何か、聞かれたが空木は警察署で話した方が良いので、と言うだけにした。大林は、身元はまだ判明していないが、行方不明者の届出が出るだろうからいずれ判明する、というようなこと、県警本部から応援が入ったことなどを話していた。

 空木は、捜査本部の紙が張られた部屋の向かい側の、応接室に通された。

 向かい側に座った、大林ともう一人の刑事に向かい、空木は「スカイツリーよろず相談探偵事務所」空木健介うつぎけんすけと書かれた薄い名刺を差し出しながら言った。

「すみません。実は私、探偵業をしています。それである人に頼まれて、死んだあの男を尾行していました」

 空木はテーブルに手を着き、頭を下げた。

 「何故、最初からそれを言わなかったんですか」大林が怒ったように言った。

「迷ったんですが、依頼主のことを全く知らないんです。全く知らないで尾行をしているなんて、信じて貰えないと思い、余分なことは話す必要はないと思ってしまったんです」

「じゃ、何故話そうと思ったんですか」

「私の知り合いに警察関係者がいまして、相談したら全部話せと言われました」

「知り合いの方というのは」

「国分寺警察署の刑事をしている石山田という男です」

「嘘はすぐばれると言われましたか」

大林は睨んでいた。

「ええ、柏原の駅であの男を待っている時、高校生に見られていることを話したら、警察の聞き込みで、それはすぐに判ることだと言われました」

 空木は再度、机に手を着いて頭を下げた。

 「朝方の聞き込みで、登山服姿の男が駅の方をずっと見ていた、という目撃者がいました。我々は重要参考人と思っていますが、あなたでしたか」

 そう言うと大林は席を立った。

 しばらくして大林が戻った。

 「国分寺署に確認しました。石山田刑事とは高校の同級生で、尾行依頼の相談もされたと言ってました」

「あなたを信用しない訳ではありませんが、重要参考人として調書を取らせていただきますので、場所を変えます」

 大林は空木を、階段を隔てた取調室へ連れて行った。

 「空木さん、今度は本当に全部話してください」

 空木は、二週間前に友人と霊仙山に登っていることをまず話した。そして仲内和美と名乗る女性から、尾行の依頼を受けたことを、ワープロで書かれた手紙をみせながら説明し、五十万円の着手料を受け取ったことも話した。そして朝の電車到着時刻、男が出発前に携帯電話を見ていたこと、距離が四、五十メートル離れていて、色付き眼鏡、帽子のため写真の男と照合できなかったことも、依頼の写真を見せながら説明した。登山中については離れていて、二度写真を撮ったが、顔は映らなかったこと、北霊仙山で男が食事を摂っていたように見えたこと、女性とは最後まで落ち合うことはなかったことを話した。そして、下山して槫が畑の廃村に、男が一人で入って行ったこと、その時自分は、「カナヤ」の小屋の隅に隠れて、男が出てくるのを待っていたこと、全てを話した。その間誰にも会わなかったし、誰も見なかったことも加えた。

 「二週間前に登っていたんですか」

「はい」

「どなたと登られたんですか」

「岐阜に住んでいる土手登志男という後輩です」

「たまたまとは言え不思議なめぐり合わせですね。おかしいとは思いませんでしたか」

「こんなことがあるのか、とは思いましたが、偶然だと思いました」

 空木は、石山田が言っていたことを思い出していた。探偵としての初の調査依頼に浮かれていた自分が情けなかった。

 「空木さん、この写真の男は被害者と良く似ていますよね。遺体を見た時困ったでしょ」

「はあ、あの時は山に登っていた男かどうか、と考えていたんで、ああ答えましたが、写真の男に良く似ていると思いました」

「被害者はこの方にほぼ間違いないでしょう。依頼文にある年齢が本当だとすればなおさらです」

大林は写真を見ながら言った。

「空木さんの話しからは、山に登った男と殺された男は別人だと思われますが、その男はどこに消えたのか。それと依頼者の仲内とかいう女性は何者なんですかね。会ってないと言いますけど、会ってもいないのに手付けを払うというのはちょっと不自然だと思いますが。それと空木さん、会っていないということは女性か男性かも判らないということですよね」

大林は、空木から出された男の写真から目を上げて言った。

「別人だとしたら、私の尾行していた男がどこに消えてしまったのか。それと刑事さんの言う通り、私も少し変だなとは思いましたし、石山田からも気をつけろと言われました。尾行する男性と依頼人との関係、それから男性の所在地もメールで問い合わせましたが、無しのつぶてでした。男か女かは、全く考えませんでした。女性とばかり思っていました」

 空木は、探偵らしい始めての依頼だったので、受けてしまったとは言えなかった。しかし、仕事を受けたい気持ちが、大林の言うように、依頼者が女か男かも判断する冷静さを消してしまったと、思った。もし、男なら石山田が言うとおり自分は嵌められたに違いない。

「その依頼者とは事件後連絡は取られましたか」

 当然の質問であった。

 「昨晩、連絡のメールを送りましたが、送信先不明で送れませんでした」

 空木は携帯電話を手にしながら答え、一度だけ来た仲内和美からの返信のメールを大林に見せた。

 「ということはこの依頼者はアドレスを変えたか携帯電話を処分した。いずれにしてもアドレスから自分の身元が判ることを嫌った。しかも、依頼事が成就したかどうかも分からないまま」

 大林は男の写真をまた手に取った。

 「女性と落ち合うことなくあなたの尾行から消えた登山者と、依頼者、そして被害者との関係がこの事件の鍵を握っていますね」

「ところで、空木さん木曜日の夜十時から十二時の間はどこに居られましたか」

大林はまた、睨みつけた。

「木曜の晩はずっとホテルにいました。外出してません。証明してくれる人はいません。石山田に自分にはアリバイがない、と言われました」

空木は観念したかのようにキッパリと答えた。

「被害者はあそこで殺されたのではないと、我々は思っています。木曜の夜、どこかで殺されてあそこに運ばれた。恐らく車を使っているでしょうし、女一人で運ぶのはとても無理でしょう。被害者の身元が判れば足取りも追えますし、容疑者も浮かんで来ると思います。空木さん、あなたは重要参考人であり、容疑者ですからね。石山田刑事があなたの保証人ということで拘束はしませんが、行動には十分配慮してください。出来れば、所在を常に明らかにしておいて下さい」

大林は机に手を置きながら念を押すように言った。

 十二時を回っていた。取調室から出た空木は、大林から、依頼文、男の写真、カメラのSDカードを複写、現像するのでしばらく預かる。出来るだけ早く返すと言われ、承諾した。さらに大林は、空木に聞いた。

「山によく行っている空木さんから被害者を見て、何か気付かれたことはありませんか。参考までに聞かせて下さい。探偵でもあるそうですし」

 空木にはかなりの嫌味に聞こえた。探偵が簡単に嵌められるとは、と言っているように。

 「帽子も、服装も、それとザックも、新しい感じでしたが、靴だけは履きこんだ感じでした。服だけ新調したのかも知れませんが、違和感はありました。その靴ですが、ソールに花崗岩と思われる石粒が挟まっていました。最近そういう山、例えば鈴鹿でしたら御在所岳かその南の鎌ヶ岳などですが、そういった山に行った形跡だと思います。それと私の尾行していた男ですが、あの廃屋に何の躊躇もなく入って行ったことから考えると、この山に登るのは初めてではないと思います」

 空木は、昨日見た被害者の遺体を思い出しながら、嫌味な質問に出来るだけの答えをした。同時に空木は、嵌められた悔しさを何とか晴らしたいと思う気持ちが込み上げてきた。新米探偵の未熟さに付け込まれた悔しさと腹立たしさだった。

 大林の、署の車で送るという申し出を断り、空木は米原駅までザックを担いで、歩きながら考えた。考えれば考えるほどはらわたが煮えくり返ってくる。

 冷静に最初から一つずつ順に考えてみようと思うが、イライラして来るばかりだ。時計を見た。午後一時を回っていた。空腹感は感じなかったが、これが原因だと、空木は思った。腹が減るとイライラするのは空木の癖でもあった。

 米原駅で東京までの切符と駅弁を買い、新幹線に乗り込んだ。都合よく乗り換え無しのひかりに乗れた。土曜日で比較的混雑していたが、これも運良く三人がけの窓際に座ることが出来た。

 米原駅を出るとすぐに、右手に霊仙山の山並みが望めるが、今は雲に覆われている。空木は米原駅で買った弁当を食べ、腹を満たした。窓の外を眺めながら、仲内和美から来た尾行依頼のワープロ文を思い浮かべた。何故、ワープロだったのか。一つは筆跡で男女の違いが判らないように。もう一つは、後々に筆跡を残すと都合が悪い。これだけでも十分怪しい。

 次に依頼内容を考えてみた。「女と一緒に山に登るから女と一緒にいる写真を撮れ」だった。山でなければ一緒にいるところの写真はだめだったのか。だめな筈はないだろう。ただ、確実に撮るためには予定が分かっている方が好都合ではある。しかし、それらしい男は来たが、女は現れなかった。女の予定が狂ったのか、それとも最初から女が現れる予定は無かったのか。仲内和美の携帯メールのアドレスが、変更若しくは削除されていることから考えれば、最初から女と会う予定は無かったと考えるべきだ。

 廃屋までの下山路を思い浮かべた。自分はあの男の後ろ五、六十メートル位まで近づいていたが、あの男は一度も止まりもせず、振り向きもしなかった。ただ、一度だけ止まった。廃屋に入る登山道のところで立ち止まった。あれは自分が付いて来ていることを確認したのではないか。顔を見られずに、最後まで着いて来ているか。

 最後に何故、霊仙山だったのか。廃村、廃屋の存在を知っていたからか、それとも自分があの山を良く知っているということを承知していたからか。何れにしろ、自分を嵌めるのに最も都合が良い山だった、ということだったのだ。

 しかし、最大の疑問は、何故自分を、空木健介を嵌めようとしたのか、ということだった。全く答えは浮かんでこないまま空木はうとうととした。



『容疑者』


 湖東警察署の捜査本部では、県警からの応援の刑事たちも交えて捜査会議が開かれた。本部長は、県警の刑事部長が別の事件の捜査本部長となっているため、湖東警察署長が本部長となっていた。刑事課長から被害者の身元、刑事たちによる地取り、聞き込みの報告がされた。大林が空木から聞き取った調書の内容と、参考品となる空木からの提出物の説明もされた。

 課長からの報告によれば、身元は未だ判明しておらず、行方不明者の届出には該当する人間はいない。死因はロープ様なもので首を絞められた絞殺。死亡推定時刻は六月九日木曜日夜十時から十二時の間。柏原駅は簡易委託駅で駅員はおらず、委託されている方もその時間に駅にはいなかったが、通学の女子高生が登山者風の男二人を目撃している。うち一人は駐輪場から駅を見ていた、とのことであった。醒ヶ井さめがいの養鱒場のバス停前の商店の聞き込みで、午後一時過ぎ頃、車が林道方面から醒ヶ井の駅方面に走って行った、との情報が取れたことが報告された。

 鑑識の結果で追加の報告がされた。廃屋の裏手でも被害者とは別の靴跡が見つかったこと、被害者のTシャツ、ズボン、ザックからは汗が全く検出されなかったという二点であった。

 大林からは重要参考人である空木からの聞き取りの報告がされた。空木健介の住所、年齢、経歴、そして現職を説明した後、仲内和美という名前での依頼文の存在。その依頼により柏原駅から男を尾行し、廃屋の現場で死体を発見したが、それは尾行していた男ではなかった。このことから柏原駅で女子高生が目撃した登山者風の男二人というのは、一人は空木健介、もう一人が空木が尾行した男だと考えられる。つまり駐輪場の男は空木健介だと思われる。写真の男と被害者は同一人物だと思われるが、被害者は山に登って来たとは思えない。空木健介の前夜のアリバイはないが、身元保証人が国分寺警察署の石山田という刑事であることから、容疑者の一人ではあるが、マークする必要性は低いと判断していることなどが報告された。

 さらに大林から、依頼人は男女も不明で、筆跡も残さず、携帯のメールアドレスも消していることから、偽名の可能性が高い。この依頼人と、空木健介が尾行していた男が、この事件の最大の鍵を握っており、犯人に最も近いところにいると考えられる、という自分の意見を加えた。さらに参考ながら、山に通じている空木健介から、被害者の履いていた靴の、靴底の溝には花崗岩の粒が挟まっていて、霊仙山には存在しないらしく、直近で花崗岩の存在する山に登っているのではないかとの意見があったことも加えられた。そして、すでに配られている被害者の顔写真、服装、登山靴、ザックそれぞれの写真とともに、空木から預かった、被害者のオフィスビルでの写真と、空木が尾行中に、男を後ろから撮影したものを拡大した写真が刑事たちにそれぞれ配られた。

 捜査会議での初動の方針は、被害者の身元の判明と、空木に尾行を依頼した人間と、空木に尾行され、廃屋から消えた登山者を捜すことと確認された。被害者の身元については、マスコミの力を借りることとし、この後、マスコミ各社に公開することとなった。消えた登山者の捜索は、醒ヶ井の養鱒場バス停横の商店での聞き込みで、浮かんだ車を洗い出すことと、柏原駅下り八時三十三分着の電車に乗っていたことから、これの目撃者を捜すこととされた。さらに汗の痕跡が無く、比較的新しいことから、被害者が購入したかどうかを確認するために、ザック販売店の聞き込みと、さらに登山靴が本人のものかどうかも不明なため、御在所岳周辺も聞き込みをすることが確認された。空木に尾行を依頼した依頼者の調査については、手掛かりが全くないため、今後の情報の推移をみることとなったが、空木健介と定期的に連絡を取る必要性もあることから、これには大林が当たることとなった。

 捜査本部の疑問は、空木健介が犯人でないならば、何故わざわざ、空木に尾行させたのか。これだけ手掛かりが少なければ、尾行させたことが命取りになりかねない。空木健介はマークしなくていいのか、空木が犯人でないなら、空木に恨みを持っている人間がいて、その人間が彼を事件に巻き込ませようと企んだのではないか。このようなことが疑問としてあがり、大林が空木への対応を一任されることとなった。


 空木が国立駅に着いたのは夕方五時半ごろだった。梅雨空だったが日が暮れるにはまだ一時間以上ある。ザックを担いだ空木は、北口の改札を出て、石山田に電話した。石山田も空木からの連絡を待っていたようで、六時半ぐらいにいつもの店で飲もう、ということになった。

 空木のマンションまでは歩いて五、六分だ。シャワーを浴びて着替えて、いつもの店なら余裕で間に合う時間だった。

 居酒屋「さかり屋」に、石山田はもう来ていた。電話を切った後、すぐに署を出なければこうはいかない。

 空木が店に入ると、主人が「いらっしゃい」の声と一緒に、奥を指差した。奥の小上がりに石山田は座っていて、大ジョッキでビールを飲み、もう空になりそうであった。

 「お帰り、遅いよ健ちゃん」

「遅くはないでしょう。巌ちゃんが早いだけだ」

二人は挨拶代わりのやり取りをして、空木のビールが来るのを待って、乾杯した。酒の肴はいつもと同じイカの一夜干し、エイひれ、ニラレバ炒めの三品だ。

 「健ちゃん、大変だったな」

「ああ、大変だった。というか今も大変の真最中だね。でも昨日、巌ちゃんに電話して良かったよ。あのまま東京に帰って来ていたら、もっと大変なことになっていたと思う」

「そうそう、湖東警察署の大林刑事から連絡があってね、空木健介から目を離さないように頼む、ということだった」

石山田はにこにこしながら言って、ジョッキのお替りを注文した。

「重要参考人だからね、俺は」

「まだ被害者の身元も判ってないようだし、捜査は始まったばかりだから、対象者が少ないし、仕方ないな。それにしても見事に嵌められたな」

石山田は空木を慰めるように言った。

「身元が判ってないって、巌ちゃん、向こうからはどんな話を聞いたの」

 空木の問いに、石山田は二杯目のジョッキを口に運びながら。

 「本来は、我々には守秘義務があってね、一般人には一切話しちゃだめなんだ。勿論、家族も含めてね。でも今回は健ちゃんの身にもしものことが起きないとも限らないから、話せるところは話すよ。向こうもそれは承知だし」

「俺にもしものことって、どういうこと」

空木は手に取ったジョッキを置いた。

 石山田は大林から聞いた、湖東警察に置かれた捜査本部の初動方針と捜査員から出たという意見を空木に説明した。

 被害者の身元が不明のため、マスコミに公開する。消えた男、つまり空木が尾行した男の足取り捜査は、走り去った車の洗い出しと、乗ってきた電車での目撃情報の聞き出し。汗を掻いた形跡の無いシャツ、ズボン、ザックの購入先の洗い出し。登山靴の靴底の石をヒントに御在所岳周辺の聞き込み。尾行の依頼者の情報は皆無のため、空木からの情報次第であること。そして、空木に尾行を依頼した不自然さに注目していること、を手帳を見ながら説明した。

 じっと聞いていた空木は、聞き終わってビールを一気に飲み干した。

 「不自然だよな。俺もそこがどうにも腑に落ちない。わからない」

 空木は、芋焼酎のボトルを注文した。

 「健ちゃん、月並みな質問だけど、誰かに怨まれるような覚えはないか」

「怨まれる。感謝されることもなかったと思うけど、怨まれることなんか、自分で言うのもおかしいけど、俺、そういう生き方していないつもりだったから、覚えなんかないよ」

空木には、思いもしなかった石山田の質問だった。

「そうだよな、ないよな。でも人間って、人の言葉で傷ついたり、喜んだり、悲しんだりしてるからね」

 石山田のその言葉は、覚えが無くても怨まれることもあると、言っていた。

 空木と石山田は焼酎を飲み始めた。

 「走り去った車があったのか。もしそれに乗って、俺の尾行していた男が逃げたとしたら、廃屋に入っていって、どこからか抜けて逃げ去って行ったということか。そして俺があの廃屋に入ってくるのを見越していて、あの死体を見つけさせたのか」

「走り去った車に、誰が乗っていたか判らないが、その可能性は多いにあるな。第一発見者に仕立てられたということだ」

石山田が続けて言った。

「車で逃げたかどうかは、まだ判らないにしても、初めから健ちゃんの尾行を知っていた。ということは、依頼者と登山した男は、仲間ということだ」

「‥‥‥そういうことだな」

空木は芋焼酎のロックを飲み干した。

「湖東警察の捜査本部もそう読んでいるだろう。尾行の依頼者を探すより、情報の多い、消えた男を捜すことに全力をあげるだろうし、その男を探し出せば、自ずと依頼者も浮かびあがると踏んでるよ」

石山田は新しい氷を注文した。

「健ちゃん、尾行していた男のことで、改めて何か思い出したことはないか。靴底の石粒も捜査のヒントになるくらいだから、どんな些細なことでも捜査の助けになるかも知れない」

「分かってるけど、何せ距離が離れていたから、思い出そうにもどうしようもないよ」

空木は言いながら、もっとたくさんの写真を撮っておくべきだったこと、超望遠レンズだったら良かったのに、と思っていた。

「明日の朝刊で身元不明の死体のことが出れば、捜査本部にもいろいろ情報が集まるだろう。身元が判れば、あっという間に解決するかも知れないよ」

石山田は、また空木を慰めるような言い方をした。

「ところで巌ちゃん、手付金のあの五十万だけど、どうしたらいいと思う」

空木は、このことにも引っかかっていた。

「実際に名古屋に泊まって、尾行したんだから、気にする必要はないよ、警察もそれはノープロブレムだよ」

二人は、ボトルを飲み切り、締めのラーメンを注文して食べた。

「じゃあ、健ちゃん、また何かあったら連絡してくれ、こっちも情報が入ったら教えるよ。ご馳走さんでした」

 石山田は今日も金を払うつもりはないと言っていた。


 日曜日は朝から雨だった。空木は新聞を取っていない。近くのコンビニで新聞と朝食を買った。部屋で新聞を広げ社会面を見た。事件が出ていた。小見出しは、廃屋で身元不明の男性死体、とあって、滋賀県の霊仙山の登山口に近い、廃村の廃屋で死後十時間位の登山姿の死体が発見され、身元の手掛かりが無い。伸長、体重が記載され、首を絞められたような跡があることから、警察は殺人と断定した。心当たりの方は湖東警察へ連絡を、とあった。

 空木は石山田に携帯で電話をした。石山田は国分寺署に出ていた。

 「新聞に出ていたね」

「ああ、出ていた。被害者の身元が判らないとどうにもならないからな。これで捜査が進展するよ」

「巌ちゃん、身元がわかったら俺にも連絡頼むよ」

「大丈夫だ。マスコミに公開していることだから、判明したらまた新聞に出るよ」

 二人は近々また会うことを約束した。



『被害者』


 湖東警察署の捜査本部には、朝早くから何本かの問い合わせが入っていた。皆、新聞の記事を見ての電話だったが、該当する人ではなかった。

 女性の声で電話があったのは午前十時ごろだった。落ち着いた感じの、女性の声で、新聞に出ていた身元不明者が、名古屋に単身赴任している主人に良く似ている。金曜日の午後に、名古屋の勤務先から、連絡が取れないという知らせがあり、今日になっても連絡が取れない、ということであった。

 捜査本部は、勤務先でご主人を良く知っている方と一緒に、米原の湖東警察署に御出で願いたいと告げた。その際には、指紋の照合が出来るものを持参してくれるよう依頼した。その女性は、東京から米原に向かうと言った。

 米原駅に、スーツ姿の男性二人と中年女性が降り立ったのは、午後三時過ぎであった。湖東警察署からは大林が車で迎えに出ていた。四人は湖東警察署に向かい、二階の捜査本部横の会議室に入った。

 女性は浅見芳江と言った。色は白く大柄で、ベージュの袖なしのワンピースに白い薄手のカーディガンを羽織っていた。スーツ姿の二人は塩野と梅田と名乗り、塩野は課長の肩書きの名刺を差し出し、勤務先は東亜製薬株式会社とあった。三人ともかなり緊張した様子で、署長、刑事課長と挨拶し、大林の案内で、早速地下の遺体安置所に向かった。

 銀色のステンレス製の遺体安置箱から引き出された死体は、ドライアイスで囲まれていた。最初に死体の顔を見たのはハンカチを口にあてた浅見芳江だった。

 「主人です。間違いありません」

死体の顔を見つめながら、小さな声であったが、驚くほど冷静に言った。

芳江の言葉に驚いたように、塩野と梅田の二人が覗き込んだ。

「部長」二人は同時に、小さな声で叫んだ。

 芳江の目からは涙がこぼれ落ちていた。

 「ご主人に間違いないでしょうか」大林が念を押す。

「間違いありません。でも何故‥‥‥」

芳江が小さく頷きながら答えた。

塩野と梅田の二人も、浅見部長に間違いないと言った。

「ご主人が何故このようなことになったのか、捜査中です。奥様にはお辛いでしょうが、一刻も早く、犯人を捕まえるためにご協力をお願いします」

 三人は大林に案内され、二階の小会議室に入った。芳江は家から持参した、ハンカチに包んだ電気カミソリを大林に渡した。

 「主人は月に一度位しか東京には戻ってきませんでしたから、指紋が付いているものが、ほとんどありません。これが一番可能性があるかと、思いました」

 大林は芳江が持ってきた、電気カミソリを受け取った。

 「申し訳ありません。確認に使わせてもらいます。指紋が出なくても三人に確認していただいていますので」

 大林はもう必要ないと、言いそうであったが、カミソリを若い刑事に渡し、鑑識に回すよう指示した。

 被害者の氏名は浅見豊。留守宅住所は東京国立市中二丁目。年齢は芳江の五つ上で、五十歳。結婚して二十年で、子供は高校生の男の子が一人。浅見は、東亜製薬の名古屋支店の業務部長で、昨年の四月から名古屋に単身で赴任していた。住まいは名古屋市千種区今池一丁目のマンションだった。芳江が浅見豊に最後に会ったのは、五月の連休での長期の帰省の時が最後だった。

 「その時、ご主人に変わった様子はありませんでしたか」

大林が聞いた。

「変わった様子はなかったと思いますが、一度だけ携帯電話で随分長く話していた時がありましたが、特に変わった様子はありませんでした」

 次に、塩野と、梅田が会社での浅見の様子を話した。

 それによると、浅見は昨年の四月に仙台支店から転勤してきた。職場内、取引業者との間にもトラブルは無く、問題は無かった。木曜の夜、三人で支店近くの金山の蕎麦屋で飲んで、十時過ぎに別れた。金曜日は出社してこなかったが、たまに連絡なしに午前中休むことがあったので、気にはしなかったが、午後になっても連絡がなかったので携帯に電話したが、電源が切られているようだった。マンションにも行ったが、鍵が掛かって留守だった。それで東京のご自宅に連絡した。こういうことであった。

 大林は、死亡推定時刻は木曜日の夜、十時から十二時、死因はロープのようなもので首を絞められての絞殺。当初は服装からして、山から下りて来て凶行にあったかと、思われたが、状況から他の場所で殺害され、あそこに運ばれたものと判断していること。これらのことを三人に説明した。

 大林は、浅見は誰かに怨まれているようなことはなかったかと、質問したが、三人とも人から怨まれているようなことは、全く見当がつかないという答えだった。

 「浅見さんは、趣味で山登りはされてましたか」

大林は三人に聞いた。

「いえ、東京では登っていませんでしたし、聞いたこともありません」

芳江はハンカチを口に当てながら、首を傾げた。

「支店内でも浅見部長が山に登っているという話は聞いたことがありません」塩野だ。

「私は山が好きで、たまに登りますが、部長が山好きという話は聞いたことがありませんし、以前私が山の話をして、登ってみませんか、と言ったら断られましたから、山は登ったことはないと思います」と梅田が続いた。

 これから三人はどうするのか、大林は聞いた。塩野と梅田は名古屋に戻って、支店長と相談したいと言った。芳江は明日にでも、遺体を東京の国立へ運びたい、ということで、その手配と芳江の宿泊の手配を大林はした。


 空木の携帯が鳴った。石山田からだった。

 「健ちゃん、被害者の身元が割れた。名古屋の会社員で名前は浅見豊。自宅住所が驚きだよ、国立だぞ」

「えっ、国立」

 何という偶然だと、空木は思った。

 「名古屋に単身赴任していたそうだ。それと勤務先が東亜製薬だと言っていた。健ちゃんの勤めていた会社とは違うけど、同業じゃないのか」

「東亜製薬は大手だ。確かに、製薬会社としては同業だけど。俺と付き合いのある人間はいないよ」

空木は、東亜製薬には知り合いはいなかったか、と考えながら言った。

「偶然が重なったお陰か、健ちゃんは押しも押されもしない重要容疑者だ。大林刑事が話を聞きにこっちに来るそうだ」

「マジで」

「嘘だよ。でも来るのは本当だ。被害者の葬儀に参列しに来る。ついでに健ちゃんから借りた物を返しに来るらしい。葬儀は参列というより聞き込みだろうけど。俺にも同席してほしいと言っている。健ちゃんも行くか」

「俺が行っても構わないのかな」

「第一発見者ということで、奥さんに挨拶したらどうだ。それなら大林刑事も何も言わないだろう。場所と日時が決まったら、また連絡する」

 石山田は空木を連れて行くことを最初から決めていたようであった。

 「巌ちゃん、被害者の住所を詳しく教えてくれ。明日、様子を見てきたい」

「教えるけど、俺も行くから、一緒に行こう。大林刑事に依頼されている仕事なんだ。住所は国立市中二丁目セントラルマンションだ」


 翌日も雨だった。そのマンションは桐朋学園と一橋大学のある閑静な地区にあった。レンガ張りの六階建の四階だった。

石山田が管理人に警察証を見せ、浅見家の様子を聞いた。三人家族だが、主人は単身赴任で普段はいない、とのことで大林の話と符号していた。ここ一、二ヶ月の間で、浅見家を訪ねて来た人間がいたかどうか、記憶にないかと聞いたが、浅見家に訪ねてくる人はめったにいないので、来れば記憶に残るが覚えはない、との答えだった。何か浅見家にあったのかと、管理人が聞いたが、石山田は何も答えなかった。

この管理人は、明日の新聞を見て驚くことだろうと空木は思った。

 通夜は翌火曜日に行われた。JR南武線の谷保やほ駅から程近い斎場で六時から行われ、小雨の降る中、二百人近い参列者が集まった。浅見家のマンションからは車で五分程の距離だった。喪主である芳江はハンカチと数珠を手に、親戚の人たちなのか、挨拶をしていた。横には息子と思われる背の高い、制服を着た男の子が立っていた。

 大林と石山田、空木は一番後ろの椅子に座り、参列者の様子を窺っていた。

塩野と梅田も参列していた。参列者の焼香が終わり、喪主である芳江の、参列者へのお礼の挨拶が終わった。

 大林は、芳江に石山田と空木を紹介した。石山田は国分寺警察署の刑事であること。空木はご主人の死体を発見し、通報した人間であることを紹介した。三人はお悔やみを述べて会場の外にでた。

 外に出た大林は塩野に声をかけ、浅見の上司である支店長に話を聞きたい旨を伝えた。塩野は少し離れた、支店長と思われる礼服姿の男に耳打ちした。二人は、大林たち三人の方に来て、挨拶した。

 「名古屋支店長をしております、篠村と申します」

白髪混じりの篠村は名刺を渡しながら挨拶した。

「滋賀県警湖東警察署の大林です。こちらは国分寺警察署の石山田刑事と発見者の空木さんです。少しだけお話を聞かせていただきたいのですが‥‥、時間は取らせませんので」

大林は、二人を紹介しながら言った。

 大林、石山田両刑事と篠村は、斎場の隅のテーブルに座った。

 「お聞きになっておられると思いますが、浅見さんは殺害されました。殺人事件です。上司である支店長さんから見て、浅見さんが仙台から転勤して来てから、変わったこと、気なることはありませんでしたか」大林は篠村の顔をじっと見ながら訊いた。 

「名古屋に来てから、特に変わった様子というのは無かったと思います」

「名古屋に転勤して来たのは、本人が希望したんですかね。支店長さんはその辺はご存知ありませんか」

「浅見君が希望したかどうかは分かりません。ただ、自宅のある東京を跳び越して、名古屋での単身を希望する人間もそうはいないと思います。私は可哀相だと思いました」

「仙台で何かあったとか」

「それは私には全く判りません」

篠村は仙台のことは仙台に聞いてくれと言わんばかりに答えた。

 大林、石山田、空木の三人は、食事を摂りに通夜の会場を出て、国立駅方面へ向かった。

 石山田は大林を行きつけの居酒屋に誘った。

 三人は、奥の小上がりに上がって、お浄めと称して飲み始めた。

 「あの支店長の、最後の答え方が少し気になりましたが、石山田刑事はどう感じましたか」

「仙台のことは仙台に聞いてくれ、という感じでしたね」

「それはそれで尤もなんですが、何か引っ掛かる。大会社の偉いさんはあんな感じなんですかね」

大林が言った。

聞いていた空木がニラレバを食べながら。

「あの時の支店長の目は一瞬ですが、下を向きました。事件に関係するかどうかは判りませんけど、仙台で何かあったかも知れないですね」

口を挟んだ空木は、もうビールから焼酎に変わっていた。

 告別式は翌日の十時からで、梅雨空だった。平日の午前のためか、昨日の通夜より参列者は減っていた。空木たち三人は、昨日同様、会場の一番後ろの椅子に座って、参列者を観察していた。東亜製薬の名古屋の支店長の姿はなかったが、塩野と梅田の姿はあった。出棺が終わった。大林は塩野に軽く会釈をし、近づいた。

 「ちょっとだけ話が聞きたいのですが、時間はありますか」

「名古屋に戻るだけですから。大丈夫ですけど。どんなことですか」

「浅見さんの仙台時代のことで聞かせて欲しいんです」

「仙台ですか‥‥‥」塩野は怪訝な顔をした。

「仙台の支店の方は昨日、今日と来ておられましたか」

「ああ、来ていたと思いますが、私は顔を知らないので誰かは分かりません。東北の山の話しをしているのが聞こえましたから、多分、仙台支店の人たちだと思います」

「そうですか。ところで、社内で何かあって名古屋に移られたというようなことはなかったんでしょうか」

「何かって言われても困るんですが。‥‥‥ここだけの話にして下さい。噂ですけど、女性関係で異動になったんじゃないかと、耳にしたことがあります。部長は仙台のことを我々には全く話しませんでしたから、本当のところは分かりません」

塩野の顔は、これ以上は簡便してほしいと言っていた。

「いや、ありがとうございました。十分です」

大林と石山田は塩野に礼を言った。

 三人は、車で国立駅へ向かった。

 「大林刑事、仙台へ行きますか」

車中で石山田が聞いた。

「いや、会社として公に話せることでも無さそうですし、噂の中身程度なら名古屋でも聞けるかも知れません。本部に帰って課長と相談してみます」

大林は答えながら、今度は空木の方を見た。

「空木さん、名古屋のイシダスポーツはご存知ですか」

「市内のさかえにある店ですか」

「さすがに良くご存知ですね」

「その店がどうかしたんですか」

「被害者の着ていた服とザックが売られた店のようです」

「被害者が買ったんですか」

「いえ、写真を見た店員の記憶では、被害者ではなく別人です。恐らく、買ったのは犯人ではないかと睨んでいます。購入日は六月九日木曜日の昼だったそうです。同じザックを二つ一緒に買っていったので、店員が覚えていたそうです。それと10ミリのザイルも買ったそうです。ただ、顔は色付き眼鏡と帽子で、はっきりとは分からなかったそうですが」

「色付き眼鏡と帽子。健ちゃん尾行していた男と一緒じゃないか」

石山田が確認するように言った。

「そうだね」

空木は言いながら、俺が尾行していた男が犯人なのかも知れないと考えていた。

「しかし、もし買った男と、尾行されていた男が同一で、しかも犯人だとしたら、大胆な奴だ」

石山田が空木の考えていたことを口にした。

「大林刑事、被害者の名古屋のマンションの捜索はどうだったんですか。何か手掛かりになるようなものは出ましたか」石山田が大林に顔を向けた。

「今日辺り調べているはずです。犯人の手掛かりになるようなものが出ればいいんですが。せめて女の匂いでもでれば」

「そうですね、こっちは明日にでも浅見の奥さんを当たってみましょう」

三人は国立駅で別れた。大林は今日の捜査会議までに戻りたい、ということで昼食は移動の車中で摂るという。石山田は、課長に報告すると言って署に戻った。一番ヒマな空木は、自宅マンション近くの豚カツ屋で昼を食べることにした。


 翌日、小雨の降る中、石山田はレンガ張りのマンションに浅見芳江を訪ねた。管理人に挨拶をして、エントランスの部屋番号を押した。芳江は在宅だった。朝からの訪問を詫び、話を聞きたい旨をインターフォン越しに説明した。芳江は午後からは斎場に出かけるので一時間程度なら大丈夫だと言い、玄関のオートロックを解除した。石山田はエレベーターで四階に上がった。監視カメラ付きのエレベーターだ。芳江は石山田を十畳ほどのリビングに案内した。広いマンションの部屋であった。芳江は石山田に紅茶を用意して、ソファーに座った。

 石山田は、取り込みのところへの訪問を再度詫びた。

「申し訳ありません。一つ、二つお聞きしたいことがあります。通夜、葬儀に参列されていた方たちで、見慣れない方とか、何か気になることとか、気付かれたこととかはありませんでしたか」

「親族や私のお友達以外は、見慣れない方たちばかりでしたし、参列していただいた方たちのお顔を改めて見ることも出来ませんでしたから、気になるようなことと言われましても、私は何も‥‥‥」

「それはそうですよね。つまらない質問をして申し訳ありません。そうだ、奥様、お香典の芳名記入帳はご覧になっておられますか」

「いえ、ゆっくりと見てはいません」

「昨日の今日ですから、当然ですね。そこに記入されている名前で気になるようなお名前でもあればと、思いまして‥‥」

 芳江は少し待ってくれと言って、席を立ち、二冊の芳名記入帳を石山田の前に出した。

 「少々拝見しても宜しいでしょうか。私が見ても誰の誰兵衛かさっぱり分かりませんけれど」

 石山田は女性の名前だけでも見ておきたかった。

 「構いません。ご覧になってください」

 石山田は、パラパラと頁をめくっていった。芳名帳はサインペンで書かれていた。一冊目の女性名は六人いた。全て芳江の友人だった。二冊目は男性ばかりで、篠村、塩野、梅田の名前もあった。二冊目の終わりごろに女性名があった。名前は、「仲内好美」とあった。石山田はどこかで聞いた名前だと思ったが、思い出せなかった。

「奥さん、この方はご存知ですか。参列していましたか」

 芳江は芳名帳を手元に寄せた。

 「いえ、存じ上げない方です。参列していたかも知れませんが、女性の方たちで、私が顔を知らない方のご焼香はありませんでした」

芳江は思い出そうとしてか、眉間に皺を作りながら答えた。

「参列して、焼香しない人もいるんですかね」

「それは私には分かりません」

 石山田は仲内好美の名前を手帳に書きとめた。

 「奥さん、香典袋を見せていただけないでしょうか。この仲内という名前の方のものがあれば見せていただけませんか」

 芳江はまた席を立った。二、三分後、これですといって石山田の前に差し出した。表書きの名前は筆で書かれていたが、内袋には金額だけで、名前も住所も記入されてはいなかった。

 「住所は書かれていませんね。普通は書かれますよね」

「そうですね。名前も顔も知らない方でしたら、ご住所を書いていただかなければ参列のお礼状も出せません」

「奥さん、受付をされた方はどなたでしたか」

「斎場の方にしていただきました」

「そうですか、分かりました。ありがとうございました。それから、聞きにくいことなのですが、何度か名古屋には行かれていると思いますが、奥様から見て、ご主人には女性のお友達がいらっしゃったように思いますか」

 驚くほどの冷静さで、凄い事を訊いている自分に、石山田は驚いた。

「高校生の息子が居りますので、何度も行ってはおりません。引越しの際に行ったきりです。女性については、親しいかどうかは分かりませんが、いても不思議ではないと思っていましたが‥‥‥」

芳江は芳名帳に目を落としながら答えた。

 石山田は谷保駅近くの浅見豊の葬儀が行われた斎場へ向かった。浅見家の葬儀の受付をしたのは、小早川という三十前半の男性だった。小早川は女性の名前は覚えていないが、男性で女性のような名前を書いた人がいて、顔を見上げたら、代理で記帳させていただく、と言っていた、という記憶であった。その男は記帳した後、すぐに会場を去った、ということだった。顔の記憶はないが、頭の毛は短かったように思う、と話した。

 国分寺署に戻った石山田は係長の柳田に報告した。柳田は石山田同様、刑事畑一筋のたたき上げである。刑事課長とはしょっちゅう口論している。柳田から、湖東警察の大林刑事から、午前中に電話があったことが伝えられた。柳田は、石山田が聞き込んだことを向こうの捜査本部に早く連絡してやれと言った。

 石山田は、大林に今日の聞き込みの内容を知らせた。葬儀には参列していないが、「仲内好美」という女性の名前が浮かんだこと。その名前は、浅見芳江は覚えがないこと。その名前を記帳した男はすぐに会場を去ったこと。髪が短かったこと。これらを伝えた。

 聞いていた大林は石山田に聞きなおした。

「仲内なんと言いました」

「仲内好美。人辺の仲に、内外の内、好き嫌いの好に、美しいの美です。ご存知ですか」

「いや、仲内という姓は、空木さんに尾行を依頼した仲内和美と同姓です。名前一字が違うだけです。偶然とは思えません」

 石山田は、そうかと思った。どこかで聞いたような名前だと思ったのはこれだったのだ、と。

 「偽名かも知れませんが、仲内姓で追ってみる価値はあるかも知れません。何軒あるか分かりませんが、全国の警察の協力を得られれば、潰していけるかも知れません」

 大林は新しい情報に反応した。

 「そちらの捜査はいかがですか」

 石山田は、被害者である浅見の名古屋のマンションの捜索の状況を聞いた。

 「被害者のマンションの近くに公園があって、夜は極端に人通りが少なくなります。殺害現場は公園若しくは、マンションの駐車場付近ではないか、と考えていますが、何も見つかりません。目撃者もいません。ただ、被害者の駐車場に、別の車が止まっていたのを住人が見ている、という聞き込みが取れました。事件に関係しているかも知れませんが、これ以上の情報はありません。それと被害者の部屋から男性の髪の毛とは明らかに違う、女性らしい髪の毛が採取されました。住所録のような物は見つかりませんでしたが、パソコンがありましたので、奥様の許可をいただいて中に入ることにしています。そこに仲内姓でもあれば良いのですが。それと浅見の仙台での噂話は名古屋の支店で調べてみることになりました」

「わかりました。こちらも協力しますので、何なりと言ってください」

「ありがとうございます。柳田係長にも宜しくお伝えください」

大林の話では捜査は進展しているように思われた。仲内姓で、さらに犯人の糸口が掴めるかも知れないな、と石山田も感じていた。


 石山田は、空木に「仲内好美」の名前が浮かんできたことを知らせた。今日も、いつものところ「さかり屋」で会うこととなった。

 二人は、いかの一夜干し、エイひれ、ニラレバ炒めを酒の肴に飲み始めた。空木はジョッキを手にしたまま言った。

「同じ仲内姓を使うというのはどういうことなんだろう。偽名にしろ、実名にしろ、何がしかの意味があるように思う」

「どういう意味なのか。依頼者の仲内和美と、香典の仲内好美。犯人と何か関係している名前なのかも知れない」

石山田もジョッキを持ちながら言った。

「健ちゃん、もしかして、仲内和美って、かずよしって読むんじゃないか」

「ええ、じゃあ姉妹じゃなくて、兄妹とか姉弟とか」

「そう、それと夫婦もあるよ」

石山田はビールの泡を口の周りに付けながら言った。

「仲内姓って全国に何軒ぐらいあるのかな。調べるのは容易じゃないだろうね」

空木はニラレバを摘まみながら、石山田に聞いた。

「さあ、何軒ぐらいあるかな、数百軒はあるだろう。潰していくのは容易じゃないね。潰していって、ホシに当たると分かっていれば良いけど、偽名だとしたら無駄足だからね。辛いものがあるよ」

 石山田は途方も無い作業だと言外に言っているようだった。

 「それから健ちゃん、捜査本部は被害者の殺害された現場は、名古屋のマンション付近だと睨んでいるようだよ。被害者のマンションの駐車場に停まっていた不審な車も確認されている。その車と、林道から走って行った車が一緒なら、辻褄が合うな」

石山田は言ってから焼酎を頼んだ。

「一緒の車だとしたら、殺してから車で現場まで運べるわけか」

空木は頷きながら言った。

「そして、車を登山口辺りにおいて、戻る。電車は動いていないけど、タクシーなら駅まで出れば捕まえられるか、呼べる」

「向こうの捜査本部も、そう読んでいるだろう。タクシー会社とホテルを片っ端から洗っている筈だ。深夜に乗せる客は、大概は酔っ払いだ。素面しらふで、田舎の駅から乗る客はそうはいない」

 石山田は芋焼酎をロックで飲み始めた。

 「それと、大林刑事から浅見芳江の毛髪を取ってくれるように頼まれた。被害者のマンションから、女性の物と思われる毛髪が採取されたらしい」

「やっぱり。でも奥さんには女の毛髪が取れたとは言いにくいね」

空木は、あたかも、そういう経験をしたかのようなしたり顔で焼酎を飲み干した。

「そうなんだ、奥さんは名古屋には引っ越しの時しか行っていないと言っているしね。あとは、健ちゃんが見つけた花崗岩の石粒だけど、何とか岳の近くの温泉を当たっているらしいけど、単独で来る登山者は結構たくさんいるらしくて、ホシに繋がるような情報は取れていないようだ」

「御在所岳だ。麓の温泉は、湯の山温泉だったかな。俺は泊まったことはないけど、十軒以上あるからね」

 空木は、自分が言ったことが解決の糸口に繋がってくれればと、思ったが、顔写真でもあれば別だが、何も無い中での聞き込みでは難しいだろうと思った。




『尾張名古屋』


 湖東警察署に置かれた捜査本部では、事件発生から一週間経過しての、捜査会議が開かれた。

 被害者の足取りは、六月九日木曜日の午後十時過ぎまでは、部下である塩野と梅田の三人で、蕎麦屋で飲食。タクシーで千種のマンションに帰宅途中、マンション付近でロープの様な物で首を絞められ殺された。その夜、被害者の駐車場に、他府県ナンバーの黒っぽい車が停まっていたが、朝には無かった。車種はRV車様だった。因みに、被害者自身の車は、飲酒するつもりだったことから、会社に置かれたままであった。被害者の部屋は荒らされた様子は無く、殺害現場ではないと思われた。部屋から、女性の毛髪と思われる物が採取され、鑑識でDNAを調べている。東京にいる浅見芳江の毛髪と比べるため、国分寺署に協力を依頼している。被害者の部屋にあったパソコンには、捜査の参考になるようなものはなかった。

 空木が尾行していた男の足取りは、大垣から乗り換えた電車の車掌が、帽子、色付き眼鏡をかけた登山者風の男を見ていた。醒ヶ井さめがいの養鱒場バス停の商店主が見た車は黒っぽい大きな車としか確認出来ていない。

 イシダスポーツ名古屋店で九日にザック二つ、ロープ、服を買った、帽子、色付き眼鏡の男のその後の足取りは掴めていない。

 被害者の登山靴に挟まっていた、花崗岩の石粒から三重県御在所岳付近の温泉である、湯の山温泉の聞き込みを行ったが、五月一日から六月九日までの単独での男性泊り客は、十四軒の温泉宿合計で二百三名であった。

 空木に尾行を依頼した「仲内和美」については、全く情報はない。ただし、国分寺署からの情報で、被害者の葬儀の芳名帳に「仲内好美」という名前が記帳され、記帳したのは本人ではなく代理と称する男だった。

 以上の報告が刑事課長からされた。そして、自殺に見せかけた計画的犯行からすると、殺害の動機は怨恨である可能性が高く、被害者の周辺関係者を洗うことが指示された。さらに今後の方針として、帽子を被った色付き眼鏡の男は、空木が尾行した男と同一人物の可能性が高い。この男の足取り調査をさらに進めること。黒の他府県ナンバーのRV車で、死体を運んだ可能性が高く、醒ヶ井養鱒場付近で同様の車が目撃されていることから、犯人は九日夜から翌十日午後一時時半頃まで、登山口林道付近に車を駐車していた可能性がある。従って、このRV車の行方とともに、九日深夜に醒ヶ井養鱒場もしくは醒ヶ井駅付近で客を乗せたタクシーがないか洗い出すこと。そして被害者の女性関係の調査。湯の山温泉宿泊客の裏づけ。そして仲内姓の調査を全国の警察に正式に依頼するとされた。


 翌日小雨が降る中、湖東警察署の捜査本部から、大林が若い刑事とともに東亜製薬の名古屋支店に向かった。名古屋の空も、雨が降ったり止んだりで、雲が低く垂れ込んでいた。

 東亜製薬の名古屋支店は丸の内のオフィス街の一角のビルにあった。名古屋支店長の篠村と総務課長の戸塚、そして業務課長で大林とは何度も顔を合わせている塩野が応対し、応接ソファーに大林たちと向かい合わせに座った。

 大林は手帳を手にしながら切り出した。

 「お忙しい所申し訳ありません。ご承知の通り御社の部長の浅見豊さんの殺害事件の捜査で伺いました。既に一度支店長さんと塩野さんからはお話をお聞きし、仕事面で浅見さんが恨まれるようなことはなかったとお聞きしました。我々としては、金銭、女性関係での怨恨でも捜査を進めています。浅見さんはお金の貸し借りで揉めているような様子はありませんでしたか」

「社内ではそういう話は耳にしたことはありませんが、プライベートなことに関しては分かりかねます」

支店長の篠村が答えた。

「総務課で知る限りでは、社外からお金に関する電話も来客もありませんでした」

総務課長の戸塚が次いで答えた。

「そうですか。わかりました。そうしましたら次に浅見さんの女性関係についてお聞きしたいのですが、これもプライベートなことでもあり、皆さんお話し難いかも知れませんが、噂でも何でも結構です些細なことでもお聞かせいただきたい」

大林は三人の顔を見た。

「女性関係についても私は全く分かりません。たまに一緒に飲みに行くこともありましたが、女性の話を私の前でしたことはありませんでしたから」

篠村はそう言うと、戸塚と塩野の方に顔を向けた。戸塚が首を傾げながら、塩野を見て言った。

「塩野課長は浅見部長とよく飲みに行っていたと思うけどどうなの」

「週に一回は部長にはお付き合いしていました。あの日も一緒に行きましたからよく行っていたと思います。部長は単身赴任だったので、ほとんど外食ですから飲食店にはよく行かれていたと思います。ただ、女性関係についてはそんな話をしたことはなかったので私も分かりません。接待で使うクラブなどから誘いの電話はあったと思いますが、私たちの給料では、プライベートでは高いので中々行けませんから部長と言えども店に通うということも無かったのではないでしょうか」

塩野は大林の顔を見ながら言った。

「以前もお聞きしましたが、浅見さんの前任地の仙台での様子はどうだったんでしょうね。浅見さんは仙台でも名古屋同様単身赴任だったようですから。女性関係もあったかも知れませんよね」

大林は三人の顔を窺うように見回した。戸塚と塩野は目を伏せた。

「仙台で何があったかは知りませんが、女性の噂はあったようです。男ですからプライベートなことで浮いた話が出ても不思議ではないと思いますが」

戸塚と塩野の様子を見た篠村が、代表するかのように答えた。

「そうかも知れません。しかし、殺人事件が起きたとなるとプライベートな事だからでは済まないのです。支店長さんお分かりになりますよね」

大林は口調を強めて言った。

「ええ、勿論分かります。とは言え名古屋にいる我々には当時の仙台での事など全く分からないことは事実です」

 篠村は困惑していた。

 「そうですか、これ以上皆さんに聞いても仕方ありませんね。支店長さん、浅見さんの机の中、特に浅見さんがお持ちになっていた、得意先も含めた全ての名刺を拝見させて頂きたいのですが、お願い出来ますか」

大林は篠村を見た。篠村は戸塚に、大林たちを浅見のデスクに案内するよう指示した。

 浅見のデスクの上には花が置かれていた。業務中の社員たちは、大林たちが何をするのだろうかとチラチラと見ていた。篠村たちはそれぞれ自分の机に戻り、大林たちの調べが終わるのを待っていた。

 浅見の机の中は、業務の内容毎にファイルで整理されていたが、誰かの手が入っているような感じは無かった。大林たちは業務ファイルには全く手を付けなかった。

 すぐに名刺ファイルは見つかった。分厚いファイルを大林は捲った。大半は病院を中心とした医師などの得意先と取引特約店の名刺で占められていた。大林の目当ては飲食店のそれも女性の名刺だった。目当ての名刺は料亭を始め、すし屋、レストラン、クラブ、スナックまで二十軒弱、枚数で二十四、五枚あった。大林は篠村に抜き出した名刺のコピーを依頼した。名刺の裏の地図も含めてのコピーには時間が掛かった。コピーを受け取った大林たちは、篠村に礼を言い東亜製薬の名古屋支店を出た。

 外は小雨が降り出していた。東亜製薬の名古屋支店の前は大通りで、道路の真ん中は公園だった。人影は無く、紫陽花の青い花が気持ち良さそうに咲いていた。

 二人は大通りから少し小路に入った喫茶店に入った。大林は東亜製薬でコピーした名刺の一覧をだした。店の数を改めて数えると十九軒だった。若い刑事が「これ全部接待で行っている店なんですかね」と呟くように言った。

 大林は、フレンチレストラン、料亭、すし屋、中華レストラン、ホテルのラウンジは除外し、女性従業員がいるであろうスナック、クラブの数を数え直した。「七軒か」と独り言を言って、コピーされた名刺に印しを付けた。

 大林は「全部、錦にある。これなら今日中に回れるな。」と若い刑事に言った。若い刑事は「大林さん、店はまだ開いていませんよ」と言って時計に目を落とした。時間はまだ午後五時を回ったところだった。

 「そうだな、従業員の多い大きな店なら誰かいるかも知れんが、スナックは八時位にならないと開いていないだろうな。クラブと思われるところから行ってみよう」

 午後六時少し前、二人は喫茶店を出た。飲み屋街の錦に向かった。外は、雨は上がっていた。日没にはまだ時間があった。十分ほど歩くと錦通りと云われる名古屋で一番の繁華街に着いた。人通りはまだ少なかった。開店の準備する店の従業員と思える人たちが、ビルの出入り口、店の玄関を出入りしていた。

 一軒目はビルの三階のワンフロアーを占める『G&G』というクラブだった。ドアは開いていた。男性従業員が店内を掃除していた。大林は「開店前です」という従業員に警察証を見せ、ママは居ないか聞いた。男性従業員はママは七時を過ぎないと出てこないと言った。東亜製薬の浅見という男を知っているか聞いたが、東亜製薬はうちを使ってくれるが、自分は浅見という人を知らないと答えた。

 二人は店を出た。時間はまだ明るさの残る午後六時半だった。食事をすることにして小路を歩いた。味噌煮込みうどんを食べた二人は、「夏は味噌煮込みはダメだ、汗だくになる」と言って店を出た。

 時間は七時を回っていた。『G&G』のドアを再び開けた。さっきの従業員が大林たちの顔を見て「ママ、警察の方が見えました」と言ってママを呼んだ。ママの名前は斉藤みどりと云った。大林は名刺のコピーを見て頷いた。

 「東亜製薬の浅見さんはお店によく来ていましたか」

大林がママの斉藤みどりに訊いた。

「東亜製薬様にはよく来て頂いていますが、浅見さんというお名前は、私は覚えていません。頻繁にはお見えになっていない方だと思います。何かあったのですかその方」

「いや、それでしたら結構です。お邪魔しました」

大林はそう言って店を出た。二軒目、三軒目も同様の答えだった。時計は午後八時を回り、夜の帳が下り、錦の街のネオンが色とりどりの灯りを点けていた。

 四軒目の『ラウンジ風露』という店のドアを開けた。ママの名前は長谷百合子と云った。高級そうな着物を着ていた。風露のママは、浅見豊が奇禍に遭ったことを知っていた。

 「浅見さんがうちに来なくなって、半年以上経つと思います。うちの女の子にご執心の時期があって一時は毎週お見えになりました。あんな事になって驚きました」

 百合子の言葉に、浅見がご執心だったその女の子は居るかと、大林が聞くと、居るとのことだった。

 その女性は文子という名前だった。

 「浅見さんは貴女にかなり熱を上げていたとお聞きしましたが、親しくされていたのですか。例えば、浅見さんのマンションに行くとかです」大林は緊張する文子に訊いた。

「親しいということはありませんでした。お部屋にも行ったことはありません。浅見さんは正直言うとしつこくて、二度、同伴のお食事をしました。それと一度だけ、お店が終わってからお寿司を食べに行きました。その時、自分の部屋に行こうって誘われましたが、私には彼氏がいるからと断ったら、それっきりお店にも来なくなりました。去年の十二月頃だったと思います。浅見さんの目当てはアレだけだったと思います」

 大林は、文子に訳を話して毛髪を数本貰い受けた。若い刑事はティッシュに包まれた文子の毛髪を手帳の間に入れた。

 五軒目、六軒目は収穫はなかった。最後の七軒目のスナックのあるビルの前に立った時には、時間は午後九時を回っていた。スーツ姿の男たちの行き来が多くなっていた。

 アミューズビルの七階の『優』というスナックに二人は入った。「いらっしゃいませ」の声が響いた。大林はカウンターの前まで行き、カウンターの中の女性に警察証を見せた。女性従業員は「ママ」とボックス席に座って接客している女性を呼んだ。

 その女性はママで中島優子と云った。背がスラっとした美人だった。優子は浅見豊の事件を知っていた。優子は客が居るので外で話しましょうと言った。

 「浅見さんはよくいらっしゃいました。亡くなる一週間前にもお見えになっていました。あんな事になるなんて」と言って優子は口に手を当てた。

「貴女は浅見さんのマンションをご存知ですか?」

大林は、知らないという答えを予想して通り一遍の聞き方をした。

「ええ、実はその最後にお見えになった夜に、部屋に入りました」

「部屋に入ったんですか。それは何時(いつ)か覚えていますか」

 身を乗り出す大林の横で、若い刑事は手帳を開いた。

 「事件の起きる前の週の木曜の夜というか、金曜の未明というのでしょうか。浅見さんあんまりにもしつこいので、断り切れずにお茶を頂くだけということで帰りに寄りました。本当に寄っただけです。私、浅見さんがお風呂に入っている間に帰らせて頂きました。私、そんなつもり全然ありませんでしたから」

「分りました。あと少し伺いたいのですが、浅見さんのお金のことですが、付けで飲むとか借金しているような感じはありませんでしたか。それから浅見さんはお店に来ている時、仙台の事を話されたことはありませんでしたか。仙台は浅見さんの前任地なんです」

「お金についてはきれいな方でした。いつも現金でお支払い下さっていましたし、借金している感じは全くありませんでした。それと仙台の事ですか‥‥‥仙台は、昔は日本三大ブス産地の一つと言われたけど、今は美人が多いと言っていたのは覚えていますけど、それ以外は記憶に残っている事はありません」

「そうですか、分かりました。ママさん申し訳ありませんが、ママの髪の毛を何本かいただけないでしょうか。浅見さんの部屋に落ちていた毛髪と照合させて頂きたいのです」

大林は手帳をポケットに終いながら、横の刑事に目で、受け取れと合図した。

 優子は少し待ってくださいと言って、店の中に戻った。しばらくして優子は、ティッシュの上に数本の毛髪を乗せて出てきた。大林は礼を言って、それを若い刑事に渡した。大林は改めて協力の礼を言って店を後にした。

 

 東京では同じ日、小雨が降る中、石山田と空木が国立の浅見宅を訪れていた。

 浅見芳江とテーブル越しのソファーに座った。芳江は事前に石山田から連絡を受け、自身の毛髪を用意していて、ティッシュで包んだ毛髪を石山田に渡した。

「奥さん、お手数掛けて申し訳ありません。頂戴いたします」

 石山田は毛髪を確認して、丁寧に用意したビニール袋にそれを入れた。

 「因みに、亡くなられた御主人の血液型はO型とお聞きしていますが、奥様は」

「私はA型でございます」

「お気を悪くしないでいただきたいのですが、奥様の毛髪と違う女性のものだと、確認される可能性が高いと思われます。御主人の部屋に入るような女性の心当たりはありませんか」

 石山田は手帳を手にストレートに聞いた。横で聞いている空木は、背中に汗が流れた。

 「心当たりと言われましても、お答えのしようがありません」芳江は膝に手を置きながら小声で答えた。

「名古屋には一度しか行かれていないということですから、尤もな事だと思います。それで、名古屋にはいつ行かれますか。御主人の荷物の整理もしなければならないのではと思いますが」石山田だ。

「はい、来週辺りにでもと思っていますが、息子は学校がありますし、親類に頼もうと思いますが、都合がつくかどうかも分からないので、私一人で行くことにしました」

芳江は心細げな声で答えた。

「一人で片付けるのは並大抵ではありませんよ。一人では持てない物もあるでしょう」

「ええ、でも家具類は業者さんにお願いして全て廃棄してこようと思っていますし、何とかなるのではと」

芳江はますます心細げな声になった。

「奥さん、じゃあこの男を一緒にお供させますよ。御主人を最初に見つけたのもこの男ですし、昔、野球もやっていて力もそこそこありますよ。それに何と言っても、人畜無害で安心ですし、世界で一番ヒマな人間ですから大丈夫です」

石山田は空木を見ながら、空木に断りも無く唐突に口に出した。

「ええ、俺、俺かい」

空木は驚いた。

「それはあまりにも申し訳ありません。私一人で何とかやってみます」

驚く芳江を前に、石山田が続けて言った。

「それに、この男は名古屋にも何年か住んでいて、地理にも通じていますよ。奥さん、名古屋は全然分からないでしょう。連れて行きなさい、役に立ちますよ。万(よろず)相談探偵事務所の空木君いいよね」

いつもは健ちゃんと呼ぶ石山田が、空木君と呼んだ。

勢いに押された空木は。

「あああ、いいよ、喜んで行きましょう。奥さんさえ良かったら、お手伝いさせてください」

言ってしまった。

「それは‥‥そうしていただけたら、有り難いですし、心強い限りです。本当に宜しいのでしょうか」

芳江は真剣な顔で二人を見ながら、聞きなおした。

「大丈夫です」

石山田が答えた。

答えた石山田に呆れたように顔を向けた空木は、「大丈夫です」と改めて答えた。

「ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます。本当に助かります」

芳江は笑みを浮かべながら礼を言った。

 微笑んだ芳江の顔を見るのは二人とも初めてだった。空木には、芳江の笑い顔は年齢よりも随分若く見えた。

「業者の手配もありますから、早めに日程の御連絡を下さい。私はいつでも大丈夫ですから」

 空木は、芳江に気遣いさせないように、自分はヒマであることを改めて強調し、名刺を芳江に渡した。


 浅見豊の葬儀から一週間が経った。

 梅雨空のあいまから夕日が差し、名古屋は蒸し暑かった。名古屋駅についた空木は、何度か泊まった駅前のホテルにチェックインを済ませ、ロビーで後輩の土手登志夫が来るのを待った。浅見豊の部屋の整理に来たついでに、後輩の土手と一杯飲む約束をしていた。浅見芳江は金山駅の近くの全日空ホテルを取っている。明日の朝、迎えに行く事になっていた。

 土手は日が沈みかけた午後七時過ぎにロビーに姿を見せた。二人は近くの居酒屋で飲むことにした。ジョッキで乾杯しながら、土手は、空木に名古屋に何の用事で来たのか聞いた。空木は、霊仙山で起こったこと、自分が容疑者となった経緯、被害者の自宅が自分のマンションに近いことから、名古屋の部屋の整理に付き合うこととなったまでを説明した。

 「それ新聞で見ました。霊仙山で殺人事件が起きるなんて驚きましたよ。ついこの前二人で登った山で事件が起きるなんて。しかし、空木さん大変だったんですね」

土手は驚きながらも、興味津々だった。

「それで、犯人は捕まったんですか」

「いや、まだだ」

 空木は、湖東警察の捜査本部から土手には、自分と一緒に登った確認は入らなかったのだと思った。

 「空木さんが尾行していた男が犯人なんでしょうかね。犯人だとしたら、あの場所まで呼び出したんでしょうか。呼び出されて行けるような所ではないですね」

 土手の問いかけに、空木は、細かくは話せないが、別の場所で殺されて、あそこに運ばれたらしいことを話した。

 「空木さんに尾行を依頼した人は、全く分からないのですか」

空木は、嫌なことを聞いてくるなと、思った。一般論として依頼人に関して全く知らずに仕事をするというのは、善良な市民のする行動ではない。空木は恥ずかしかった。

「いやあ、それを聞かれると辛い。探偵業の看板を出した自分としては恥ずかしい次第なんだけど、全く分からないまま、仕事を引き受けてしまったんだ。だから、何故俺に尾行を依頼してきたのかも分からない」

 空木は、手羽先を手に取って嚙みついた。

 「それに霊仙山を選んだのも不思議ですね。空木さんが何回も登っている山で、男を尾行することになるなんて。もしかしたら、空木さんが霊仙山を良く知っていることを、依頼者は知っていたんじゃないですか。思い当たる人はいませんか」

 土手はジョッキを空にした。

 「思い当たるのは土手ぐらいだよ。一緒に登ったことがあるのは何人かいるけどね」

 空木もジョッキを空けた。

 「ところで、土手に聞きたい事がある。東亜製薬に知り合いは居ないか。会社の内情を話してくれるような知り合い、友達はいないか」

 空木が土手を呼び出したのは、これを聞きたかったからだ。

 「東亜製薬の知り合いですか。知っている人はいますが、友達となると、いませんね」

土手は言った後、しばらく考えていた。

 土手の勤めている会社、つまり空木が今年の三月まで勤めていた会社は、万永製薬という製薬業界では中堅の会社である。一方、東亜製薬は製薬業界の大手と言われる会社で、医療機関を訪問するMRと言われる職種の人数でも、万永製薬の七百人に対し、東亜製薬は二千人を擁する大会社である。

 「空木さん、村西さんに聞いてみたらどうですか。空木さんの同期ですし、村西さんは帝都薬科大学卒でしたよね。東亜製薬は帝都薬科卒が多いから友達がいるかも知れませんよ」

土手は一口餃子を頬張りながら、空木に言った。

「村西か。そう言えば村西とも霊仙山に登ったな。しかし、あいつ薬大卒業してるけど、薬剤師じゃないからな。東亜製薬に友達なんかいるかな。まあ、一度連絡して聞いてみるか」

 村西というのは、空木とは万永製薬入社同期で、最も馬が合う仲であった。空木が万永製薬を辞める際、最も慰留したのは彼だった。送別会の時も、新宿で朝まで飲み明かした。薬科大学を卒業したが、国家試験にずっと通らず、薬剤師ではなく、薬学士でいる。

 「空木さん、東亜製薬になんかあるんですか。もしかしたら、殺された人って東亜製薬の人ですか」

空木は、それにははっきりとは答えなかったが、土手はそれと感づいたようだった。


 翌朝、空木は全日空ホテルに浅見芳江を迎えに行った。今日も天気は良く、暑かった。芳江はGパンにTシャツ姿で、いかにも部屋の整理、片付けという出で立ちだった。二人はタクシーで、浅見豊が単身で住んでいた、千種区今池のマンションに向かった。

 マンションはクリーム色の六階建てだった。玄関の向かい側には道路を隔てて、公園があった。空木は、浅見はこの辺りで殺害されたのかと思い、周囲を見渡した。ここから四、五分歩けば、今池の繁華街があるが、この辺りはマンションが多く、閑静な住宅街だった。確かに、夜ともなれば、人通りはほとんどなさそうだ。駐車場はマンションの東隣にあるが、昼でも人の存在が分かりにくい、ましてや夜ともなればほとんど人は見えないのではないかと思った。

 浅見豊の部屋は三階の東端の301号室だった。このマンションには管理人は常駐してはいなかった。エレベーターで三階まで上がり。301号室の前には、業者が用意したダンボールが置かれていた。空木が手配したものだった。

芳江は空木に礼を言い、ドアの鍵を開けた。湖東警察署の刑事たちが、捜索で部屋に入って以来、誰も入っていないせいか、モワッとした澱んだ空気が流れ出てきた。

 部屋は、2LDKで寝室にはベッドが置かれていた。空木が見る限り、山登りの匂いはどこにもなかった。やはり浅見は山はやっていなかった。芳江は部屋を見渡しながら、しばらくぼんやり立っていた。夫の生活の場に触れ、その生活を思い巡らせているのか、比較的綺麗に整理された部屋に、別な思いが出てきたかは分からないが、ぼんやり眺めている時間は短くはなかった。

 空木は、芳江に部屋の片付けを促した。芳江は台所の食器、冷蔵庫の中、洋服掛け、整理ダンスの中を整理した。整理しながら、時々手を止め、じっと見つめている時がしばしばあった。涙を流しているようにも見えた。二人の思い出に胸を詰まらせたのかも知れない。

 和机を整理している時、芳江が「あら」と小さな声を上げた。空木はどうかしたのか聞いた。

「通帳が出てきました。何のために作ったんでしょうね」

 芳江は、空木に見ても構わないという風に手渡した。その通帳は七十七銀行の通帳で、記帳されていたのは、2008年5月の日付で一万円の入金のみであった。

「これは、口座を作った時の入金金額だけですね。私も仙台に赴任当時、水道料の払い込みだけは地元の銀行に振り込まなければならなくて、口座をこの銀行で作ったことがありますよ。恐らく、あとはカードで済んでいたんでしょうね。残額を確認する必要があるでしょうから、東京に戻ったら支店を探して記帳しましょう。どこかとお金のやり取りもあるかも知れませんし」

「私、主人がどんなお金のやり取りをしていたかなんて興味ありません」

「でも奥さん、お金のやり取りがあったとして、その相手次第では犯人の手掛かりに繋がるかも知れないですよ」

「‥‥‥空木さんにお任せします」

  寝室、浴室と整理し終わった頃、昼を回っていた。空木には空腹になるとイライラする癖があった。

 「奥さん、お昼ご飯にしませんか」

「もうちょっとで終わりますから、もう少し頑張りましょう」

「奥さん、ひつまぶしって御存知ですか。うなぎの蒲焼なんですが、三つの食べ方が楽しめて、名古屋の名物ですけど、これは美味いんですよ」

 空木は腹が鳴った。名古屋名物の中でもこれが一番美味いと空木は思っていた。

 「テレビでは見たことはありますけど、食べたことはありません」芳江は片付けながら答えた。

 午後一時を回った頃、芳江が腰を上げ「大体終わりましたね、食事にしましょうか」と言った。マンションを出た二人は、タクシーを拾った。

「熱田の蓬莱軒本店までお願いします」と、空木は運転手に行く先を告げた。

「空木さん、やっぱり名古屋は良く御存知でいらっしゃるのですね」

芳江が嬉しそうだった。

「いやいや、今からいく所は有名で誰でも知っています」

言いながら空木は携帯電話で予約を入れた。

 熱田蓬莱軒についた二人は、格子戸を開け店に入った。座敷のテーブルに座るとひつまぶしを注文した。一善目はそのまま、二膳目は薬味をのせる。三膳目はだし汁をかけてお茶漬け風に食べる。

「美味しかった。こんなにたくさん食べたのは初めてかも知れません」

芳江は言った。

「それは良かったです。ところで奥さん、これからどうされますか。御主人の部屋に戻りますか」

「いえ、片付けは終わりましたから、一度ホテルに戻って、着替えてから主人の会社にご挨拶と、荷物の引き取りに行こうと思います」

「ああ、そうですね、会社の荷物というか、私物があるんですね。もし、差支えがないようなら、私もご一緒させていただけませんか」

「空木さんが宜しかったらどうぞ」

食事を終えた二人は、全日空ホテルに向かった。


 ホテルから出てきた芳江は、Gパン姿から、水色の半袖のワンピースに着替えていた。

 東亜製薬名古屋支店は、テレビ塔近くの大通りに面したオフィス街にあった。タクシーを降りた空木はどこかで見た風景だと感じた。

 東亜製薬は、二十五階建てのビルの十階と十一階にあった。二人はエレベーターで上がり、受付のインターフォン越しに来社を告げた。ドアが開き、中から見覚えのある顔が出てきた。塩野と梅田だった。

空木と芳江は応接室に通された。お茶が運ばれ、すぐに支店長の篠村が入ってきた。篠村は、芳江に改めてお悔やみを述べ、浅見豊の机の中は、一応こちらで整理させてもらったことを説明した。会社の機密事項の漏出を防ぐためでもあると思われた。さらに、篠村は芳江に、先日、刑事が来て浅見豊のデスクの中にあった名刺ホルダーの中から何枚かをコピーして行ったことも話した。

 応接室を出た二人はフロアーに案内された。左側の机の列の一番奥に、花束が生けられた花瓶が置かれていた。浅見豊のデスクだった。

 私物は僅かで、文房具、名刺ホルダー、そして社内で撮られたと思われる数枚の写真であった。芳江は丁寧に挨拶し頭を下げた。フロアーにいた社員全員も立ち上がり、芳江に向かって深々と頭を下げた。

 二人は東亜製薬の名古屋支店を出た。時間は午後三時を過ぎていた。梅雨の中休みなのか、陽射しが強く、大通りの真ん中にある公園の樹木の葉が暑そうに煌(きらめ)いていた。

「奥さんお疲れでしょう。ホテルに戻ってお休みになられたらいかがですか」

空木は、芳江が心身ともに疲れているだろうと思った。

「はい、少し疲れました。そうさせていただきます」

 空木は金山の全日空ホテルに芳江を送り、夕方には迎えに来ることを約し、駅前のホテルに戻った。


 夕刻の六時過ぎ、空木は、芳江を千種駅の近くの、味噌御田(おでん)つる軒という食べ物屋に案内した。

「奥さんの口に合うかどうか分かりませんが、ここも名古屋の名物の味噌おでんを食べさせる名物店です。予約も取りにくい店ですけど、今日は運よく取れました。話の種に一度食べて見て下さい」

空木は、芳江の気持ちが少しでも、不幸な事件から遠退く様に、精一杯の気遣いであった。

「空木さん、本当にありがとうございます。私のようなおばちゃんに付き合って名古屋まで来ていただいた上に、こんなにお気遣いしていただいて」

芳江は丁寧にお辞儀をして礼を言った。

 二人はビールを注文し、赤黒い八丁味噌が入っただし汁に、たっぷりと漬かったおでんを食べた。

しばらくして、空木は一枚の写真をゆっくりと芳江に見せた。

「奥さん、この写真を見て下さい」

 それは、空木が尾行を依頼された時に、同封されていた写真だった。

 「あ、主人。それに今日行った会社の辺りのように見えます。どこでこの写真を」

「これは、ある人から渡された物です。ある人というのは仲内和美と名乗る人なのですが、どこの誰か全く分かりません。私はこの写真の男性、つまり御主人を尾行するように依頼を受けました。でも、結果的に尾行したのは御主人ではありませんでした。御主人はあの廃屋に遺体となって置かれていました」

 空木はここで言うべきことではなかったかと思い、芳江の顔付きを窺った。

 芳江は写真を空木に返した。

 「誰が主人の後をつけるように頼んだんでしょうか。主人を恨んでいた方がいたということですね」

 冷静に静かに話す芳江の言葉に、動揺は感じられなかった。

 「ご主人が恨まれていたかどうか分かりませんが、何も理由なしにこっそり写真を撮って、尾行を依頼することは、普通はないと思います。それと、尾行の依頼人が誰なのかは全く分かりません。今のところ、男女さえも分かっていません。ただ、その依頼人がこの名古屋で、ご主人の写真をこっそり撮った可能性は高いと思います。ご主人の殺害に依頼人が関わっているのは間違いないと思います」

 空木と芳江が店を出た頃、名古屋の空はやっと暗くなった。

 翌日、荷物を東京に送り、二人は東京へ戻った。



『同期』


 湖東警察署では、事件発生から二週間が経ち、三回目の捜査会議が開かれた。会議では、聞き込みによる、新たな情報の報告がされた。

 死体が発見された日の前夜遅く、醒ヶ井さめがいの駅付近から乗客を乗せたというタクシーが見つかった。そのタクシーは彦根にあるタクシー会社で湖東タクシーといい、運転手は高柳という運転手だった。

 高柳によれば、深夜一時頃、迎車の依頼が入り、醒ヶ井の駅付近から大垣の駅近くのビジネスホテルまで乗せた。その客は、深夜にも関わらず色付き眼鏡をかけ帽子を被ったままだった。行き先を言った後は、話しかけても全く話はしなかった。大垣のホテルには深夜二時頃着いた。

 さらにそのホテルでの聞き込みでは、その男は、午後四時頃チェックインした、藤田勇二という客ではないか、ということだった。その男は、チェックインの際はザックを持ち、一時間ほどして、ルームキーはフロントに預けずに持ったまま出かけた。その際、帰りは深夜になるが、ホテルの玄関ドアは開いているかと確認していたこと、色付き眼鏡と帽子を被っていたのが特徴的だったことで、フロントの係員はよく覚えていた。

 車については、車で来たのか確認した際に、車はここには置かないとのことでナンバーは聞かなかったが、黒っぽい車で出かけたように思うとのことだった。

 夜、何時に戻ったか分からないが、朝は登山姿で午前七時半ごろチェックアウトした。

この男がチェックインの際に記入した電話番号は使われておらず、また記載された住所の、東京都千代田区四番町七を管轄の麹町署に当たってもらったが、該当するマンションも藤田勇二という男も存在していなかった。

 この聞き込みから、重要容疑者である色付き眼鏡の帽子の男は、名古屋の登山用具店でザック他を購入した後、大垣のホテルにチェックインした。そしてここから名古屋に戻り、浅見豊を殺害したと、推測された。

 そして殺害後、深夜、車で死体をあの廃屋まで運んだ。死体を置いた後は、歩いて醒ヶ井駅付近まで行き、呼んだタクシーで大垣のホテルまで戻った。車は登山口周辺の林道に停め、翌日の逃走用に置いて行った。

 そして翌日、大垣駅から柏原駅に向かい、霊仙山に登り、空木健介の尾行のターゲットになった。空木健介に死体を発見させた後は、置いていた車で逃走した。こういう足取りが考えられると報告された。

 次に、湯の山温泉の単独男性の宿泊客の洗い出しについては、当該の二百三名の宿泊客全ての宿泊名簿から、確認作業を急いでいるが、不在の人も多く、全ての所在確認は取れていない。所轄の協力も得ながら確認を急ぐと報告された。

 被害者の怨恨の線の調査について、金銭、女性、社内それぞれについての聞き込みが報告された。

 金銭関係については、目下のところ社内社外での怨恨に繋がるような情報はなかった。

 社内の人間関係についても、東亜製薬名古屋支店の社員を中心とした聞き取りが行われ、被害者の仙台支店在籍時のことは分からなかったが、何かがあって社内で口止めされている可能性も考えられ、状況次第では仙台での聞き取りが必要になるかも知れない、と報告された。

 女性関係に関する調査で新たな報告がされた。浅見豊の会社にあった名刺ホルダーから飲食店を当たった結果、被害者と親しくしていたと思われる女性が浮かんだ。それは、名古屋の繁華街である錦のスナック『優』のママで中島優子と言い、浅見豊が殺害される一週間前に千種のマンションの部屋に入った、とのことであった。

 中島優子によれば、浅見豊とは親しい関係ではなく、今まで何回も部屋に寄るようにしつこく誘われていた。その夜も、浅見は閉店までお店に居て、しつこく誘われ、寄るだけということで初めて部屋に入った。そして、浅見が風呂に入っている間に部屋を出た、ということであった。中島優子の毛髪と、部屋から採取された毛髪は、同一の物と確認された。

 最後に、「仲内」姓の調査状況について報告された。それによると確認されているだけで、全国で二百四十九世帯の仲内姓がある。全国の警察が各所轄で調査協力してくれている。この滋賀県でも三軒が該当したが、いずれも事件に関係しそうな情報はなかった。和美、好美の名前が、実在するかどうかも分からない中での調査だけに、大きな期待は出来ない。また、時間も掛かるだろうと報告された。

 捜査は少しずつ進展しているものの、犯人に直接結びつくような情報、犯行に繋がる動機の手掛かりなどは浮かんでこなかった。 

 捜査会議で出された意見は、被害者の仙台支店時代のことを詳しく調べる必要があること。そして、空木に尾行を依頼した理由がどうしても疑問として残る。空木を巻き込むことが目的だったとしたら、やはり空木健介の周辺、人間関係に手掛かりがあるのではないか、という意見も出されたが、設置から二週間近くが経過した捜査本部の人数は、今後縮小することもあり、積極的な捜査は見送られた。

 

 名古屋から戻った空木は、東京駅で浅見芳江と別れ、七十七銀行へ向かった。

 七十七銀行の東京支店は、予め新幹線の車中でその所在地は調べておいた。七十七銀行東京支店は、地下鉄の東銀座駅から二、三分の所にあった。

 空木は、ATMで芳江から預かった通帳に記帳した。予想した通り、水道料の振込みに使われた口座、通帳だった。半年に一度入金され、二ヶ月に一度の割で三千円弱の金額が引かれていた。残額は僅かな通帳であったが、その中で最後の入出金が目を引いた。それは昨年十二月に五十万の入金、今年一月に同額の出金が記帳されていた。入金先はトウアセイヤクカブとあった。

 記帳を終えた空木が、自宅マンションの部屋に戻ったのは午後五時をまわった頃だった。

空木は、浅見芳江の家に電話をした。芳江は帰宅していた。空木は、明日通帳を返しに伺いたいが都合はどうか聞いた。芳江は午後なら在宅ということだった。

 芳江への電話の後、空木は万永製薬入社同期だった村西の携帯に電話を入れた。この時間帯は、製薬会社の営業職であるMRの最も忙しい時で、携帯は留守電となった。空木は、時間が空いたら電話が欲しい旨の伝言を入れておいた。

 石山田に電話をした。石山田は、今日は時間が空かない、ということだった。やはり一番ヒマな人間は自分だと空木は思った。石山田は湖東警察からの情報として、浅見豊のマンションで採取された毛髪が誰の物か判ったこと。色眼鏡に帽子の男の、前日の足取りが見えてきたこと、などの連絡があったことを話した。

 空木は、名古屋に行って、わかったことを石山田に伝えた。依頼の写真は、東亜製薬の名古屋支店の前で撮った写真で、大通りの公園側から撮られた物であること。浅見豊のマンションから通帳が見つかったこと。通帳を記帳したところ、そのほとんどは水道料の引き落しに使われていたが、直近の一件だけ、五十万の入出金があり、それは昨年の十二月から今年の一月にかけてのものだったこと。

 石山田は、この情報は湖東警察の大林に伝えておくと言った。石山田は最後に、やはり空木健介の周囲の人間関係を洗うことが、犯人の手掛かりを掴むことに繋がるという意見も、湖東警察の捜査会議で出たということを空木に伝えた。

 石山田との電話中に、電話が入っていた。同期の村西からの折り返しの電話だった。今度は、空木が折り返しの電話を入れた。村西が出た。

 村西とは三月の末から会っていないが、万永製薬に入社以来の親友である。要件を掻い摘んで話し、明日にでも会えないか聞いた。村西は、明日の土曜なら空いているということであった。六時に新宿で待ち合わせる約束をして電話を切った。


 翌日の土曜日は、今にも雨が降り出しそうな、どんよりとした灰色の雲に覆われていた。

空木は、朝食のロールパン、目玉焼き、ハムを食べ、愛車の50ccのバイクで、久し振りに体育センターに出かけ、トレーニング室で汗を流した。ここしばらく、アルコール摂取量がさほど多くはなかったせいか、三キロのランニングも、百五十ワット負荷のバイク漕ぎもさほど苦しくはなかった。ウェイトトレーニングを終え、心地良い汗と心地良い筋肉の張りを感じながら、シャワーを浴びた。

 独身の空木は、ジャンクフード、ファストフードは食べ慣れているが、中でもココイチのカレーは大好物である。パリパリチキンカレーで腹を満たし、浅見宅へ向かった。

 浅見芳江は、クリーム色のコットンパンツと、水色の半袖のポロシャツ姿で、年齢より若く見えた。

芳江は、空木に名古屋での礼を述べ、応接ソファーに招き、コーヒーミルで豆を挽いてコーヒーを入れた。

 「ひつまぶしも味噌おでんも美味しかったけど、新幹線の名古屋駅のホームで食べたきしめんが一番美味しかったわ」芳江は嬉しそうに言った。

 空木は、名古屋からの帰り、どうしても駅ホームの、立ち食いのきしめんが食べたかった。芳江には申し訳ないと思いつつ、付きあわせてしまうことになったのだった。そのきしめんが美味しかったと芳江は言っていた。

 「いや、あんなお昼ご飯になってしまって、奥さんには申し訳ありませんでした。失礼とは思いましたが、何事も経験というつもりでお誘いしてしまいました。新幹線の名古屋駅のホームのきしめんは、サラリーマンの間では評判なんです」

 「本当においしかった」芳江は笑った。

 空木は、コーヒーカップをテーブルに置き、預かっていた七十七銀行の通帳をテーブルに置いた。

 「通帳、お返しします。私の予想通り、水道料の払い込みのための口座でした。ただ、見ていただければ判る通り、一回だけそれとは違うお金の入出金がありました。奥さんは御存知ありませんでしたか」

 空木は、記帳された通帳を芳江の方に押しやった。

 「知りませんでした」芳江は答えながら、手に取った通帳をめくった。

 「昨年の十二月に五十万ですか‥‥。この日は確か主人の会社の賞与の支給日だったと思います。それで‥‥」

 芳江は何かに合点したようだった。少し待って欲しいと言ってソファーを立ち、しばらくして戻ってきた。

 「やはり賞与の支給日でした。主人は賞与の一部がこの口座に入るように会社に指定したようです。何のためか分かりませんが、確か私が夏より随分少ないのね、と言ったら、成績が悪かったから、と言っていたことを覚えています」

芳江は七十七銀行の通帳を見ながら言った。

「翌月にすぐに引き出していますね。何に使ったんですかね」

「主人は買い物をする時はほとんどカードでしていたはずですから、現金で五十万というのは私には思い当たりません」

 空木は、浅見豊は誰かに借金していたか、女性に貢いだか、ではないかと考えたが、芳江には聞けなかった。名古屋のマンションから採取された毛髪の主が判ったことも、空木は芳江には伝えるのを止めた。芳江もそれについて聞きはしなかった。

 空木は長居を詫びてソファーを立った。玄関まで送りに出た芳江は、空木に少し厚めの白い封筒を手渡した。

 「空木さんには、本当に何と言ってお礼を言って良いのか言葉がありません。中にお礼の手紙を入れてあります。後でお読みください」そう言って芳江は深々と頭を下げた。

 外は小雨が降り始めていた。空木はマンションのエントランスで白い封筒を開けた。中には便箋とともに、かなりの枚数の一万円札が入っていた。その便箋にはこう書かれていた。


 空木健介様

 前略

 名古屋では、マンションの後片付けから荷物を送り出すまで、そして主人の会社への御挨拶もご一緒いただいたこと、その上、大変美味しく、そして珍しいお食事にもお誘いいただいたこと、本当にありがとうございました。心からお礼申し上げます。

 主人を亡くして十日も経たない中、一人で見知らぬ所へ行くのは心細い限りでしたが、空木さんのお陰で無事、所用を片付けることが出来ました。そして、空木さんのお心遣いには、涙が出るほど嬉しく、主人が亡くなったことも一瞬忘れてしまうほどでした。

 主人が亡くなり、息子と二人だけの生活になりますが、息子のため、そして私自身のために強く生きて行こうと思っています。

 同封したお金は、空木さんに名古屋で散財させてしまったお金の、幾何(いくばく)かにしていただければ幸いです。それと、探偵の空木さんへの依頼料が含まれています。それは、主人が仙台に赴任当時、何があったのか調査していただきたいのです。主人は仙台が初めての単身赴任でした。赴任して一年程経った頃から、帰ってくる回数が減り、私との関係も冷えました。私は女性が出来たのでは、と思いましたが、問い詰めることもしませんでした。もしも、その事が今回の事に繋がっているとしたら、あの時、問い詰めていればこんな事にはならなかったかも知れない、と思い始めています。どうか調べていただき、本当の事を教えていただきますようお願い致します。

 またお会いできる日を楽しみにしております。

 梅雨空が続く毎日、どうぞお体に気を付けてお過ごし下さいませ。

かしこ

                       浅見芳江


 空木はフーッと息を吐き、封筒をポケットにしまった。


 小雨が降る中、空木は中央線に乗り、村西と待ち合わせの新宿へ向かっていた。土曜日の中央線は比較的空いていた。

 車中で空木は、浅見芳江の手紙を思い返した。浅見豊の仙台での生活で起こったこととは何か。芳江の手紙は一昨年から様子が変わった。女性が出来たのでは、と書かれている。

 東亜製薬の名古屋支店の社員たちは、仙台のことは敢えて知らないと、言っているようだ。通帳に記帳された五十万と関連しているのだろうか。もしかしたら、女性関係のもつれから誰かに脅されていた。それで五十万が必要となった。しかし、それで支払ったとしたら、何故殺されなければいけなかったのか、犯人にすれば金づるになる人間を殺す理由は何か。

 こんな事を探偵見習いのような自分が調べられるのだろうか。

 しかし、芳江は何故、今になって女性がいたかも知れないと、自分に知らせたのか、しかも手紙で。湖東警察の大林にも、石山田にも言う機会はあったのにと思った時に、電車は新宿駅に着いた。


 空木が、待ち合わせの新宿プリンスホテルのロビーに着いた時には、村西は既に待っていた。二人は軽く手を挙げ「おーっ」と合図ともうめき声ともつかない挨拶をした。

 二人が新宿で飲む時は、ここから程近い歌舞伎町の小料理屋と決まっている。二軒目は、職安通り方面に五、六分歩いたところのビルの四階にあるスナックだ。

 村西良太、四十三歳、空木とは万永製薬の同期入社だが、村西は一浪しているため、年齢は空木より一つ上だった。アルコールは滅法強く、所謂ザルである。二人は昇給、昇格もほぼ同じだったこともあって、お互いに良き相談相手だった。

 空木が三月に退職する際に村西が必死に止めたのも、多分にそういったことから来る寂しさからだった。空木も、村西を残して辞めることに心の痛みはあった。

 しかし、昇給、昇格、保身のために人脈にしがみついたり、仮面をいくつも被っている先輩、上司を見ていると、会社という組織の中で、自分自身の歩いて行く道に不安を感じない訳にはいかなかった。

 村西からは、そんな会社を俺たちで変えようと説得されたが、空木は一度、門外漢となって客観的に自分を見つめてみたかった。謂わば、サラリーマン失格なのだが、空木自身はサラリーマン、特にMR職は好きであった。

 そんな村西との三月以来の一献であった。

 空木は、帝都薬科大卒の繋がりで、東亜製薬の事を知りたいと思うようになった経緯を、順を追って村西に説明した。

 「そんな事に巻き込まれていたんか、空木、探偵業も楽やないな」

 村西の生まれは奈良だった。関西弁を敢えて使っている訳ではないが、べったりの関西弁を減らす意思も全くない男だった。

 「お前からの電話で、東亜製薬に誰かいないか名簿を繰りながら思い出そうとしたけど、内緒で内情を話してくれるような友達は思い当たらん。東亜製薬へ行く連中は真面目な奴が多いし、俺ははみ出しもんやったからな。おらんわ」

 村西は、酒の肴の島らっきょうを摘まみながら、ビールを飲み干した。

 「やっぱりそうか。無理かも知れないと思っていたけどな」

 空木もビールを飲み、北寄貝の醤油焼きを摘まんだ。

 村西は、カバンから名簿のコピーを出し、空木に渡した。それは帝都薬科大の同窓会名簿のコピーで、村西の学年の前後三年間ずつ、合計七年間分だった。そこには、現住所、現在の勤務先も記載されていた。病院勤務、薬局経営、薬局勤務そして製薬会社勤務もかなりあった。東亜製薬も毎年五、六人はいた。

 空木が名簿を見ていた時、村西が思い出したように言った。

 「そう言えば、四月だったか五月だったか忘れたけど、後輩で東亜製薬に勤めておる奴から電話が架かってきて、お前のことを聞かれたぞ」

「えっ俺のこと。それは誰、この名簿に載ってるのか」

「載ってるはずだ。大学で俺を知っていたと言ってたから。‥‥確か名前は伊村だ」

「突然電話してきたのか」

「突然と言えば突然やけど、名古屋で何年間か俺と一緒の病院を担当していたことがあって、その縁で俺に聞きたい事があって電話してきたみたいだ」

「それで俺の何を聞いてきた」

「スカイツリー万(よろず)相談探偵事務所という名前をホームページで見たが、あれは村西さんと一緒の会社にいた、空木さんが開いた事務所かって聞くから、そうやと答えた。どうかしたのか聞くと、自分も会社を辞めたので、空木さんは自分の事を覚えてはいないだろうが、自分は良く覚えている。機会があったら会ってみたいって言ってた。空木お前、こいつと仙台で一緒の時期があったんやないか」

「仙台で一緒の時期か。俺が札幌へ転勤する直前かな。東亜製薬の伊村、覚えが無いよ」

 空木は、村西から渡された名簿を捲って、伊村という名前を探した。

 「あった、伊村政人。住所は仙台市泉区だ。この名簿はいつ頃の名簿だ」

「何年か前の物だ。伊村は名簿からすると学年で俺の三つ下。年はストレートだとしたら三十九だな。それと伊村が、お前とは名古屋でも一緒の時期があったって言ってたぞ。まあ、担当地区が違ったら顔を合わせることはないから、親しくなることはないやろうけどな」

「名古屋でも重なってたのか。村西、この伊村君に連絡は取れないか。仙台支店で起こった事を知ってるかも知れない」

「残念ながら、無理やな。俺の家に架かってきた電話だし、電話番号の履歴は残っていない。それに会社を辞めたらしいから、名簿に載ってる仙台の住所にはもう居れへんやろ」

 そう言うと村西は、空木に焼酎を注文しておいてくれと言って、トイレに立った。空木は焼酎と島らっきょうと本鮪の刺身を追加で注文した。空木は心の中で、浅見芳江に調査の着手料の礼を言った。

 空木は、初めて聞く伊村政人という名前を思い出そうとしたが、思い出すことは出来なかった。自分に記憶がなくて、相手だけがしっかり覚えているというのは、気持ちの良いものではない。近いうちに、辞めた万永製薬の仙台の後輩に聞いてみようと思った。

 焼酎と追加注文の品が運ばれてくるのと同じに、村西が戻った。

「おー。百年の孤独かよ。高い焼酎頼んだな」

「大丈夫、この焼酎分だけは俺が奢(おご)るよ」

二人は、らっきょうの匂いをぷんぷんさせながら、香ばしい麦の香りの琥珀色に輝く焼酎を飲んだ。

 ここ居酒屋での締めは焼きお握りだ。味噌を塗った焼きお握りは美味かった。

 スナックの先客は、商店主らしい二人連れだけで空いていた。サラリーマンが休みの土曜日はこの辺りの飲み屋は暇なのだろうと空木は思った。

 空木と村西はウイスキーの水割りを飲み始めた。

 「伊村という後輩は、何故俺のことを覚えていたのかな。俺は名古屋時代はもちろん、仙台時代も全く記憶にない」空木は手にしたウィスキーグラスを見ながら言った。

「何回会っても、覚えて欲しい人は中々覚えてくれへん。たった一回会っただけでも生涯記憶に残る人もおる。顔は思い出せなくてもその人の言葉ははっきり覚えている。そんなことってあるからな」

村西は煙草を燻(くゆ)らせた。

「嫌なことで記憶に残っているのかな」

「それはないやろ。それだったら機会があったら会いたいとは言わんやろう。殺したいくらい憎んでいたら、居場所を教えてくれと言うだろうし、お前さんの住所はホームページで分かってるよ。伊村は余程お前のことを良い人だと思っているんやないか」

「だとすると、俺が覚えていないというのは随分失礼な話になるな」

「その通りだ。空木、お前会わないほうが良いかも知れんな。良いイメージが台無しになるぞ」そう言って村西は笑った。

 いつの間にか日付が替わっていた。



『杜の都の匂い』


 翌日の日曜日も予報通りの雨だった。

 空木と石山田は居酒屋「さかり屋」でいつもの通り、イカの一夜干し、エイひれ、ニラレバ炒めを肴に芋焼酎を飲んでいた。

 空木は石山田に、浅見豊の名古屋のマンションから見つかった通帳の事を話した。

 「浅見は五十万は何に使ったと思う。俺は女絡みではないかと思う。不倫を脅されていたか、女に貢いでいたか。巌ちゃんはどう思う」

「その辺りが臭いな。物を買う時はほとんどカードを使う男が、現金で五十万支払うというのだから、怪しい使い方だ。あと考えられるのは、女絡みかも知れないが借りていた金を返す、借金返済だ」

「借金だったら芳江に言うんじゃないか」

「カミさんには言えない中身ということさ。いずれにしても事件に関係している可能性はある。湖東警察署も興味を持っているよ」

 石山田はそう言って湖東警察署の捜査本部の動きを話した。

 東亜製薬では賞与の振込口座の分割制度があって、昨年の冬の賞与では、浅見豊はこの制度を使っていた。何故かは分からないが初めて使ったようであること。スナック『優』のママ、中島優子にも浅見と借金を含め、金銭、物品のやり取りが一月になかったかを聞いたが、全く身に覚えはないし、浅見豊は付けで飲むようなことはしなかったと言っていることを石山田は話した。

 空木は石山田の話を聞くと。

 「巌ちゃん、名古屋のそのスナックのママに会いに行かないか」と、思いついたように言った。

「何で俺が名古屋まで行くのさ。健ちゃんだってそこまでする必要はないよ。いくら事件に巻き込まれて悔しいって言ってもさ」

「いや、巌ちゃん実はね、俺、浅見芳江に調査依頼されたんだ。浅見豊は仙台時代に女性関係があった筈だ。それが事件に関わっているんじゃないかと。だからそれを調べてほしいって言うんだ」

 空木は煙草に火をつけた。

「それは初耳だ。女の感は確かだからね。でも、今までそんな事全然言わなかった芳江が、何で健ちゃんにそんな事言ったんだ。もしかしたら健ちゃん名古屋で何かあったか」

石山田はニヤニヤしながら言った。

「バカな事言うなよ。未亡人になったばかりの傷心の、それも年上の女性にそんな気が起きる訳がないよ」

「まあ、そうムキになるなって。しかし、そのママに会って浅見豊の仙台時代の話が聞けるかどうかは分からないよ。湖東警察だってその辺は承知の筈だ」

「そうかも知れない。でも浅見豊の仙台時代の友人として、客として行ったら、何か聞き出せるかも知れないよ」

 空木は焼酎を飲み干した。


 翌日、朝から降っていた雨が、午後になって上がった。

 空木は、名古屋に向かう新幹線に乗っていた。午前中に浅見芳江に連絡して名古屋のスナック『優』の名刺で住所を確認していた。

 名古屋に着いたのは、夕刻六時過ぎだった。駅前のホテルにチェックインした後、地下鉄に乗り栄で降りた。時間潰しに、登山用品を扱うイシダスポーツに行くことにした。イシダスポーツは、色付き眼鏡に帽子の男、つまり空木が霊仙山で尾行した男が、服、ザック、そしてロープを購入した店だった。

 空木は、登山用具、小物を見るのが好きだった。灰皿、ライター、ナイフ、食器、カラビナからコッヘルや小物まで、一時間ぐらいはあっという間に経ってしまう。

 ザイル、ロープ売り場の前に来た。紐のような3ミリザイルから太い20ミリザイルまで、色もカラフルだ。空木はその男は、どんな思いでこのロープ売り場の前に立ったのだろうと考えた。その男は、10ミリザイルを購入したという。購入したその十時間後位には、それで浅見豊を絞め殺している。どんな憎しみ、恨みがあったのか。空木には狂気としか思えなかった。犯人がどんな理由を並べようが、精一杯生きている人間の命を絶つことは、絶対に許されることではない。

 イシダスポーツを出た空木は、栄通りから錦通りに向かって歩いた。腹ごしらえをしてからスナック『優』を探すことにした。スナック『優』の住所は、錦三丁目アミューズビル8Fとなっていた。錦のスナックは山ほどある。探すのは容易ではないのは判っていた。

 空木は、錦にカレーショップのココイチがあるのを知っていた。ココイチはここ愛知県が発祥の地である。ココイチでビールを飲み、シーフードカレーで腹を満たした。

 午後の八時を回り、錦の街もネオンに彩られ活気付いていた。空木は小一時間歩いただろうか、やっとアミューズビルの看板を見つけた。その八階にスナック『優』の看板があった。

 店はボックス席が二つ、カウンター席が十席とこじんまりした、落ち着いた雰囲気の店だった。

 店は時間がまだ早いせいか、客は誰もいなかった。

 「いらっしゃいませ」

女性二人が声を上げた。

空木はカウンター席の左端に座り、ウイスキーの水割りを頼んだ。

「お客様、ここには初めてでいらっしゃいますね」

長身の年上と思える方の女性が声を掛けた。

「ええ、初めてです。昔、三年間程名古屋に住んだことはあるんですけど、この店は来たことはなかった。いい雰囲気のお店ですね」

空木は店内を見回しながら言った。

「ありがとうございます。中島優子と申します。この店のママをしております」

空木の前に名刺を出した。

 中島優子は、長身で色は白く日本美人だった。今日は和服ではないが、着物が良く似合いそうだと空木は思った。

 「お店の名前はママの名前から取ったんですね」

空木は白々しく言った。

「そうなんです。私の名前の一字を取りました。でもお客様に『優』を選んでいただいたのは、どなたかの御紹介ですか、それとも本当に偶々(たまたま)なのですか」

 優子は、水割りグラスをコースターとともに空木の前に置いた。

 「実は、浅見さんという方に以前紹介してもらったのですが、その方は最近亡くなってしまったんです。今日は仕事で名古屋に来たんですが、夜の時間が空いたので、浅見さんの供養のつもりでこの店を探して来ました」

 空木は精一杯考えた末の芝居をした。

 優子の顔が曇った。

 「浅見さんのお知り合いでいらしたんですか。浅見さんは酷(むご)いことになってしまいました。お客様は浅見さんとはどちらでお知り合いになられたのですか」

優子は空木のグラスを取りながら言った。

「知り合ったのは仙台です。会社は違いますが、同じ業界です。名古屋に来ることがあって、名古屋のスナックを教えて欲しいとお願いしたら、ここを教えてくれました」

 空木は新しく作られた水割りをぐいと飲んだ。

 「あら、仙台でのお知り合いなんですか。それで今日は仙台からお見えになったんですか」

「いえ、今は転勤して東京にいます」

「もし宜しかったら、お名刺頂戴してよろしいかしら」

「今日は生憎ホテルに名刺を置いてきてしまってすいません。空木健介と言います。空に木と書いて「うつぎ」と読みます」

 ここで探偵の名刺を出す訳にはいかなかった。

 「あらお珍しいお名前。空木様ですか。空木様、私もおビール頂戴しても宜しいでしょうか」

優子は甘えた声で言った。

「いいですよ。でもママ、様(さま)は止めてよ」

空木は言って、優子とグラスを重ねた。

 サラリーマン風の客が三人入ってきた。なじみ客の様だった。空木は東亜製薬の社員ではないかと聞き耳を立てたが、違うようだった。

 空木は、ウイスキーのキープボトルを入れることにした。ママの優子は喜んだ。

「空木さんありがとうございます。ゆっくりして行って下さいね」

優子は空木に新しい水割りを作った。

 また、サラリーマン風の客が二人入った。ほぼ同時に若い女の子が、ショルダーバックを提げて店に入ってきた。その子はカウンターの中に入り、バックを置くと空木の前に立った。

 「ユキです。宜しくね」と、いきなり空木の前のビールをコップに注ぎ、乾杯と言って一気に飲んだ。

「ユキちゃん、空木さんにちゃんとお断りしてから頂きなさい」

優子がそれを見て言った。

「あーごめんなさい。頂いちゃったけど、頂まーす。空木さん」

 今時の女の子だと空木は思った。

 「空木さんは、浅見さんの昔のお知り合いで、うちのお店にわざわざ来て頂いたのよ」

優子はユキに言った。

「そうなんですか。ママにモーレツアタックしていた浅見さんのお知り合いなんだ」

「ユキちゃん余分な事言わないの」

ユキは舌を出して首をすくめた。

 空木はサラミチーズを摘まみながら、水割りを三杯、四杯と飲んだ。

「空木さん、浅見さんの奥さんて、知ってますか」ユキが小さな声で聞いた。

「うん、知ってるけど、どうして」

「若いの?」

「いや、浅見さんより若いけど、四十半ば位かな。若いとは言わないな」

「そうなの。じゃあお嬢さんかな。お産の費用は、今はいくら位かなって私に聞いてきたことがあるの。奥さん妊娠したのって聞いたら、黙ってた」

「へーお産か。まさかママじゃないよね」

「いやだー、ママだったら大変。お店のお客さん来なくなっちゃう」

ユキは笑った。

 優子が空木の前に立った。ユキは他の客の前に立ち、ケラケラ声を上げて笑っている。

「浅見さんは名古屋でも女性と付き合っていたのかな。ママは知ってる」

空木は、何気ない振りをして優子に話しかけた。

「さあどうだったでしょう。仙台ではお盛んだったようですね」

「ママは浅見さんから仙台の話しを聞いたことあるの」

「はっきりとは分からないけど、出来ちゃったんじゃないかなって思ったの」

そう言って、お腹を手で触った。

「お産の費用だとか、養育費だとか言ってる時があったわ。奥様なのって聞いたら、違う違うって言ってたの」

「へえーそうなんだ」

空木は浅見芳江の感は当たっていると思った。

 四人の客が入り、ボックス席に座った。空木は名古屋に来た時は必ず来ると優子に言って店を出た。

 浅見豊は仙台に間違いなく親しい女性がいた。五十万はその女性に繋がっているのだろう。名古屋まで来た甲斐があったと空木は思った。



『月山(がっさん)への誘(いざな)い』


 東京の空は梅雨空が続いた。

 名古屋から戻った空木は、夏山登山に備えて連日体育センターのトレーニング室に通った。今年は七月末に、北海道のトムラウシ山を予定していた。

 東京に戻った三日後、トレーニング室から戻ると、郵便受けに白い封筒が入っていた。空木は何か嫌な予感がした。そして封筒を見て驚いた。差出人の名前は仲内好美とあった。仲内和美の時と同様、ワープロで書かれた名前だけで、住所はなかった。消印は仙台と押されていた。

 空木は急いで部屋に戻り封を開けた。これも事件の発端となった仲内和美の手紙同様ワープロで書かれた手紙だった。違うところは、和美の書体が明朝体なのに対し、この手紙は毛筆体だった。


 空木健介様

 突然のお手紙の非礼をお許しください。

私は、仲内好美と申します。既に空木様は仲内和美の名前はご記憶されていると思います。私は仲内和美の妹でございます。

 突然お手紙を差し上げましたのは、空木様にお会いして全てをお話したいと思ってのことでございます。それは、何故姉が空木様にご依頼したのか。何故あのような事が起こったのか。仙台で何があったのかを、その全てをお話したいのです。

 私は今、夏の一時だけ、山形の月山神社の巫女の仕事をしております。七月九日土曜日に、月山頂上にある神社に来ていただければ、全てをお話致します。お待ちしております。

 仲内好美


 空木は背筋に寒いものが走るのを感じると供に、動揺した。

 仲内和美の妹と名乗っての手紙だが、実名かどうかも判らない上、たとえ実在する名前だったとしても到底本人からの手紙とは思えない。仲内和美の名前で手紙を出してきた人間と同一の人間が出してきた手紙ではないだろうか。この手紙を出した人間が、本当に事件の全てを知っているとしても、何故、月山まで来いと言うのか、月山でなくては話せない理由があるのか、仙台でも東京でもいい筈だ。月山でまた、霊仙山と同じ様な事件が起こるのどろうか。何よりも、何故自分にこんなことを伝えて来るのか‥‥‥。

 空木は石山田に連絡し、夜いつもの店で会うことになった。


 居酒屋「さかり屋」で二人はいつもの酒の肴とビールのジョッキを前に置いていた。

 石山田は仲内好美からの手紙を見ながら言った。

 「健ちゃん何とも不可解な手紙だ。会って全てを話すというなら山でなくてもいい筈だ。住所も明らかにしない仲内好美とは一体何者なのか。実在するのか、本当にこの神社にいるのだろうか」

「いや、月山神社に確認したが、巫女などは置いていないそうだ。すぐにばれる嘘を書いているのも解せない」

「健ちゃんの推測通り、仲内和美の名前で送られて来た手紙と同じ人間が書いた物に間違いないだろう。この手紙はまるで挑戦状みたいだけど、直訴しているようにも読めるな」

「直訴か。そんな風にも読めるかな」

「何故、空木健介に依頼したかとか、仙台で起こった事とか、俺たちや大林刑事たちが知りたいと思っていることを推測して、全て話すということは、逆に知って欲しいと言っているようにも感じるよ」

 石山田は空木より冷静に見ているようだった。

 「確かに、仙台という地名が手紙に書かれているのは不思議だ。仙台で何かがあったと考えているのは、我々と捜査本部だけの筈だ。俺に尾行を依頼した理由もどうしても知りたい部分だ。しかし、この手紙を書いた人間が月山にいるとは思えない」

 今日の空木は中々アルコールが進まなかった。肴にもほとんど手を付けなかった。

 「ところで月山神社ってどこにあるんだ。月山の麓にあるのか」石山田は聞いた。

「いや、月山の頂上だよ。俺は仙台に居た頃二回登った。中宮からのルートだと八合目まで車で行くことが出来て、二時間位で頂上まで登れるが、山登りの連中は逆側の姥沢うばさわから登るのがほとんどだ」

 空木は思い出したかのようにジョッキを口にした。

 「巌ちゃん、俺、月山に行ってみようと思う」

「おいおいちょっと待てよ、誰が書いたか判らないけど、この手紙の主は絶対にいないぞ。居たらいたでそれは危ないよ。この前の霊仙山のような事が無いとは言えない。一人で行くのは無茶だ」

 空木の突然の月山行きに、石山田は自重するように言った。石山田がそう言うのも当然だった。

「俺もそうは思うけど、このままでは浅見芳江から依頼された調査も全然進まない。月山に行っても何も無いかも知れないけど、月山で話すと言っているんだから、何かのヒントが掴めるかも知れない。捜査も進展するかも知れない。それに久し振りに登山として月山に上ってもみたい。巌ちゃん一緒に行こう」

 空木はジョッキを飲み干した。

 「俺は行けないよ。うちの管轄のヤマならともかく、湖東警察署のヤマなんだから、縄張りを越えるのは警察の御法度だ。うちの課長も係長も許すはずはないよ。まあとにかく、あっちの捜査本部の大林刑事にこの事を連絡してどうするか相談するから、それまで一人で勝手に動くなよ」

 石山田はエイひれを摘まんで芋焼酎を飲んだ。

 「わかった。ところで向こうの捜査本部の方は何か進展があったのかな」

「さあ分からないが、今のところは何の連絡も無い。それも大林刑事に聞いてみる」

 空木はやっと調子が出てきたかのように、芋焼酎をロックで飲み始めた。


 翌日、朝一番で石山田は湖東警察署の大林に電話を入れた。

「えっ、空木さん宛てにまた手紙。それも仲内和美の妹を名乗る仲内好美の名前で。確か、仲内好美という名前は浅見豊の葬儀の時、香典にあった名前ですね」

 大林は石山田からの電話に驚いたが、冷静に仲内好美の名前を思い出していた。

 石山田は、空木が無駄に終わるかも知れないが、月山に行こうと考えていることを話し、一人で行かせるのは霊仙山の事もあり、何があるか分からないことから危険だと思うが、そちらとしては対応出来るか聞いた。

 大林は、捜査本部としても人を出したいが、捜査本部が縮小し、人が出せない状況であることを話し、そして言った。

 「石山田さん、また捜査協力をお願い出来ないでしょうか。そちらの課長さんと係長さんには、うちの課長から協力依頼の電話を入れてもらいますから、お忙しいでしょうが何とかお願いします」

 石山田は了解したことを大林に告げた。月山に行って見たいと思う気持ちが即応の返事となったが、課長が許すだろうかと思うと、一瞬間が空いた。

 「‥‥‥ところで、そちらの捜査状況はいかがですか」石山田は思い出したかのように訊いた。

 大林は、三週間以上経過したが、大きな進展がないとした上で、仲内姓の全国調査の報告が、警視庁始め、各道府県警から送られ、あと十数件を残すだけだが、和美、好美に該当する仲内姓は浮かんでこないこと。湯の山温泉の二百三名の単独男性宿泊客の洗い出しは、全員実名での宿泊であることが判った。ほぼ全ての該当者に直接確認を取っているが、東京の住所の二人の確認が残っていて、うち一人は海外出張中であることが判明しており、近々確認が取れそうだが、一人は所轄が何度か訪問してくれたが、不在で確認が取れない 状況となっている。この確認のためにもしかしたら東京に出張することになるかも知れないと話した。


 その日、空木がトレーニングを終え、部屋に戻ると、携帯電話が鳴った。石山田からだった。

 湖東警察署の大林と相談した結果、自分が一緒に月山に行くことになった、と石山田は言っていた。

 「向こうの課長から、うちの課長に捜査協力の依頼があって、俺が健ちゃんと一緒に月山に行くことになった。課長からは何でお前が行かなきゃならないのかと、ぶつぶつ文句を言われたよ」

 石山田の電話のその声は楽しそうだった。

 そして、湖東警察の捜査本部の捜査状況はあまり芳しくなく、仲内姓の全国調査の状況、湯の山温泉の単独男性宿泊客の所在確認の状況も空木に話した。

 「捜査は牛の歩み、というところなんだな。しかし、月山に巌ちゃんが一緒なら心強いよ。ホテル、レンタカー含めて、手配は俺がやるよ。大震災の影響がどれ位続いているか気掛かりだけど、来週の金曜出発で手配してみる。また、連絡する」

 空木は携帯を切った。

 夕方六時過ぎ、部屋を出た空木は「さかり屋」に向かって歩いた。

 西の空に浮かぶ雲がオレンジ色に輝いていた。梅雨前線が北上する傾向だと天気予報で報じていた。例年なら七月初旬は大雨の時期だが、今年は雨が少なく、ここしばらくは梅雨の中休みとなりそうだとも言っていた。

 空木はカウンターに座った。

 「空木さん今日は一人?」珍しく店主が聞いた。

「そう。土曜、日曜の夜は所帯持ちを誘うのは気が引けるしね」

「土曜の夜に一人でうちに来るっていうのも寂しいでしょ。空木さん良い人いないの」店主はニコニコしながら言った。

「ああ、いないよ。そんな事どうでもいいからさ、早くいつもの肴とビール出してよ」

 空木も良い女性がいれば、一緒に食事もしたいし、酒も飲みたいと思う。しかし、四十二歳ともなると恋愛だ、結婚だというのは面倒くさいと思うのが先に来る。

 「空木さん幾つになるの」

 店主はビールのジョッキをカウンターに置いた。

 「俺は四十二歳、九月には四十三だよ」

「後厄ですか、まだまだ若いですね。今度、うちの店に女の子が来てくれるんですよ。少し空木さんより若いですけどね」

「へぇ、この小汚い店に女の子ですか。それは楽しみだ」

 空木はジョッキのビールを、喉を鳴らしながら飲んだ。

 空木は、もうすぐ後厄も終わるのかと思いながら、自分も関わることになってしまったこの事件は、厄災なのだろうかと考えた。

 万永製薬を退職し、探偵業の看板を出した。猫探し、病院の付き添い各々一件の仕事しかこなかった新米探偵に、思わぬ仕事が舞い込んだ。喜んで引き受けた仕事が、とんでもない事件の始まりだった。

 湖東警察署の捜査本部も懸命に捜査しているが、まだ犯人の糸口も掴めていないようだ。何故、自分に尾行の依頼が来たのかが判れば、それが犯人に繋がる可能性は高い。

 浅見芳江からの依頼は、仕事として果たさなければならないが、自分に直接降りかかった尾行の仕事が、何故自分に依頼されたのか、これは何としても調べなくてはならない。

 それともう一つ、気になるのが仙台だ。浅見豊が勤務し何かが起こった仙台。仲内好美の名前で送られて来た手紙の消印の仙台。と思った時、空木はもう一つの仙台を思い出した。

 万永製薬同期の村西の後輩も、確か仙台に関係があって、俺の事を電話で聞いていたと言っていた。確認しようとしてすっかり忘れていた事を、今思い出した。確か伊村という名前だった。

「親父さん、電話させてもらうよ」

 空木は携帯電話を取り出した。

 電話の相手は杉谷一行と言って、空木の万永製薬仙台支店在籍時代の後輩だった。

 空木は、東亜製薬の仙台支店に、今年の三月まで在籍していたと思われる伊村という男を知っているか、杉谷に聞いた。

 杉谷は、親しくはしていないが、同い年だったこともあって知っていると答えた。今、どこにいるかは全く知らなかったが、東京に転勤すると言っていたと思う。辞めたことは知らなかった、と言った。

 空木と伊村が、仙台で住んだ時期が重なっていたかどうかについては、杉谷は、時期は一年位重なっていたかも知れないが、担当病院が違った筈だから、空木さんは知らないのではないか、と答えた。

 空木は、突然の電話を詫び、近いうちに仙台へ行くかも知れないが、その時は宜しくと言って携帯電話を切った。

 月山登山が終わったら仙台へ行こうと思った時、後ろから聞き覚えのある声が聞こえた。

 「お待たせしました」

 石山田だった。

 「家で家族団欒じゃなかったのか。一人でゆっくり飲もうと思っていたのに」

 空木はもう芋焼酎を飲んでいた。

 「夕飯は食べてきた。月山登山の打合せということで出てきたよ。さあ、打合せだ」

 石山田は芋焼酎をロックで飲み始めた。


 東京は天気予報通り晴天が続いた。連日三十度を超える真夏日となり、梅雨の中休みどころか梅雨が明けたのかと思わせる日々が続いた。

 空木は、東京生まれの東京育ちだが、東北、北海道の暮らしがこの七、八年続いたせいか暑さには弱くなっているようだった。

 昼の十二時半に石山田と国立駅で待ち合わせた。二時過ぎの山形新幹線で山形に向かう予定で東京駅に向かった。

 東北新幹線のダイヤは、大震災の影響で七月初旬まで臨時のダイヤで運行していたが、今週から通常ダイヤの運行となった。

 空木は五十リッターの大型ザックと、登山靴を入れた紙袋を提げていた。石山田は登山靴を履き、四十リッター位のザック一つを背負っていた。見る限り石山田は、車の運転をするつもりはないようだと空木は思った。ソールの厚い登山靴では、とても運転は出来ないだろうと。

 二人は東京駅の新幹線ホームで弁当とお茶を買ったが、石山田はビールも買った。やはり車を運転する気はないようだ。

 つばさ号の車内は満席だった。震災に関連して、復興関係者やボランティアらしき人たちが多数いて、二人の登山服姿も違和感はなかった。

 郡山から福島の沿線には、屋根にブルーシートを被せた家が何軒もあった。多くの人たちの命と、家屋、財産を一瞬に奪った大震災の爪跡、影響はまだまだ大きかった。

 福島駅でやまびこ号と別れたつばさ号は、山形には夕方五時過ぎに着いた。山形も東京同様晴れて暑かった。山形は東北でも夏の暑さは一、二だろう。

 東口にあるレンタカー会社でレンタカーを借り、西口にあるホテルに向かった。山形駅の西口は、再開発の最中なのか、駅前は広々とした空き地状態で、四軒のホテルが道路の向こう側に立っているだけだった。

 「健ちゃん、どこで晩飯を食べるんだ。決めているのか」

チェックインを済ませた石山田は空木に聞いた。

「大丈夫、山形の繁華街は七日町という所なんだ。そこに美味しい鳥鍋を食べさせてくれる店がある。「おまつ」という店なんだけど、もう予約もしてある。荷物を置いたら行こう」

 「おまつ」は鍋専門の店で、暑い夏は客が減るのだが、二人が入った時、店は九割程埋まっていた。

 空木が店に入ると、女将おかみが「空木さんいらっしゃいませ、久しぶりです」と声を上げた。空木は仙台から札幌へ転勤した後も、年に一回位はここの「鳥たたき鍋」を食べに来ていた。

 二人は、空木の好物の「鳥たたき鍋」と鮪のカルパッチョ、そして裏メニューの磯辺巻きを頼み、ビールで喉を潤した。

 ここの「鳥たたき鍋」は、比内鳥の肉のたたきと、比内鳥の卵の黄身を混ぜてつくね状にし、秘伝のだし汁の入った鍋に落として食べる。鍋の最後の雑炊も絶品で、空木は世界一美味い鍋と言うぐらいだ。

 石山田も「鳥たたき鍋」に舌鼓を打ち、こんなに美味しい鍋は食べたことがないと言いながら、ビールを二杯、三杯とお替りした。

 「巌ちゃん、明日は月山に登るんだから適当にしておきなよ」と言いながら空木もビールをお替りした。

 女将が空木にビールを運びながら言った。

「空木さん、前に来られてからもう一年近く経つでしょうか。今日も札幌からお越しいただいたんですか」

「いえ、東京から来ました。実は、今年の三月で会社を辞めて、今は東京でこんな仕事しています」と言って、スカイツリー万(よろず)相談探偵事務所の名刺を女将に渡した。

「あら、会社をお辞めになって今は東京で探偵さんを始められたんですか。山形へはお仕事ですか」

女将は名刺を見ながら聞いた。

「仕事と言うか、月山に久し振りに登ろうと思って、友達と二人で来たんです」

「お友達と月山登山に来られたんですか。天気は良いようですから良かったですね。そう言えば、さっきテレビのニュースで今日、月山でお一人転落して亡くなられたって言ってましたよ。気を付けて登ってらっしゃって下さいね」

「えっ、月山で転落して死んだ‥‥‥」

 空木と石山田は顔を見合わせた。

 「月山のどの辺りで亡くなったのかとか、どこの誰だとか、ニュースで言ってましたか」

「言っていたような気がしますけど、よく覚えていません。すみません」

「いえ、月山で転落して亡くなるというのは珍しいと思いまして」

「それより空木さん。東京にいらっしゃるならちょうど良かった。私の姪を紹介させて下さい。近々、東京で働くことになったんです」と言って女将は後ろを振り返って手招きした。

 エプロンをして赤い三角巾を頭に巻いた女性が、空木達の小上がりの前に立った。

「坂井良子ちゃんと言います。今年二十八歳。こちらは空木さんとお友達」

 女将は二人に紹介した。

 「坂井良子と申します。東京で働くのは初めてなんです。宜しくお願いします」

 可愛らしく、落ち着いた印象の女性だった。

 「東京で何か困ったことがあったら連絡して下さい」と言って、空木は名刺を良子に渡した。

「健ちゃん可愛い娘だな」石山田がにやりとしながら言った。

「そんなことより巌ちゃん、月山で死んだというのは不吉だな」

「不吉は不吉だけど、転落事故のようだし気を付けて登るしかないよ」

「しかし、どこで転落したのかな。雪渓かな。落ちて怪我はしても、死ぬようなところはどこだろう」

  空木は、月山に夏と秋の二回登っていた。

 「そうか健ちゃんは月山の登山ルートを経験しているから気になるよな」

「そうなんだ、それに俺たちが来るのに会わせるかのように死亡事故が起きたこともね。もし、これが明日だったら霊仙山と同じことになる」

「霊仙山か。‥‥‥そうしたら明日の朝刊の記事を見て、何だったら所轄に行って聞いてみよう」

 石山田は、焼酎は何があるか聞いていた。明日の月山登山も石山田の酒量には関係ないようだった。

 二人は「鳥たたき鍋」の後の雑炊にも舌鼓を打ち大満足した。

 ホテルに戻った二人は、フロントに明日の朝刊を一番で部屋に入れてくれるよう頼んで部屋に戻った。

 シャワーを浴びベッドに入った空木はすぐには寝付けなかった。

 月山の転落事故のこと考えていた。恐らく雪渓から滑ったのであろうが、本当に偶然なのだろうか。警察が事故と判断したのだから、我々の登山に偶然当たってしまったのだろうと思うのだが、空木には何か釈然としないモヤモヤとしたものがあった。

 本当は、これは事故ではなく、故意だったとしたら。指定された明日七月九日土曜日に起こる筈の事件が、何らかの理由で今日にずれたとしたら。手紙での月山への誘い、そして転落事故に遭遇することになったのではないか。空木は背中に寒気が走った。

 空木は考えるのを止め、『おまつ』で食べた「鳥たたき鍋」を想像した。睡魔が襲ってきた。

 翌朝五時過ぎ、山形新聞がドアの下から部屋に差し込まれていた。空木は社会面を見た。月山で転落死という小見出しが目に入った。

 その記事には、こう書かれていた。

 七月八日午前九時半頃、姥沢小屋からの登山道を二十分程登った付近で、男性が転落しているのを登山者が発見し月山西川警察署に通報した。病院に運ばれたが、死亡が確認された。死亡したのは仙台市の会社員で江島照夫さん(四十一歳)で死因は頭部外傷による出血死だった。付近は雪渓があり、江島さんが雪渓から転落した際、岩に頭部を打ち出血、死亡したものと見られる。

 空木の部屋のドアがノックされた。石山田だった。

 「読んだかい。どうする」

「大体の場所の見当はついたよ。登る途中だから現場を確認出来ると思う。予定通り頂上の月山神社まで行こう」

 二人は六時半にホテルを出発することにした。


 今日も天気は晴れ、午後からは雲が出る予報だった。山形は、さすがに朝は涼しかった。梅雨前線は北に上ったままのようで、梅雨がないと言われている北海道で梅雨状態が続いているようだった。

 空木たちはコンビニで食料を買い、車のナビに従って、東北中央自動車道から山形自動車道に入った。月山が望めた。月山上部はまだかなり雪があるようで斑(まだら)模様に見えた。空木は一応軽アイゼンをザックに入れたが、石山田は持ってきてはいないようだった。

 月山インターチェンジで山形自動車道を降り、月山スキー場を目指す。

 月山は標高1984メートル。湯殿山、羽黒山とともに出羽三山の一つに数えられ、修験者の山岳信仰の山として知られ、日本百名山、花の百名山に選定されている。豊富な残雪のため夏スキーが可能で、月山スキー場は、冬は閉鎖、オープンは四月末で七月末までスキーが楽しめる。

 空木たちは午前八時前に月山スキー場の駐車場に着いた。標高が高いだけに涼しかった。駐車場には既に二十台以上の車が停まり、大半は他県ナンバーだった。

 カラフルな服装の男女が大勢いる。彼らはここからリフトで牛首にあるスキー場に上って行く。空木と石山田は姥沢(うばさわ)小屋の裏手から登山道を登って行く。

 空木は登山靴に履き替え、二十リッター位のサブザックに水と食料とアイゼンを入れた。石山田は四十リッターのザックで、東京を出発した時と同じ姿だった。

 二人は沢を渡り、小屋の裏手の登山道を登り始めた。雪はこの辺りにはない。しばらく行くと、小さな沢が雪渓となっていた。思ったより残雪は多い。十四、五メートル程トラバースする。スリップしないよう慎重に渡る。

 小さな雪渓を二つ程越えただろうか、歩き始めて二、三十分程経った。小さな雪渓の下に赤い布を付けた竹竿が立てられていた。周辺にはいくつもの足跡が見えた。昨日の転落死亡事故があった場所と思われた。

 「厳ちゃんここだな」

「そうみたいだな」

 二人はその雪渓を下った。慎重に下るがスリップする。四、五メートル下った辺りにかなりの血痕があった。やはりここが転落現場だった。さらにその下には沢があって折れた樹木の枝が積み重なっていた。

 空木は周囲を見回し、ザックからカメラを取り出して周囲の写真を何枚か撮った。

 登山道に登り返す途中、血痕の二メートル程上部に、雪から出た岩片が見えた。その岩片にも血痕が付着していた。石山田は、ここに当たったのか、と呟いた。空木はカメラに岩片を収めた。

 二人は登山道に戻り、歩き始めた。

 「運が悪いとしか言いようがないね」石山田が独り言のように言った。

「どんな風に落ちたんだろう」空木も独り言を呟いた。

 この辺りは木道が続くのだが、残雪が木道を覆っている。しばらく行くと、四ツ谷川に合流し牛首カールに出た。一面真っ白、雪原となっていた。

 石山田は驚きの声を上げた。

 ルートはトレースがあって分かりやすいが、急登となったらアイゼンが必要になりそうだった。

 好天の土曜日だが、前後を見る限りこのルートを登っているのは自分たちぐらいしかいないと思われた。

 左手にスキー場が見えた。大勢のスキーヤーが色とりどりのウェアで滑っている。吹き渡る風が冷たい。石山田が「寒いな」と声を上げると、二人は腕まくりしていたシャツの袖を下ろした。

 牛首への分岐に出る。眼前に東北の最高峰の鳥海山ちょうかいさんが現れた。振り返ると、登ってきた雪渓のはるか西に、大朝日岳を主峰とした朝日連峰が懐深く聳(そび)えていた。登山者の数が増えた。ここからは急登が始まるが、残雪はさほどではない。アイゼンは着けない。

 急登を終える。頂上付近は湿原が広がり、池塘(ちとう)が青い空を映し、辺り一面にチングルマ、ハクサンイチゲが群生している。風は冷たく、汗をかいた体に心地良かった。

 二人は頂上の神社に歩を進めた。小屋の間を抜け、神社に出る。辺りを見回した。

 八合目の駐車場から登る、中宮ルートからの登山者を合わせ、四、五十人はいるだろうか。

 神社とその周辺を見ても、やはり巫女らしき女性は居ない。神社の東側に出る。上部を白く飾った鳥海山が目前に聳(そび)えている。出羽富士と言われる山容は見事だった。絶景なのだが、二人には景色をゆっくり眺める余裕はなかった。

 コンビニで買った、おにぎりを食べる。食べながらも周囲を見回す。風が冷たく、体が冷えてくる。

 二、三十分経っただろうか、それらしい登山者もいない。何も起こらなかった。

 「やっぱり居なかったな」石山田がボソッと口にした。

 二人は下山することにした。

 月山神社を過ぎ、小屋の前まで来た時。

 「厳ちゃん、見てみろよ」空木は思わず声を上げた。

石山田も「えっ」と声を上げた。

 それは小屋の壁に貼られたA4の紙に、マジック様なもので書かれていた。

「空木さんへ

予定が変わってしまいました

 仲内好美」

 二人はテープで止められたその紙を剥がし、周囲を見回した。

 「いたのか」空木は呟いた。

 登って来た時には気が付かなかったのか。いや、かなり周りに注意して歩いていた筈で、見落とすことはないだろう。

 「登ってきた時には無かった。こいつは健ちゃんの顔を知っているんだ。登って来たことを確認して貼ったんだ。間違いない」石山田の声は大きかった。

「健ちゃん、ここにいてもどうしようもない。取り敢えず下山しよう」

 二人は頂上を後にした。

 駐車場に着いた。下山は一時間二十分程で下った。時間は午後一時を回ったばかりだった。

「厳ちゃん、警察に行かないか。事故だと思うけど、やっぱり気になるんだ」

 空木は、頂上にあった貼り紙より、転落事故の方が気になった。

「よし時間もあるし行ってみよう」


 月山西川警察署は国道沿いの町役場の隣にあった。

 石山田は、空木と月山に同行した報告とともに、月山西川警察署に事前に連絡して貰えないか課長に電話をした。課長は、管轄外の事件に首を突っ込むな、の一言だった。

 石山田は湖東署の大林に電話をした。大林は霊仙山の事件に関わってしまった空木の気持ちを理解し、西川警察署の刑事課に連絡しておくと言った。

 月山西川警察署は二階建ての比較的新しい建物だった。

 登山服姿の石山田は、受付に自分の名前を告げるとともに警察証を提示し、刑事課の吹石刑事をお願いしたいと告げた。吹石の名前は、大林から連絡されていた。

 五分ほどして、年は五十がらみのずんぐりとした色の黒い男が出てきた。

「湖東警察署から連絡をいただきました。国分寺署の石山田さんと空木さんですね。私、吹石と申します。お話は電話で聞いていますのでこちらへどうぞ」

吹石は地域課へ二人を案内した。

「転落事故ということで刑事課の出番はありません。地域課で処理していますので担当者を呼びましょう」と言って吹石は、男を手招きした。

 男は吹石と少し話しをした後、机に戻り書類のファイルらしきものを手にこちらに来た。

「地域課の本山と申します。遠路ご苦労様です」

 本山は腰を折りながら小さな応接セットに案内した。

 本山は四十半ばと思われる、太った男だった。

 「わざわざお越しになって、ご確認されたいことというのはどんなことでしょうか」

本山は言いながら書類ファイルを開いた。

 石山田は自己紹介とともに空木を紹介した。そして、月山まで来た理由を、遠く霊仙山という山の麓で起こった事件から、発端となった仲内和美からの手紙、そして妹と名乗る仲内好美からの手紙までを本山と吹石に説明した。

 「そうですか。それで月山神社でその女性と会うことは出来たのですか」吹石が聞いた。

「いえ、それらしい人間は居ませんでした。ただ、こんな貼り紙がありました」

 空木は貼り紙を見せた。

 「手紙の主も頂上にいたという訳ですか」吹石が首を捻っていた。

「そしてお二人が、月山に来るのに合わせるかのように転落死亡事故が起きた。手紙の主も月山に居た。転落が事故だったか確認したいということなんですね」

 吹石は、二人が西川署に来た理由を改めて本山に聞かせるように言った。

 本山はファイルを見ながら。

「我々の現場検証では、事件性は確認出来ませんでした。死亡したのは、所持していた運転免許証から東京練馬区に住所がある江島照夫、四十一歳。死因は右側頭部を強打したことによる脳挫傷及び出血によるものでした。スリップするかつまずくかして転落し、不幸にも岩に頭をぶつけてしまった、と思われます。発見通報してくれたのは、やはり仙台にお住まいの伊東公一郎さん六十一歳の方です」

本山はファイルを読んだ。

「スリップの跡はありましたか」空木が訊いた。

「明確なスリップ痕は確認出来ませんでした。恐らく、滑落ではなく、バランスを崩して飛び込んだような状態ではなかったかと思います」

 本山がファイルから顔を上げて答えた。

 「新聞には仙台の会社員とありましたが、東京の方だったのですか」今度は石山田が訊いた。

「東京の住所に連絡した際に、家族の方から、仙台に単身赴任しているとのことでしたので、新聞社には仙台の会社員と発表しました」

 本山はファイルを見て確認した。

 「差し支えがなかったら、亡くなられた方の会社はどこでしょうか」

単身赴任という言葉に何かを感じた空木が何気無く聞いた。

「差し障りはないと思います。東亜製薬の仙台支店にお勤めだったようです」

 まさかの答えに空木と石山田は、顔を見合わせて息を呑んだ。

 「本山さん、今どこと言われました」石山田が聞き直した。

「東亜製薬と言いましたが、どうかしましたか」

本山はきょとんとしている。

「健ちゃん、どういうことだろう同じ会社だ」石山田は空木の顔を見た。

「同じ会社というのはどういう意味なんですか」今度は吹石が石山田に顔を向けた。

「実は、さっきお話した霊仙山での事件の被害者も、東亜製薬に勤めていたんです」

 石山田の話に、今度は吹石と本山が顔を見合わせた。

 「なんですって。同じ会社の人間だったのですか。こんな偶然があるんですね」丸顔の本山が顔を一層丸くして言った。

 空木は偶然ではないと思った。こんなことが偶然で起こる筈はないと。

 しかし、月山西川署では、昨日の死亡事故はあくまでも事故であり、事件性はないと考えている。恐らく、自らは事件性があるかどうかの調査はしないだろうと、空木は思った。石山田も同じ思いのようだった。

「お忙しいところ有難うございました。もしかすると、滋賀県警の湖東警察署から捜査協力の依頼があるかもしれません。その時は宜しくお願いします」

石山田はこう言って、二人に頭を下げて席を立った。

「石山田さん、すぐ近くの道の駅に町営のいい温泉がありますから、山登りの汗を流して行ったら良いですよ」

席を立った二人に吹石は言った。

 玄関まで見送った吹石は石山田に

「裏付けるものはありませんが、事件の匂いがしてきましたね」ポツリと言った。


 二人は、吹石に教えてもらった温泉に浸かった。

 「巌ちゃん、俺はとても偶然だとは思えない。江島という男が事故にあったのは偶々たまたまじゃあないよ。貼り紙の、予定が変わったというのは、好美が手紙で指定した土曜が金曜になった、ということなんじゃないだろうか」

「俺もそう思う。この事は、西川署に連絡を入れてくれたこともあるし、大林刑事に伝えておく必要がありそうだ。一人は事故とは言え、東亜製薬の仙台支店に関係する二人が死んだ。しかも両方の事件、事故とも手紙が絡んでいる。何かありそうな匂いがするよ」と、石山田は温泉に顔を沈めた。

 温泉を出ると、予報通り雲が出て、月山は雲に隠れていた。

 山形駅西口のホテルに戻ったのは夕方六時前だった。

 石山田は今日も「おまつ」をリクエストした。空木も鳥たたき鍋の連ちゃんもいいと思った。都合よく席も空いていた。二人は今夜も鳥たたき鍋と雑炊に大満足しながら酔った。

「健ちゃん、明日はどうする。予定通り仙台へ行くのか」

「そうするつもりでいる。久し振りに後輩にも会いたいし、牛タンも食べたい」

「牛タンか、俺も食べたいね」

「一緒に行くかい」

「いやだめだ。係長からも課長からも、月曜の朝は必ず署に出ろ、と言われている。残念だけど明日中に帰らなくちゃいけない」

石山田はつまらなそうに言った。

「じゃあ、明日の昼は、米沢まで車で走って米沢牛を食べよう。巌ちゃんは米沢から東京へ帰ればいい」

「それは嬉しいね。楽しみになってきた」

 石山田の顔がほころんだ。

 翌日の日曜日、二人は米沢へ車を走らせた。

 JR米沢駅東口に程近い所に、「ぐっど」という米沢牛を安く食べさせてくれる店がある。空木はここへも何回か来たことがあった。

 石山田は牛ロース焼肉重、空木はすき焼き定食を食べた。

「霊仙山といい、月山といい、山好きな健ちゃんに合わせたかのように事件が起きるな」

「山もそうだけど、名古屋、仙台と、俺が勤務した所でもある。これで、北海道で何か起こったら、俺は疫病神だよ」

「疫病神か。それで北海道はいつ行くんだ」

「向こうの後輩の都合もあって、月末の予定が今度の三連休に行くことになった。移動に一日、トムラウシ山に一日、札幌で一日の予定で行ってくる」

「トムラウシ山か。大きな遭難事故があった山だろ。疫病神なんだから気を付けろよ」

「疫病神は、自分には何も起こらないよ。周りの人たちに災いを撒き散らすから厄介なんだよ」

「俺たち二人、後厄だからな。周りに迷惑掛けるなってことか」

 話をしながら空木は、霊仙山と月山の事件、事故に絡んでいる人間が同一人物だとしたら、空木同様かなり山好きなのではないか。しかも名古屋、仙台に多少なりとも縁を持っている人間なのではないか、と思った。

 二人は米沢駅で別れた。石山田はつばさ号で東京へ、空木は山形からバスで仙台へ、それぞれ向かった。



『杜(もり)の都の傷跡』


 空木は、山形のバスターミナルから午後三時三十分発の仙台行きのバスに乗車した。バスは、山形自動車道から東北自動車道を経由して仙台市内に入った。

 やはり、バスの車窓からは、屋根にブルーシートが被せられた風景が目立った。明日で、大震災からちょうど四ヶ月が経過する。津波の被害に遭った町々では、行方不明の方たちもまだ数多くいる。空木は目を瞑った。

 終点の、勾当台(こうとうだい)通りに面した県庁、市役所前に着いたのは、夕方五時前だった。日曜の夕刻とあってか、人通りは非常に多い。杜の都は着実に復興に向かっていると空木には感じられた。

 ホテルは、東北随一の飲み屋街である国分町(こくぶんちょう)に近かった。

 後輩の杉谷(すぎたに)とは六時にホテルのロビーで待ち合わせた。杉谷と飲むのは仙台から転勤して以来五年振りだった。

 二人は、ホテルから歩いて五分程の所にある、牛タン専門の店を予約していた。この店は、牛タンは勿論だが、焼き餃子も美味かった。

 二人は久し振りの再会にビールで乾杯した。

「空木さん、何故会社を辞めたんですか。空木さんを知っている我々は、少なからずショックを受けましたよ」杉谷は、コップから口を離すと同時に聞いた。

「いきなり直球だな。何故辞めたか‥‥。一言で言えばサラリーマン失格を悟ったというようなことだな」

 空木は牛タン焼きを頬張った。

「サラリーマン失格ですか。どういうことですか」

 杉谷は空木のコップにビールを注いだ。

 「俺は入社以来、正しいと思ったこと、こうすべきだ、こうあるべきだ、と思ったことは上司にも、先輩にも、後輩にも言ってきた。生意気な奴だと思われても、それは正しかったと思っている。そうしているうちに、チームリーダーとなり、杉谷たちの様に俺の言葉に耳を傾けてくれる人たちも増えてきたと思っている。人間には欲と言うものがある。俺にももっと多くの人たちに影響を与えられるようになりたい、という欲が出てきた」

「その欲がサラリーマン失格なんですか」

「いや、欲が出ること自体は失格とは思っていない。欲が出て当たり前だと思っている。俺の問題は、その欲を実現させるためのやり方、方法に、心身ともにどっぷり沈める覚悟が出来ない、ということに気付いたんだ。人間、目標を実現させようと思ったら、我慢もし、辛抱もしなくちゃいけない。それが、何が邪魔しているのか分らないが、俺には出来そうもないと思った。俺は一体何をしたいのか、誰の役に立ちたいのか。一度会社という大きな組織を離れて考えてみようと決めた。こういうことだ」

 空木は芋焼酎のロックを注文した。

 「空木さん、格好付け過ぎですよ。その人が居るだけで、その人の周りがホッとする、暖かくなる。そういう人間が居ても良いんじゃないですか。偉くならなくても良いんじゃないでしょうか」

 杉谷もビールを飲み干し、芋焼酎を注文した。

 「杉谷の言うとおりだ。そういう意味でも俺は失格だな」

「そうすんなり言われると寂しいですけど、いずれにしろ空木さんらしいですね。まあ、探偵業の仕事、頑張ってください」

 二人は焼酎でまた乾杯した。

 「ところで杉谷。この前電話で話した、東亜製薬を辞めた伊村という男の事だけど、伊村と親しくしていた人間で思い当たる人はいないか」

「思い当たる人ですか。そういえば、青葉薬品の二条さんだったら少しは知っているかも知れません。東亜製薬は青葉薬品の扱いメーカーの中でも主力メーカーで、扱い金額も多いですし、二条さんは何回か伊村と飲んでいるんじゃないかと思います。少なくとも僕よりは知っていますよ」

 杉谷は餃子に箸を伸ばした。

 「青葉薬品か。卸さんはメーカー社内の事を、社内の人間より良く知っていることも多々あるからな。明日の午後にでも会えるかな」

「明日の午後ですか。急ですね」


 月曜の朝、署に出た石山田は、係長と課長に山形出張の報告をした。課長も係長も、月山西川署で得た情報は湖東警察署に伝えておくように石山田に指示した。石山田は湖東警察署の大林に電話をした。

 月山での転落死亡は管轄の判断は事故で、状況的には相当の判断であること。転落死亡した、江島照夫四十一歳会社員の勤める会社が、霊仙山事件の被害者の浅見豊と同じ東亜製薬であったことを伝えた。

 「同じ会社の人間が、一ヶ月の間に事件と事故で二人も死亡するというのは尋常ではありませんね。しかも、浅見豊も仙台には関係しています。こちらの事件と関連している可能性もあるかも知れませんね」

大林の声は冷静だった。

「空木健介に送られて来た、仲内和美、好美の名前での手紙の主が同一人物だとすると、霊仙山の事件と、月山転落事故の関連はより深いと言えると思います。ただ、西川署の扱いは、あくまでも不慮の事故の扱いで、事件性は無し、と判断していますので、現段階では興味は持ったにせよ、捜査に動くことはないと思われます」

「そうですか。確かに月山の件だけみれば、事故と判断しますね。ということは、仙台へ動くことが出来るのはうちだけということになりますね」

 大林も現状では、月山西川署の刑事課も動けないだろうし、こちらから要請する筋のものでもないと判断したようだった。

 石山田は、湖東警察署の捜査本部の捜査進展状況を大林に聞いた。

 大林によれば、新たな進展は無く、仲内姓の全国調査は、全国二百四十九世帯全ての報告が揃ったが、該当する世帯は無かった。湯の山温泉宿泊客の調査も、直接本人に確認出来ていないのは、残り一人だけで、この一人も実名での宿泊であることから、疑わしいような事は無いのではないかと考えている。という返答だった。

 「石山田さん、空木さんは元気にしていますか。二つの事件に巻き込まれてショックを受けていませんか」

「空木ですか、あいつなら大丈夫です。今日は仙台に居る筈です。今週の末からは北海道に山登りに行くと言っているぐらいですから、心配無用でしょう」

「今日は仙台ですか。私が行くことになるのかどうかは分かりませんが、近いうちにこちらからも仙台へ行くことになると思います」

 石山田は、その口ぶりから大林は仙台に行くつもりだな、と感じた。

 「それと石山田さん、いずれ空木さんと三人で、直接会って情報のやり取りをしたいと思いますが、いかがでしょう。私が東京に出向きます」

「分かりました。七月中にはお会いしましょう」

 石山田は電話を切った。

 石山田との電話を終えた大林は、刑事課長に石山田からの連絡を報告した。刑事課長は、捜査の大きな進展がないだけに、一度は仙台に行くべきだろうと判断した。

 東京への出張も併せて大林が行 くことになった。


 仙台は午後から雲が出た。陽射しはないが湿度が高いせいか暑かった。

 空木と杉谷は、北仙台駅に近い、国道4号線沿いのファミリーレストランで、午後二時に青葉薬品の二条と待ち合わせた。

 スーツを着た二条は、大柄で割腹がよく、空木と比べても随分貫禄を感じさせたが、年齢は空木よりも十歳も若い、三十二歳ということだった。

 挨拶を終えた空木は、コーヒーを注文したが、昼を食べていない杉谷と二条は、大盛りのパスタを注文した。

 空木は、自分は三月に万永製薬を退職し、今は東京で探偵業の看板を出している。東亜製薬に居た伊村君と連絡を取りたいと言っている人が居て所在を探している。と説明した。

 「二条さんは伊村さんとは比較的親しくしていたとお聞きしました。伊村さんが今どちらにいらっしゃるか、ご存知でしたら教えていただきたいのです」空木は二条を見ながら聞いた。

「親しいかどうか分かりませんが、伊村さんの家にも行ったことがあります。今、どこにいるのか、残念ながら私も東京としか知りません。東亜製薬を辞めてどうしているのか、僕も気になっているのですが、連絡のしようがなくて。東亜製薬の人たちにも聞いたことがありますが、皆知らないようです」

 二条は「いただきます」と言って、大きな口を開いてパスタを食べ始めた。

 「そうですか、分かりました。二条さんは伊村さんが会社を辞めた理由は聞いたことがありますか」

 空木は自分も最近会社を辞めたことも重なり、この事も気になった。

 「それが‥‥、理由かどうか分かりませんが、以前、伊村さんが、うちの会社には保身を考える奴ばかりで、相談出来る奴はいないって言っていたことを覚えています。不満はあったと思います。それに大震災で伊村さんは大変な目に遭ってしまいましたから、それがきっかけかも知れません。まして、伊村さんは薬剤師ですから、辞めても食べることには困らないでしょうから」

 二条はコーラを追加注文した。これでは太る、と空木は思った。

 「大変な目に遭われたというのは」

「伊村さんの奥さんが、あの大津波で行方不明になってしまったんです」

「えっ、津波で行方不明ですか。‥‥しかし確か、伊村さんの仙台の家は泉区でしたよね。海からは随分遠いはずですが」

「よくご存知ですね。ちょうど伊村さんが、東京に家探しで出張している時で、奥さんは海に近い閖上(ゆりあげ)の実家に帰っていたそうです。そこで、あの大津波の被害に遭われたそうで、一家の全員が未だに行方不明らしいです」

 二条はパスタをあっという間に平らげた。

「そんな悲惨なことが起こっていたのですか。もしかしたら伊村さんは、今もご家族を探し続けているかも知れませんね」

「そうかも知れません」

  空木は、家族を失うという辛い目に遭った伊村を、これ以上探すことに躊躇いを感じていた。

 「それから二条さん、これは伊村さんとは関係しない事なのですが、一昨年から今年にかけて東亜製薬の人間で、女性スキャンダルの話を聞いた事はありませんか」

「東亜製薬ではタブーになっている話の事でしょう。一時は東亜製薬の支店長が社員に箝口令(かんこうれい)を敷いたようですから。ここだけの話ですが、細かい中身までは知りませんが、東亜製薬の幹部が得意先の女性を妊娠させたらしいですよ」二条は大きな体を屈めて、小声で言った。

「そうですか。いやつまらない事まで聞いて申し訳ありませんでした」

 空木は、やはりそうかと思った。浅見豊の五十万円の意味がここにありそうだと、直感めいたものを感じていた。。

 空木は二条に礼を言い伝票を取った。二条は「ご馳走様でした」と言って大きな体を折った。

 空木も杉谷も、伊村の家族が惨禍に遭っていたことを知り、少なからずショックだった。杉谷に仙台駅まで送ってもらい、空木は東京に向かった。はやて号の車中、伊村という男の心情を思うと、空木の目には車窓が滲んで見えた。


 空木が国立駅に着いたのは、帰宅ラッシュの夕方の六時半頃。東京は暑かった。

 大きなザックを担いだ空木は、帰宅ラッシュの人混みの中では、さすがに邪魔者扱いで、睨みつけるサラリーマンは一人二人ではなかった。

 空木が「さかり屋」に入ると、石山田が奥の小上がりから、こちらを覗く様にして声を掛けた。

 「お帰り」石山田は焼酎を飲んでいた。

「仙台の牛タンは美味かっただろ」

「ああ、美味かった。それに思わぬ情報も聞くことが出来たよ」

 空木はビールを飲んだ。 

 空木は、仙台で青葉薬品の二条から聞いた話を石山田に話した。

 自分が気になっていた、伊村という男の所在を知りたかったが、分らなかったこと。その伊村という男の奥さん家族が、大津波の被害に遭って、行方不明になっていること。そして、浅見豊に関してのスキャンダルは、やはり女性関係で、得意先の女性を妊娠させてしまったらしいこと。これらを話した。

 「その伊村という男の名前は初めて聞くけど、誰なんだ」石山田は聞いた。

「この三月で、東亜製薬の仙台支店を辞めた男で、俺の事を、俺の友達伝いに聞いてきたようで、一度機会があれば会いたいと言っていたらしい。俺としては、浅見豊の仙台での事が、この伊村という男から聞けるんじゃないかと思ったんだ。しかし、奥さんと奥さんの家族全員が行方不明になっているって聞いたら、浅見のことで話を聞きに行くのも憚(はばか)られるんで、止めにする」

 空木は、ニラレベ炒めに箸を伸ばした。

「そういうことか。でも浅見豊の情報も集められたじゃないか。あの五十万の使い道が、何となく想像がつくと思うが」

 石山田はエイひれを手に取った。

 「俺もそう思う。名古屋のスナックのママ達の話とも符合する。後は、相手女性をどう探すかだ」

「それはかなり難易度が高いんじゃないか」石山田は腕組みをしながら言った。

 空木は「そうだよな」と頷いた。

「ところで巌ちゃん、大林刑事には連絡取れたかい」

「今朝一番に連絡したよ。捜査の進展はないようで、仲内姓の全国調査も、湯の山温泉宿泊客の確認も収穫はなかったようだ。それで、大林刑事が仙台まで行く事になったようだよ。明日は江島照夫の葬儀が東京であって、東亜製薬の仙台の支店長の都合が、来週でないとつかないらしい。その帰りに東京に寄るので、その時は健ちゃんと三人で一度会いたいと言っていたよ」

「わかった」と言って空木は芋焼酎を飲んだ。芋の香りが口の中に広がった。

 浅見豊が仙台で起こした事を、空木は想像した。

 得意先である、病医院か薬局かに勤める女性、医師か看護師か薬剤師か事務職員か、いずれかに何らかのきっかけで関係を持つようになった。彼はその役職からして、直接得意先を担当しているとは思えない。誰かの紹介か、得意先との宴席がきっかけだろう。そして、妊娠させてしまった。そのことが公になる前に、いや隠すために会社は浅見豊を名古屋に転勤させた。浅見豊の通帳に記帳された五十万は、お産の費用か、手切れ金か慰謝料かは分からないが、妊娠に起因した金銭の可能性が高い。

 その女性はどこにいるのか、誰なのか。石山田が言うように、調べるのは極めて難しい。空木にはその術(すべ)が思い浮かばなかった。



『カムイの贈り物』


 東京は連日猛暑日が続いた。

 空木は、週末に予定しているトムラウシ山登山に備え、連日トレーニング室に通った。

 土曜日、空木は羽田空港から札幌千歳空港に飛んだ。千歳空港到着予定十二時三十五分、気温二十四度、天気は曇り時々晴れ、という機内アナウンス。飛行機は予定通り千歳空港に到着した。空港には、一緒に登る予定の上松(うえまつ)克秀が待っていた。

 上松は、空木が万永製薬の札幌支店でチームリーダーをしていた時の部下だった。上松は、冬はスキー、夏は登山、自転車、バイクのツーリングを楽しむ、アウトドア大好き人間で、空木と一緒に羊蹄山(ようていざん)や斜里岳(しゃりだけ)といった北海道の山々を登っていた仲だった。

 空木は、上松の運転する車に同乗し、トムラウシ山の登山ベースでもある、トムラウシ温泉東大雪荘に向かった。道東自動車道から一旦夕張インターチェンジで降り、狩勝峠、日勝峠を越えて十勝清水に出る。そこから北上し、新得を通り、トータルおよそ二百キロを走る。

 東大雪荘の宿泊客の大半は、本州から来た登山客と思われた。

 空木は、北海道に来て最初に登った山が、日本百名山に数えられるこのトムラウシ山で、登るのも、東大雪荘に泊まるのも二度目だった。このトムラウシ山で北海道の山の厳しさを体感し、北海道の山の素晴らしさも実感した。 

 トムラウシ山は標高2141メートル、大雪山系南部の山で「大雪山の奥座敷」と称され、北海道で九つ選定されている日本百名山のうちの一つである。トムラウシとは、アイヌ語で「花の多いところ」を意味するとも、「水垢が多いところ」の意だとも言われる。山の上部には池塘(ちとう)や沼が点在し、高山植物が群生しており、また、岩場も多く、ナキウサギの生息地にもなっている。近年は、本州の登山者の人気も高く、憧れの存在となっている。

 夏山登山での事故も多い。特に、2002年7月、2009年7月の事故は、それぞれ二名、九名が死亡する悲惨な事故で、トムラウシ山の、北海道の山の厳しさを改めて示す事故だった。

 空木も三年前のトムラウシでは、天候の不良のため、7月の2000メートル級の山とは思えない異常な寒さを味わった。本州の3000メートル級の山以上の厳しさであると実感したものだった。

 トムラウシ山に初めて登る上松にも、ツエルト(携帯テント)の携帯と防寒対策だけはしっかりするよう伝えてあった。

 二人は、翌朝四時に起床し、前夜のうちに宿が用意してくれたおにぎりを食べ、登山口に向けて出発した。

 登山口の駐車スペースには、既に十台近くの車が止まっていた。

 今日一日で、累積標高差千四百メートルを登り降りする。スタートする前の緊張感が空木は好きだった。

 カムイ天上までは緩やかな登りで、眠っていた体が徐々に目覚めてくる。天気は悪くないようだが、ガスが出て周囲の状況は判然としない。気温は十七、八度か。

 カムイ天上からおよそ一時間半歩いた所から、一旦下り、コマドリ沢に出る。ここから雪渓登りが始まる。標高で二百メートル、距離で四、五百メートルあろうか。雪渓が終わると、前トム平までの岩場だ。二人は「ピー」というナキウサギの鳴き声を聞いたが、姿を見ることは出来なかった。ガスは消えず、視界は良くない。標高が高くなりガスも加わりかなり寒い。

 前トム平からロックガーデンを登る。登り終わると、池塘が点在するトムラウシ公園と言われる湿地に下る。足はかなり重くなってきた。

 ガスが切れてきて、少しずつ周りの眺望が利くようになる。この辺りからがトムラウシ、アイヌ語の「花の多いところ」の真骨頂だ。

 エゾノツガザクラ、エゾコザクラ、チングルマ、エゾノハクサンイチゲ、白、濃いピンク、淡いピンクと色とりどり、正に高山植物のオンパレードで、疲れた体を癒してくれる。

 頂上直下のテント場から最後の登りになる。急登に息が上る。上松の足は快調で空木の先を行く。およそ三十分で頂上に着いた。二人は握手した。頂上は風があって、かなり寒い。二人はレインウェアの上衣を着た。

 二度目のトムラウシは、絶好の景色を見せてくれた。北に大雪山の最高峰旭岳、南西方向に十勝岳、北東にニペソツ山を見せてくれた。空木は頭の中が真っ白になった。下界で起こった事、起きている事を全て忘れさせてくれる。およそ五時間半の登りの後の至福の時間だ。空木は来て良かった。登って良かったと思った。

 下りの途中、十勝平野を望みながら、空木は上松に聞いた。

「上松、お前さん、人を殺したいと思ったことはあるか」

「えっ、何を急に聞くんですか。そんなことある訳ないですよ」上松は答えた。

「そうだよな、普通はないよな。人間はどんな時に殺意を抱くのかな」

「僕は、独身なので分かりませんが、子供とか家族を殺されたりしたら、敵討ち的に殺意を抱くかもしれませんけど、殺人までするかどうか」

 二人は話しながら、ロックガーデンを下り、雪渓を尻セードして滑って降りた。 登山口の駐車場に着いたのは、午後二時四十五分だった。

 東大雪荘の湯に浸かった二人は、達成感の心地良さにも浸った。

 トムラウシ温泉を出て、空木たちが札幌に着いたのは、午後七時を回っていた。

 二人は、空木が札幌に居た四年間馴染みにしていたススキノの寿司屋『すし万』でトムラウシ山登山の無事を祝した。

 『すし万』は空木の自慢の寿司屋だった。須川夫婦と娘さんの奈美ちゃんの家族三人でやっている。ススキノの寿司屋では、寿司そのものは勿論、仄々(ほのぼの)とした雰囲気も合わせ一番の店だと確信していた。

 空木は、エゾ鮑(あわび)とホッキ貝の刺身を注文した。そして須川夫婦に、山で上松に聞いたことと同じことを聞いてみた。

 「私の近くから居なくなったら良いのになって思う人はいても、殺そうとまで思う人なんて居ないわよ」と言ったのは女将さんだった。

それを聞いていた上松が言った。

「そういえば、僕の友達も言ってました。会社の先輩で『この会社にはこの世から消えるべき人間が三人いる』というのが、飲んだら口癖の人がいるって。そういう人はどこにでも居るんでしょうね」

「そう思っているところに何かが起こると、それがきっかけになって殺意に変わり、殺人が起こることはあるかも知れませんよ」主人が言った。

 浅見豊を殺した犯人は、どんなことで殺意を抱いたのか、と空木は思いながら。

 「会社に三人も消えるべき人間がいるのか。上松の友達の会社の業種は何なんだ」空木は何気なく聞いた。

「同じ業種。東亜製薬ですよ」

「ん、東亜製薬。そうか、本社の中にはどの会社も魑魅(ちみ)魍魎(もうりょう)がうようよしているそうだからな」

「友達は本社じゃなくて仙台にいるんですけどね」

「え、仙台。東亜製薬の仙台支店に居るのか」

「そうです。そいつは僕の高校の同級生なんですよ。電話のやり取りは結構してますし、札幌にも遊びに来たこともあります」

 上松は、エゾ鮑(あわび)に何回も箸を伸ばし、ビールをお替りした。

 空木は、芋焼酎のロックを注文しがら、こんな偶然があるのかと思った。この偶然を生かさない手は無いと。

「上松。その友達に聞いて欲しいことがあるんだけど、お願いしても良いかな」

「お願いですか。何のお願いなんですか?変な話でなかったら」

 上松の顔は怪訝になり、構える顔になった。

 「実は、今、依頼されている仕事があって、それは、ご主人の過去の女性関係の詳細を調べて欲しいという、その奥さんからの依頼なんだ。そのご主人という人が東亜製薬の部長だった人で、仙台に単身赴任中に、どうやら女性関係が出来て、妊娠させてしまったらしい。そこまでは大凡(おおよそ)の調べは出来た。出来る事なら、その女性の素性、姓名まで調べたいんだ。それには、東亜製薬の仙台支店の関係者に直接聞く事が出来れば、と思っていた。そしたら、今偶然、上松の友達が出てきたということだ」

「東亜製薬繋がりは、確かに偶然ですね。しかし、僕の友達がそんな詳しい情報を知っているとは思えないし、たとえ知っていても、話してくれるかどうか分らないですよ」

「それは仕方ないことだし、覚悟もしている。俺としては、依頼者に対して、ベストを尽くした、という報告をしたいと思っているんだ」

 空木は、芋焼酎のロックを飲み、煙草に火を点けた。この『すし万』は喫煙客にとってはありがたい店だ。

「空木さん、その部長は今どこに居るんですか」

 上松の問いに、空木は少し間をおいた。

「‥‥‥亡くなった」

「え、死んでしまった。それなのに、奥さんは、過去のご主人の女性関係を知りたいと言っている訳ですか」

「何故かは分らないが、そのことが亡くなったことに繋がっているのではないか、と思っているようだ」

「死に方が不自然だったんですね」

 上松は何かを想像しているようだった。

 「上松、会えるように頼んでみてくれないか。会えるのであれば、明日でもいいし、いつでもいいから頼んでみてくれ」

「分りました。今、電話してみます。ところでその部長さんの名前は何て言うんですか」

 上松は携帯電話を取り出し、椅子を立った。

 「名古屋で亡くなられた部長さんと言ってくれないか。もし、会って貰えるようなら、電話を替わって欲しい」

 店の外で電話をしていた上松が、玄関戸を開け空木を呼んだ。どうやら、友人は明日会ってくれるらしい。空木は、清水順也という上松の友人と電話で話し、会ってくれる礼と、待ち合わせ場所を決めた。

 空木と上松は、鮭の「時不知ときしらず」の卵、「時子」を肴に焼酎を何杯も飲み、締めの握りを注文した。空木は、鮪の漬け、烏賊、北寄貝の三貫で締めた。


 翌日の、三連休最後の月曜日、空木は、札幌から仙台へ飛んだ。

 札幌、仙台便は、震災の影響を受け、便数は半分に減便していた。幸いにも午後の便に空席があった。

 仙台空港に着陸する際、窓から見える、海岸線から陸側の風景を見た空木は、その荒涼とした町跡に言葉を失った。

 空港から仙台駅へのバスの車窓からも、仙台東部道路を境にして、左右の風景が全く違った。空木はバスの右側に映る、海まで見通せるその車窓を呆然と、ただ見つめるだけだった。

 清水順也との待ち合せは、清水の自宅に程近い仙台駅東口のホテルで午後五時半にしていた。

 空木の大きなザックを目印にしていたことで、清水はすぐに空木と分ったようで、「空木さんですか」と尋ねた。

 空木は名刺を出しながら挨拶をし、突然の面会の非礼を詫びた。

 二人は、ホテルの右手にあるラウンジに入り、コーヒーを注文した。

「昨日の電話では、亡くなった浅見部長のことで聞きたいということでしたが、どのようなことでしょう」

清水は、探るような目を空木に向けながら言った。

「実は、亡くなった浅見さんの奥様からご依頼を受けまして、ご主人の仙台単身赴任時代の女性関係を調べています。これまでの調査で、どうやら女性関係は間違いなくおありだったようで、その女性は妊娠したようなのですが、その方の素性、名前までは分りません。もし、清水さんが御存知なら教えて欲しいのです」

 空木は一気に話すと、コーヒーを口に運んだ。

 「浅見部長の奥様からの依頼ですか‥‥‥」

「奥様の想いは、嫉妬心からではなく、ご主人が亡くなったことと、女性関係が関連しているのではないか、と思われてのことだと思います」

「私のような平社員は、噂話程度の事しか知りません。ただ、当時、支店内に箝口令(かんこうれい)が出ましたから、噂は本当だと思っていました」

「噂で結構です。お聞かせいただけませんか」

 清水は周りを見回した。話す覚悟をしたようだった。

「ここだけの話にして下さい。その女性は、ある開業医の受付事務をしていた女性だという噂です。その女性を紹介したのは当時の当社の担当者だったようで、それで課長に昇進出来た、という専らの噂でした。尤も、噂のその課長は不幸なことになってしまいましたが」

 話した後、清水はコーヒーを飲み、もう一度周囲を見回した。

 「もしかしたら、その課長というのは、先日、月山で転落して亡くなられた江島という方ですか」

「そうです。空木さん良くご存知ですね。うちの会社では、三月以降不幸な出来事が続いているんです。三月の大震災の時の大津波で、ある社員の家族が全員行方不明になったのを始めに、名古屋で浅見部長が亡くなり、先日は江島課長です」清水は声を潜めて言った。

「その江島課長さんが紹介した女性の名前とか、勤務先とかは噂では聞きませんでしたか。それと津波でご家族が被害に遭われたのは、辞められた伊村さんという方ですよね」

「それもご存知だったのですか。探偵さんというのはすごいですね。そこまで調べているんですね。江島課長が紹介した女性のことは知りません。多分誰も知らないのではないでしょうか。当事者の江島課長と浅見部長以外は」

「伊村さんのことはたまたま知っただけです。そうですか女性のことは分りませんか。二人とも亡くなってしまいましたし、もう知っている人間はいないということですか」

 空木は、事件に巻き込まれたことで、そこまで知ることになったのだとは言わなかった。

「伊村さんは、お子さんがいなくて、奥さんと二人でしたから、ショックは大きかったようでした。カズミを何が何でも捜すと言って、結局会社を辞めてしまわれましたから」

 聞いていた空木は、体に電気が走った。

「清水さん、今、カズミさんと言われましたが、それは伊村さんの奥様のお名前なのですか」

「ええ、そうですけど」

 清水はキョトンとしている。

 「カズミさんというのは、どんな字を書くのでしょう。苗字は、いや、旧姓はご存知ですか」

 空木は、自分の目がカッと見開いているのが、自分でも分かった。清水が引いているのを感じた。

 「どんな字のカズミなのかは知りません。旧姓も知りません」

「旧姓をご存知の方はいらっしゃいませんか」

「うちの女子社員に同級生だった子がいますから、多分知っているのではないかと思います‥‥‥」

 清水は、空木の勢いに戸惑っていた。

「今すぐに分かりませんか」

空木は、一刻も早く知りたかった。

「今すぐは無理です。電話番号も知りませんから。明日になれば分かりますから、空木さんの携帯電話に電話しましょう」清水は困惑気味に言った。

「ありがとうございます。それと、その社員の方に、もしかしたらカズミさんには妹さんがいないか、聞いていただけませんか。お願いします」

「分かりました。聞いておきます」

 空木の目は、ギラギラとしているのだろう。清水は、空木の様子が豹変したことに驚いた様子だった。

 空木は、事態が大きく進展する可能性を感じながら東京に戻った。


 三連休が明けた火曜日の朝の九時前、空木の携帯電話が鳴った。普段は消音、バイブレーターにセットしている空木だが、今日だけは違った。逃してはならない電話が来るという気持ちだった。

 髭を剃っていた空木は、慌てて携帯を手に取った。清水順也だった。清水によれば、カズミは和美。旧姓は仲内。妹がいる。とのことだった。携帯電話を握る空木の手が震えた。

 空木は、和美の同級生というその女子社員に電話を替わって貰えないか、清水に聞いた。女性は清水のすぐ近くにいるらしかった。

 電話が清水から女性に替わった。

 「お電話替わりました。奥村律子と申します。おはようございます」透き通るような綺麗な声に聞こえた。空木は名前を名乗り、突然の電話の非礼を詫びた。

 「奥村さんは、同級生だった和美さんのご実家の住所はご存知でしょうか。それから、和美さんの妹さんのお名前が分れば教えていただきたいのですが」

空木は、動揺している自分を感じ、出来る限りゆっくり話した。

 「和美さんの実家は、名取市閖上(ゆりあげ)です。何丁目何番地までは分りません。それと、妹さんのお名前も存じ上げません」奥村律子ははっきり答えた。

「和美さん本人も、ご家族も、未だ行方不明とお聞きしましたが。」

「はい、そうです。ご両親も妹さんも、お宅も含めて全て津波に持っていかれてしまいました」

 空木には、奥村律子の声が沈んだように感じた。

 「和美さんのご主人の伊村さんは、どうしておられるかご存知ですか」

「伊村さんは、東京にいらっしゃるようですが、住所は存じ上げません。何度も避難所に行かれて、奥様を含めたご家族を探しておられるようです。会社にもたまに電話が架かってきます」

「そうですか。電話が架かってきたのは、最近ではいつ頃か覚えていらっしゃいますか」

「曜日までは覚えていませんが、先週だったと思います。和美さんも、ご家族の誰もまだ見つからない、と言っていました。あの、申し訳ありません。私もう席に戻らないといけないのですが」

 奥村律子の声が慌てていた。

 「お忙しいところ申し訳ありませんでした。ありがとうございました。清水さんにも宜しくお伝え下さい」と言って、空木は電話を終えた。

 空木は石山田に電話をした。

「巌ちゃん、分ったよ、分った。伊村だ。仲内和美だよ」

 空木は支離滅裂な言葉になっているのが自分でも分った。

 「健ちゃん何を言ってるんだ。さっぱり分らないよ」

「ごめん、ごめん。すごい情報を掴んだものだから、つい慌ててしまった。つまり、尾行の依頼をして来た、最初の手紙の差出人の仲内和美という名前は、伊村政人の奥さんの名前だったんだ。あの手紙を出した時には、仲内和美は行方不明だった。しかも、仲内和美には名前は分らないが、妹がいることも分ったんだ」

「仲内和美という名前は、健ちゃんが探していた、伊村という男の奥さんの名前だったのか。良く調べたな」

「ああ、北海道の後輩の伝手(つて)から辿り着いた。トムラウシ山に登ったご褒美みたいなものだから、カムイの贈り物といったところかな」

 カムイとはアイヌ語で神様の意味だが、空木はこの一連の偶然は、本当にカムイの業だと思った。

 「しかし、仲内和美という名前が、伊村の奥さんの名前と同じというだけでは、伊村が手紙を出したということにはならないだろう。たとえ、妹の名前が好美だったとしてもそれは同じことだ。ただ、伊村という男が、重要な鍵を握っていることは間違いない。重要参考人として浮かんだことには間違いないだろう。湖東警察署の大林刑事に教えたら大喜びしそうだ。仙台へ調べに行くタイミングでのこの情報は、ベストタイミングだよ。ところで、浅見豊の関係した女性の目星は着いたのかい」

 石山田は、興奮冷めやらない電話の向こうの空木に、冷水を掛けるが如く言った。

 「‥‥そっちは分からない。分かったのは開業医の受付事務員の女性が相手で、紹介したのが月山で死んだ江島ということだ」

「江島が紹介。健ちゃん、浅見が殺され、江島が死んだ。この二人が繋がるとしたら、東亜製薬ともう一つは女性だ。紹介した女性繋がりかも知れないよ。これも良い情報かも知れない」 

 電話を終えた空木は、石山田の言う通り、仲内和美の名前で出された手紙の主は伊村とは限らないと改めて考えた。しかし、妹の名前が好美だとしても、差出人は伊村ではないのだろうか。姉妹の名前を知っている人間は限られる筈だ。湖東警察署の捜査本部は全力で伊村を探すだろうと空木は思った。

 

 石山田は湖東警察署の大林に電話を入れた。大林は別の電話に出ているらしく、しばらくした後で電話口に出た。

 大林は東亜製薬の仙台支店に電話をしていたところで、明後日の午後、支店長に会うことになったと石山田に伝えた。

 石山田は新たな情報が、空木から入ったと切り出した。

 仲内和美という名前は、三月まで東亜製薬に勤務していた伊村という男の奥さんの名前で、その仲内和美には名前は分からないが妹がいること。仲内和美とその家族は、三月の震災による大津波で名取市閖上(ゆりあげ)の実家もろとも流され、今も行方不明であること。浅見豊は、仙台で得意先の受付事務員の女性と関係を持ち、妊娠させていたこと。その女性を紹介したのは、月山の転落事故で死んだ、江島という男だったことを伝えた。

「それはすごい情報を頂きました。仲内和美の実家のある名取警察署に、もう一度詳しい調査を依頼してみます。妹の名前が分かると思います。それと、今、石山田さんが言われたイムラという男の姓名は分かりますか」

 大林の声は明らかに張りが出ていた。

「わかります。イは伊藤の伊、ムラは町村の村です。名前は政人、マサトです」

 大林は電話口で何かを持ってきてくれと、叫んでいた。

 「石山田さん、湯の山温泉の宿泊客に居とるんです。伊村政人、三十九歳が居(お)ったんです。東京在住で最後に直接の確認が出来た男です。すぐに所轄に連絡して、重要参考人として身柄を確保してもらうように依頼します。石山田さん、後でこちらから電話しますんで、一度電話を切らせて下さい。すんません」と言って、大林は一方的に電話を切った。

 石山田はまだ、相談したいことがあったが、近江弁が強く出る程慌てていた大林の様子からは仕方がないと諦めた。

 それから、一時間ほどして大林から国分寺署の石山田に電話が入った。

 「先程は失礼しました。あまりの良い情報につい慌ててしまいました」

大林は電話の向こうで詫びた。

「それで両方の所轄にはうまく連絡は出来ましたか」

「はい、両所轄ともに動いてくれています。伊村政人の身柄の確保はまだ出来ていないようですが、直接の確認が出来た時の状況を担当巡査に問い合わせもしています。仲内姓の調査での最初の報告書では、名取市に一軒、世帯主、仲内則夫とありました。津波で家屋流出、家族全員行方不明という内容でした。今回の再調査で妹の名前も判明すると思います。これで捜査も大きく前進します」大林の声は弾んでいた。

 石山田は、伊村政人の東京の住所を聞いた。杉並区荻窪五丁目七ハイム荻南202であった。その住所は、湯の山温泉「旅館湯元」に、五月二十六日の木曜日に宿泊した時、宿泊カードに記載された住所であった。

 「大林さん、殺された浅見、月山で死亡した江島という男、そして伊村政人。三人とも東亜製薬の仙台に絡んでいます。この三人のトライアングルの中心が何かによっては、月山の事故も、事件の可能性が出てきます。私から言うべき話ではないのですが、月山西川警察が動き出すような情報が、仙台で取れれば、全容が見えてくるのではないでしょうか」

 石山田は、管轄としては全くの門外漢であることは承知であったが、空木とともに、霊仙山の事件、月山の事故に絡んでしまった刑事としての責任感から、余分な事と思いながらも言ってしまった。

 「その通りかも知れませんね。私も月山の話を聞いて、偶然ではないなと直感しました。分りました、心して仙台に行ってきます」

 大林は捜査の進展に気分が良いのか、石山田の話しに素直に同意した。

 二人は大林が、仙台から米原に戻る途中の二十二日金曜に、国立駅での待ち合わせを決め電話を終えた。


 翌朝、国分寺署の石山田に大林から電話が入った。

 「昨日の夕方、名取署から連絡がありました。伊村和美、旧姓仲内和美の妹の名前は、好美でした。父親は則夫、母親は房江です。父親が脳卒中の後遺症で半身が不自由、母親もリウマチで歩くのが不自由だったらしいです。加えて、好美には生後四、五ヶ月の赤ん坊がいて逃げ遅れたようです。家族全員まだ発見されていないということでした。それから、伊村政人は、昨日は部屋には帰ってきませんでした。此処しばらくは、202号室に人の気配が無いと、周囲の住人が言っているそうです」

 そして大林は、伊村を重要参考人として指名手配したいが、仙台での聞き込みの後にしたいと思っていること、東京に湖東警察署の捜査本部から人を送るということを石山田に伝えた。

 石山田は空木にこのことを伝えた。

 その日の夜、空木と石山田は『さかり屋』で会った。

 「妹の名前が好美だったということは、健ちゃんに送られて来た手紙の主は、伊村にほぼ間違いないということだ。健ちゃんを嵌めたのも伊村ということになるね」

「そういうことになるな。浅見豊を殺したのも伊村なんだろうか。」

「その可能性は高い。しかし動機が分らない」

 二人はビールを飲み始めた。あっという間に一杯目が空になった。二人とも、ビールをお替りした。今日も東京は猛暑日だった。

「赤ん坊がいたって言ってたけど、好美は仲内姓のままだよね。婿でも貰ったのかな」

「だったら、役所で調べている筈だから、分るだろう」

「巌ちゃん、もしかしたら浅見豊の不倫相手は仲内好美じゃないだろうか。姉が妹の妊娠を知る、姉の旦那がその事を知る。当然有り得る話だよ。伊村は知っていたんだ。それで‥‥‥」

 空木は、その後が思い浮かばなかった。

 「好美の不倫相手が浅見豊だということになれば、それは言えるけど、調べるのはそれこそ容易じゃないよ。それにそうだと分っても、それが何故、殺人に繋がるのか、その動機が分らない事には伊村には繋がっていかないと思う」

 石山田は、空木が思っていることを見透かしているかのように言った。

 「巌ちゃん、もしも浅見豊の不倫相手が仲内好美だったと仮定しよう。浅見が名古屋に転勤した時期が去年の三月。赤ちゃんが生まれたのが、その年の十月か十一月。つまり二月には妊娠は確認されている。伊村はそれを知ると同時に、その相手も知った。浅見を問い詰めた。困った浅見は異動を希望した。赤ちゃんが生まれたが、浅見は認知する気配も無い。手切れ金のように、お産費用に近い金額の五十万を好美に振り込んだ。その事を、伊村は東亜製薬仙台支店の支店長に訴えた。江島のしたことと一緒にね。手に負えないと思ったのか支店長は、浅見ではなく伊村を転勤させた。そこに大震災で和美までが被害に遭ってしまった。こんな目に遭わせたのは誰か。張本人は浅見豊だ。殺したい。こういう筋書きはないだろうか」

 空木は今まで、モヤモヤしていたものが切れかかっているような気がした。しかし、モヤモヤの中心は消えなかった。それは何故自分に手紙を送ってきたかということだった。

 「そのストーリーは、多少の無理はあると思うけど有り得るよ。そのストーリーでいくと、江島の事故も伊村が絡んでくる。やっぱり浅見の不倫相手を見つけ出す必要がある」

 石山田のジョッキは空になっていた。芋焼酎を注文した。

 「伊村はどこに行ったのか。杉並西署が宿泊確認で会ったのが七月十二日火曜日昼過ぎ。外出から戻ってきたらしく、黒服だったそうだ」石山田は芋焼酎を口に運びながら言った。

「黒服か。どんな感じの男だったのかな。車はどうなんだろう」

 空木も芋焼酎を飲みながら、イカの一夜干しを摘まんだ。

 「色が黒くて、痩せて、髪は短かったと言っていた。車は確認出来ていないそうだ。夏の暑いのに黒服ということはどこかの葬式だったのか」

 石山田は言いながら、手に持った焼酎のグラスを見ていた。

「十二日は江島の葬儀だよ。もしかしたら伊村は江島の葬式に出ていたんじゃないか」

「考えられないこともないね。芳名帳を見てみたいな」

 空木も頷いた。

 「伊村は山はやるんだろうか。健ちゃん、確認しておいた方がいいよ」

「山登りか。山をやっているとしたら、霊仙山も月山も登れる。確認の方法はあるけど‥‥、俺、一度伊村のマンションに行ってみるよ」

 といいつつ、空木の目は宙を泳いだ。伊村に起こった人生最悪の、不幸な出来事を考えていた。

 「巌ちゃん、伊村は仙台に居るんじゃないだろうか。閖上(ゆりあげ)の海岸辺りを探し歩いているんじゃないだろうか」

 空木は、海岸線を、涙を流しながら彷徨(さまよ)い歩いている男の姿を思い浮かべた。



『追跡』


 大林は、若い刑事と共に仙台駅に昼過ぎに到着した。

 大林たちは、東亜製薬仙台支店に行く前に、所轄署である青葉中央署に挨拶に立ち寄った。刑事課長と係長に事のあらましを説明し、東亜製薬仙台支店で聞き取りすることを伝えた。

 東亜製薬仙台支店は、大通りに面した、青葉中央署のすぐ横の仙台中央ビルの中にあった。ビルの案内板には十階、十一階が東亜製薬と表示され、十階が支店、十一階が営業所と表示されていた。

 大林たちは、十階の支店にエレベーターで上がった。インターフォンで来社を告げ、支店長への面会を要請した。二人は応接室に通された。

 しばらくすると、三人の男が現れ、名刺を出して大林たちに挨拶した。三人は支店長、業務部長、総務課長の役職だった。支店長は国友一郎、細身で小柄、眼鏡を掛け、神経質そうな感じだった。業務部長は岡山、総務課長は新井と挨拶した。

 大林が口を開いた。

「皆さんご承知の通り、昨年の三月までこちらの支店におられた浅見豊さんは、ロープで首を絞められ殺害されました。我々捜査本部は、一ヶ月以上懸命に捜査を続けていますが、未だ犯人は捕まっていません。そうした中で、犯人に繋がるかも知れない過去の出来事と、重要人物が浮かんできました。今日、滋賀県の米原から仙台まで来たのは、そのことを、より詳細に知るためです。御社、貴方がたの協力をお願いします。会社の面子とか体裁は、この際考えないで頂きたい。これは殺人事件なのです」

大林の語尾は厳しかった。

 三人のうち部長の岡山と課長の新井の顔は、緊張感で引きつっていた。

 大林はさらに続けた。

 「我々の調べでは、浅見さんは仙台で不倫行為をしていた。そして、相手女性は妊娠してしまった。その女性は御社の社員が紹介した、得意先の女性だった。そして、その事が公にならないように浅見さんを名古屋に転勤させた。この事が事件の始まりだと睨んでいます。支店長さん、その女性が誰なのか教えて頂きたいのです」

 支店長の国友に目を向けた大林の傍らの、若い刑事は手帳を開いていた。

 「私は全く知りません。当時、浅見君からは、プライベートなことで悩んでいるということは聞きましたが、それは家庭の事なのだろうと思っていました。不倫をしていて子供まで出来たなどと、思いもよりませんでした。まして、相手女性の名前などは全く知りません」

支店長の国友は身を乗り出して答えた。

「そうですか、それでしたら、女性を紹介したのが、月山で亡くなった江島さんだったということも、支店長さんは御存じなかった」

「えっ、江島が紹介したのですか。そんなことをしていたとは、管理監督者としてお恥ずかしい次第です。知りませんでした」

 答える国友には動じた様子は全くなかった。そして、岡山は頷いた。新井は俯(うつむ)いたままだった。

 「そうですか。それではもう一つお伺いしたい重要なことがあります。三月まで御社に居られた伊村さん、伊村政人さんのことなのですが、浅見さんの事件の重要参考人として、行方を捜しています。心当たりはありませんか」

 三人は顔を見合わせた。

 「伊村君が重要参考人というのは、容疑者ということなのでしょうか。浅見部長の葬儀でも、江島課長の葬儀でも顔を見ましたが」

新井が国友の顔を横目で見ながら言った。

「重要参考人。つまり、事件の事を最も知っている可能性が高い、ということです。伊村さんから話が聞ければ、御社で何が起こっていたのか、今、支店長さんが仰っていたことが真実なのか嘘なのか判る筈です」

 大林は、三人を見回し、国友を睨みつけた。国友は目を逸(そ)らした。それを大林は見逃さなかった。

 「今、課長さんが浅見さんと江島さんの葬儀で、伊村さんを見たと仰いましたが、本人に間違いありませんか」

「はい、間違いありません。伊村君とは五年以上この仙台で一緒に仕事をしていましたから、間違えることはありません」

「その時は、何か話をされましたか」

「話をすることはありませんでした。浅見部長の葬儀は私と岡山部長と江島課長の三人で参列しましたが、彼は離れたところにいましたし、目線を合わさない様にしていたようにも感じましたから、こちらからも話しかけませんでした。江島課長の葬儀でも同様で、支店長も参列され、支店の何人かが参列していましたが、誰とも話しはしていないと思います」

 江島の葬儀の後、自宅に戻ったところへ杉並西署の巡査が宿泊の確認に来たのだと、大林は合点した。そして伊村はその後、行方をくらました。

 「そうですか。ところで伊村さんは何故、御社を辞められたのか聞かせていただけませんか」

「優秀な社員で、辞めて欲しくはなかったのですが、事情が事情でしたので、止むを得ず、というところでした」国友がいかにも饒舌に話した。

「伊村君は、東京に家探しに行きましたが、生憎、震災が発生して、家は探せませんでした。その震災の際の大津波で、仙台に残した奥さんが不幸なことになってしまい、会社を辞める決心をしたようです」新井が付け加えるように説明した。

 「伊村さんは、その後、東京の杉並に部屋を借りられて住んでいるようですが、先程お話した通り、目下のところは行方が分りません。最近、伊村さんから電話などはありませんでしたか」

 大林が聞くと、国友と岡山は首を横に振った。新井は首を横に振っている二人を見つめていた。

 「伊村さんのことでもう一つお伺いしたいのですが、伊村さんには登山の趣味はありましたか」

 大林はまた、三人を見回した。

 「伊村君は、山は好きでした。私も一、二度一緒にこの近くの泉ヶ岳に登りました。ここ二年間は一緒には登ってはいません。彼は単独でいろんな山に登っているようでした。夏のアルプスにも登っていると聞いていました」国友が答えた。

「支店長さんも山がお好きでいらっしゃるんですね。亡くなられた江島さんも山好きだったようですね」

大林は国友の顔を見ながら訊いた。

「ええ、彼も山好きでした。月山も最初は私と二人で登る予定だったのですが、登る予定の土曜日が、私が仕事になってしまい行けなくなりました。彼は急遽金曜日も休暇を取って、月山と温泉をセットで登ると言って出かけました。山慣れしている筈なのに、あんな事になるとは油断としか言い様がありません」

 大林は、国友と江島の親しさから考えて、浅見の不倫行為の相手を知らないと言ったことに、疑念を抱いた。

 「お願いなのですが、伊村さんが写っている写真と、伊村さんがご自分で書かれたものがありましたら、しばらくお借りしたいのですが、手配して頂けますか」

大林が言うと、新井が国友と顔を見合わせ、席を立った。

「ご用意して頂いている間に、お聞きしたいのですが、江島さんのスケジュールを知る事が出来る方は、どなたがいらっしゃるのでしょうか。例えば今回のように、休暇を取る予定を事前に知り得る方です」

大林は国友を見て訊いた。

 部長の岡山が国友に代わって答えた。

 「会社のシステムとしては、休暇申請はパソコンの画面上で行うので直属の上司しか事前には分りませんが、我々幹部職はパソコンにスケジュール入力して、支店内の誰でも我々の予定が把握出来るようにしています。ですから、江島課長の休暇の予定も、私は当然ですが、支店全員が分る筈です」

 国友もそれを聞いて頷いた。

 席を立っていた新井が、社名入りの白封筒を持って戻ってきた。

 新井は社内の飲み会の席と思われる、スナップ写真をテーブルに置いた。それは、三月の初旬に送別会で写した写真だった。一番右に居るのが伊村君だと、新井は指した。

 伊村の顔は陽に焼けているのか浅黒く、髪は短かった。

 そして新井は、「退職届け」と印刷された紙をテーブルの上に置いた。それは伊村の退職届けだった。

「最近は、ほとんどパソコンの画面上で処理することが多くて、自筆の物というとこれ位しか見当たりません。しかもコピーなのですが宜しいでしょうか」

 新井は大林の方にその紙を差し出しながら、大林の顔を見た。

 「結構ですよ。ありがとうございます。しばらく写真ともどもお借りします」

 大林は、写真と「退職届け」を封筒に収め、隣の若い刑事に渡した。

 「支店長さん、ご協力ありがとうございました。最後にもう一度お聞きします。伊村さんから、浅見さんの不倫のこと、江島さんが相手女性を紹介したこと、相手が得意先の女性で妊娠したこと。これらの訴えがあったのではないですか」

 大林は国友を見て、強い口調で聞いた。国友は黙って首を傾げるだけだった。

 大林は、三人に時間を割いてくれたことの礼と、仕事の邪魔をした侘びを述べ、東亜製薬仙台支店を出た。新井が、下まで送りにエレベーターに一緒に乗った。

 新井は大林に、六時に隣の国際ホテルのロビーで待っていて欲しい、話したいことがあると囁(ささや)いた。大林は黙って頷いた。

 外に出た大林は、若い刑事に聞き取りの印象を聞いた。若い刑事は、国友の言っている事は、山の話し以外は信用できない。そして、かなりの事を知っている筈なのに喋らないのは、自分の身を守る為としか思えない。この会社は国友の恐怖政治に怯えているような雰囲気がある、と感想を言った。

 若い刑事は、大林に新井は何を話したいのか聞いたが、大林は「さあ」と言うだけだった。

 しかし大林は感じていた。面会の時の新井の様子は、支店長の国友の話しに不満そうだった。あそこでは、国友の前では言えなかった何かがきっとある筈だと。

 二人は、六時まで少し時間があった。隣接する青葉中央署に戻り、席を借りることにした。

 大林は、湖東署の捜査本部に仙台での聞き取りの報告をした。

 仙台でも伊村の行方の目星は付かない。目下の所、東京の伊村の部屋の張り込みを続けるしかないと思われること。浅見と江島の葬儀に伊村が出ていたという情報の確認を、石山田刑事に依頼してほしいこと。浅見の不倫相手の女性が分れば全容解明に繋がると思われる。ついては、月山西川署に事件性の有無の確認ということで、仙台の江島の部屋を調べてくれるよう、課長から向こうに依頼して欲しいこと。伊村の写真と自筆の書面を送るので、大垣のビジネスホテルのチェックインカード、湯の山温泉の旅館湯元の宿泊カードそれぞれの筆跡鑑定を依頼して欲しいこと。これらを大林は、報告するとともに各署に連絡依頼してくれるよう課長に頼み、手に入れた写真と自筆の退職届けを、写真電送ファクスで送った。

 夕方六時前、大林たちは、国際ホテルで新井と会った。三人は奥のロビーラウンジに入り、飲み物を注文した。

 新井は、緊張した様子で、辺りを気にしながら話し始めた。

 「手短にお話します。国友支店長は、浅見部長の不倫のことは江島から聞いてご承知でした。浅見部長を名古屋に異動させたのも、本人がここから逃げたいという希望と、公にならないうちにということからでした。ただ、相手の女性の勤務先や名前は、事に巻き込まれたくないということで、本当に聞かなかったようです。これは本人が言っていました。伊村君が辞めた理由は、国友支店長が伊村君に、奥さんを探し続けていては、会社に迷惑になる。会社を辞めろと言われたからです。さっきの支店長の話は全くの嘘です。伊村を転勤させて良かった。辞めてくれて良かった、と言っているのを、伊村君は、後輩伝いに知っていた筈です。その伊村君が何故転勤することになったか、ですが、刑事さんの推測通り、伊村君は支店長に訴えたようです。それが支店長にとっては、煩わしい存在になったからだと思います。役員を目指しているあの人にとっては、いて欲しくない存在だったと思います。あの人ほど出世欲の強い人は、他に私は知りません。浅見さんが殺され、江島さんが事故で亡くなった。国友支店長はホッとしているのではないでしょうか。自分の出世の妨げになるものは、全て排除することが、あの人のやり方ですから。うちの会社も人を見る目が無い会社です。あんな人を支店長にしてしまうのですから。それから、伊村君は何回か会社に電話をして来ています。私は話していませんが、うちの課に、伊村君の奥さんと高校、短大の同級生の女子社員がいるのですが、その子に連絡して来たようです。伊村君は、正義感の強い子ですが、一途にものを考えるところがあるので心配です。奥さんもまだ行方知れずのままで、伊村君はあまりにも可哀相です。刑事さん、伊村君を宜しくお願いします」

 新井は手短にと言いながらも、しっかり、そして一気に話した。

 大林は新井に話してくれた礼を言った。そして新井に、伊村は江島の休暇の予定を知っていたかどうかを、その女子社員に聞いて欲しいと依頼し、名刺を渡した。

 ホテルを出た大林は、夕陽の当たる広い歩道を歩きながら独り言のように呟いた。

 「会社というのは人を創りもするが、壊しもするところだ。それもいとも簡単に壊す」


 空木はその日の午後、JR荻窪駅の西口を出て、南に向かって歩いていた。交番で荻窪五丁目七番地を訊き、小学校の付近であることを教えてもらっていた。

 ハイム荻南は四階建てのクリーム色のこじんまりしたマンションだった、

 電信柱の陰に男が立っていた。張り込みだろうかと空木は思った。

 このマンションはオートロックではなく、管理人も居なかった。空木は、階段を上り202号室の前に立ち、ドアノブを引いてみた。やはり開かなかった。

 ベランダは南に向いた道路沿いだった。外に出て、少し離れて202号室と思われるベランダを見上げた。物干し竿ではなく、ロープが一本引かれ、そこに紺色の、四、五十センチ四方の厚手の布様の物が干されたままになっていた。空木はカメラのズームを最大にして、シャッターを押した。どうやらスパッツの様だった。空木は、月山の雪渓の昇り降りに使ったのではないかと想像した。

 空木は、伊村の東京での生活がどれ程寂しいものだったか想像した。空木自身は独り者で何とも思わないが、伊村は和美と二人で暮らす筈だった。仙台での嫌な事も、東京での時間が忘れさせてくれるのではないか、という期待を抱いていたが、叶わなかった。東京での独り暮らしは、伊村には耐え難いものだったのではないか。昔を思い出し、好きな山に没頭しようと考えたのではないか。湯の山温泉に泊まった時は、実名で泊まっている。浅見への殺意はまだ芽生えていなかったかも知れない。伊村は霊仙山にも登りに行ったかも知れない。

 

 月山西川署では、吹石刑事と課長が、湖東警察署の刑事課長からの依頼を受け、対応を相談していた。

 湖東警察署からの依頼はこうだ。霊仙山事件の重要参考人は、仲内和美の夫である伊村政人、東亜製薬を三月に退職した男である。被害者の浅見豊とは、東亜製薬仙台支店時代に同じ職場にいた。月山の転落事故で亡くなった、江島照夫も東亜製薬の仙台支店に在籍し、浅見に女性を紹介していた。三人は、浅見豊の仙台在住時代の不倫相手と繋がると思われる。不倫相手が、伊村政人と何らかの繋がりがあるようであれば、江島照夫の転落事故も事件の可能性が大きくなる。そこで、江島照夫の仙台の部屋に、浅見豊の不倫相手を特定出来る様な物が、残されていないか調べて貰えないか、ということだった。

 吹石は課長に、状況的には月山の転落事故は、事件の可能性を秘めていると思われる。調査も何もしないまま、もし後々、事件だということになれば、署長も課長も後悔することになるのではないか、と進言した。

 課長は腕組みをして考えて、吹石に言った。

「吹ちゃん、やってみよう。但し、少人数しか出せない。署長と地域課長には私から言っておくから動いてみてくれ」

 月山西川署の吹石と地域課の本山が動き始めた。

 吹石は江島照夫の転落事故を扱った本山を呼んだ。転落事故当日の月山スキー場駐車場周辺の聞き込みをして、登山者、駐車していた車の情報を集めてくれるよう依頼した。

 さらに吹石は、江島の妻の江島恵子に連絡をした。事情を説明し、仙台の部屋の捜索と、葬儀の際の芳名帳の確認についての了解を得た。幸いにも、江島の仙台の部屋は、まだ引き払ってはいなかった。


 翌日の金曜日、吹石、大林、石山田の三人の刑事はそれぞれの場所で動いた。

 吹石は仙台に向けて車を走らせた。

 江島照夫の仙台の部屋の住所は、青葉区米が袋一丁目。そのマンションはグランメゾン米が袋と言い、五階建ての三階303号室だった。不動産管理会社の担当者に捜索令状を示し、鍵を開けさせた。

 二週間の間、外気と混じわっていない部屋の空気は、暑さも加わりじっとりと澱んでいた。2DKの部屋は比較的整理されていた。部屋の一つは山道具が部屋中に置かれていた。寝室は居間と兼用だった。机は無く、パソコンも持っていなかった。

 吹石は整理ダンス、衣装箱、本棚の順に調べていった。本棚はビジネス書と山関係の本が半々だった。その中に、「登山順記」と書かれた三冊のノートがあった。吹石はノートをパラパラと捲(めく)った。

 江島は十年前から山登りの趣味を持ったようだった。吹石は最後に書かれた山日誌を見た。六月二十五日土曜日、曇り時々晴れ、安達太良山あだたらやま、となっていた。流し読みをしていたが、ある名前に目が留まった。浅見の名前だった。それはこう書かれていた。「浅見部長の葬儀に参列した。伊村も来ていた。ニューヨークヤンキースのベーブルースではないが、怨念なのか。イニシャルも一緒だ。忘れよう。忘れるには山が一番だ。…」これはどういうことなのか。吹石は三冊の山日誌を署に持ち帰ることにした。

 

 大林は仙台から東京に向かう東北新幹線の車中だった。

 携帯電話に湖東署の課長から連絡が入った。東亜製薬仙台支店の新井から連絡があって、伊村君は休暇予定を知っていた、と伝えて欲しいとのことだった。

 大林は昨日の名刺を取り出し、東亜製薬仙台支店の新井に車中から携帯電話を掛けた。伝言を聞いたこととその礼を言い、直接女子社員の方と話をしたいと言った。しばらくして女性の声に変わった。女子社員は「奥村律子と申します」と電話の向こうから挨拶した。大林は突然の電話の非礼を詫び、伊村からの電話の確認をした。

 奥村律子によると、六月の末頃だったと思うが、江島課長と国友支店長の休暇の予定を教えて欲しいと言ってきた。理由を聞くと、二人に会いに会社に行こうと思うが、休暇をとっている日は外したいと思うので、と話していた。その時、休暇予定を伝えたとのことだった。その後も一度、先週だったと思うが、支店長の休みを確認したいと言ってきたので、その時も教えた、とのことだった。伊村は、江島に関して山の話はしなかったか、聞いたが、山の話は無かったとのことだった。大林は礼を言った。


 石山田は浅見芳江に連絡し、葬儀の際の芳名帳、香典に伊村政人という名前がないか問い合わせた。伊村の名前は無かったことが確認された。

 石山田は大林と急遽、東武線氷川台の駅で待ち合わせた。東京の江島家を訪れるためだった。大林は若い刑事と東京駅で別れ、石山田と合流した。二人は駅近くのラーメン屋で昼食を取り江島家へ向かった。

 江島家は氷川神社の近くのマンションだった。

 江島照夫の妻の恵子は、葬儀の際の芳名帳と香典袋全てを用意していた。玄関先で芳名帳を確認し始めた二人に、恵子が部屋に入るよう勧め、居間に案内した。二人は、大林が芳名帳を、石山田が香典袋を確認し始めた。恵子はコーヒーを出しながら、どちらにとは言わずに聞いた。

「主人の事故に関して何かあったのでしょうか。山形の警察の方から連絡を頂いて、主人の仙台の部屋を調べさせて欲しいと仰っていました。先程はまた電話があって、主人の山日誌をしばらく預かると仰っていました。それにこうして刑事さんがお二人も来られています」

「ご主人の事故にも関わるかも知れませんが、ある別の事件に関わることで調べさせて頂いています」大林が答えた。

恵子は頷きながら「もしかしたら浅見部長様の事件でしょうか」と言った。大林は曖昧な返事をした。

「主人が浅見部長様の葬儀から帰ってきて、あれは怨念かも知れないと言っていました」

 恵子の話に二人は顔を見合わせた。

 「怨念‥‥‥、何の怨念か聞かれましたか」石山田が思わず聞いた。

「聞きましたけど、主人は何も言いませんでした。それが何か?」

「いえ、怨念という言葉が恐ろしいと思いましたので、つい聞いてしまいました」

 二人はまた、芳名帳と香典袋を調べ始めた。

 芳名帳を繰っていた大林が、「あった」と小さな声を上げた。大林は芳名帳を石山田に見せた。「仲内好美」と記帳されていた。

「奥さん、この方はご存知の方ですか」

 大林は、芳名帳の「仲内好美」と記帳された欄を指しながら恵子に訊いた。

「いいえ、存じ上げない方です。会社の方なのではないでしょうか」

「こっちにもあった。仲内好美の香典袋だ」石山田が声を上げた。

 伊村の名前は芳名帳にも香典袋にも無かった。

 二人が、恵子に礼を言い、腰を上げた時、恵子が「忘れるところでした」と言って、メモを取り出した。「月山西川署の吹石に電話をください」という言伝(ことづて)です、と大林に伝えた。


 大林と石山田は江島家を出た後、伊村のマンションの所轄である杉並西署の刑事課に立ち寄った。伊村は未だ部屋には戻っておらず、身柄の確保には至っていなかった。

 二人は、張り込みを続けている伊村のマンションに行った。大林と東京駅で別れた刑事も張り込んでいた。今日で三日目だが、伊村の部屋の灯りが点くことはなかった。

 そのマンションを後にして、二人は石山田の勤務する国分寺署に向かった。国分寺署は西武線の恋ヶ窪の駅に程近く、府中街道に沿ってあった。

 大林は、刑事課長と係長の柳田に挨拶し捜査協力の礼を述べた。

 「大林さん、西川署に連絡してください」石山田は大林に言った。

 大林は忘れていたようだった。手帳を取り出し、刑事課の電話を借りた。吹石刑事は署に戻っていた。

 吹石は、月山登山口付近の聞き込みでは、情報は得られなかったが、江島の部屋を調べたところ、妙なことが書かれた江島の山日誌があった。浅見の葬儀の後に書かれたもののようなので、見て欲しいとのことでファックスを送ると言った。

 A4サイズのノートの該当ページを含んだ一冊分がファックスされてきた。石山田は、これが江島恵子の言っていた、山形の警察が預かるという山日誌なのかと思った。石山田は、届いたファックスを大林に渡した。大林はファックスを読んだ。読んで首を傾げて、石山田に「どういうことなんでしょうか」と言って、ファックスを渡した。石山田も首を傾げた。

 大林は、「ベーブルースの怨念」とはどういうことかと、石山田に聞いた。石山田は首を捻って係長の柳田に聞いた。

 「係長、『ベーブルースの怨念』ってご存知ですか」

「確か、ボストンレッドソックスからニューヨークヤンキースに出された時の恨みで、レッドソックスが何十年間も優勝できないというような話じゃなかったかな、よくは知らないけどな」

「‥‥‥‥‥」


 石山田と大林は、空木との待ち合わせに「さかり屋」に向かった。

 空木は既に来ていた。店の主人は「いらっしゃい」と言って奥を指差した。

 空木は立ち上がり「大林さん、久し振りです」と挨拶した。大林も空木に、情報を提供してくれた礼を言った。三人が会うのは、浅見豊の葬儀の時以来だった。三人はビールを注文し、ジョッキを合わせ再会を喜んだ。

 大林は、伊村政人が重要参考人として浮かんで来たのは、空木のお陰だと言った。

 尾行依頼の手紙の差出人である仲内和美の名前が、伊村政人の妻の旧姓であることが判明したことが、捜査の進展の鍵となった。それを調べてくれた空木には頭が下がると言った。

 空木は、元はと言えば、仕事の依頼を疑いもせず請け負った自分の責任であり、ホームページを開きながら、電子メールでなく手紙で依頼が来た時に、疑うには十分だった筈で、恥ずかしい、と返した。

 「ところで空木さん、伊村政人の名前はいつ知ったのですか。」大林が聞いた。

「それが偶然でした。最初は東亜製薬の仙台で何が起こったのか、興味本位で知りたかっただけなんです。それで、東亜製薬の関係者で話が聞けそうな人間が居れば、聞き出してやろうという程度だったんです。伊村の名前は、前の会社の同期と話している中で、初めて伊村の名前を聞きましたが、その時は、情報を聞き出せる人間かも知れないと思っただけでした。それと、始めは興味本位でしたが、殺された浅見豊の奥さんから、仕事の依頼を受けて、請け負ったことで、深く調べて行くうちに行き着いてしまった。という感じです。全ては偶然です」

 空木はビールを飲み、煙草に火を点けた。

 「浅見豊の奥さんから仕事の依頼ですか」大林が驚いたように聞いた。

「健ちゃんは余程、浅見の奥さんに信用されたのか、旦那の仙台時代の女性関係を調べて欲しいと頼まれて、名古屋のスナックのママにも、情報を取りに行ったんですよ」石山田は空木に代わって答えた。

「何故、私に頼んだのか分りませんが、浅見芳江は仙台時代に間違いなく主人に女が出来たと思っていたようで、自分があの時、それを問い詰めていればこの事件は起こらなかったのではないか、と思っているようでした。それで真実を知りたいという思いが強くなったようです」

 空木は、ビールグラスが空いた大林に、飲み物を聞いた。大林は芋焼酎が欲しいと言った。

 「それで浅見が仙台で起こした出来事を調べるうちに、伊村の家族が震災の津波で被害に遭った事や妻の名前、旧姓が仲内和美だったということを知り、妹の好美の存在にまで行き着いたということですか」

 大林は頷きながら話し、ニラレバ炒めに箸を伸ばした。

 「浅見の起こした出来事はほぼ分かったのですが、相手の女性が特定出来ないんです。それが分かれば、浅見芳江から依頼された仕事は終わるのですが‥‥‥」

 空木は芋焼酎の水割りを大林の前に置いた。

 「そうですか。我々の捜査も大きく進展しましたが、伊村が仮に犯人だとしても、動機が今一つピンと来ないのです」

 大林はそう言ってグラスを口に運んだ。

 「伊村は全てを知っているんでしょうね。今、一体どこで何を考えているんでしょう。行方不明の家族のことを考えているんでしょうかね」

 空木は独り言のように呟(つぶや)いた。

 「ところで健ちゃんは『ベーブルースの怨念』って知ってるかい」石山田が聞いた。

「『ベーブルースの怨念』。『ベーブルースのうらみ』のことだろ」

「知ってるのか」

「ああ、ボストンレッドソックスからニューヨークヤンキースに金銭トレードされた話だよ。ベーブルースを球団オーナーの借金のためにトレードに出したんだ。それ以後、レッドソックスは八十年以上ワールドチャンピオンになれなかったんだ。それをファンが『ベーブルースのうらみ』が原因だ、としたことが謂(いわ)れだよ」

「おお、さすが探偵だね。よく知ってる」

 石山田が言うと、大林が月山西川署からファックスされてきた紙を空木に見せた。それを見た空木は「怨念‥‥。イニシャルが一緒‥‥」と呟(つぶや)いた。

「江島の奥さんも、浅見の葬儀から帰ってきた江島が、怨念と言っていた、と話していたよ」

 石山田が焼酎をガブリと飲んだ。

 「怨念も気になるけど、このイニシャルが一緒というのはなんだろう。ベーブルースのイニシャルなのかな。確かベーブスースの本名は、移民の子でややこしい名前なんだよな。知ってる人なんか居ないんじゃないかな。勿論、俺も知らない」

 空木はグラスを口に運びながら考えていた。

「ベーブルースのイニシャルはBRじゃないのか」

 石山田が言った時、空木が「あっ」と小さく叫んだ。

「厳ちゃん、仲内好美だ。NYだよ」

「仲内好美。NY。なんだよ、それは」

 石山田は大林と顔を見合わせた。

 「ベーブルースのイニシャルじゃないんだよ。ニューヨークヤンキースのイニシャル、NYのことを一緒だと言っているんだ。NY、つまり仲内好美の恨み、と言っているんだ。やっぱり不倫相手は仲内好美だったんだ。紹介した江島はそれを自分でも忘れようとしていることが、この山日誌に書かれているんだよ」

「そうか、そういうことだったのか。健ちゃんやるな」

 石山田が手を打って声を上げた。

 「空木さんの言われる通りかも知れませんね。状況的には、仲内好美と読み取るのが自然ですね。好美が浅見豊の不倫相手で妊娠したとしたら、伊村は当然知り得る立場ですし、会社に訴えるべき立場でもあります」

 大林は水割りの入ったグラスを一気に空けた。

 「浅見、江島、伊村のトライアングルの中心に居たのは仲内好美だった。ということは、江島は伊村に殺されたのか」石山田が空木の顔を見た。

「いや、殺したかどうかは分からない。ただ、月山で伊村は江島と会っているのは間違いないと思う」

「空木さんの推測通りかも知れません。伊村は江島の休暇予定を知っていた筈です。ただ、月山に行くかどうかは知らなかった筈ですが」大林も空木の顔を見て言った。

「恐らく伊村は、浅見の葬儀の時に、直接か間接か分かりませんが、江島が月山に行くことを知ったんだと思います」

「しかし、月山には支店長の国友も、当初一緒に登る予定だったと言っていましたが、二対一では殺害は難しいのではありませんか」大林だ。

「これも推測なのですが、当初、伊村は月山で江島と国友の二人に会って、好美母子の話を含め、恨みをぶつけるつもりだったのではないでしょうか。それも私の前で、会社のスキャンダルを暴くためにです」

「それで好美の名前の手紙で月山神社に来てくれと言ってきたという訳なのか。健ちゃんが証人ということか」石山田が言った。

「その通りだと思う。予定が変わったというのは、国友が来られなくなった、ということなんだ。だから江島が死んだというのは、伊村にとっては想定外の出来事だったんだと思う。本当の事故だった。何と言っても江島は、伊村とともに全てを知っている証人みたいな存在の筈だからね」

 空木は少し興奮したのか、顔を赤らめ、イカの一夜干しに手を伸ばした。

 「だったら伊村は何故出てこないのかな。出てきて全てを暴露してもいいんじゃないか」石山田が首を捻った。

「多分、もう一人直接話したい人間がいるからだよ」

「もう一人というのは、ひょっとして支店長の国友ですか」

 大林は言って、仙台での聞き取りの時の国友を思い浮かべた。虚勢を張ることが出来るが、それは虎の威を借る狐のように大林には見えた。

 「その通りです。ただ、月山との違いは、伊村は、今は国友を殺してもいいと思っているのではないか、ということです。伊村はたびたび会社の後輩に、この会社にはこの世から消えて欲しい人間が三人いる、と言っていたと聞いています。もしかすると、その三人というのは、浅見、江島、国友の三人ではないかと思います。その内二人が消えた。一人は伊村自身の手で、一人は事故で死にました。あと一人となった今、殺す事は世のためと思っているような気がします」

「伊村は殺すつもりなんだろうか。だとするとやっぱり仙台の何処かでなのか」

石山田の話を聞いた空木は、焼酎を口に運びながら「いや、何処かの山だと思う」と推測を口にした。

「どこの山なんだ」

「それは俺にも分らない。突き落とせば死ぬ、そういう山が最適だ。とは言え国友がそういう山に行くかどうか」

「伊村は毎日、国友を見張っているのかな」

「そんなことはしないと思うけど、休日は国友の動きを見ている可能性はあるね」

「伊村は国友の休暇の予定も知っている筈です。所轄の協力を貰って、国友の自宅を張り込むようにしましょう」二人の会話をじっと聞いていた大林だった。

「大林さん、東亜製薬の仙台支店に、国友が山に登る時はどこに登るのか必ず聞いて、連絡をよこすように言ってください。それと、江島の山日誌の全部のコピーを私に読ませてくれませんか。構わないでしょうか」

空木はまた煙草に火を点けた。



『告白』


 週末の土曜、日曜は全国的に猛暑日となった。空木はテントを担いで、北アルプスにでも避難したい心境だったが、月曜には国分寺署に出向く予定を止める訳にもいかなかった。

 月曜になっても猛暑は一向に収まらず、街路樹の葉もうな垂れている様に見えた。

 伊村の行方は全く分らず、大垣のビジネスホテルのチェックインカードの筆跡と、東亜製薬から提出された伊村の退職届けの筆跡が一致したことから、今日、全国に重要参考人として手配された。

 空木は、国分寺署に届けられた、江島照夫の山日誌のコピーを借り受け自宅に持ち帰った。

 石山田は管内で発生した窃盗事件の現場に出向いていた。

 大林は荻窪の伊村の部屋の張り込みを続け、一週間近く米原の自宅には戻っていなかった。

 七月二十六日火曜日。昨夜のスコールのような雨のせいか、幾分暑さは和らいだが、湿度が高くじめじめしていた。

 空木は、コンビニで朝昼を兼ねたサンドウィッチとカップ麺、サラダを買いに出た。マンションに戻り、メールポストを開けた。広告チラシと一緒に白い封筒が入っていた。封筒の差出人は書かれていなかった。空木は、またか、と思った。過去二度の手紙との違いは、差出人が書かれていないことと、宛名が手書きであることだった。

 空木は部屋に戻り、コーヒーを入れ、食事をしながら封筒を開けた。手紙を読んだ空木の驚きは、霊仙山の廃屋で死体を発見した時以上だった。

 それは伊村政人本人からの手紙だった。


空木健介様

前略 突然の手紙に驚かれておられることと思います。

私の名前は伊村政人と申します。空木さんは、もう分かっていると思います。仲内和美、仲内好美の名前で手紙を出したのは私です。何故、そのようなことをしたのかと思っておられると思います。

 それは一つには、私には成さなければならない事がありました。それはまだ成すことは出来ていません。もう一つは、空木さんに私の悔しい、苦しい胸の内を二人の名前を使うことで、いずれ分かって貰えると思ったからです。

 私は浅見豊を殺害しました。それは、浅見はこの世に存在してはいけない、許されない人間と思い至ったからです。奴はある女性を、結婚を餌に弄(もてあそ)び、妊娠までさせました。そして逃げ回り、産まれてきた子の認知もする気も無く、挙句の果てに金で誤魔化そうとしました。ある女性というのは、もう空木さんはご承知と思います。私の義妹である仲内好美です。

 私が好美の妊娠を知り、相手が浅見豊だと知ったのは、出産の数ヶ月前でした。その時、浅見に義妹を紹介したのが江島だということも知りました。私は国友支店長に相談しましたが、既に仙台に居ない人間が起こしたことを大事(おおごと)にするな、の一点張りでした。江島にも何故あんな奴に、紹介したのか問い詰めましたが、反省する言葉は聞けませんでした。

 好美は、十月に出産しました。名前は育美と名付けました。私ども夫婦の養女にと説得しましたが、好美は、浅見さんは結婚してくれる筈だから、の一点張りでした。浅見は結婚どころか、認知もする気はありませんでした。

 そしてあの三月十一日でした。妻の和美も、妹母子も両親も皆、津波にさらわれてしまいました。私は、私を異動させた国友と江島を恨みました。東京にさえ行っていなければ、妻の和美は生きていた筈です。逆恨みであることは十分分かっています。しかし、異動の理由が解っている私には、悔しくてなりません。

 三人は、好美母子がこの世から居なくなったことにほっとしたに違いありません。そして私が東亜製薬から去ったことも。この悔しさを解っていただけるでしょうか。

 空木さんは、何故私が、空木さんを巻き込むようなことをしたのか、疑問に思っておられるでしょう。空木さんは記憶に無いと思いますが、私は名古屋、仙台で空木さんを存じておりました。特に仙台でお見かけした時、空木さんは杉谷君と同行しておられました。そして、病院の外来で待っている時、杉谷君にこう言いました。

「人間は、自分を本当に理解してくれる人が一人居てくれれば幸せだ。全ての人に理解して貰おうとすると傷つき不幸になる。そして誰かを理解する人になることが出来れば一人前だ」その言葉は私には忘れられない言葉になりました。

 私の理解者は妻の和美でした。その和美が居なくなりました。空木さんに解って貰えればそれでいい、解って欲しいと思い、和美の名前であのような仕事の依頼をしてしまいました。

 空木さんに依頼をした時は、浅見豊を殺すつもりはありませんでした。浅見の家庭を壊そうと思っての依頼でしたが、浅見は名古屋でも女性癖は変わっていないことを見て、殺すしかないと決めたのです。

 江島は不幸な事故でした。国友と二人で来ていれば、あんな事にはならなかったでしょう。空木さんに月山へ来てくれようお誘いしたのは、空木さんの前で、あの二人に辱めを味合わそうと思ってのことでした。それで終わりにしようと思っていました。

 私は、殺人という重大な罪を犯しました。決して許されることではありません。和美もきっと私を叱るでしょう。しかし、私にはっもう一つしなくてはいけないことが出来ました。和美のためにやらなくてはなりません。

 空木さんと会ってゆっくり話がしたかった。こんな男がいたことを忘れないでください。

                                         伊村政人

                                       草々


 便箋四枚に書かれた伊村からの手紙を読んだ空木は、窓の外を見ながら、一つ大きな息を吐いた。伊村の悔しさ、辛さが空木の心の芯に沁(し)みた。

 空木は思った。伊村は死ぬつもりだ。空木は、このままでは自分が後悔することになると思った。伊村はどこに居るのか、早く探し出さなければならない。封筒の消印は昨日の月曜日、仙台だ。伊村の狙いは国友と会うことだ、それも山でだ。国友に動きがあったのだろうか。伊村はそれを知って最後の手紙を送ってきたのか。兎に角、石山田と大林にこの事を知らせなければならない。

 空木は、石山田の携帯電話に電話をした。石山田は国分寺署に居た。空木は、伊村から手紙が来た事を伝え、その文面から、伊村は国友とともに死ぬつもりだと感じたことも伝えた。石山田は、すぐに大林に連絡を取るので、空木にその手紙を持って、国分寺署に来るように言った。


 空木が国分寺署に着いたのは、午前十一時少し前だった。大林はまだ来ていなかった。空木は、石山田に伊村からの手紙を見せた。手紙を読んだ石山田は、空木の想像した通りだと言った。

 横を通りかかった刑事課長が「こっちの仕事もちゃんとやってくれよ、石山田君。なあ、柳田係長」と言って石山田の肩を叩いた。石山田は柳田係長の顔を見て、親指を立てて意味不明のOKサインを出した。

 大林が国分寺署に到着したのは、それから三十分程してからだった。空木は、大林にも伊村からの手紙を見せた。手紙を読んだ大林は、湖東署の刑事課長に連絡し、手紙をファックスで送った。

 「大林さん、伊村は国友を殺して、自分も死ぬつもりのように思えますが、どう思いますか」

 空木は、文面から読み取った自分の想像を大林に伝えた。

 「私もそう思います。相当な思いを持った手紙だと思います」

「伊村にこれ以上、罪を重ねさせる訳には行きませんよね。国友に連絡した方が良いのではありませんか」

 大林は「そうですね」と、携帯電話を手にして東亜製薬の仙台支店に電話をした。国友は出張中で会社にはいなかった。大林は、自分の携帯電話に連絡をするよう伝言した。そして、念の為、国友の休暇の予定を聞いた。それは、明後日、木曜から金曜にかけてだった。

「木、金ですか…」空木は考えていた。国友は何処に行くつもりか。

 大林は国友の自宅住所の所轄である仙台青葉北署に連絡し、自宅周辺の巡回を強化して、一層注意して欲しい旨を伝えた。

 「大林さん、伊村の手紙の消印が仙台で日付は昨日の月曜日になっています。過去の伊村の手紙の差出地は、和美の時が東京千代田区、好美の時が仙台でした。和美の時は自分の居場所を知られたくなかったから、千代田区から出した可能性があると思います。好美の時は、もう最後だと思って仙台というヒントを出しても良かった。そうして考えると、今の伊村にはもう一つ成す事があるといっている以上、もう仙台には居ない可能性があります。伊村は国友の登る山を知っていて、もう既にそこに向かっているか、到着して待っているんじゃないでしょうか」

 空木はそう話しながら、国友は土曜、日曜を含めた四日間の休みにどこに登るつもりなのかとずっと考えていた。

「健ちゃんはどこの山だと思っているんだ」石山田が腕を組んだ。

「それは俺には分らない。国友に聞くしかないよ」

「国友に山に登りに行くつもりなら、必ず行き先を言うように言いましょう」

 大林は、仙台の東亜製薬で面会した時の、国友の非協力的な態度を思い浮かべたのか、強い口調になっていた。



『甲斐駒ケ岳』


 翌日の水曜日は朝から気温三十度を超えた。空木はジージー、シャンシャンというせみの声に起こされた。

 トレーニング室のある体育センターに隣接した公園には、夏休みの子供たちが、せみ取りに来ていた。

 空木は、暑さは大の苦手だが、汗をかくのは好きだ。トレーニングで大汗をかき、シャワーを浴び、冷えたビールをグビっと飲む。これが平日に出来る。サラリーマン生活では考えられないことだった。

 部屋に戻った空木は、一通り読んだ江島の山日誌をもう一度読むことにした。江島は百三十回ほどの山行さんこうを記録していた。東北の山は勿論、北アルプスの山もいくつも登っていた。関東の山も雲取山、筑波山、谷川岳とかなりの山に登っていた。何故か南アルプスの山には一度も登っていなかった。中央アルプスも、八ヶ岳連峰も登っていたが、南アルプスだけはなかった。恐らく、南アルプスは山懐(やまふところ)が深く、休みの日数が余分にかかることが原因だろうと空木は日記を読みながら思った。

 空木も赤石岳、聖岳、悪沢岳と南アルプスの主峰を登っているが、何れも登山口への移動と帰宅に、それぞれ一日取られる。サラリーマン登山者には休暇のやり繰りが難しい山だった。

 国友と一緒に山行している山もいくつかあったが、東北の山を何れも日帰りの山行だった。その中に、国友が南アルプスに行く時は、自分も連れて行ってくれと言っているが、支店長の体力では難しいと言って断った、という部分があった。伊村の手紙を読んだ後、この文を見ると、江島も山に関しては、はっきり物を言うのだと空木は思った。

 山行は何と言っても体力がベースで出来るものである。遭難事故の大半は体力に問題があって起こると言っても過言ではない。体力のない登山者が、パーティーの中に一人でもいれば全員がその一人に巻き込まれると思わなければならない。最近の山の遭難事故は中高年の体力不足であり、トムラウシの事故も天候が根本ではあるが、究極は体力不足と言える。そういう意味では、江島の国友への言葉は忠告と言って良いほど正しい。

 伊村との山行も二回あったが、二年前が最後だった。江島と伊村は当時、山でどんな話をしていたのか知りたかったが、今となってはそれを知る術は無かった。ただ、二回山行をともにしていれば、山仲間となっている筈だ。その仲間に裏切られたという思いも、伊村にはあったのではないかと空木は思う。

 空木は読むうちに、江島の山日誌に三年程前から、三大急登という文字が何回か出てくるのに気付いた。

 空木はいつに間にか、転寝(うたたね)していた。あまりの暑さとせみの音で朝同様起こされた。

 携帯電話に石山田からの着信が入っていた。

 空木は気がつかなかったが、せみの音と思ったのはマナーモードにしている携帯電話のバイブレーターの音だったようだ。時間を見ると夕方五時半を過ぎていた。

 空木は石山田に電話をした。石山田は、大林からの連絡の内容を伝えてきた。国友から連絡がないため、東亜製薬の仙台支店に電話をしたところ、国友はプライベートな休暇なのだから、どこに行こうが、どうしようと連絡などする必要は無い。まして、どこに行くかは決めてないのだから連絡のしようが無い、来週の月曜日には出社すると言って帰宅してしまったとのことだった。空木の知恵を借りたいと言っているので、いつもの所で待っていてくれと石山田は言った。

 空木が「さかり屋」に入った時には、まだ石山田と大林は来ていなかった。店の主人が「いらっしゃい、今日は一人」と声を掛けた。空木は「いや、後から来る」と言って、三人だよと、指を三本立てた。

 十分程してから二人が来た。

 「空木さん、国友はやっかいな男です。警察が連絡を欲しいと言っているにも関わらず、無視する訳ですから話になりません」

 大林は疲れた顔で言った。米原を出発して、仙台での聞き取り、そしてそのまま東京での張り込みを続けているのだから、疲れて当然だった。

「‥‥‥まずいですね」

空木はビールを飲み干し、芋焼酎のロックを作りながら呟いた。

「健ちゃんこのままじゃまずいね。国友は行き先を言うつもりはなさそうだよ。奥さんにでも聞いて貰うかい」石山田はジョッキを片手に言った。

「青葉北署が集中巡回パトロールをしてくれている筈ですから、明日、本人か奥さんかに聞いて貰いましょう」

 大林が眠気を忘れる為か、両手で顔を洗うように擦った。大林はビールの後、ウーロン茶を注文した。明日も張り込みがあるからという事だった。

 「国友は本当に登る山を決めていない、いや決め兼ねているかも知れませんよ」

「そんなことあるのかい。山に登りにいくのに、登る山を決めていないなんてことが」

 石山田が、「大林さん申し訳ない」と言いながら、芋焼酎を飲み始めた。

 「そんな事は、それほど多くはないけど、ベースにする宿泊拠点によってはそれが出来るんだ。例えば、北アルプスの徳沢というところをベースにすると、常念岳、蝶ヶ岳、槍ヶ岳も行けないことはない。だから登る山を決めていないということも有り得るということさ」

「じゃあ、国友は北アルプスに行くつもりなのか」

「北アルプスだけがそういうことが出来る山とは限らないよ。東北でも幾つもある。福島県の桧枝岐(ひのえまた)に泊まれば、会津駒ケ岳と燧ケ岳ひうちがたけの両方登れる。北海道でもそういうことが出来るんだ。まあ、国友が一人で北海道の山に行くとは考えられないけどね」

「空木さん、山も知っていて、東北も知っているあなたなら、東北人の気持ちで国友がどこに登りたいと思っているのか、見当がつくのではありませんか」

言った大林の顔は、半ば諦め顔だった。

「それは目茶苦茶な話ですよ。それでは東北に住んでいる山好きな人たちは、皆同じ山に登ることになります。ただ、江島の山日誌を見ると、幾つか気になる部分がありました。江島はあれだけ山に登っていて、南アルプスの山には一度も登っていませんでした。恐らく、休日の都合で山懐(やまふところ)が深い南アルプスには行けなかったのだろうと思いますが、今年は登ろうと思っていたようです。その江島に、国友が一緒に南アルプスに連れて行って欲しいと言っていたようです。江島は国友に、支店長は体力的に無理だと言ったとも書かれていました」

「江島はどこに登ろうと思っていたのですか」

「これもあくまでも推測ですが、甲斐駒ケ岳に登ろうと思っていたのではないかと思います。それも黒戸尾根ルートと呼ばれる、長大で急登が多いルートから登るつもりだったと思います」

「何故、江島はそこに登ると思ったのか教えてよ」

石山田が不思議そうな顔を空木に向けた。

「江島は三年前の夏、長い休みを取って、北アルプスの烏帽子岳からスターとする、裏銀座と呼ばれる縦走路を小屋泊で山行している。その時にブナ立尾根と呼ばれるルートから登っているんだけど、そのルートは日本三大急登と言われる登山路のうちの一つなんだ。それ以来、江島の山日誌には度々、三大急登の文字が出てくるようになった。そして、去年は谷川岳を西黒尾根ルートから登っていて、日誌には残るはあと一つ、と書かれているんだ。この谷川岳の西黒尾根ルートも日本三大急登の一つと数えられている。そして、残る一つが甲斐駒ケ岳の黒戸尾根ルートなんだ。標高差二千二百メートルの健脚コース、一日での往復はとても無理だ。江島は今年の夏、ここに登るつもりでいた、と俺は考えた」

 空木は、甲斐駒ケ岳には二度登っていた。夏山と春山だったが、何れも天気に恵まれ、日本第一の高峰の富士山と第二の北岳を望むことが出来た。二度とも登りは、長野県と山梨県の県境の北沢峠から登っている。

 

 甲斐駒ケ岳は、赤石山脈(南アルプス)の北端に位置し、山梨県と長野県にまたがる標高2967メートルの山である。日本アルプス屈指の名峰として日本百名山に選定されている。「駒ケ岳」の名が付いた山は全国に十八山あるが、その中ではこの甲斐駒ケ岳が最高峰である。甲斐駒ケ岳の花崗岩から成る山肌は夏でも白く望まれ、山梨県側から一気に2500メートル程の標高差をもって立ち上がり、中央本線沿線からもその白い全貌が望まれることからも、多くの人々に名山として称えられている。


 「健ちゃんはそのコースを登ったことはあるのかい」

「いや登ったことはない。長野県側の北沢峠から登って、下りに使ったことはあるよ。下りで六時間半かかった。鎖場、はしご場、ナイフリッジのルートありで緊張もするし、きつく長いコースだったよ」

「そこに国友は登りに行く」

「それは何とも言えない、分らないよ。でも山好きは登りたいと思っている山とかエリアがあると、どこかで必ず口に出るんだ。そういう意味でも、国友が登ってみたい山域であることは間違いない筈だよ。それに江島から三大急登の話は何度も聞いていた筈だ、自分の体力では無理だとまで言われていた。その江島が死んだ。山仲間だったらどう思うか」

「俺なら死んだ仲間に代わって登るけどな」

石山田が空木の顔を見て自慢げに言った。

「俺もそう思っているんだ。だけど、国友は行き先を言わない。それは体力が心配なんだよ。天気のことも気にはなっている筈だ。天気が悪かったら甲斐駒ケ岳は止めようとも思っているのではないか。国友はプライドが高いんだよ。だから登ると言って登れなかったら、プライドが傷つくとでも思っているんじゃないかな」

 空木は煙草に火を点けた。

 「空木さん、仮に国友がその何とかルートを登るとしても、伊村はそれをどうやって知ることができるのでしょう」

大林は眉間に皺を寄せて聞いた。

「知ることは出来ないでしょう。伊村も我々同様、国友が休暇を使ってどこに登りに行くか推測している筈です」

「健ちゃん、それって宝くじみたいなものじゃないのか」石山田が言う。

「宝くじよりは確率は高い。山の数は宝くじの発行枚数ほど多くはないよ。それに僕らは、伊村にこれ以上罪を重ねさせないという目的からすれば、国友と伊村の行く場所がずれてくれれば一つの目的は達成することになる。そういう意味でも、国友の行くところを推測する方が重要だと思う」

「確かにそうですね。国友の行く所に行っていれば、そこに伊村が来なくても我々の一つの目的は果たせます」大林はそう言うと、その通りだと自分自身に言うように頷いた。

「‥‥‥大林さん、今、行っていればって言いましたけど、誰が行くんですか。伊村がそこに居るという情報でもあれば、所轄にも動いて貰えますけど、現状では事件とは無関係な国友が、行くかも知れないだけでは所轄を動かす訳には行きませんよ。事件が起きれば別ですけど」

 石山田の言葉に大林は腕組みをして考え始めた。

 「俺が行くよ、レンタカーを借りて俺が行く」

空木が言い放つように口にした。それは、そこに行けば、伊村に会えるような気がしての言葉だった。

「空木さんに行かせる訳には行きません。私しか行くべき人間はいないでしょう」

大林は腕組みをしたままだった。

「大林さんは山登りをしたことないでしょう。中学のころ伊吹山には登ったことはあるそうですが。私はルートもおぼろげながら記憶がありますし、何より山に慣れています」

 空木は、伊村に会ってみたいという気持ちは口には出さなかった。

 「三人で行こうか。俺、休むよ。風邪を引いたってことで休む。俺の車で、三人で行こう」石山田はニコニコしながら言った。

「国友が別の所へ行って、そこに伊村が待っていたら一巻の終わりという事ですかね」

 大林は焼酎の水割りを空木に頼んだ。張り込みのことは忘れているようだった。

 「そういう事になるかも知れません」空木は言った後、ため息をついた。

「そうならないように神頼みでもしますか」石山田が明るく言い放った。

 空木は確信とまではいかないが、国友が黒戸尾根ルートで甲斐駒ケ岳に登ることは、ほぼ間違いないと思っていた。そして、伊村も自分と同じ推測をしている筈だと思った。そうであって欲しいと。

 黒戸尾根ルートからの甲斐駒ケ岳登山は非常に長く、ナイフリッジになった岩場、鎖場、長い梯子場と、突き落とせば必ず死ぬであろうという場所は数え切れない程ある。伊村は、国友が黒戸尾根ルートを登ることを、願っているのではないかと空木は思った。

 空木は心の中で、国友が登る山の推測が外れても全く構わないが、伊村の推測と自分の推測は同じであって欲しいと願った。伊村と会って話をしたいと思った。伊村を死なせる訳にはいかなかった。

 空木は、国友が甲斐駒ケ岳に山梨県側から登ると仮定し、その行程を考えた。

 初日の明日の木曜日は、仙台からの移動日だ。甲府、韮崎もしくは小淵沢に泊まるだろう。登り始めるのは明後日の金曜日だろう。早朝、横手駒ケ岳神社か竹宇(ちくう)駒ケ岳神社のどちらの登山口か分からないが、スタートする。いずれにしても両方のルートは、標高1500メートルの笹ノ平で合流する。そしてその日は七合目の七丈小屋に泊まるつもりだろう。土曜日に甲斐駒ケ岳の頂上に登り、その日のうちに下山し、甲府か韮崎に泊まる。そして最終日に仙台に戻る。空木はこう予想した。恐らく、伊村も同じ推測をしている筈だ。

 ナイフリッジの刃渡り、そして長い梯子場は笹ノ平と七丈小屋の間にある。伊村が殺害場所として想定しているのはその辺りの筈だ。

 伊村は、七丈小屋に泊まっているか、笹ノ平でテント泊かのどちらかだろう。伊村が山に入るのは明日の筈だ。我々は明後日、日の出とともに登って二つのルートが合流する笹ノ平を目指す。

 三人は、明日国友の動きを確認した後、深夜に甲斐駒ケ岳の登山口を目指して出発することとした。

 締めのラーメンを食べ、三人は腰を上げた。店の主人が「空木さん、来週から新しい女の子が店に入るよ」と言った。空木は「ああ、そうなんだ、楽しみだね」と言いながら、来週はどんな気分でここに来るのかと想像した。すっきりとした気分で来れることを願った。



『暑く長い日』


 七月二十八日木曜日、今日も朝から東京多摩地区は気温三十度を超えていた。

 大林と石山田は国分寺署にいた。大林は湖東署の刑事課長と連絡を取り合っていた。

 大林は、既に容疑者として指名手配されている伊村は、未だ行方が分からない。伊村を逮捕するためには、国友をマークすることとしたが、国友の動向がはっきりしない。その中で、我々が最も注目しているのは、甲斐駒ケ岳の登山ルートである黒戸尾根ルートである。ついては、甲斐駒ケ岳の山梨県側の管轄の警察署に依頼して、麓の登山口の駐車場に、黒っぽいRV車が止まっていないか確認して欲しい、と刑事課長に依頼した。

 大林は、国分寺署の刑事課長と柳田係長に、今日一日ここに詰めさせて欲しいと依頼し了解を得た。今日が勝負の日という緊迫感を漂わせていたのか、刑事課長は大林に励ましの言葉をかけた。

 石山田は書類の整理をしながら、わざとらしい咳をし、「ああー熱っぽいなー」と周りに聞こえるように独り言を言っていた。明日の休暇の下準備なのだと、大林には分かり易い演技だった。

 その頃空木は、朝食のロールパンをかじりながら、甲斐駒ケ岳の登山地図を広げていた。竹宇(ちくう)駒ケ岳神社か横手駒ケ岳神社か、どちらから登るか考えていた。笹ノ平までのコースタイムはどちらを行っても二時間三十分だ。通常は市営駐車場のある竹宇駒ケ岳神社側から登る登山者が多いが、空木が下山に使ったのは横手側だったことから、横手駒ケ岳神社から登ることに決めた。

 その時、携帯電話が震えた。その着信番号は、空木の携帯電話には登録されていない番号だった。空木は電話を取り、「空木です」と応えた。二、三秒沈黙があった。空木はもう一度「空木ですが、どなたですか」と言った。

 「‥‥‥伊村と申します」

 男の声は確かに伊村と言っていた。空木は瞬間、体中に電気が走ったように感じた。

 「伊村さん。伊村政人さんなのですか」

 空木は伊村の声を聞くのは初めてだ。本人かどうかは空木には判らない。空木は落ち着いてゆっくり話そうと思った。

 「はい、伊村政人です。突然のお電話で申し訳ありません」

 伊村の声は通る声のようだった。一言ひと言が明瞭だったが、背後のセミ音が五月蝿(うるさ)かった。

 「伊村さん、今どこにいらっしゃるのですか。手紙は拝見させて頂きました。私は貴方にお会いしてゆっくり話がしたい。貴方もそう書いていらっしゃいましたよね」

 空木は、出来るだけ意識してゆっくり話した。少し話すだけで口の中が渇いてきた。

 「今どこに居るかは言えませんが、仙台より北に居るとだけお話しておきます。ですからすぐにお会いできる場所ではありません」

 セミが伊村の周囲で五月蝿く、シャンシャン、ジージー鳴いている。

 「セミの音で聞き取りにくいのですが、東北にいらっしゃるのですか」

「そうです。お電話したのは、最後に空木さんにまた仕事の依頼をしたくてお電話しました」

「仕事の依頼ですか。そんなことより、伊村さんのお気持ちはあの手紙で十分汲み取ることが出来ました。警察に出頭して、今度は公(おおや)けの場で、貴方の気持ちを世間に、そして会社にぶつけましょう」

「いえ、私にはやらなければいけないことがあります。ですから、それは出来ません。空木さんへの仕事というのは、私に代わって和美とその家族を探し続けて頂きたいのです。私の最後のお願いです。宜しくお願いします」

「何を言っているんですか。和美さんを探すのも、待っていてあげるのも、そして送るのも貴方、伊村政人の役目なんですよ。貴方の代わりが出来る人間なんていません」空木は必死で伊村に話しかけた。

「申し訳ありません。許して下さい。空木さんと最後に話が出来て本当に良かった」

 電話が切れた。「しまった」空木は絶句した。着信履歴に残った番号に電話をした。もう電源が切られていた。

 時計は午前十時半だった。空木は急ぎ石山田に連絡した。

 「厳ちゃん、伊村から携帯に電話が入った」

「えっ、何だって。伊村から電話があった。伊村はどこにいるんだ」

石山田は横にいると思われる大林に「伊村から電話があったそうだ」と告げていた。

「仙台よりも北に居ると言っていたが、嘘か本当かわからない。俺に行方不明の奥さんを探してくれという頼みの電話をしてきた。宜しく頼むと言って、電話は切られた」

「仙台より北。見込みが外れたか」

 石山田の声が弱々しく聞こえた。

 「国友の方はどこに行ったか分かったかい」空木は聞いた。

「さっき青葉北署から大林さんに連絡があった。健ちゃんに連絡しようと思っていたところだったんだ。連絡によると南アルプス方面としか言わなかったらしい。仙台インターまで後ろを付いたが、国友の車を追っていく車は無かったと言っていた」

「間違いなく甲斐駒ケ岳、黒戸尾根ルートを目指しているよ、国友は」

「そのようだね。どうする」

「‥‥‥行く。俺は行くよ。伊村はルート上のどこかにいるような気がする」

「だけど伊村は仙台より北にいるって言ってたんじゃないのか」

「伊村は嘘を言っているような気がする。やっぱり行くよ、厳ちゃん」


 夜九時過ぎ、食事を済ませた三人は、国分寺署の車で中央自動車道を国立・府中インターチェンジから西へ向かい、山梨県の須玉インターチェンジを目指していた。

 当初は自家用車で行く予定であったが、国分寺署の車で行くことになった。それは、石山田が夕方六時過ぎに「熱っぽいので早めに帰らせてほしい」と言って、大林と署から帰ろうとした時、係長の柳田が、署の車を使って行けと石山田に言ったのだった。

 係長の柳田と刑事課長は、大林が湖東署の刑事課長とやり取りしている状況や、空木と石山田の電話のやり取りを聞いていた。さらに石山田が、仮病を使って行くつもりでいることも、当然ながら察知していた。管轄外の事件であり、また管轄外の場所であることから、どうしたものか相談していた二人は、見て見ぬ振りをすべきか、全面協力すべきかを考え、後者に決めたのだった。

 深夜の中央道は、さほどの交通量ではなく大型トラックがほとんどだった。たまに猛スピードで追い抜いていく乗用車があると、運転している石山田が「はい、免許取り消し」と言っていた。

 順調に山梨県北杜(ほくと)市横手にある横手駒ケ岳神社に到着した。神社の周囲は真っ暗で、神社も駐車場も区別がつかない暗闇の中だった。車のライトでやっとそれと判った。時間は夜十一時を過ぎたところで、駐車場には一台の車も無かった。

 横手駒ケ岳神社も竹宇(ちくう)駒ケ岳神社も、管轄の警察署は北巨摩(こま)警察署だった。大林が湖東警察署の刑事課長を経由して依頼していた、所轄による両神社の駐車場の調べでは、午後二時から三時の段階では、横手駒ケ岳神社の駐車場に地元ナンバーの軽自動車が二台、竹宇駒ケ岳神社手前のキャンプ場に隣接した市営駐車場に十四、五台の車が停まっていたとの情報だった。しかし他県ナンバーの黒っぽいRV車は停まっていなかった、という報告だった。

 三人は、日の出の時間の四時五十分に合わせて出発することとし仮眠を取った。石山田はすぐに鼾をかき始めた。大林は疲れているのだろう。石山田の鼾を物ともせず寝息を立てていた。空木は一晩中まんじりともしなかった。それは石山田の鼾のせいだけではなかった。

 東の空が白んできた。空木は二人を起こした。大林は空木の用意したTシャツ、ジャージに着替え、これも空木が用意した登山靴を履いた。少しきついと大林は言っていたが、歩くことに支障は無いようだった。空木と石山田も登山靴を履き準備を済ませ、ザックを担いだ。大林は空身でザックは担がないことにした。

 今日の好天を告げるように、セミがシャンシャン、ジージーと鳴き始めていた。空木は暑い一日になると思うと同時に、セミの鳴き声から、あることを確信していた。

 横手駒ケ岳神社は木々に囲まれ鬱蒼とした中に社があった。神社に向かって左手に登山道に通じる道があった。樹林帯が続く登山道を三人はひたすらもくもくと登った。三十分程歩くと汗が吹き出てきた。展望台と言われる地点で一時間が経過した。

 国友はどちらのルートか分らないが、既に出発しているだろうと空木は思った。釜無川を挟んで赤岳を主峰とする八ヶ岳連峰が望めた。標高が1000メートルを超え、セミの音はほとんど聞こえなくなった。ここからおよそ一時間半で笹ノ平と呼ばれる地点に着く筈である。

 三人はブナ、コナラからシラビソが混じり始めた樹林帯をさらに登る。空木の腕時計に内臓された高度計が1500メートルに近づいた。三人は足を止めた。竹宇駒ケ岳からの登山道と合流分岐する地点を示す標識が見えた。標識の辺りには人影は無かった。時間は午前七時を回ったばかりだった。コースタイムよりかなり速い。ここからほんの少しで笹ノ平の小広くなった場所に出ることを、空木は二人に伝えた。

 三人は辺りを見回しながらゆっくり歩を進めた。先頭を行く空木の目に、黒い影がチラっと動いたのが目に入った。動物か人かの判断は付かなかった。笹ノ平の奥の樹木の陰に隠れるように座って、こちらを窺っている人間を石山田が見つけた。

 「健ちゃん、人だ」

 空木と大林は、石山田の目線の方向に目をやった。男はじっとこちらを見ていた。その男は、髪は短く、サングラスをかけ大型のザックの上に座っていた。

 「伊村さん。伊村政人さんですか。空木です。空木健介です」

空木は立ち止まったまま声を掛けた。

 男は無言で立ち上がり、サングラスを外した。

 「伊村です」と言って会釈をするように頭を下げた。

 大林が二歩、三歩と前へ出て、警察であることを告げ、浅見豊殺害の容疑者として逮捕することを伝えた。石山田が、ザックから手錠を取り出し、大林に渡した。

 伊村は小さく「はい、わかりました」と言った。背丈の低い熊笹が、一面に茂った笹ノ平に夏の陽射しが差し、緑の葉がきらきらと輝いていた。

 「大林さん、伊村と少し話をさせて貰いたいのですが、良いでしょうか」

 空木の言葉に、大林は小さく頷いた。

 空木は、伊村のザックの横に自分のザックを置き、「座って話しましょう」と言って、伊村をザックの上に座らせ、自分も座った。

 「伊村さん、悔しい、辛い思いをしましたね」

空木は雲一つない青い空を見上げて言った。

「空木さん‥‥‥」

伊村の声は声にならなかった。

「伊村さん、貴方は一人ではないんですよ。国友を殺して自分も死のうなんて、つまらないことを考えるのは止めにしましょう。国友には別の制裁が待っていますよ。良識ある社会の目という制裁がね。国友は殺す価値も無い男です」

空木は、伊村の肩に手を掛けて語りかけた。

「和美に申し訳なくて‥‥‥」

伊村は声を振り絞るように言った。

「罪を償い、人間として一生懸命生きることが、和美さんを喜ばせ、安心させる唯一の方法です」

空木の言葉に、伊村は両手で顔を覆った。

 空木は立ち上がり、大林と石山田の居る所へ歩いて行った。

 「大林さん、伊村は国友に危害を加えることはないと思います。国友がここに登って来るまで待つ訳にはいかないでしょうか」

大林は、少し離れた所に座っている伊村を見ながら言った。

「大丈夫でしょう。我々も少々疲れましたし、しばらくここで休むことにしましょう」

 大林と石山田はザックを置き座った。

 空木はまた、伊村の横の自分のザックの上に座り、携帯灰皿を取り出し煙草に火を点けた。空木には伊村に聞きたいことがあった。

 「伊村さん少しお話しましょう。伊村さんは随分山好きなんですね」

「‥‥ええ、育ったところが山村だったので、自然に好きになったのだろうと思いますが、社会人になってより好きになりました」

「山村というとどちらの生まれなんですか」

「生まれたのは東京ですが、両親は私が小さい頃事故で亡くなって、私は母方の祖父母に育てられました。その祖父母が住んでいたのが秩父の両神村という所でした」

 伊村の目は遠くを見ていた。

 「両神村というと百名山に選定されている両神山の両神ですか」

「そうです。もう祖父母も他界して家もありません。空木さんは両神山に登られたことはありますか」

「ええ、登りましたよ。確か何年か前の五月の連休に登りました。ニリンソウの群生地があって可愛い白い花が印象に残りました。伊村さんも登っておられますよね」

「数え切れない程登りました。初めて登ったのは小学四年だったと思います。祖父母に引き取られて一年位たった頃ですね。祖父に連れられて登りました。五月か六月か忘れましたが、空木さんが見られたニリンソウを私も見て、綺麗だと思った思い出があります。両神山の登山コースは幾つもありますが、全て登っています。頂上から眺めた雲取山を見て登りたいと思いました。中学になって雲取山に始めて登りました」

 両神山の話をしている伊村の目は遠くを見つめたままだったが、その目は潤んでいるように空木には見えた。

 「空木さん、両神山のヤシオツツジも綺麗ですよ。是非その季節に登ってみて下さい」

「そうですか。是非登ってみます。いや、伊村さん一緒に登りましょう」

空木はそう言って伊村の顔を見た。伊村の目からは涙がこぼれ落ちた。

「私は死んだ両親から生を貰い、祖父母に育てられました。両神の小学校、中学校の先生や友達に良くして貰いました。死んだ両親の残したお金で大学にも行けました。たくさんの人たちから受けた恩を台無しにしてしまった‥‥‥」

「伊村さん。伊村さんはまだ若い。これからでもその人たちへの恩返しは十分出来ますよ。あなたさえその気持ちをもっていれば出来ますよ」

 空木は、こんなに優しい心を持った人間が、何故人を怨み、殺してしまうのか、伊村という男と話をして、それを考えない訳にはいかなかった。

 伊村はその後も空木に、小学校、中学校の思い出を話した。川で遊んでいて溺れそうになって仲間に助けられ、ずぶ濡れで帰って祖母に叱られた思い出。近くの神社での夏の夜の肝試しで、天狗を見た話。中学の卓球部の部活で、初めて大宮に出た時の町の大きさと人の多さ、賑やかさに驚いたこと。伊村の目にはもう涙はなかった。

 国友が登ってくるまでにはもう少し時間がありそうだった。空木には、どうしてももう一つ聞いておかなければならないことがあった。

 「ところで、伊村さんにどうしても聞いておかなければならないことがあります。それは私の大きな疑問なんですが、貴方は何故霊仙山を選んだんですか。答えたくなかったら無理に答えて頂かなくても結構ですが」空木は小声で話しかけ、伊村の横顔を見た。

「空木さんを見かけたからです」

「えっ。何処で見たんですか」

「五月二十八日の土曜日に、柏原の駅です」

「え、じゃあ伊村さん貴方もあの日、霊仙山に登っていたんですか」

「はい。空木さんは友達と二人連れでした。私は空木さんのずっと後ろを歩いていましたが、一緒に登ったとも言えますね。運命なんですね」

 空木は、あの日の柏原駅を思い出していた。確か自分を含めて、三、四人のハイカーが同じ電車を降りたように思う。その中の一人が伊村だったとは思いもよらなかった。それは伊村が言うように運命だろう。そして今日という日が来たのは宿命だと思った。

 空木は腕時計を見た。午前八時の少し前を示していた。「そろそろ来るな」と空木は独り言を言った。

 「伊村さん、国友に会ってすっきりしましょう。私の目の前で、貴方の言いたい事を国友にぶつけて下さい」

 空木は言って、伊村の目を見た。伊村の目が厳しくなった。

 登って来る人影が見えた。三人は伊村を隠すように笹ノ平の小広場に立った。大林が「国友だ」と言った。国友の顔を知っているのは伊村と大林だけだ。

 国友がザックを担ぎ、額から汗を流して笹ノ平の小広場に着いた。「おはようございます」

大林が声を掛けた。山では見知らぬ人間でも出会ったら必ず挨拶する。それが極普通である。

「おはようござい‥‥‥」とまで言って、大林の顔を見た国友は、大林を記憶していたようで目を見開いた。

「貴方は刑事さん‥‥‥」と絶句した。

 三人の後ろから伊村が前に出た。

 「私が誰か分かりますか、支店長」

「伊、伊村か。何故お前がここに居るんだ」

 国友は、瞬間ここが何処なのか分からなくなったかのように周囲を見回した。

 「あなたを殺すために、この山であなたを殺すために待っていました。でもこの人のお陰で命拾いしましたね」伊村は、空木の方に顔を向けながら静かな口調で言った。

「私を殺すため‥‥‥」

「そうです、殺すためです。でも、もう止めました。あなたのような人は殺すに値しないと、この人に教えて貰いました。あなたは、自分の保身しか考えない人だ。あなたには正義感も、道徳心もない。臭い物には蓋をし、甘言(かんげん)を言う者を重用し、諌言(かんげん)を述べる者を排除していく。私の異動もそういうことでしたね。しかもあなたは、妻の和美を探す私に、会社に迷惑が掛かると言い、そして私が会社を辞めることを決心したら、周囲の人たちに「すっきりした」と言った。あなたは人の上に立つべき人間ではない。人の苦しみを小指の先程も解ろうとしない、部下にとって最低、最悪の上司、人間です。江島課長も悩んでいましたね。そしてスキャンダルの種を蒔いたのは自分であることをあなたに相談した。あなたは江島課長に何と言いました。「生涯口を閉ざせ」と言われたようですね。あなたという人は、人を創るどころか、次々と壊していったのです。私は、浅見豊を殺してしまいました。罰を受けます。あなたにも罰を受けていただきます。社会的な罰を受けていただきます」

 伊村の目は、国友を一層厳しい目で見つめていた。凛(りん)とした態度は犯罪者のそれとは思えなかった。

 「空木さん、刑事さん、ありがとうございました」

 伊村は両手を小さく前に出した。

 「下山してからにしましょう。下りで転んで怪我をしてもつまらないですから」

 大林は、石山田に手錠を返した。

 四人は空木を先頭に、石山田、伊村、最後尾に大林という順で下山にかかった。

 「国友さん、ここから上は危険な箇所が多いそうです。十分気を付けて登ってください」

 大林は呆然と立ち尽くす国友に、皮肉たっぷりに注意の言葉をかけた。

 

 「健ちゃん、国友はこんなことがあっても登るつもりなのかな」

歩き始めた石山田は、振り返って国友を見ながら言った。

「多分登るだろうね。せっかくここまで来たんだから登ろうと思っているでしょう。そういう人間だと思う。自分には関係ない話だとね」

「少し痛い目に遭ったらいいんだ。あんな奴」石山田が吐き捨てるように言った。

「そんなこと言っちゃだめだよ。あいつにだって家族もいるんだから。まして厳ちゃんは刑事だよ、刑事の言うことじゃないよ」と空木が振り返った。

「まあそうだな。ところで健ちゃん。伊村は電話で、東北に居るって言ってたのに、何故ここに来るって決めたんだ。ただの勘か、それとも思いだけだったのかい?」

 石山田は前を歩く空木の背中に向けて訊いた。

 「セミだよ、セミ」

「セミってどういうこと?」

「仙台より北には熊ゼミはいないんだよ。伊村から掛かってきた電話の周りでセミの音がした。シャンシャン、ジージー入り混じってね。熊ゼミはシャンシャン鳴く。電話を終えてしばらく経ってからそれに気が付いたんだ。仙台より北にいるというのは嘘だとね。嘘だとしたら、後は行く場所は此処しかないという、確信に近いものになった。今日の朝、熊ゼミの鳴き音で確信がより大きくなったよ。伊村は恐らく、竹宇(ちくう)駒ケ岳神社の手前の、キャンプ場の駐車場辺りから電話した筈だよ」

「熊ゼミの鳴き音か。すごい観察力だな、驚いた。一句出来た。罪びとの罪を防いだセミの声」

 二人の話が聞こえたのか、聞こえなかったのか分からないが、伊村が後ろを歩く大林に、前を向いたまま訊いた。

 「刑事さん、私が湯の山温泉に泊まったことをどうして判ったのですか」

「空木さんだよ」

「空木さんが知っていたのですか」

「いや違う。貴方が浅見に履かせた登山靴の底に、花崗岩の石粒が挟まっていたんだよ。空木さんがそれを見つけて指摘してくれた。花崗岩の山は御在所岳辺りだと。それで我々は他県から来るとしたら、湯の山温泉に泊まる可能性があると睨んだ。それが調べるきっかけだった」

「私が此処に来ると考えたのも空木さんですか」

「そうだ。我々は空木さんに随分助けられた。貴方も人間として、空木さんに助けられたようなもんだ」

 伊村は立ち止まり、空木の背中を見ながら大きな息を一つ吐いた。


 横手駒ケ岳神社の駐車場に下山したのは、午前十一時を過ぎた頃だった。

 大林は、石山田から渡された手錠を、改めて伊村にはめた。

 北巨摩(こま)署へ向かう車中で伊村が「空木さんと話して良いか」と大林に聞いた。大林は了解した。

 「空木さん、私が此処に来ることがどうして分かったのですか」

「江島の山日誌の存在です。あの日誌で国友が、何処に登るつもりかを予想しました。貴方も国友が何処に登るか予想した筈です。私には江島の山日誌しか情報はありませんでしたが、貴方にはもっとたくさんの情報があった筈ですから、国友が黒戸尾根ルートで甲斐駒ケ岳に登ることを予想するのはそんなに難しくはなかったと思いますが」

 空木は助手席から首を回し、後部座席に居る伊村に話した。

「私は、今年の初めから国友支店長の、いや正確には江島課長と国友支店長の登る山を聞いていました。決定的だったのは、江島課長の葬儀の折に『慰霊登山』という言葉を支店長が言っているのを耳にしたことでした」

「江島が月山に登るというのは何処で知ったんですか」今度は空木が聞いた。

「あれは東亜製薬の仙台支店に電話をした時に聞きました。最初は支店長と二人の予定と聞きましたが、江島さん一人になった。江島さんは私と月山で出会ったことに随分驚いたようでした。話をしながら、後ずさっていき転落してしまいました。まさか死ぬとは思いませんでした。運が悪かった。私に何かされると思ったのでしょうね」

 北巨摩(こま)署に到着した。北巨摩署はクリーム色の二階建てだった。大林は伊村とその中に入って行った。

 しばらくして出てきた大林は、ここでの聴取を終えたら、北巨摩署の車で湖東署まで伊村を移送すると言って、空木と石山田に挨拶をした。

 「石山田さん、空木さん、大変お世話になりました。本当にありがとうございました。空木さん、空木さんには本当に頭が下がります。一人前の探偵になられましたね」

 大林は二人に頭を下げた後、空木の顔をニコニコしながら見上げた。空木は頭を掻いた。

 石山田と空木は、大林と握手をして別れを告げ、東京へ車を走らせた。

 ハンドルを握りながら、石山田は空木に言った。

 「健ちゃん、山をやる人間には悪い奴はいないって言うけど、どう思う」

「伊村も、国友も、江島もそれに俺も、山好きと言う意味では同類だからね。何とも複雑だね。人間は間違いを必ず犯す。間違いをした後でどうするかで人間の価値が決まるとしたら、伊村も国友もこれからが本当の厳しい勝負が待っているってことだと思うけど、国友は変わらないんじゃないかと思う。そういう意味では国友は山の仲間とは言いたくないな」

「うーん、山好きにも悪い奴はいるかも知れないってことか」石山田は納得したような言い方をした。



『真相』


 滋賀県警湖東警察署に移された伊村は、浅見豊殺害の全てを供述した。

 五月下旬から六月の初旬にかけて、浅見の女性関係を調べることを目的に、登山をする時以外は、浅見の周辺を嗅ぎ回っていた。当然自分の顔は浅見に知られているので、空木に尾行を依頼するための下準備だった。この時は、殺して恨みを晴らそうとは思っていなかった。女性関係の証拠を掴んで、それを東京の留守宅に送ることで浅見の家庭を破壊しようと考えていた。

 六月の第一週だったと思うが、浅見のマンションを見張っていた時、浅見は深夜にタクシーで帰宅し、女を部屋に連れ込んだ。それを見た時、義妹の好美があまりにも可哀想に思え、浅見の女性癖は許すわけにはいかない、殺そうと決意した。

 浅見は、週のうち木曜日はほとんど飲んで帰ること。帰宅した時は必ずマンションの自分の駐車場に、別の車が無断駐車していないか確認する習慣があることが分った。そこに車を止めておけば、必ずあの暗い駐車場の奥深いところまで浅見は来る。そこで殺せると確信した。

 六月九日木曜日の夜を殺害日と決め、行方不明の妻の名前で、空木さんに尾行の依頼の文書を現金と一緒に郵送した。空木さんは承諾してくれたが、尾行相手の正体を教えて欲しいとメールしてきた。自分はこれには答えなかった。これで、空木さんは来なくなるかも知れないと思った。

 空木さんをこの事件に巻き込んだのは、自分の独りよがりであり申し訳ないと思っている。空木さんのことは、私と同じ業界にいたこともあり、以前から知っていた。尊敬できる人だと思っていた。たまたま空木さんが会社を辞め探偵事務所を開いた事を知り、この人に自分の思いを解かって欲しいという気持ちで巻き込んでしまった。

 六月九日当日、名古屋市内の登山用具店で、自分の服に良く似た服、ザック二つ、そしてザイルを購入した。その後、車で大垣のビジネスホテルに移動し、チェックインを済ませた。この時は偽名、偽の住所でチェックインしたが、どんな名前、住所でチェックインしたか覚えていない。

 そして名古屋に戻り、浅見のマンション付近に駐車し、暗くなるのを待った。夜になり、浅見のマンションの駐車場に車を移動させ、浅見が帰宅するのを待った。浅見は予想通り飲んで帰宅した。女が一緒だったら別の手順を考えなければいけなかったが、その必要はなかった。

 浅見は、夜十時過ぎにタクシーで一人で帰宅した。そして予想通り、駐車場の自分の駐車スペースを確認するため近付いて来た。

 浅見は「俺の駐車場に無断で停める不届き者め」とわめくように言いながら、運転席を覗いた。自分は助手席側から回り込み、浅見の背後からザイルを首に巻き力一杯、思いっ切り首を絞めた。

 「好美の恨みだ」と言ったが、浅見は「グワー」と低い声を出しただけで、十秒程でぐったりした。自分も首を絞めたまま、車の横に座り込んでいた。

 浅見の死体を黒のRV車に乗せたが、予想以上に浅見は重かった。

 駐車場を出たのは十時半近かったように思う。霊仙山の麓の、くれが畑の廃村に向かった。この廃村、廃屋の存在は、以前名古屋に居た時から知っていた。醒ヶ井さめがいの養鱒場から林道に入り、登山道入口についたのは夜中の十二時過ぎだったと思う。

 車の中で、浅見の服、靴を着替えさせ、廃屋までヘッドランプを点け運んだが、浅見の体は異常な程重かった。廃屋の梁にぶら下げるつもりだったが、重さで梁が折れるかも知れないと思い、柱の袂に座らせ、首に巻いたザイルを梁に通すだけにした。浅見が着ていた服などは何日か後に、東京でゴミとして捨てた。

 浅見の死体を置いた後、車を登山口付近の林道脇に駐車し、林道を、ヘッドランプを頼りに醒ヶ井の駅を目指して歩いた。醒ヶ井の駅前に着いたのは午前二時前だったと思う。タクシーを呼んで、大垣のビジネスホテルまで戻り、仮眠を取った。翌朝、大垣駅からJRで柏原の駅に向かった。

 空木さんが駐輪場の横に陰にいるのを確認した時は、浅見を殺害した時の昂ぶりよりさらに興奮した。空木さんを巻き込むことが出来た嬉しさが込み上げてきたのだと思う。今思うと異常だった。

 浅見豊の振りをして、霊仙山に登り、そして槫が畑の廃村に下山した。空木さんは、決して近づかず、依頼通りに尾行してくれた。廃屋に入り、そのまま裏手から抜けて林道に出た。林道脇に停めてあった車で逃げ、そのまま東京に向かった。次にしなければならないことがあると心に決めていた。出頭することも、捕まる訳にもいかなかった。

 乗っていた車は、東京で売り、新たに中古車の白いスポーツワゴンを購入し、移動、宿泊に使っていた。

 東京の荻窪の部屋には、警察が宿泊の確認に来てからは戻らず、衣類を含めた生活道具を車に詰め込み生活していた。何故、荻窪のマンションが分ったのか不思議だった。この時からいつか捕まると覚悟した。その間、行方不明の妻、そして妻の家族の情報がないか探し回った。ボランティアもした。登山もしていた。

 山梨に入ったのは、七月二十七日水曜日だった。山梨の塩山(えんざん)の奥にある温泉に泊まり、翌日に竹宇(ちくう)駒ケ岳神社近くの、尾白川渓谷キャンプ場の駐車場に車を停め、テントを担いで笹ノ平まで登りテント泊をした。

 翌日、早朝にテントをたたみ、国友が登って来るのを待った。国友が登ってきたら、後ろを歩き刃渡りの岩場で呼び止め、罵(ののし)りの言葉を浴びせ、そして突き落とそうと考えていた。自分はさらに上まで登り頂上が見える八合目辺りで滑落して死のうと思っていた。

 まさか空木さんが登ってくるとは思わなかった。空木さんの顔を見て、国友への殺意は萎えていった。


 江島照夫の転落事故の経緯についても伊村は供述した。

 七月八日金曜日に休暇を取って月山に登ることは、東亜製薬の内勤社員から聞いた。当日早朝、月山スキー場の駐車場で江島を待っていた。月山は八合目の中宮からのルートもあるが、山好きで今年、甲斐駒ケ岳に登るつもりでいる江島は、間違いなく姥沢(うばさわ)小屋のルートで登ると踏んでいた。やはり江島は月山スキー場の駐車場に現れた。八時前だった。支度を整え姥沢小屋の裏手から登り始めた。自分は五分ほど遅れて後ろを歩いた。江島が休んだ時に、話をしようと考えていた。江島が紹介した仲内好美が、浅見の子を生み、そして浅見に裏切られたことをどう思っているのか聞くつもりだった。

 ところが、三つ目位の雪渓で江島に追いついてしまった。話をすることになったが、江島は何かに怯えるように後ずさりした。危ないと声を掛ける間もなく江島は後ろ向きに転落した。這い上がってくるだろうと思って見ていたが、江島は十メートル程下の、沢の手前のところで動かなかった。救助要請すべきであることは分っていたが、出来なかった。死んでも構わないという悪魔の気持ちが、その時の自分にはあったのだと思う。と供述した。



『虹の彼方に』


 月が替わった八月一日月曜日の午後、空木は愛車のミニバイクで浅見芳江のマンションに向かっていた。

 今日はこの夏一番の暑さとなり、セミも木から落ちるのではないかと思わせる程の暑さだった。

 芳江はクリーム色の膝下丈のパンツに淡いピンクのポロシャツ姿で空木を出迎えた。空木には、芳江の様子が以前より生き生きしているように見えた。

 空木の顔を見た芳江の顔がほころび、「お久し振りです。お元気ですか」と言って、部屋に招いた。空木がここを訪ねるのは六月二十五日以来であった。

 応接ソファーに座った空木は、改めて依頼された仕事の報告に来たことを芳江に告げた。

「奥さんもお元気そうで何よりです。依頼された調査の報告に一ヶ月以上もかかってしまい、申し訳ありませんでした。もう警察からお聞きになったと思いますが、ご主人を殺害した犯人は、伊村政人という男で、今年の三月までご主人と同じ東亜製薬に勤めていた男でした」

 と言った後、空木は淡々と浅見豊の仙台での出来事を報告した。

 およそ二年前、部下であった江島という男の紹介で知り合った仲内好美という女性との間で子供が出来た。妊娠を浅見豊が知ったのは、昨年の一月か二月と思われる。本人が異動を希望したのはこの後だった。その異動希望が叶い、名古屋へ転勤したのだと思われる。

その仲内好美との間に出来た子が生まれたのは、昨年の十月で名前は育実という女の子だった。好美は、姉夫婦から養女にという申し出を受けたが、浅見豊が結婚してくれるという言葉を信じ、頑なに拒否した。

 浅見豊は好美の義兄から結婚しないのであれば、せめて認知するよう求められたが、お金を出しただけだった。それがあの五十万円だった。

 そしてあの三月十一日という日を迎えてしまった。仲内好美母子は、両親、姉とともに大震災による大津波に巻き込まれてしまい、行方不明となり未だに発見されていない。

 最後に、浅見豊を殺害した伊村政人という男は、実は仲内好美の義兄だった。と伝えた。

 これらの事を淡々と報告した。空木が話し終えた時、空はにわかに真っ黒になっていた。静かに聞いていた芳江は深々と頭を下げた。

 「空木さん、嫌なお仕事をお願いして申し訳ありませんでした。主人がしたことは、人として許されることではありません。主人があんな目に遭ったのは、好美さん母子の怨念なのではないでしょうか。もしも機会があれば、好美さん母子の墓前に、主人に代わってお詫びしたいと思います」

 芳江が話し終わるのに合わせるように、激しい雨音がし始めた。スコールのような夕立が降り始めた。

 「奥さんも、好美さん母子、そして家族が早く見つかるように祈ってあげてください」

 空木は、雨が止むまで居たらどうかという芳江の好意を辞して、浅見家を出た。

 愛車に跨った空木は、好きな場所である立川の国営公園に走った。六車線の大通りの上に架かった公園入り口の橋の上に空木が立った時には、もう雨は上がり、雲が切れ、また夏の陽射しが猛烈に地面を照らし始めていた。遠くに、丹沢の山々と奥多摩、奥秩父の山々がスカイラインを見せていた。そして見事な、大きな虹がかかった。

 空木は何故か、伊村の育った秩父両神の村に行って見たいと思った。


 その夜、空木と石山田は「さかり屋」の入り口をくぐった。「いらっしゃい」のいつもの声がした。その後にもう一つ「いらっしゃいませ」と透き通るような声がした。

 空木は「えっ、何で」と声を出した。空木は霊仙山の廃屋で死体を見た時よりも驚いた。それは山形の鳥鍋屋『おまつ』で会った、坂井良子だった。

 「空木さんでしたね。坂井良子です。今日からここで、叔父さんのところで働くことになりました。宜しくお願いします」

 良子は笑顔を見せながら、丁寧に頭を下げた。

 「健ちゃん、こんな偶然めったにないよ。山の神がくれた奇跡だ。大事にしろよ」石山田は言って、空木の背中を叩いた。

 空木はその夜、人生で何度もないであろう心地良い酔いを経験した。空木はその心地良い酔いの中で思った。人生には恨みも感謝も、哀しみも喜びもある。人間だからそれは仕方のない事だろう。思いの全て背負って精一杯生きて行くことが出来る人間でありたいと。

                              

                                           了                         



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

霊山の裁き 聖岳郎 @horitatsu1110

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ