第2話 「新・水滸伝」(光栄・全五巻) 褚 同慶 著 今戸 榮一 訳 ※但し奥付では今戸 榮一著と表記


私は気に入った本なら何度でも読み返したくなる質なのですが、中には物語自体は好きでも、世界観や設定・主人公や主要人物への不満から、中々そういう気分にならないものがあります。

豪傑達の活劇は楽しいのに、無能で我儘勝手な似非君子にしか思えぬ主人公が、やたらと持て囃されて優遇される様を思い起こすと、どうにも読み返す気が萎えてしまう「水滸伝」などは、その代表例でしょうか。

本書は原作にそんな思いを抱く私にとって、痒い所を掻いてもらっている様な、至高の「水滸」と言えるでしょう。



前書きによれば、「水滸伝」の熱烈なファンたる筆者が、原作の矛盾点やいい加減な部分に飽き足りなさを覚え、さらに面白くせんと40年余の歳月をかけて書き換えたという本書は、その一見「高言」にも見える言葉に恥じない力作と言えます。

そして改変部分が少なくないにも関わらず、随所に原作への読み込みと改善への飽くなき熱意が感じ取れる為か、この手の原作改変物を読む際にしばしば湧き上がる「違和感」「不快感」といった感情を、個人的には殆ど感じないのも見事です。

正直語りたい事はきりが無いのですが、厳選して幾つか端的に述べてみますと


<物語の骨子は維持しつつも、魅力的な人物像や面白い物語作りに注力>

時に人物の経歴や性格に大胆なアレンジを加えたり(極端な所では項充や李立など、名前以外は原作の面影無し)、原作で地味な5人程を入れ替えて魅力的な女英雄に差し替えたり(但し外した人物にも、李袞が伝説的な義賊で何人かの頭領の師匠、孫新が孫立の弟ではなく息子になど、きちんとした配慮あり)など、大胆な改変も辞さないが、仲間全員をきちんと描き見せ場も用意するという凄まじい拘りが。


<著者が非合理的と感じる部分の排除・改変>

妖術の類は、削ると全面的な書き換えが必要な対高廉戦以外は削除。

超常的な話は宋江と九天玄女の対面くらいで、原作冒頭の魔星を解き放つ下りは無論、武大が武松の夢枕に… といった些細なレベルの話まで一掃する徹底ぶり。

また原作の征遼戦を、より現実的な遼の侵攻に対する抗遼戦に変えて物語に組み込んだり、何故か原作では扱いの軽い花石綱問題を主軸にした章を設けたりと、史実にも配慮した拘りの再編成。


<大量の人物を追加投入>

祝家荘に四金剛・十八羅漢という幹部連を登場させるなど、話を彩る悪徳役人や官軍の将などの敵役を中心に、優に三桁を超える新キャラを追加。戦闘や物語に花を添えています。

それも水滸伝名物とも言うべき綽名付きも少なくなく、「鎮海猿」「鬼見愁」「九頭獅子」など意味は良く判らないながら(敵役だと綽名の由来が語られない場合も多い為)インパクトのある名も多いなど、相当力が入っています。


<細部にまで手を入れる拘り>

豪傑達の活躍ぶりは更に足す一方で、武松の鴛鴦楼での大殺戮で何人かは縛っただけに変えたり、史進が王四を殺さなかったりと、話の流れや人物の性格上無用な殺人は地味に削ったりと、細かな修正が多々。

また「鎮三山」「打虎将」の様に原作では見掛け倒しの様な由来の綽名も、話を追加・改変する事で実質的な意味があるものにするなど、著者の目指す理想の「水滸」への細やかな手配りが随所に。


<「生きた人物」を描く事への徹底した拘り>

ある意味本書の最も特徴的な点ですが、原作の様に天命だの前世の宿縁だので強引に話をまとめる事は無く、「この人の性格や経歴ならこんな時こうする」といった部分に、特に力を入れて話を綴っているのが印象的。

ことに物語の最終章と言うべき、招安を巡っての梁山泊内部の仲間たちの軋轢、露になっていく宋江の「素顔」、新生梁山泊の創生メンバーたる呉用・林冲らの言動などは、読み返す度に刺さるものが。



本書は原作や主人公が大好き、という方にはあまりお勧め出来ないやも知れません。

ですが著者の前書きに賛同した方、ことに私の様に主人公に強い不満を持っていたり、何故に晁蓋があれ程蔑ろにされにゃあならんと憤っている様な「同志」は、是非ご一読を。

期待に違わぬ「水滸伝」となるのでは、と思いますので…

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