第4話 一乗寺ブギー

 先輩は西のほうへと旅立っていった。僕は四回生になり、地元に戻ったときに高校の部活OB・OGの集まりで一度だけ顔を合わせた。そのとき先輩には新しい彼氏がいたが、話を聞く限り、やはりダメ男っぽかった。平山夢明が好きらしい。自分のことを棚に上げることになるが、平山夢明が好きって公言している時点でその男はダメだと思う。

 それ以外で、先輩と個別に連絡を取り合ったりというようなことはなく、先輩も京都に来ることがなかったので、ほぼ一年間、音信不通状態になっていた。


 四回生のとき、真面目に就職活動をしなかった僕は六月の時点で早々に留年を決意し、大学に休学届を出し、だからといってどこへ行くわけでもなく、何をするわけでもなく、ただ京都の街の中で何もせずただふらふらして過ごしていた。

 作家を目指そうとは思っていた。五回生になり、そろそろ本格的に就活しようか、地元に帰ってだらだらと働きながら作家でも目指そうかと思っていた四月のある日、あいつは突然やってきた。


 その日は雨が降っていた。雨が降っていたので僕は外に出ず、部屋の中でだらだらと音楽をかけながら一本の長編小説を書いていた。そんな中でピンポンが鳴り、僕はいぶかしんだ。アマゾンで注文もしていない、最近は新聞勧誘も宗教勧誘もNHKもやってこないのに誰だろう、と。

 扉を開けたら、いつぞやの居候の女の子――「あなたのこと好きじゃなかった」と僕を振ってきた彼女が、雨に濡れた状態で立っていた。

「久しぶり。よかった。まだここに住んでたんだね」

 彼女は力なく笑った。僕は自分でもわかるくらいに無表情だった。気持ち的には今、というよりここ二年くらいずっと会いたくなかった人間だった。

 僕が何も言わずにただ玄関に立ち尽くしていると、彼女は「あのさ」と頬をかきながら申し訳なさそうに口を開いてきた。

「入れて? ってか、今日明日だけでいいから、あなたの部屋に泊めてくれないかな?」

「なんで?」

 我ながら冷たい声だったと思う。

「その、行くあてがなくて、さ。昔同棲してたよしみじゃん。ね、いいでしょ?」

「僕が無理って言ったらどうするんだよ、お前」

「どうしようもないかな。お願い、本当に行くところがないの」

「実家に帰ればいいじゃん」

「今親と喧嘩中。帰るに帰れない」

「ばあちゃんちは?」

「この間怒られてから帰れる雰囲気じゃない」

「彼氏はいないのかよ」

「さっき部屋を追い出されたの」

「彼氏いるのに男の部屋に泊まるのか?」

「あなたならいいかな、って私の判断」

 彼女は屈託のない笑顔を僕に向けてきた。それが告白してその気にさせた挙句振った男に向ける顔か。僕は明らかにイライラを隠せないまま、結局びしょ濡れの彼女を放っておけず、「入れよ」と彼女に向けて言ってしまった。

 部屋に入るなり、彼女は「シャワー貸して」と言ってきた。「着替えなんてないぞ」と言うと、「前みたいにあなたのジャージ貸して」と言った。どこまで図々しいんだこの女は。「どこまで図々しいんだ」と実際に口にした。彼女は舌を出し、それがまた最高にムカついたが、裸で僕の部屋をうろつかれるのも嫌だったので、僕はタンスからジャージを取り出し、彼女に押しつけた。押し問答する気力もなかった。


 彼女がシャワーを浴びている間、僕は彼女が浴びるシャワーの音をBGMに、心を無にしてPCのキーボードを叩き続けた。やがてシャワーの音が止み、しばらくして僕のジャージを身に着けた彼女が姿を現した。彼女は何も言わずにドライヤーを手に取り、髪を乾かし始めた。ドライヤーの位置を変えておけばよかったと後悔した。

 すべてが終わったあと、彼女は僕のベッドの上に倒れこんだ。枕に顔をうずめ、「あなたのにおいがする。久しぶり」と誰に向かって言うでもなく口にしていた。

 僕は何も反応せず、ただPCの画面とにらめっこしていた。

「もう夜遅いけど、寝ないの?」

 ベッドの上から彼女が尋ねてくる。僕は返事をしない。

「ねーねー、前みたいに一緒に寝ようよ」

 無視。

「別にエッチしてもいいよ? 宿代代わり」

 僕はPCを閉じ、ベッドに寝転ぶ彼女を見下ろした。

「何しに来たわけ?」

「え? ……宿がなかったからここに来た」

「だったらおとなしくしてろよ。寝ろ。ベッドは貸すから。僕は床で寝るから勝手にさっさと寝てくれ」

 彼女は何か言いたそうだったが、僕の顔を見て言い返すのをやめたのか、おとなしく布団をかぶり、そしてもう一度僕のほうを見た。

「なんか、変わったね」

「変えたのは誰だよ」

「ううん、変わってないのかも。結局私を泊めてるし。このお人好し」

 彼女は鞄から本を取り出し、読み始めたが、やがて寝息が聞こえてきた。僕は眠くなるまでPCの画面と向き合い、眠くなってから、春になってもまだしまっていなかったこたつの中に潜り込んで寝た。


 目が覚めたら彼女はいなくなっていると思っていた。いなくなっていてほしいと思っていた。しかし期待に反して、彼女はまだ僕のベッドの上にいた。ベッドの上で本を読んでいた。時刻は昼過ぎだった。彼女は目が覚めた僕を見て「おはよう」と言った。僕も「おはよう」と返したが、それ以上話はしなかった。

 今目の前にいる女よりも前の彼女とは、別れたあともよく食事にいったりして今でも仲はいい。しかしこの女とは、別れてからただの一度も連絡を取り合ったことはなかった。それでようやく忘れていたのに、なぜこのタイミングでわざわざ僕の前に現れたのか。視界に入れるとイライラが募るので、僕はなるべく彼女を見ないよう心がけた。


 夕方ごろ、「いつ帰るの」とようやく僕は尋ねた。彼女は「んー」と言葉を濁し、しばらく間を空けてから「もう一晩だけ泊めて?」と言ってきた。彼女のほうを向くと、僕を見てにこにこ笑っていた。

 その笑顔がたまらなく腹が立ち、僕は窓の外を見てまだ雨が降っていることを確認してから外に出るためにスマホ、財布、時計を手に取った。

「どっか行くの? ごはん? 一緒に行っていい?」

「ラーメンだよ」と僕は答えた。

「ラーメン! 私も行きたい」

「なんでテンション上がってんの? ラーメン好きだったっけ?」

「あなたじゃない、ラーメン屋なんて一度しか行ったことなかった私をひたすらラーメン屋に連れていったのは」

「あれはお前が行きたいって言ったからじゃないのか」

「でもあなたがいなきゃラーメンなんて食べなかったわよ。私をラーメン好きにした責任とってよ」

「責任ってなんだよ」

「責任は責任に決まっているじゃない」

 僕も彼女も語気が強くなってきた。

「どこに行くの?」

 彼女はそう尋ねてきた。僕はどこのラーメン屋に行こうかなんて考えてもいなかった。

 最近行ってなかったラーメン屋は? 〈高安〉や〈亜喜英〉にはこの間行った。〈ラーメン軍団〉にもこの前大学の先輩と一緒にまぜそばを食べに行った。天一? そんな気分ではない。最近できた行ったこともない新しいラーメン屋? 今は冒険する気はない。

 そこまで考えたところで、僕の頭に浮かんできたのはなぜか先輩の姿だった。一乗寺、ラーメン、先輩。僕は彼女を見据え、行きたいラーメン屋の名前を口にした。


「〈一乗寺ブギー〉」


「え、やだ」

 彼女は即答してきた。

「やだって何」

「なんでそこ?」

「今はそこの気分なんだよ」

「私、あそこ嫌い」

「行ったことあるのかよ。僕、お前を〈一乗寺ブギー〉に連れてったことってないはずなんだけど」

「今の彼氏が連れてってくれた。つけ麺食べた。不味かった。私は無理。あれは食べられない」

 彼女は眉をひそめた。僕はそれを見て「は? 何様のつもり?」と声を荒げた。

「ねえ、他のところ行こうよ。奢るから。ってかお腹すいてるの? ごはんほしいなら作るよ? ほら、前みたいにさ――」

「ああそう。それはどうも。でも僕は今どうしても〈一乗寺ブギー〉のつけ麺が食べたいんだ」

 僕は彼女の「ちょっと待って!」という言葉に一切の反応を示さず、部屋を出た。鍵は閉めなかった。合鍵を部屋の中に、見える場所に置いてきた。帰りたければ帰ればいい。ただし鍵は閉めといてくれ、という僕からのメッセージだった。


 雨の中、だらだらと歩いて〈一乗寺ブギー〉へと向かう。自転車で行ってもよかったが、なるべく長く、一秒でも長く部屋から――彼女から離れていたかった。

〈一乗寺ブギー〉は店内の暗さ、そしてカウンター席がその中にずらっと並ぶ様は一瞬バーか何かを思わせる雰囲気を醸し出しているが、実際はそんなことはなく、油とにんにくの匂いがただようごく普通のラーメン屋である。


 入ってすぐ右に券売機。〈一乗寺ブギー〉で僕がもっとも好きなのは、マヨネーズがかかった油そばだ。並みで六二〇円とお得。麺に油、にんにく、そこにマヨネーズが投入されるそれは、身体に悪いこと必至だが、身体に悪いものが美味しいのは誰だって知っていることだ。

 しかし僕は油そばを頼まなかった。僕が押したボタンは、彼女が無理と言っていたつけ麺――麺四〇〇g、肉も野菜も増しで九八〇円――だった。

 初めて僕が〈一乗寺ブギー〉に入ったとき、頼んだものはつけ麺だった。最初は麺が水っぽく、つけ汁も独特で口に合わなかった。しかし二回、三回と回数を重ねるうちに次第に癖になり、油そば目当てでなく本当にお腹を満たしたいときにはつけ麺を頼むのだ。彼女が部屋に来てから液体以外の何も摂取していない今は、とにかくお腹が空いていた。腹いっぱいになりたかった。

 店の奥から出てきた店員に食券を渡し、店の一番奥のカウンターに腰を落ち着ける。スマホをいじりながらつけ麺が出来上がるのを待つ。彼女からは何も連絡は入っていなかった。連絡してくるとも思わなかった。そもそもまだ僕の連絡先を残しているのか謎だった。

 待っている最中、一組の若いカップルが店内に入ってきた。いちゃいちゃしているわけではなく、そのカップルはただ無言で券売機で食券を買い、僕のほうをちらりと見てから僕とは正反対の位置に座った。その後も、カップルの声を聞くことはなかった。

 無愛想な店員からつけ麺がカウンター越しに手渡された。大皿に麺が盛られ、スープの中には野菜や肉がひしめき合っている。はて、このつけ麺はどんな味だっただろうか。その疑問を解消するために、ステンレス製のれんげを手に取り、一口スープをすすった。醤油にまぎれた油の味が口の中いっぱいに広がる。一口でわかる身体に悪い味。だが、それがいい。

 つけ麺を頼んだときにまずすること。麺をスープにつけずに、そのまま少しだけ食べる。どこかのつけ麺屋で「まずは麺だけをお楽しみください」という文言を見て以来、つけ麺を食べるときはずっとそうしている。意味はわからない。ただそう書かれていたから、意味もわからずやっている。麺だけ食べて、いやたしかに美味しいかもしれないが、僕は麺を食べに来ているわけではない。僕はつけ麺を――麺をスープにつけてすする食べ物を――求めてやってきているのだ。それでもとりあえず一本、そのまま。ルーティーン。本気で水切りがされていないので水っぽい。当初はそれが気になったが、今ではまったく気にならなくなった。

 本番。麺を豪快に箸に取り、スープにつけ、野菜も肉も巻き込んで一気にすする。


『じゃあ一番好きなラーメン屋は?』

『んー、〈一乗寺ブギー〉』

『なんで〈一乗寺ブギー〉なんですか?』

『なんでだと思う?』


 僕が麺をすする音だけが響く店内で、僕の脳内に不意に浮かんできたのは、ずっと前の先輩とのやりとりだった。

 僕は箸を止め、つい先ほど彼女が「やだ」と言ったときの表情を思い出した。本気で顔をしかめ、本気で嫌そうなあの顔。


『ラーメンじゃないよ、ラーメン屋だよ』


 一番好きなラーメンじゃない、一番好きなラーメン屋。

 そういうことか、と無意識にひとりごちた。

 ラーメン屋に行く目的は、ラーメンを食べること。ラーメンを食べる行為は、孤独である。誰と行こうと関係ない。ラーメン自体の味が変わるわけではない。


 ラーメンを食べたい人間が行く。食べたくない人間は行かなければいい。


 僕は彼女から離れたかった。彼女は〈一乗寺ブギー〉が嫌いだった。〈一乗寺ブギー〉でなければ、もしあのとき〈高安〉などと言っていれば、彼女は僕についてきただろう。

 今の僕にとって、結果として一人になれる空間、それが〈一乗寺ブギー〉だったのだ。


 先輩は、それがわかっていたのだろう。一番好きなラーメン屋は、一緒にいたくない人から離れて、ただ一人、孤独にラーメンをすすることができるラーメン屋。

 だからこその、一番好きなラーメン屋が〈一乗寺ブギー〉。一緒にいたくない人が嫌いであれば絶対的に一人になれる場所。

 もしも一緒にいたくない人間が〈高安〉が嫌いなら〈高安〉に行けばいい。〈亜喜英〉が嫌いなら〈亜喜英〉に行けばいい。

 そうか、一人か。

 ふんと鼻で笑う。誰もそれを見ている人間はいない。店員も、離れた席に座るカップルも。

 僕は大盛りの麺を、大事に大事に食べた。それでも麺は有限なので、やがてなくなってしまう。麺がなくなって、今度はスープをゆっくりと飲み始めた。何で薄めるわけでもなく、そのままの濃いものを。喉が渇くので、水を飲みながら。身体に悪い毒のような液体を、寿命を縮めるスープを、すべて飲み干した。

 空になった器ふたつを眺め、名残惜しさを感じながら水も飲み干し、店員に「ごちそうさま」と言って〈一乗寺ブギー〉をあとにした。


 まだ雨が降っていた。雨が降っているせいで少しひんやりする。

 満腹になると胃に血流が向かうので頭の動きが鈍る。鈍った頭で、今部屋にいる彼女のことを思い出す。

 少々あたりが強かったかもしれない。最悪の形で別れはしたが、一時は自分の時間を潰してまで、長い時間を一緒に過ごした仲ではあるのだ。彼女はもう一晩泊まると言っていた。それならもう少しくらいは彼女との時間が残されている。少しくらいなら彼女の話を聞いてやってもいいのかもしれない。彼女が好きだったものでも作ってやって、それを食べさせて。


 マンションに帰り着いた。扉を開けようとすると、鍵がかかっていた。えっ、と思い、鍵を開けて中に入ると、部屋の電気は消えていた。新聞受けを開けてみると、鍵と、一枚の紙が落ちてきた。紙にはただ一言『お騒がせしました』とだけ書かれていた。

 部屋の中には誰もいなかった。

 明かりをつけて先ほどまで彼女がいたはずであろうベッドに腰を下ろしてみるも、人がいたようなぬくもりはもうどこにもなかった。綺麗に畳まれたジャージを触っても、ただただ冷たかった。

 何となく、まだ僕の電話帳にひっそりと残っていた彼女の電話番号を呼び出し電話をかけてみたが、「おかけになった電話は」と無機質な女の声が聞こえた時点で僕はスマホをベッドの上へ放り投げた。


 日が暮れてもうしばらく時間が経つ。ふと思い立ち、僕はスマホを拾い上げ、久しぶりに先輩に電話をかけてみた。仕事で残業があったら出ないかもしれない。職場の人と飲みに行ったりしていたら出ないかもしれない。そう思ったが、存外すぐに先輩は僕の電話に出てくれた。

「もしもし?」

『もしもしー! 久しぶり! 急にどうしたの? 友達いなくて寂しくなったとか?』

「先輩がいなくなって寂しいですね」

『そっかー。でも我慢しなさいな。男でしょ』

「先輩に聞きたいことがあったんですよ」

 先輩の言葉に対しての反応をせず、そう切り出した。先輩は間を置かずに『何?』と尋ねてきた。

「先輩が大学にいたとき、最後につき合ってた彼氏さんがいるじゃないですか、先輩に筋トレさせたりしたっていう、あの」

『あーあー、わたしよりセフレを取ったあいつね』

「〈一乗寺ブギー〉嫌いでした?」

 ん、という先輩の少しとまどった反応が電話越しに感じ取れた。

『嫌いだったけど……どうして? たしかに大がつくほど嫌いだったけどさ』

「ただの答え合わせです」

 僕はそれだけ言った。何の答え合わせかは言わなかった。先輩は『そっか』とそれ以上追及してこなかった。何の答え合わせかわかったのか、それともそれほどその話題に興味がなかったのかは僕にはわからなかった。

 しかしそれ以上の話題が、咄嗟に出てこなかった。電話越しの沈黙。それを何とか先に破ろうと、すぐ電話に出たってことは暇だったんですか、などと言おうとしたら、先輩は先に『ちょうどよかったよー』と言った。

「ちょうどよかった?」

『うん。家族と今身近な人以外では、これ伝えるのは君が初めてなんだけど、わたし、結婚するから。職場の先輩と。なんかできちゃってさ』

「へ?」

 突然何を言っているんだこの人は。

 僕が絶句していると、彼女はへへっと恥ずかしそうに笑った。

『うん。そういうことなの。もう誰でも、結婚しちゃえばこっちのもんかな、って。子ども、ほしかったし』

「そうですか、おめでとうございます」

 混乱した頭でも、祝福の言葉は出てくるらしい。しかしそれ以上続かなかった。続かなかったので、僕はそれ以上先輩の言葉を聞かず、スマホを耳から離し、通話終了ボタンを押した。

 電話しなきゃよかったかもな、と思った。

 そういえば先輩に貸した本がまだ僕の手許に返ってきていないことを思い出した。でも、もう、返ってくることはないだろう。

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一乗寺ブギーポップ 江戸川雷兎 @lightningrabbit

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