第3話 ラーメン軍団

 一乗寺に〈ラーメン軍団〉というラーメン屋がある。

 関西二郎系ラーメンの雄であるラーメン荘〈夢を語れ〉から少しだけ離れたところにあるラーメン屋。そこが提供するまぜそばは〈夢を語れ〉のどんと盛られたラーメンよりもさらに量が多く、大盛りは総重量一キロを超えると言われている。なので初見さんお断り、女性お断りというメニューなのだが、先輩はそれを完食できると豪語していた。最初に僕を〈ラーメン軍団〉に連れていってくれたのは別の人だったが、二回目は先輩と行った。そのときは僕も先輩もまぜそばの並盛を食べた。そして「いつか一緒にまぜそば大盛りに挑戦しよう」と話をしたのだ。しかしその話をして以来、一人で勝手に大盛りに挑戦して完食したことは何回もあっても、僕が先輩と〈ラーメン軍団〉に行くことは一度もなかった。


 だから、三回生の終わり、あと一か月で四回生になるというときに、僕は自分から先輩をラーメンに誘った。「〈ラーメン軍団〉に行きませんか?」と。先輩からの返事は「行く」との即答だった。


〈ラーメン軍団〉は並ぶときもあれば並ばないときもある。テニサーのやつらがアフターとして集団でやってきたりしたときはだいぶ待たされることになるが、今日は誰も並んでおらず、すんなりと入れた。

「これが最後になるかもね」

 席に着くなり、先輩はそう言ってほほ笑んだ。「そうですね」と僕は答えた。

 先輩はこの春大学を卒業して、府外へと就職してしまうのだ。だからこれがおそらく先輩と一乗寺のラーメン屋へ足を運ぶ最後の機会になるだろう、と僕は思っていた。だからこその〈ラーメン軍団〉だった。

 僕はにんにくまぜそば大盛りにんにく少なめを頼んだ。先輩の前で大盛りを頼むのは初めてだった。先輩はそれを見て、涼しい顔で「つけ麺大盛りで」と言った。

 えっ、と僕は目を丸くして先輩を見た。先輩は頬杖をついて、メニュー表をじっと見ている。僕が見ていることに気づいたのか、先輩は目を合わせて軽く首を傾げた。僕は「なんでもありません」と首を振った。


〈ラーメン軍団〉のつけ麺もけっこうな量があり、つけ麺の大盛りを食べることができればまぜそばに挑戦できるという独特なルールがある。だからつけ麺大盛りも決して女性が頼むような品ではないのだが、てっきり先輩はまぜそば大盛りを頼むんだろうと思っていた僕としては、その注文は少し驚きだった。しかし軍団のまぜそば大盛りなど無理強いして食べさせるものではない。あれは自発的に食べるものだ。だから僕は何も言わなかった。

「君と最後に来たのが軍団になるのかー」

 先輩は誰に話すでもなく、ひとりごちるように言った。

「〈一乗寺ブギー〉がよかったですか?」

「ん? なんで〈一乗寺ブギー〉?」

「先輩、ずっと前に〈一乗寺ブギー〉が一番好きだって言ってたじゃないですか」

「言ったっけそんなこと」

「言いましたよ」

「別に。〈一乗寺ブギー〉は君と行きたいラーメン屋じゃないから、軍団でいいよ。〈高安〉の唐揚げでもよかったけど」

「じゃあ、京都に戻ってきたときに誘ってくださいよ。いつでもどこでも行きますから」

「京都に骨をうずめる気?」

「それはわからないですけど、最低でもあと一年はこの街にいますから」

「最低でも?」

「留年する可能性がありますからね」

「え、ろくにサークルにも入っていないのに、友達とか誰もいなくなるじゃん」

「それはそれでいいかな、と」

「彼女作りなよ。もうしばらくいないでしょ?」

「もうしばらくいないですけど、まだしばらくはいいです。めんどくさい」

「なんかいい感じの子がいるって言ってたじゃん、この間」

「あれは――」

 僕は大きくため息をついた。それと同時に僕のところに巨大なすり鉢に盛られたまぜそばが、先輩のところに山盛りのつけ麺が運ばれてきた。

「あの子は、どっか遠くに行っちゃいました」

 僕がそう言うと、先輩はそっかと小さくつぶやき、割り箸を割った。僕も先輩の後を追うように割り箸を割り、すり鉢の中に箸を突っ込み、もやしキャベツなどの野菜と麺と巨大な肉の塊を混ぜ始めた。器が大きい――あまりにも大きいので、たとえ総重量が一キロあるといっても、どれだけ豪快にまぜてもこぼれる心配がない。しっかりとまぜて底に溜まった油とにんにくを麺と野菜に絡めていく。

 麺は太麺の縮れ麺。コシがあり、食べごたえがある。だから麺から先に食べなければならない。野菜から食べて腹を膨らませてしまうと、麺を身体が拒絶することになってしまう。二郎系ラーメンを食べるときとおおよそ同じように、麺と肉を真っ先に片づけ、オーバータイムで野菜をかっくらう。それが一番正しい完食の仕方だ。

 ただ今回は黙々と食べるわけではなく、先輩と適当に駄弁りながら食べた。後ろに並んでいる人はいない。時間ならたっぷりあった。

「先輩は、彼氏さんはどうなんですか」

 そう尋ねると、先輩は「別れた」とそっけなく言った。

「遠距離は嫌なんだってさ。向こうから別れ話をしてきた。でもまだわたしの部屋にいるけど」

「別れたのにいるんですか? 僕の部屋にいた居候の女の子は別れたらさっさと荷物持って僕の前から消えましたけどね」

「それが普通でしょ。わたしの彼氏が異常。遠距離が嫌ってより、彼の言い分では『遠くの彼女より近くのセフレ』らしいから」

「それは……先輩には悪いですけど、そこまで言い切るってのは一周回って面白いですね」

「でしょ。わたしもそれ聞いて笑えてきちゃって。まあ、泣いたんだけど」

「先輩でも泣くんですね」

「泣くわ。君よりは泣かないかもだけど」

 先輩の今までの彼氏は誰も彼もダメ人間だった。「本当にそんなダメ人間いるのかよ」というような男ばかりが先輩の今までの彼氏の共通した特徴なのだが、今回の彼氏もダメでクズだったらしい。

 まぜそばを食べながら先輩の話を聞いていると、先輩が急に「一口ちょうだい」と言ってきた。

「別にいいですけど、食べたかったなら自分で頼めばよかったじゃないですか」

「つけ麺も食べたかったの。それに君がまぜそばを頼むことはわかってたし、わたしがつけ麺を頼めばどっちも食べることができる。でしょ?」

 先輩はきらきらした目で僕を見てくる。化粧はばっちりキマっているのに幼さすら感じるその目を見ていると、この人本当に来月から社会人なのか、と疑問に思えてくる。僕は黙ってまぜそばの器を先輩のほうへと押しやった。先輩は「ありがとー」と礼を言い、箸でがっつり麺を掴み、それを一気にすすった。

 麺をすする先輩の向こう側で、カップルが二人、ふたつのまぜそば並盛りの器を前に暗い表情をしていた。箸も止まり、何もしゃべろうとしない。何も考えずに軍団でまぜそばを頼むとああなるのだ。食べなれていない人間が食べきれるわけがない。調子に乗ったんだな、と僕は鼻で笑った。

 気がつけば先輩は僕のまぜそばを二口、三口と食べていた。

「ちょっと先輩!」

「え、ごめん。思ってたより美味しかったから。君も食べていいよ、わたしのつけ麺」

 先輩がそう言うので、僕は先輩の器から麺をがっつり取り、つけ汁にがっつり入れ、麺にスープを絡めて食べてやった。一気にほおばりすぎて気管にスープが入りむせてしまった。「欲張るからだよ」と先輩は笑った。

 久しぶりのまぜそば大盛りだったが、以前と同じように軽くたいらげた。もっとも、先輩がけっこうな量を食べたので、本当の意味で大盛りを食べたとは言い難い。今度一人でリベンジだな、と店を出てから思った。今回も先輩の奢りだった。京都でラーメンを奢ってもらうのは最後の可能性があると考えると、少し寂しかった。


 先輩も名残惜しいのか、僕も先輩も店の前を離れようとせず、ただ他愛もない話をして帰る時間を遅らせていた。中々最後の話にならず、別れる気配もなかった。しばらくしてから先ほど二人でまぜそばを前に暗い表情をしていたカップルがうつむいた状態で店を出てきた。店を出て、彼氏と思しき男が彼女に向かって「ごめん」と謝った声が聞こえた。

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