第2話 亜喜英

 いろいろあって居候の女の子とつきあうことになった。しかしつき合ったところですでに同棲に近い状態にあった生活が変わるわけでもなかった。ただ何とも思っていなかった僕の心にわずかながら、そして時間の経過とともに大きな変化が訪れただけだ。しかしそれも長く続くことはなく、結果として向こうからつき合おうと言ってきたのに向こうから別れようと言われることになった。経緯を話せば長くなるが、どうやら向こうは僕に対して一切の恋愛感情を持っていなかったらしい。別れを告げられ、部屋の荷物はその日のうちに着替えだけ持って帰られ、置いていた本だのDVDだのは「全部あげる」などと言われ、彼女は僕の前から姿を消した。


 それはまあラーメンが絡んでいないので比較的どうでもいい話なのだが、その別れを告げられる前の日、久しぶりに先輩から電話があった。大学にも行かず、部屋で一日中ぼうっと過ごしていたせいか、電話の音に過敏に反応し、即座に電話に応答した。

『早いね。寝てたわけじゃなさそうね』

「暇してました」

『あれ、彼女さんは? 今日は部屋にいないの?』

 そういえば先輩とこうやって話すのも久しぶりな気がするし、自分の近況を話す機会も最近なかったな、と思った。

「もう二週間は会ってないですよ」

『あれ? 別れた?』

「いえ、連絡は取り合ってますけど」

『ふうん。なるほどね』

 先輩は電話越しにさもわかったかのような反応をした。そして暇だったらと続けた。

『降りてきてよ。今、君のマンションの前にいるんだ』

 立ち上がって窓から下を見下ろすと、先輩はこちらを見ており、僕を視認すると大きく手を振ってきた。僕は電話を切り、待たせるのも悪いと思い、着の身着のままTシャツに高校時代の部活のジャージ姿で何も持たずに外に出た。先輩が呼ぶということは、どうせ目的はひとつしかない。


「お待たせしました」と言うと、「全然。今来たとこだし」と先輩は自転車から降りて言った。いつものごとく服装はどう見ても先輩の本気のデート服でラーメンを食べに行くためのものではなかったし、化粧もばっちりとキマっていた。

「今日〈亜喜英〉開いてるから〈亜喜英〉に行こう」


〈亜喜英〉。

 不定営業のラーメン屋。営業するときだけツイッターで報告される。長い行列ができる。しかし近隣住民の迷惑になるため、並んでいる最中は一切の私語禁止。まさにラーメンを食べに行くためのラーメン屋、それ以外の目的――たとえばそれこそデートとか――では絶対に足を運ぶことのないラーメン屋である。

 そもそもラーメン屋にはラーメンを食べに行くのだ。ラーメンは女の子とデートついでに食べるものではない。


 先輩は自転車を僕のマンション前に停める。歩いていける距離なので、徒歩で〈亜喜英〉へ向かった。〈亜喜英〉には駐輪場がないのだ。

 まだ開店前だというのに、〈亜喜英〉の前には行列ができていた。二列にきれいに並んだその列の人々は、一言も発さず、ただじっと突っ立っている。僕と先輩はその後ろに静かに並び、開店の時間を待った。

 店の兄ちゃんが外に出てきて開店を知らせる。店内はそれほど広くないため、最初に一気に入っても僕と先輩までは入りきらなかった。店員には僕が「二人です」と伝え、店員に「もうしばらくお待ちください」と言われた。僕も先輩もスマホをいじり始める。並んでいる最中は喋れないからだ。一人で来ても二人で来てもたぶん店先でやることは同じだろう。


 十五分ほどで最初に入った客が出てきた。五人グループだったらしく、一気に中の席が空く。前に並んでいた三人組の男子大学生と同じタイミングで中に案内される。壁際のカウンター席に僕と先輩は誘導された。

 僕も先輩もラーメンを頼んだ。僕はそれに加えてごはんの小を頼む。下手に中盛りを頼めば〈高安〉並みのごはんが出てくるから注意しなければならない。

「〈亜喜英〉さ」

 注文したあと、先に口を開いたのは先輩だった。

「ラーメンだけだと少ないから、前はいつも唐揚げとごはんも頼んでたのね」

「そういえば唐揚げがあったときもありましたね。僕が初めて来たときにはもう唐揚げはメニューになかったですけど」

「唐揚げだったら〈高安〉とか〈大蔵〉のほうが好きだけど、ここの唐揚げもラーメンを食べるにはちょうどよかったんだ」

 先輩はそう言ってため息をついた。

「ラーメンだけだと少ないってたった今言ったばかりなのに、ラーメンだけ?」

 僕が疑問に思ったことを言うと、先輩は「こら」と拳を挙げた。

「言っとくけどわたしも女の子だからね」

「すみません」

「まあ女の子は普通〈ラーメン軍団〉でまぜそば大なんて頼まないけどね」

「そりゃ、そうですね」

 先輩は声を上げて笑う。それからもう一度ため息をついた。

「彼氏がさ、わたしに筋トレさせてくるの」

「筋トレ? なんでですか」

 僕は鼻で笑う。先輩も小さく微笑んだ。

「部屋を片づけてたら高校のとき筋トレで使ってたバランスボールが出てきてさ、懐かしくなって久しぶりに筋トレしたら彼氏が面白がって、それからわたしにさせてくるの」

「めんどくさいですね」

「めんどくさいよ。この間さ、スーパーでマウントレーニアがセールで売ってたからうれしくなって買い込んだら『それ以上デブってどうするんだよ』って言ってきて、それからひどくなった。わたしが筋トレしてひーひー言ってるのを見て楽しんでる」

 趣味が悪いなと思った。それに――僕は先輩を見る。先輩は水泳をやっていたせいか、ガタイはいいが決して太っているわけではない。筋トレすればさらに身体が大きくなるだけではないのか。

「あー、彼氏に会いたくないなー」と先輩が立て肘でぼやいたところでラーメンが運ばれてきた。

〈亜喜英〉のラーメンはどろっとしたスープの天一とか〈極鶏〉みたいなラーメンだ。下手すればお腹を壊す。しかし並んで食べるだけの価値があるラーメンだと僕は思う。そして不定営業というのが――いつでも食べたいときに食べられるわけではないということが、それに更なる付加価値を加えている。

 チャーシューやメンマなど、ラーメンの上に載っているものが美味しい。それでごはんがすすむ。しかし〈亜喜英〉でごはんを食べるタイミングはそこではない。まずはスープががっつり絡んだ微妙な太さの麺を食べる。先輩の言う通り、麺の量はそれほど多くないため、思っているよりもすぐに食べ終わる。スープがどろどろしたラーメンは、僕にとってはここからが本命なのだ。

 スープをごはんに入れ、リゾットのようにする。これが美味い。本当に。これだけの美味しさならスープをごはんにぶっかける専用のメニューがある天一にも勝る。

 そのリゾットをレンゲですするように食べる。

 感嘆とも聞こえるであろう息が漏れた。自然と笑えてくる。

 先輩を見ると、先輩も麺を食べ終わったようで、スープを一口だけ飲み、それから替え玉を頼んだ。やはり足りなかったようだ。

〈亜喜英〉の替え玉は、麺の上にネギと細切れのチャーシューが載ってくるので、他のラーメン屋で替え玉を頼むよりもお得感がある。僕はそれを見てごはんじゃなくて替え玉にすればよかったかもな、と少し後悔した。隣の芝生は青く見えるのだ。

 基本的にラーメンのスープを飲み干すのが身体に悪いのは知っている。わかりきったことだが、それでも飲む。もちろん飲みたいスープ、飲みたくないスープはあるが、〈亜喜英〉のスープは飲みたいスープだ。ラーメンのスープと水を交互に飲む。水を飲むとスープが飲みたくなり、スープを飲んで満足すると水で口の中を洗いたくなる。そしてまたスープを飲みたくなる。負の連鎖だ。その連鎖を繰り返したらやがて器は空になった。

 先輩は底に少しだけスープを残していた。それは先輩なりの抵抗だったのかもしれない。


「出ようか」と先輩は言う。後ろにお客さんが並んでいるラーメン屋にだらだらと居座るのは他の客にもラーメン屋自体にも迷惑だ。〈亜喜英〉は特にそう。だからラーメン屋はデートで来る場所ではない。ラーメンを食べに来る場所なのだ。

 僕も財布を出したが、先輩がさっさと僕の分まで払ってしまった。「すみません」と僕が言うと、先輩は「わたしが先輩なんだから先輩らしいことをさせろ」と言って歯を見せて笑った。ラーメンのネギがついているのが見て取れたが、僕は指摘しなかった。どうせこの後部屋に帰るだけだろうし、言う必要もないだろう。

 店を出て少し歩く。〈亜喜英〉から離れたところで、先輩は「部屋帰りたくないなー」とまたぼやいた。

「彼氏さんが部屋にいるんですか?」

「いや、今はいないよ。今日はバイト。だからこうやってラーメン食べに来た」

 なるほど、と僕は言う。それきり、先輩も僕もしゃべらなくなった。

 僕のマンションの前まで無言で歩いた。先輩が自転車の鍵を開けたところで「そうだ」と僕を見て鞄をあさり始めた。

「借りてたCD、返す」

「ああ、そういえば貸してましたね」

「忘れてたんかーい」

 渡された袋の中身を確認すると、一年以上前に貸したCDだった。この間貸した本は入っていなかった。

「あ、本は待ってね。まだ読んでないんだ。何冊かあったよね」

 先輩は自転車にまたがった。「いつでも会えますし、別にいつでもいいですよ」と言うと、先輩は至近距離で僕に手を振り、「またラーメン行こうねー」と言って白川通りをゆっくりと下っていった。


 居候の女の子から『明日会える?』と久しぶりに連絡が来たのはその直後だった。別れ話を持ちかけられたのは、その次の日の夕方の話だった。

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