第1話 高安

 スマートフォンが枕の下で鳴っている。鳴っていると言っても、マナーモードに設定しているので、ただブルブルと震えているだけだ。いやいやながら僕は目を開け、枕の下からスマートフォンを引っ張り出し、発信者を確認する。画面には先輩の名前が表示されていた。一息吐き出し、僕は画面に指を滑らせ、電話をつないだ。

「……もしもし」

『寝てたね』

 先輩は電話の向こうで鼻で笑った。

「寝てはないですよ。目をつむってただけです」

 僕は顔を上げ、窓の外を見た。すでに暗くなっている。時間は午後六時。十一月も終わりかけなので、暗いのは当然だった。

「またラーメンですか?」

『ご名答。今から部屋出るから、一〇分後に高野ね』

「拒否権はないんですよね?」

『当たり前じゃん。ひょっとしてもうご飯食べた?』

「昼前に起きて、ご飯食べて、それからまたずっと寝てましたよ」

『じゃあいいね。今から向かうから。わたしを待たせないでよ』

 先輩はそう言って電話を切った。

 僕は再度ベッドに倒れ込み、それから横を向いた。僕の横では、居候の女の子がすやすやと寝息を立てていた。つき合っているわけではない、一か月ちょっと前からわけありでただただ僕の部屋に寝泊まりしている女の子。一人用のベッドに二人で寝るのは正直狭いが、もう最近は慣れてしまい、何とも思わなくなっていた。

 僕は彼女を起こさないようにそっと起き上がり、彼女に布団をかけ直し、外に出ても問題ない服へと着替えた。彼女はしばらくは起きないだろうと踏み、明かりをすべて消して部屋を出た。


 高野とは東大路通と北大路通の交差点付近のことを指す。もっと大きな地名なのかもしれないが、僕にとって高野と言えば、京大から北上していくと遭遇するあの交差点のことでしかなかった。

 僕の住むマンションから高野までは自転車を使えば五、六分ほどで行ける。しかし僕は少し意地の悪い気持ちが働き、あえて徒歩で向かうことにした。徒歩で行くと、少し早歩きでも一〇分から一五分かかる。呼んだのは向こうだ。少しくらい僕がわがままを通してもばちは当たらないだろう。


 のんびり歩き、高野の〈ミスター・ドーナツ〉前に先輩がいるのを遠めに確認してから少し走るふりをした。

「遅い」

 先輩は自転車のハンドルに身体を預けながら半目で僕をにらんできた。

「お楽しみの時間を邪魔したのは先輩ですから」

「お楽しみ? 前言ってた、居候の女の子?」

「まあ、ただ寝てただけですけどね」

「へー。正直でよろしい」

 先輩はすっと背筋を伸ばした。上は暖かそうなジャケットだが下が素足にショートパンツ、ブーツで寒そうだ。そしてばっちりと化粧をしていた。僕はそのキマった姿をまじまじと見た。

「ラーメン食べに行くだけなのに?」

「いろいろあるの、わたしにも」

 先輩はそう言い、自転車から降りた。それから「今日は〈高安〉」と言った。

「また〈高安〉ですか?」

「文句ある?」

「いや、口はもう〈高安〉の唐揚げを求めてますよ」

「ならよろしい」

 先輩が自転車を押しながら歩き始める。僕はその横にぴったりとつけた。


 高野から東大路通を北上し、曼殊院通よりもさらに北へ向かう。赤い大きな提灯が見えたらそれがラーメン屋の〈高安〉だ。僕が一乗寺で通いつめるラーメン屋のひとつでもある。しかし僕の目的はラーメンではなく、名物のカレー味の大きな唐揚げだった。おそらく先輩もそうだろう。

 水泳部の先輩。高校時代、女子サッカー部を廃部に追い込んだ伝説の人。男関係で失敗しまくるくせに彼氏が途切れたことがない。僕と同じくラーメンが好き。ここ半年ほど――僕が先輩の誘いで入った水泳サークルに顔を出さなくなってから、そんな先輩と連れ立ってラーメンを食べに行くことが増えてきた。僕から誘うこともあれば、先輩から誘ってくることも多い。


 六時半、夕食時。〈高安〉。

 食べログでやたらと評価の高いラーメン屋なので、すでに店の前に列ができている。この並び方だと、二〇分から三〇分は待たされそうだ。

「なんでそんな気合の入った化粧をしてるんですか」

 列の後ろに並んでから、僕は先輩にそう尋ねた。

「君と久しぶりのデートだから」

「彼氏さんに言いつけますよ」

「じゃあわたしも君の彼女さんに言いつけるけど」

「まだ彼女じゃないですって」

「でも同棲ごっこ初めて何ヶ月?」

「そろそろ二ヶ月ですかね」

「それはもうつき合ってるのと同じだよ」

「どうなんですかね」と僕は顔をしかめ、腕を組んだ。

〈高安〉は壁が全面ガラス張りで中が丸見えだ。並んでいると、中でラーメンを食べる人間が見える。この構造はどうなのか、と思わなくもない。ガラスの向こう側の客に唐揚げが運ばれてきた。

「なんで〈高安〉なんですか?」

「唐揚げ美味しいじゃん」

 先輩は澄ました顔でそう言った。

「ラーメンじゃないじゃないですか」

「ラーメン目的だったら別のラーメン屋に行くよ。わたしは〈高安〉の唐揚げが食べたいの」

 それはわかる、と僕は先輩の言葉に頷いた。

「先輩、〈高安〉の唐揚げほんと好きですよね。僕とここに来たのだけで三回ですよ」

「そりゃあ、一乗寺で三番目に好きなラーメン屋だからね。ラーメンじゃないよ、ラーメン屋だよ」

「あ、三番目なんですか。じゃあ二番はどこなんです?」

「〈亜喜英〉」

〈亜喜英〉は不定営業で、食べるのにいろいろと苦労するラーメン屋だ。ただし味はピカイチで、どれだけ並んででもたまに食べたくなる。そんなラーメン屋である。ごはんに合うラーメン。美味しさの代償として、〈極鶏〉と同じくお腹を壊す可能性がある。

「じゃあ一番好きなラーメン屋は?」

「んー」


 先輩は口に手を当て、しばし悩んだ――ような表情を見せた。

「〈一乗寺ブギー〉」


 えっ、と僕は思わず声を出した。

〈一乗寺ブギー〉。東大路通沿いにあるつけそば屋だ。僕もたまに行く。つけそばもそこそこ美味しいが、僕が足を運ぶ主な目的はマヨネーズがかかった油そばだ。たまにあの他では味わえないつけそばも恋しくなる。だが、どちらかと言えば誰かとラーメンの話題のときにあまり挙がることはない、少々地味なラーメン屋な気がしており、一番好きなラーメン屋として先輩が挙げるとは思ってもみなかった。

「なんで〈一乗寺ブギー〉なんですか?」

「なんでだと思う?」

 考えてみる。しかし数多く一条寺にラーメン屋は存在するのに、あえて一位に〈一条寺ブギー〉を挙げる理由などわからなかった。

「……あそこの油そばが好きだから?」

「ぶっぶー。不正解」

 そこのラーメンが好き以外に理由などあるのだろうか?

「わかりませんね」

「じゃあ宿題ね。わかったら教えてちょ」

「えー、教えてくれないんですか?」

「自分で考えればいいじゃん。京大生でしょ。じゃあ君が好きなのはどこ?」

「うーん、〈高安〉も好きですけど、友人としょっちゅう足を運ぶのは〈夢を語れ〉か〈〈ラーメン軍団〉〉ですね」

「二郎系かー。私も好きー」

「一人でよく行くのは〈大蔵〉です」

「あー、いいね、〈大蔵〉。唐揚げは〈高安〉のほうが好きだけど、ラーメンの美味しさと組み合わせると〈高安〉にも引けを取らないからね。あっちのほうが割安だし」

 先輩は〈高安〉の入り口を見た。ラーメン屋の前で「ラーメンはあっちのほうが美味しい」と発言したことを気にしてだろう。幸いにも店員に会話が聞こえるような位置にはいない。


 長い列もようやく終わり、店の中に入り、僕と先輩は壁際にあるテーブル席に案内された。僕も先輩もメニューを見ずに「唐揚げ定食で」と案内してくれた店員に注文した。僕は「ごはん大盛りネギ多め麵固めで」と続け、先輩は「ごはん普通で」とだけ言った。店員が「以上でよろしいですか」と言ったのち、先輩が「ニラゴマはもうないんですか?」と尋ねた。たしかに僕らの案内されたテーブルにはニラゴマ――ニラをただ辛く味つけした何か――はなかった。店員は周囲を見回したあと、確認してきますと言い、店の奥へと消えていった。

「あれがないと〈高安〉来た意味が半分くらいなくなっちゃうからねー」

 先輩は口角を上げて言った。

「僕、テーブル席に座るの久しぶりですよ」

「あれ? 彼女さんと来ないの?」

「だから彼女じゃないですって。前の彼女のことを言っているならノーですけど。夏頃、バイト終わりの深夜にここに来たらテーブル席しか空いてなくて一人で座ったんですよ」

「贅沢。こんな並ぶ人気店でテーブル独り占めなんて」

「二人掛けだから別に贅沢じゃないですよ」

 初めにごはんが運ばれてくる。

〈高安〉で最初に運ばれてくるのはたいていごはんだ。大盛りで頼めば、まるで漫画でしか見たことがないような山のように盛られたごはんが出てくる。こんなごはんが出てくるところは、ここ以外では〈亜喜英〉か京大近くのアジア料理店〈ヤンパオ〉しか知らない。それでいてここ〈高安〉ではお代わり自由だというのだから破格である。

 ごはんに続いてラーメンが運ばれてきた。

 ここのラーメンは微妙にぬるい。食べやすくはあるが、僕としては猫舌ではあっても一口目は熱々のラーメンを食べたいのだ。だからここのラーメンは他のラーメン屋に比べて少し落ちるのだ。そして容器が油でギトギトしているのと、しばらく時間を置くと油で薄い膜が張られるのもどことなく好みではない。

 そうだというのに、僕は店員に顔を覚えられるほど〈高安〉に通っている。その原因は、最後に運ばれてくる三つの巨大な唐揚げにあった。

 サイズ的にはファミチキかそれ以上はあろうかという唐揚げが三つ、千切りキャベツと一緒に皿に盛られている。

 これだよこれ。心の中でそうつぶやく。

 口の中で唾があふれ出す。

〈高安〉の巨大な唐揚げには、カレー粉が振りかけてある。これがごはんに合うのだ。唐揚げとごはんだけでもいいくらいだ。ラーメン屋だからついでにラーメンも頼んでいるが、メインはこの唐揚げでごはんを食べることなのだ。

 店員が「これだけありました」と申し訳なさそうにニラゴマを運んできた。先輩が「ありがとうございまーす」と明らかにテンションが上がった声で言う。

 僕も先輩もはっきりと「いただきます」と言い、二人とも最初にニラゴマを大量にラーメンに投入した。白濁職のスープが徐々に赤く染まっていく。

 まず麺を一口。細麺。それほどコシはない。固めでも柔らかい。そしてやはりぬるかった。二口、三口。ぬるめの麺に飽きたところでメインの唐揚げへと箸を伸ばした。

 大きな唐揚げに大口を開けてかぶりつく。肉汁――というより油が口の中にあふれ出してくる。

「……やっぱりこれですね、先輩」

「ねー」

 その油で口の中を火傷し、上あごの口内の皮がむけてしまうのもまた一興だ。それで後悔して帰り道では「もうしばらくは行かないぞ」と誓っても、また一週間経たないうちに足を運んでしまう。それだけの魅力――いや、魔力がこの唐揚げにはあった。

 僕も先輩も一心不乱に唐揚げにかぶりつく。唐揚げとニラゴマでごはんを食べる。たまに口の中の油を洗おうとラーメンをすする。ほとんど言葉を交わさない。互いに「美味しい」だのわかりきった感想を言うだけだ。

 お喋りに来ているわけではない。僕も先輩もラーメン――あるいは唐揚げを食べに来ているのだ。喋っている余裕などない。

 だいたい唐揚げふたつもあればごはん大盛りでも空になる。お腹に余裕があれば、残りひとつの唐揚げのためにごはんをお代わりする。先輩も普通盛りでは足りなかったらしく、小でお代わりを頼んでいた。

 先輩はごく一般的な女の子よりは確実に食べる。それも何の躊躇いもなく。「こんなに食べられない」などと言う女の子よりはよほど印象はいい。

 唐揚げ三つを易々とたいらげて、油で膜の張ったラーメンのスープに口をつける先輩に「食べきれなくて持ち帰ったこととかあります?」と尋ねてみた。〈高安〉では唐揚げを食べきれないと持ち替えり用の袋をもらえるのだ。

「持ち帰り? ないよ。ってか冷めた唐揚げなんて食べたくなくない?」

 先輩は涼しげな顔で言った。その通りだろう。僕ももう数えきれないくらい足を運んでいるが、持ち帰ったことなど一度もなかった。


「出よ」と言って先輩が立ち上がったので僕も立つ。食べ終わったらだらだらしない。すぐに出て次の人に席を譲る。別にマナーだのなんだのを語る気はないが、だらだらしているせいで並んでいる人間にムカつかれたくないだけだ。僕が財布を出そうとすると、先輩が「今日はわたしが誘ったから」と僕の財布を奪い、僕のポケットに無理やりねじ込んできた。先輩の好意に甘えるときは甘えることにしている。僕は「ごちそうさまです」と言うと、先輩は歯を見せてにっと笑った。

 店を出て、もう一度礼を言い、自室のあるマンションのほうへ歩いていこうとすると、先輩は自転車を押しながらついてきた。

「先輩、家の方向ちがくないですか?」

「なんか本貸して。面白いの」

「面白いの?」

 先輩はたまに僕から本を借りる。僕も言われるがままにほいほい貸すが、先輩は借りたものを中々返さないことで僕の中では有名だった。

「前のも返してくれてないじゃないですか」

「え。借りてたっけ?」

「この間貸したCDも」

「あー、そうだっけ。じゃあ今度返す。今日は別の貸して」

 そういえばたった今奢ってもらったばかりだ。僕はため息をつく代わりに「いいですよ」と答えた。


 先輩は僕のマンションの前までついてきた。「彼女さんいるだろうからここで待ってる」と言った。彼女ではないと再度否定し、僕は三階にある自分の部屋へと戻る。

 電気がついていた。居候の女の子が目を覚まし、僕のベッドの上で僕のジャージを着てスマホをいじっていた。彼女は僕を見て「おかえり」と言い、スマホから目を離して僕をじっと見てきた。僕は「ただいま」とだけ返事をし、ついさっきの先輩との会話でパッと思いついた電撃文庫の本を一冊手に取り、また部屋を出た。

 マンションの外で待つ先輩にその本を手渡しながら「次会うときでいいので前貸したやつは返してくださいね」と言うと、「了解です!」と敬礼された。先輩はそれを鞄にしまい、自転車にまたがり、至近距離で僕にこれでもかと手を振ってから僕から離れていった。

 先輩が見えなくなるまで見送ったあと、部屋へ戻った。居候の女の子は今度はベッドに座っていた。

「何食べてきたの?」

 彼女がそう尋ねてきたので、僕は「ラーメン」と答えてから彼女の隣に座った。

「えー、いいなー。私も誘ってくれてよかったのに。ラーメン食べたかった」

 僕はそう言った彼女のほうを見ると、彼女は「こっちに来てー」と腕を広げて僕を呼んだ。素直に近づいていくと、「ん」と顔を近づけてきた。僕は彼女の求めに応じてキスをした。そのまま彼女を押し倒すと、彼女は「ん?」と疑問形で言い、眉をひそめた。

「ニラくさい」

 彼女は小声でそう言った。

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