逃げたいリアルに、私の一歩

橋本秋葉@書籍発売中

逃げたいリアルに、私の一歩



 背後で鳴っているチャイムは高校の五時限目を告げるチャイムで、現実感が薄く、本来であれば私は二年C組の教室にいて、現文の授業を受ける為の準備をしていなければいけないのに、外に出ている。


 なんでだろう?


 空は青いっていうよりも白くて、それはきっと太陽が眩しいからに違いなく、夏を控えた五月下旬の空気はちょっとだけ淀んでいるようにも思える。遠くに見える緑の稜線は遠く、近くに立っている電柱の影は私の頭を掠めて、カガヤキ・キラリの顔に落ちていた。


 住宅地の向こう側から聞こえてくる目には見えない音は、たぶんトラックの走行音に違いない。私はキラリに手を引かれていて、引かれるままに歩いていて、ところで私はどこに連れて行かれるんだろう? キラリはどこに私を連れて行くつもりなんだろう? 私はなにも聞かされていなくて、それでも私は学校を抜け出している。キラリの言葉に誘惑されて。


「逃げようよ。どうせクソみたいな現実リアルじゃん?」


 桃色のリップがきらきら光っていて、まさにキラリっていう名前に相応しいキラキラ具合をしているのがキラリという私のクラスメイトで、私の友達で、なぜか分からないけれどキラリは同じクラスになった一ヶ月前から私に構ってくれる。私とは全然違うタイプだし、なんならキラリはヒメカワさんとかと同じ感じの、なんていうか近くにいるのに遠いっていうタイプの女の子で、それこそ海に近い。……なんで海に近いんだろう? 考えてみるとよく分からなくて、私の感覚っていうのは不思議で、もしかしたら手が届かないっていう感覚がキラリを海に喩えているのかもしれない。


 でも、キラリからはいつもひまわり畑のにおいがする。


 昼休みの時間にいつものようにキラリが私の席に近づいてきて、私の右隣にあるクドウくんの椅子に座り、クドウくんの机にお弁当を広げて、自分で作っているのだという料理を箸でつまむ。私も同じようにコンビニで買った弁当を食べながら、窓際から囁いてくるようなそよ風を浴びている。


 私とキラリはどういう話をしたんだっけ? どういう文脈で私はいま手を引かれているのだっけ? 逃げようっていうキラリの言葉はいつ発せられたものだろう? その言葉のインパクトが強すぎて、私はそれ以前の会話をまったく思い出せずにいて、でもお腹の具合からして、たぶんそれなりにお弁当は食べたのだ。それなりに会話は積み重ねていたのだ。そのジェンガみたいに高く積まれた会話の山脈を、キラリの言葉はぶっ飛ばして粉々にして爽快に消し飛ばしたのだ。


 私達は逃げている。


  〇  〇  〇


 どこに逃げるの? っていうのは特に決まっていなくて、とりあえず徒歩で高校の校舎から離れた私達は、手を繋いだまま住宅地を抜け、その傍を通っている県道を横断し、さらに直線的に歩いて、それは私にとって帰宅路とは違う知らない道で、かといってキラリにも知っている様子はなく、本当にどこに向かっているのかは分からないけれど、歩き続けると広い国道に出た。


 国道ではあらゆる形の車が銀光を発しながらアスファルトの埃を巻き上げていて、運転手はみんな、どこか焦っているようにも見える。


「ラメちゃんさ。どこまで行こっか? どこまでも行ってみる? ふふ。行っちゃおうか。行けるところまで。どうかな?」

「なに? その質問。ていうか行きたい場所とかなかったの? そういうのがあるから、私を連れ出したんだと思ってたけど」

「え。ないよ。だって私達は逃げてるんだよ? ラメちゃん。分かってないね。逃げようっていう時には場所なんて設定しないでしょ? もう、ビューンって感じじゃん。目的地なんてなく、どこまでもビューンって逃げ続けるんだよ」

「全然ビューンって感じの逃げじゃなかったけど」


 と言いながら私が思い出しているのはキラリと学校を抜け出した二十分くらい前の事で、ビューンというよりもそそくさという感じで、私達は先生とかに見つからないように下駄箱まで歩き、玄関を出たのだ。


「てか本当に目的地とかないんだ。じゃあ、どうする。どっかで遊ぶ? 仙台駅まで歩こっか。アーケードとかで、適当にぶらぶらする?」

「いや、いやいや。それはなんか違うじゃん。遊ぶっていうのは、なんか逃げるっていう感じじゃないじゃん。それはちょい違うよ。現実リアルから逃げるんだよ? 私達は」

「遊ぶっていうのも一種の逃避だと思うけど」

「ううん。ぜんぜん違うね。逃げてない。それはやだ」

「……ちょっと、あれだ。キラリは本気で逃げるつもりなんだ。現実、みたいなものから」

「当たり前じゃん。むしろラメちゃんは違うの?」


 キラリは真顔で首を傾げ、その仕草は可愛らしいけれど、表情は真剣そのものだ。


「違うっていうか、難しいんじゃないかな。現実みたいなものから逃げるっていうのは」

「そんなのやってみないと分からないよ」


 やってみなくても分かるのが生きているっていう事じゃないのかな? と私は思う。生きている限りは現実リアルっていうものから逃げられないのが、人生の宿命というか、命の呪縛というか、それこそが現実っていうものじゃないのかな? でもその思考を私は口にはしないし、出来ない。それを口にしてしまうのはなんだか無粋っていう感じがするし、野暮っていう感じがするし、キラリの行動そのものを傷つけてしまうような気がする。


 なんて考えているうちに「あれ」とキラリが口にして、腕を伸ばし、すらりとして色気のある指の先で、国道の途中にあるバス停を指し示す。


「とりあえず、あれでどっか行こうよ。どっか遠くに。仙台とかの、ここから近いところじゃなくてさ」


 キラリの言葉に私は曖昧に頷き、そうして頭の片隅で考えるのは親の事だった。父親の方はどうせ仕事だからどうでもいいけど、お母さんの方はどうだろうか? 遠出した事が知られたら面倒な事になるんじゃないか? でも同時に反対側の脳味噌で膨らむのは開き直りの心で、どうせ昼休みに学校を抜け出していて、既に学校から親に連絡は飛んでいるだろうし、なんなら先ほどから鞄の中でスマートフォンが震えている感触もあるし、そういった事を気にするのは今更なのかもしれない。


「まあ、いいよ。バスに乗って、遠くに行こっか」


 気がついたら私は言っていて、そして言葉にすると不思議な事に心の奥から勇気みたいなものが湧いてくる。もしかするとそれはの勇気で、ただの強がりかもしれないけれど、そうだとしてもちょっとだけテンションは上がる。私はさらに続ける。


「でも逆に、あれだかんね。ここで怖じ気づくの禁止だから。キラリ。私マジでどこにでも行けるし、どこまでも行きたいと思ってるから」

「もちろん。それでこそだよ。私の方も全力っていうか、そもそも私だしね? 言い出しっぺは。逃げませんよ。安心してください。マジでどこまでもラメちゃんのこと連れて行くから。安心して?」


 私達はまた顔を見合わせ、お互いに謎に可笑しくなって笑い合い、バス停のところで足を止めて、時刻表を見やる。バスの行き先は大崎市方面となっていて、それがどういうところなのか私にはよく分からないけれど、確か宮城県の北の方にあるはずで、ひどく遠いところなんじゃないだろうか? たぶんそうだ。一時間から二時間に一本くらいしかバスは通っていないようで、それでも私達は運良く十五分後のバスに乗れるらしい。


 赤い車体の県営バスがコンクリートの灰色の向こう側から現れたのは時間丁度の午後一時二十四分の事で、私達は涼しい車内に乗り込み、空いている座席に並んで腰掛け、火照った体を冷房で冷ます。すぐにドアが閉まり、バスは動き出した。


 〇 〇 〇


 揺れる吊り革は子供の頃に見たテレビで催眠術師が揺らしていた五円玉みたいで、ああいうのって本当に効果あるのかな? みたいなくだらない会話をキラリとしている間に、バスは仙台を外れ、ビルやマンションが消え、民家も見えなくなって、景色には田んぼが増える。


 バスの中に座っていると私は眠くなってくるタイプで、それはキラリも同じらしく、キラリは歩いていた時とは違う低いテンションでぼんやりしていて、でもぼんやりしていてもキラリはオーラを崩さない。オーラっていうものは馬鹿馬鹿しいけど本当に実在するものだと私は思っていて、ヒメカワさんもそうだけれど、可愛い女の子とか綺麗な女の子はみんな当たり前みたいにオーラを発している。オーラの正体はたぶん自信だ。輝いている女の子はみんな胸の裏側に自信を持っていて、その自信を疑う事なく強固にしている。


 そういうのがたぶん芯の強さと形容されるようなもので、冴えの正体で、私みたいに自分自身を信じ切れていない女子にはないものだ。


 私は吊り革からキラリに視線を移し、その端正な横顔に声を掛ける。


「キラリってさ」

「ん?」


 すこしだけ眠たげな声音でキラリは応答し、俯き加減の顔を上げ、ぱっちりとした二重瞼の下で私を捉える。


「どしたの?」

「いや。なんかちょっと。あんまりこういうの訊くのあれだし、でもまあ、気になるから訊くんだけど、……なんでかなって。キラリ、クラス変わってすぐに私に構ってくれるようになったじゃん? 一年の頃はクラスも違くて、話した事もなかったのにさ。あれ、なんでかなって。いままで訊いた事なかったし。まあ席が近いっていうのはあったのかもしれないけど。でもほら、なんか私、あれじゃん? あんましキラリとは違うタイプっていうかさ」

「違くないよ。似てる」


 キラリは強くて固い口調で言い、私は「そうかな?」と聞き返す。けれどキラリはそれ以上は答えてくれなくて、視線をまたちょっと俯かせ、「ていうかこれマジで田舎の方に行くからさ、そのまま旅館とか泊まっちゃって、帰るのやめてみる?」と口を開く。冗談なのか本気なのか分からない発言で、でもたぶん本気で、それはキラリの瞳を見れば分かる。


 旅館とかに泊まるのはさすがにどうだろう? さすがに怖いんじゃないかな? というか普通にまずいんじゃないかな? ていうかそもそも高校生二人で泊まれるのかな? でも泊まるっていう選択肢が浮かぶ事自体が間違ってるんじゃないかな? 私の頭に浮かぶのはやっぱりお母さんで、きっとお母さんは怒るに違いなくて、それは嫌で、私には学校を抜け出すくらいが限界だと思う。


 私は自分自身の限界を認識している。


 〇 〇 〇


 バスの終点は大崎市のさと町というところで、降りる乗客は私とキラリの二人だけしかいなくて、そのバス停はあからさまにうらぶれている。バス停は山と山を繋ぐ道路の膨らみにあり、周りには民家も見えないし、視界に広がるのは山の緑とガードレールの白とアスファルトの灰色だけだ。日常の中で遠くに見えていた山々の稜線の地点に、たぶん私達は立っている。遠くに来たのだ。風が運んでくるのは草木のにおいで、聞こえてくるのは小鳥の囀りだ。バスは私達を降ろすと早々に走り去り、私はなんとなく取り残されたような感覚になる。


 これからどうするんだろう?


 どうすればいいんだろう。


 なんだか現実から逃げるっていう目的はひとまず達成されたような感じがあり、私達は確かに逃げ出していて、もう今日は高校には戻らないだろう。でも明日は当然のように学校に通わなければならないし、つまり今日の夜にはたぶん私は自分の家に戻っていて、そうして昨日までと同じ現実を繰り返す事になる。……あるいは逃げるというのは継続的なもので、明日も明後日もさつも逃げるような状況を、キラリは想定しているのだろうか? そんな馬鹿げた状況を?


「ラメちゃん。私さ」


 緩やかな傾斜の坂道を歩き出しながらキラリは言い、さらに呟くように続ける。上り坂の向こうには青々とした山麓が見える。


「さっきの話の続きにはなるんだけど、ちょっと、ラメちゃんに救われたようなところがあるんだよ。私は」

「なにさ。いきなり。救われたって、べつに救ったような覚えないけど」

「うん。ラメちゃんは自覚ないだろうけど、でも私には分かるようなところがあって……たぶんラメちゃんも、気がついたらちょっとは救われてくれるのかな? って思うけど、でもその前に、たぶん全部は終わると思うんだけどね」

「終わるって。なにが。ちょい怖いよ?」


 私は半笑いを浮かべながら言い、首筋に滲んだ汗の滴をぬぐって、前を歩くキラリの髪の毛を見つめる。こちらに振り返らないキラリの背中には妙な圧迫感のようなものがあり、それは試合中のスポーツ選手が発露している気魄にも似ている。私はちょっとだけキラリの雰囲気に気圧されながら、続ける。


「ていうかこれ、マジでどうする? 帰り。なんか、周りなにもないし。それこそ山とか田んぼとか川しかないようなところだし。時間潰せなくないかな」

「時間潰すって、なに。帰るつもりなの? ラメちゃんは」


 そこでようやくキラリは私に振り返り、その表情はどこか寂しげで、私の胸を騒がせるようなような悲しさを帯びている。だから私はなにも言えなくなる。


「もう、帰りたいの? ラメちゃん」

「帰りたいっていうか……帰らなきゃ駄目でしょ? 普通に。明日も平日だよ」

「普通とか、そういうのを訊いてるんじゃなくて、帰りたいかどうかを訊いてるんだよ」

「……帰らないならどうするの。ていうか本当にここ、なにもないし、なにするつもりなの? マジで。いや。計画はそもそもないんだっけ。目的地とかもなかったし……。でもちょっと、なにもなさすぎるっていうか、する事がなくない?」

「あー。それは難しい質問だね」


 なにが難しいのか分からないけれどキラリは言って、はにかむように笑い、すると一瞬で寂しさとか悲しさみたいなものは消えて、キラリは穏やかな表情を太陽に透かしながら言う。


「あのさ。お願いなんだけど、一緒に死んでみない?」

「え?」

「一緒に死んでみない? ラメちゃん」


 〇 〇 〇


 なにそれ? と私は咄嗟に切り返したいけれど言葉が出てこなくて、喉の奥が渇いてひっつくような感覚があり、そういえば飲み物とか飲んでなかったけど自販機どこだっけな? ……みたいな現実逃避を挟みつつ、キラリが真剣に言っているのだという事を、私は認識している。


 キラリはマジだ。


 四月からの一ヶ月ちょいの付き合いしかなくて、放課後とかに遊ぶようになったのもゴールデンウィークくらいからで、お互いにまだ腹を割れていないようなところもあるし、言えないようなところもあるけれど、でも私達は間違いなく友人で、友人だからこそ私には分かる。キラリが本気だという事が分かってしまう。


 キラリは本気で私と一緒に死のうとしている?


 言葉にしてみると荒唐無稽な感じがあり、ちょっと可笑しくて、私はすこし笑いそうになる。けれど笑えない。というか私はなにかしらの応答をすべきで、言葉を返すべきで、なんでなにも言えないんだろう? 沈黙が重く、小鳥の囀りがどこかに消えて、風も吹かず、恐ろしく静かな世界で私は舌を滑らせる。歯をなぞり、唇を湿らせ、少ない唾液を飲み込むようにしてから、私はやっと言う。震えない声で。


「冗談きついよ」


 私はちゃんと私の思っている通りに私自身の言葉を操れているだろうか?


 キラリは微笑みを深くし、それから朗らかに声を立てながら笑って、言う。


「まあね。ちょっと、どういう反応するのか見てみたかったんだよ。どう。ビックリした?」

「……ビックリするっていうか、まあちょっと、驚いたけどさ」

「冗談だよ。冗談に決まってるじゃんか。でもこういう台詞、人生で一度は言ってみたいじゃん? 一緒に死なない? ってさ。なんかちょっと、そそるよね」

「言われた方はひやひやするけど。結構さ」

「そりゃそうだね。じゃあ、ドッキリ成功だ」


 キラリは明るさを滲ませ、また声を立てるようにして笑い、その笑い声につられるようにして小鳥の群れが山の空から羽ばたいて地上に影を滑らせる。私達はそれで何事もなかったかのように並んで歩き出し、おもむろに担任のヤエコ先生の話が始まって、体育の授業に移り、最終的にはYouTubeの話に移る。テレビとYouTubeの違いとか、最近の人気な配信者とかの話をして、そうして話をしながら私達は坂道を上り終え、すると今度は下り坂が始まるのだけれど、道の途中には複数の自動販売機が置かれている開けた場所があり、そこで私はスポーツドリンクを買う。


 甘ったるくて冷たい水は喉の奥から食道を通って胃に落ちていき、その感覚は私には容易に掴み取る事が出来て、自分の感覚が鋭敏になっているのが分かる。


 一緒に死のうっていうキラリの言葉は冗談ではなくて、本気だった。


 でも私が冗談めかしたように答えたから、キラリはその私の空気に乗っかるようにして、本心を押し殺した。


 胃に落ちるスポーツドリンクの感触と同じように、私にはそれが分かる。けれど、でも分かるからといってなんだろう? 私に出来る事なんてなくて、だってやっぱり私は心の奥の本当のところで、現実から逃げる事なんて出来ないと思っているし、今回の学校からの逃走だって、ちょっと悔いているようなところがあるのだ。怖がっているようなところがあるのだ。馬鹿な事をしちゃったなって思っているところがあるのだ。だからキラリが本心を押し殺したのだとして、私がそれを甦らせるようなまねは出来ない。


 非現実的な事は冗談くらいで済ませて、地続きの現実を生き続けるのが、私の限界だ。


 〇 〇 〇


 このままキラリと一緒にいたら殺されてしまうんじゃないかな? 


 ふと思ったのは冷たい小川に足を浸している時の事で、キラリは川床を覗き込むようにしながらカニを探しているようで、なんだかひとりできゃっきゃと笑っているし、これ以上なく平和的で、のどかで、私の懸念は杞憂で終わる。


 川を見つけたのは偶然で、坂道を下っている時に脇道が見え、その近くの電柱に『広域水道事務所・取水場』という看板がくくり付けられていて、その看板に従うように細い道を進むと小川に出た。小川に沿うようにしてさらに曲がりくねった道は延びていて、たぶんその道を進むと取水場というところに出るのではないだろうか。でもそこまで行く予定はない。


 ひとしきり川で遊んだ後に木々のこずえから見上げる空はほんのすこし黄色を帯びており、中天にあったはずの太陽は西に傾きつつある。


 私達の間に流れる空気はカラオケで疲れるまで歌い果てた後の疲労感に近く、お互いになにも言わずに足を乾かし、靴下を滑らせて、ローファーを履いた後、「帰ろっか」とどちらからともなく言い、私達は来た道を引き返すように歩き出す。


 そこでやっと私は帰りのバスを調べるのだけれど、キラリが「もう調べてるから大丈夫だよ」と教えてくれる。いつ調べたのかは分からないけれど、キラリの言葉は正しく、キラリに連れられるまま歩くと確かにバス停に到着した。来た時と同じ通りにあるバス停で、これから私達を仙台にまで連れて行ってくれるバスが来るだろう。


 ひさしの下にあるベンチに腰掛け、お互いにすこしの時間スマホをいじり、するとおもむろに、キラリは言う。


「ラメちゃんはさ」

「ん?」

「…………やっぱ、なんでもない」


 え、なにそれ? と私はたぶん訊くべきで、でも訊けなくて、どうせ訊いたところでキラリは誤魔化すだろうという事が私には分かっていた。だからまたお互いに無言の時間が流れ、そのうちに赤い車体の県営バスがタイヤを鳴らしながらやってきて、私達は整理券をつまみ、一番後ろの席に腰掛ける。


 疲れた体にとってバスの緩やかな揺れというものは睡眠導入剤にも等しく、私は何度か重い瞼で瞬きを繰り返し、やがては眠りに落ちていく。


 私は夢を見ながら現実に帰る。


 〇 〇 〇


 夢のしきいきの狭間で考えるのは私が逃げていたものの正体で、私は本当に現実っていう曖昧なものから逃げ出したくて外に出たのかな? キラリになすがまま手を引かれていたのかな? もっともっと具体的で悪魔的な恐怖から私は逃げ出そうとしたんじゃないのかな? じゃあその具体的なものって、なに? 恐怖の根源って、なに?

 分かりたくないけど、分かっている。


 〇 〇 〇


「あんたなにしてんの?」


 仙台駅にほど近いあおばどおりの近くでバスを降りてすぐ、背後から声が掛かり、振り返ると知らないおばさんが立っている。……誰? と私は咄嗟に思うけれど、おばさんは私ではなく、私の隣に立つキラリを睨んでいる。


「お母さん」


 キラリが囁くように言い、同時に私の中で火花の散る感覚があって、ああこのおばさんは、というかキラリのお母さんは、たぶんキラリのスマホに位置情報のアプリを入れていて、だからバス停でキラリを待ち伏せする事が出来たんだなって分かる。そして理解した瞬間に私は自分の鞄に手を突っ込んでスマホを握っていて、画面を確認すると二十三件の不在着信があり、十通のメッセージが届いていて、そのどれもが私のお母さんだ。


 もしかしたらお母さんも、いま私の居場所に向かっている途中かもしれない。


「あんたなにしてんの? って訊いてるんだけど? あんた、なにしてんの?」


 キラリのお母さんの口調は強く、キラリに向けて踏み出された一歩は重く、それで、私はなぜか咄嗟にキラリの前に出ている。キラリのお母さんの視線が私を向き、くまの上でくらく光っている瞳が私を睨む。


「あなたは? どちら様? キラリの友達? あなたと付き合う事をキラリに許した覚えはないんだけど? あなたはなに? 名前と住所を言いなさい。うちのキラリを連れ出したのはあなたなんでしょ? もう二度とうちのキラリに関わらないで」


「違うよ。この子、普通にただのクラスメイトで、バス一緒になっただけだし」


 キラリは強引に私を押し退けるようにして、母親に向き合い、言葉を続ける。


「いいよもう。後で謝るからさ。行こうよ」




 炸裂音は唐突に響く。




 キラリの頬を強かに打ったのは弧を描く平手の軌道だった。瞬間に時間の凍る感覚があり、空間の停止する感覚もあり、近くにいた人達が好奇の視線を私達に向ける。けれど、でもそういう外界もどんどんと遠ざかっていく。私の頭にフラッシュバックするのは私のお母さんの鬼の形相で、ヒステリックな叫びで、私に向かって振り下ろされる拳で、向けられる包丁の切っ先で、「なんであんたはお母さんの言う事が聞けないの! なんであんたはそんなに頭が悪いの! どうしてお母さんをいつも怒らせるの! あんたが悪いんでしょ! おい! 泣くな! 泣くな! 泣くくらいなら生まれてくるな!」という悲鳴にも近い怒声で、髪の毛を掴まれて床を引きずり回された経験とか、漢字の書き順を間違えた瞬間に脳天に響く拳骨の振動とか、箸の持ち方を間違えただけで背中を蹴られる恐怖とか、祖母にプレゼントされた子犬を捨てられる時に言われた「あんたがお母さんの言う事を聞けないからこの子は捨てられて死ぬんだよ。毒ガスで苦しんで死ぬんだよ。可哀想に。あんたのせいだからね。あんたが出来損ないだから」という言葉とか……なにもかもが津波みたいに押し寄せてきて、目の前ではキラリが髪の毛を鷲掴みにされている。引きずられている。キラリは泣いている。でも、泣くとビンタされるんだ。泣いちゃ駄目なんだ。分かるでしょ? キラリ。同じなんだから。私達はキラリの言った通りに似たもの同士なんだから。分かるでしょ。泣いちゃだめだよ。逆らっちゃだめだよ。お母さんには従わないと。……私達が逃げなくちゃいけないのは、本当に現実だったのかな。キラリが死にたい理由も、よく分かるよ。うん。そうだよね。もしかしたら私達は死ぬべきだったのかもしれない。稀里町の山麓で死ぬべきだったのかもしれない。川で遊んだ後に一緒に死ぬべきだったのかもしれない。そうしたらちょっとは幸福なままで死ぬ事が出来たのかもしれない。お母さんを忘れた状態でお互いに笑い合ったまま死ぬ事が出来たのかもしれない。そういう未来が私達の幸福だったのかもしれない。


 引きずられて遠くになっていくキラリが叫んでいる。


 お母さんごめん! ごめんなさい! やめて! ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!


 なんでキラリは謝らなくちゃいけないの? 髪の毛を引っ張られなきゃいけないの? ビンタされないといけないの? 私達は悪い事をしたら声が嗄れるまで謝らなくちゃいけないの? 髪の毛が抜けるくらいに頭を引っ張られなくちゃいけないの? 頬が腫れてしまうくらいにビンタされなくちゃいけないの? そうじゃなきゃ許してもらえないの? そうだよ。


 それが私達の現実で、リアルで、逃げたい。


 逃げたいリアルで、でも。



 私は学校で明るく振る舞うキラリを思い、私に向けてくれるキラリの笑顔を思い、そのいつも優しい言葉を思い、気がつけば拳を握っていて、でもその拳は震えていて、弱くて、脆くて、いまにも力が抜けてしまいそうで、だけど、私は一歩、前に踏み出す。



                   了

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