もうこんな朝ごはんは嫌だ
小日向葵
もうこんな朝ごはんは嫌だ
くわん、と缶が音を立ててフローリングの床に落ちた。
「もうこんな朝ごはんは嫌だ」
我が家には、吸血鬼が居候している。
「こら、部屋を汚すなとあれ程言っているだろう」
無塩トマトジュースの缶を放り投げたリサを、僕は咎めるように言った。まだ半分くらい残っていたらしく、零れたジュースが広がって床を汚す。
「あたしは誇り高きトランシルバニア公国の」
「分家も分家の末席で、領地も財産ももらえずに日本まで流れ着いた一族の末裔なんだろ」
僕は缶を拾ってため息をつく。雑巾が必要だな、これは。
「なーなー、兄ちゃん血をくれよー」
「嫌だ。不良みたいな口を利くな」
「ちょっとだけ。舐めるだけ。痛くしないからさぁ、牙のほんの先っちょだけだから」
「いかがわしい物言いはやめろ」
ある雨の夜、行く宛の無い彼女を僕はつい拾ってしまった。そもそも末裔も末裔の吸血鬼である彼女には誇るべき魔力も能力もなく、そのことでバンパイアハンターたちの探査網から逃げ切れたらしい。それ以来、居着かれている。
「可愛い恋人がお腹を空かせて困ってるっていうのに、冷たい彼氏だこと」
「いつから恋人関係になった?それに普通の食事ならいつでも用意してるだろう」
豪奢な金髪を掻き上げながら、リサはその蠱惑的な唇を突き出す。
「ふん……食事はね、お腹を満たせばいいってものじゃないんだよ?プライドも満たさすものでないといけないんだよ?」
「居候の身で、よくプライドを云々できるもんだ」
吸血鬼に血を吸われた者は、吸血鬼になる。
それは正しく、また間違っている。
食事としての吸血をされた場合、吸われた人は吸血鬼そのものとはならずに死ぬ。そして確たる意思もなく人を襲う、死体人形となる。死体人形はまた人の血を吸うが、それは死体人形を二次感染的に増やすためだ。ある意味吸血鬼と呼んで差し支えないはずだけれど、厳然たる違いがあるとリサは言い張った。それは吸血鬼ではない、と。
もうひとつの吸血。それは眷属か配偶者を作るための吸血。自らと同様の不死と魔力を与えるための吸血。吸われた者は後天的に吸血鬼となる。恐らくは、自意識が残るかそうでないかで区別されるのだろうと僕は解釈している。
リサにはもうどちらの能力も備わっていなかった。彼女の吸血は、ただ彼女自身が吸血鬼であるという自尊心に基づく行為でしかない。
「なら表に出て、適当な奴を襲って血を吸ってきたらどうだ」
「……でもそしたらここ追い出すんでしょ」
「当たり前だ」
僕は、固く絞った濡れ雑巾でトマトジュースを拭きながら答える。
「ある日突然、無作法者のバンパイア・ハンターに押し入られ、部屋を荒らされるなんて御免だ。一人で銀の弾丸でも食らってろ」
「あたしが可愛くないの?」
「だから週に一度は飲ませてるだろ」
僕は首筋の傷を指さした。
「だいたい普通に食事出来るんだから、血に拘る必要もないだろう」
「だって……あたしにはもうそれしかないから。ご先祖様からは、それしか受け継いでないから」
「一族のことなんか関係ない、お前はお前でいいと思うけどな。どうせ親戚付き合いだって絶えてるだろう」
「それはまあ、そうだけど」
吸血鬼に親戚付き合いがあるかどうかまでは、知らない。
望むなら……面倒な手続きを我慢しさえすればだが……人間として生きていく道はある。そうすれば、追手の影に怯える必要もなくなる。それでもリサは、吸血鬼でありたいと願った。
「まあ、週に一度でも血を吸わせてくれる相手がいるだけ、幸せなのかな」
「そう思うなら、普通の食事とトマトジュースで我慢してくれ」
「うへぇ」
嫌そうに舌を出すリサ。
「もうこんな朝ごはんは嫌だ」
「血はやらん」
「あたしにもっと力があったら。あんたもさくっと吸血鬼にして、一緒に空を飛んで血を吸いに行くんだけど」
「嫌なカップルだな」
「あたしとじゃ嫌?」
「空は飛んでみたいけれど、血を吸いに行くってのは嫌だ」
「空なんてもう……ひぃ爺さんの代から飛べなかったわ」
拭き掃除を終えてソファに座る僕を、リサはそっと背後から抱き締める。
「だけどあたしは吸血鬼。それだけを支えに生きて来たんだよ」
「嫌いじゃないよ、そういうの」
リサはそっと僕の首筋に唇を寄せる。
「……愛情か食欲か、悩ましい」
「色気より食い気かね」
「どうなんだろう。あたしにもよく判んないわ。でもまあ」
すっ、とリサは体を離す。
ぷしっ。
プルタブを起こす音。
んっんっんっ。
中身を飲み干す音。
「いいわ、当面はトマジューで我慢したげる」
「そうしてくれると助かる」
……我が家には吸血鬼が居候している。
いつまでいるのかは、判らない。
もうこんな朝ごはんは嫌だ 小日向葵 @tsubasa-485
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