愛に手向ける藍の結晶

鴻上ヒロ

愛と藍

 私は、昔から一人だった気がするし、そうじゃなかった気もする。両親が離婚して、だけどどっちにもついて行きたくなくて、私は一人暮らしをはじめた。高校に入学したての頃だった。


 そんな私の世話をしてくれた大好きな親戚のお兄さんがいて、彼と一緒に過ごせるだけで、私はうれしかった。仕事帰り、たまにホテルマンの格好のまま会いに来てくれて、制服着て来ちゃダメでしょと言うと、ばつが悪そうに笑う彼が、私はたまらなく好きだった。


 だけど、彼は事故にあって、記憶障害というのになってしまった。過去の出来事や思い出を認識できないらしい。お見舞いに行った私に対する「どちら様でしょうか?」という言葉を聞いた瞬間、目の前が真っ暗になった。


 気がつけば、私は幽霊になっていた。


 お兄さんと再会したのは、それから5年後だ。どういうわけか、私が居着いているこの安アパートの一室に引っ越してきた。


 長いこと人が居着かなかったこの部屋に。安いからという、ただそれだけの理由で。


「え!? 人!? 浮いてる! え!?」


 私を見た彼の第一声が、それだった。彼は素っ頓狂な声をあげて、あんぐりと口を大きく開き、私を見つめた。


 だけど……会いたくなかった。こんな形でなんて。


 私の目に映ったのは、彼の死相。幽霊になって二度目に見る、人間の寿命を示す数字だった。一度目は、大家さん。八十歳だというのに、あと十九年生きるらしい。百歳に少し届かないのが、残念だ。


 しかし、彼の頭の上に表示されていたのは、一ヶ月という数字。


「あなたは、あと一ヶ月で死にます」


 テンパって告げてしまった私の言葉に、彼が首を傾げる。私はもう、何がなんだかわけがわからなくなってしまった。


「私が協力します。死の運命から逃れるか、私に殺されるか、選んでください」


 どっちも嫌だ、と言いたそうに見えた。私は咄嗟に言葉を付け加える。


「あ、殺すと言っても痛くはしませんよ? 私の胸の中に抱かれて、気持ちよ~く死ねるようにしてさしあげます」


 今日は、あれからもう三週間ほど経つ。結局彼は、私の言葉を信じてくれなかった。そりゃあ、そうだろう。


 彼は本当に、いつ死んでもおかしくないほどにがむしゃらに働いていた。ブラックな職場というのは、ああいうのを言うのかもしれない。


 だけど、彼の場合、自分がそうしたくてしているように見えた。


 ここ二週間くらい、私も同行しているからわかる。


 私もホテルマンの格好をして、人に気づかれず物体に干渉できるという幽霊の特性を活かして、彼の手助けをしている。たまに、抱きしめてあげてもいる。


 けれど、やっぱりお兄さんは働く。今日もまた、働くために外に出た。


 外の日差しはいつも眩しくて、私には強すぎる。


 緑に染まった街路樹が、たくさん切りつけられて所々ひび割れている灰色のアスファルトが、目に刺さるような気がする。


「なあ、愛ちゃん」

「なんですか? ランさん」

「なんで君まで制服を?」

「気分というものです! そりゃあ幽霊にとっちゃ白装束が制服みたいなもんですけど」


 私はゆっくりくるくる回り、暑さで手をパタパタとさせて顔を仰いでいる彼に制服姿を見せた。私も彼と同じパンツスタイルだ。大人、という感じがして気分がいい。


 そのまま彼のほっぺに手を当てると、お兄さんは気持ちよさそうに目を細めた。


「あ~冷やっこい」

「いつでもどこでも冷房完備! しかも可愛い女子高生付き! お兄さんはラッキーですね」

「あはは、確かにラッキーかもな」


 彼の笑顔を、私は直視できなかった。だからついつい彼の背中に回り、背中からぴとっと体をくっつけてしまう。お兄さんの背中が、一瞬ピクッと震えるのがかわいい。


「愛ちゃん?」

「こ、このほうが涼しいですよ!」


 思い切り、背中から抱きつく。私は浮いているし、重さもないから、この体勢でも彼はスタスタと職場に向けて歩いて行く。そんな彼の様子を見ていると、陽炎をまとうアスファルトに涙を零してしまいそうだった。


「今日もやっぱり仕事に行くんですね」

「社会人だからね」

「働き過ぎです! 幽霊の私じゃなくても、いつか死ぬってわかりますよ」

「人間は、いつか死ぬものだよ」

「そうですけど……」


 そんなことを話していると、今日も職場に着いてしまった。ロッカールームでパリッとした黒い制服に身を包む彼の姿は、好きだ。フォーマルな制服が彼の気怠げだけど優しい雰囲気にすごく合っていて、心が浮き足立つ。


 だけど今は、それすらも憎らしい。


「おはようございます」


 同僚や上司に挨拶をする彼の姿に、私の胸はキリリと痛んだ。


 それからテキパキと二人で仕事をこなす日が始まる。


 しかし、違った。


 お兄さんが突然、フラッと体勢を崩し、壁に右肩をぶつけた。お兄さんはすぐに体勢を戻そうとして、今度は反対方向にフラッと揺れる。咄嗟に私の手で支えるけれど、彼は浅く早く息をしていた。


「お兄さん! もう限界ですよ、休みましょうよ」

「大丈夫、大丈夫だから」

「大丈夫なわけないじゃないですか! どうしてそんなに頑ななんですか!」


 私が怒鳴ると、彼は眉根を下げて力なく笑う。


 どうして、そんな顔をするの。


「俺はね、もう何も失いたくないんだ。忘れたくないんだ」


 お兄さんの言葉に、私の視点がブレブレになる。目の奥のほうに異物が入ったかのような感覚になって、何も言えなくなった。


 午前中のホテルの静かな廊下に、別のホテルマンの革靴の足音が響く。


「大事な人を忘れてしまって、失ってしまったんだ」

「……っ!」

「だから俺は、たくさん頑張りたいんだよ」

「そ、それと働き過ぎには関係ないじゃん……」


 お兄さんが、私の頭を撫でる。昔のように優しい手つきで。


 だけど、昔よりずっと、弱々しかった。


「ま、結局のところ俺は……自分を痛めつけてるのかもな」


 ああ、私は結局、何もできなかった。死の運命から逃れようなんて大それたことを言っておいて、何も変わらなかった。お兄さんの頭の上には、薄青い光で相変わらずの数字が書かれている。目の前のお兄さんの様子を見ると、いますぐ死んでしまいそうなのに、まだ一週間はこの調子で生きていくんだ。


 それなら、もう、いっそのこと。


「お兄さん、こっち」


 強引に彼の手を引いて、誰も居ないロッカールームに入り、鍵をかける。私はホテルマンの制服から白装束に衣装を変えて、彼を座らせ、その膝の上に跨がった。口をぽかんと開けて私を見つめる彼の頬に手を添えてから、彼を思いきりロッカールームのベンチの上に押し倒した。


「……愛ちゃん?」

「お兄さん、あなたはあと一週間で死にます」

「そうか」

「信じてないかもしれませんが――」

「いや、信じてるよ」

「え?」


 お兄さんに跨がる私を、彼がまっすぐな視線で見つめている。さっきまでは生気の感じられない目をしていたのに、すっかり眼光が鋭くなっていて、その目の奥の輝きに私はたじろいでしまった。誰かの荒い息の音が、ロッカールームに鳴り響く。


 上下しているのは、私の肩だった。


「君は愛ちゃんだよね」

「そう、ですよ?」

「孔雀 愛ちゃん。北高生だった」

「そう、ですよ……?」

「享年十七歳、俺の大好きな人だ」

「そう、ですよ……」

「俺が忘れてしまった人だ」

「そうですよ……!」


 どうして、どうして。


 なんで、覚えているの?


 その言葉が、口から出てこない。


 彼の弱々しい手が、私の手を強く握る。大好きで愛おしくてたまらないお兄さんの指が、私の指の間に滑り込んできた。


「君が死んだとき、君の遺体を見たとき、思い出したんだ」

「そんな、そんなことって」

「本当にごめん。俺が不甲斐ないばっかりに」


 ああ、そうだ、思い出した。どうして私が幽霊になったのか、私の記憶にはそれだけがずっと足りていなかった。私が幽霊になったのは、お兄さんに忘れられたことが耐えられなかったからだ。


 お兄さんの頬を、一滴のしずくが濡らした。しずくはどんどん溢れてきて、だんだん彼の顔と制服の襟を濡らしていく。私の胸は、張り裂けそうなほどに痛くて、パンパンに張り詰めた風船のよう。


「私こそ、ごめんなさい」


 私は、自分から命を捨てたんだ。ちょうど、今のこの人のように。


 目から溢れる涙を白装束の袖で拭って、制服の上から彼の体を指でなぞる。一息ついて、私は思い切り彼の顔に自分の顔を近づけた。


「ねえお兄さん、私のこと、好きですか?」

「うん、好きだ。幽霊の君と再会して気づいた。愛してる」

「じゃあ……私に殺されてくれますか?」


 これは、私のエゴだ。パリッとしたフォーマルな制服に身を包み、身を粉にしてお客さんに奉仕して頑張っているかっこいいお兄さんの苦しむ姿を、私はもう見ていられない。もうすぐ、お兄さんは死ぬ。


 それなら、最期のひとときくらい、いい思いをしてほしい。心地のいい羽毛布団のようなぬくもりと、ホットミルクのような甘い思い出のなかで過ごしてほしい。人の生気を吸い取ることのできる、幽霊の私にしかできない、私だけの仕事なんだ。


「白装束は、幽霊の制服みたいなものなんです」

「うん」


 お兄さんの制服が私の目に眩しく飛び込んでくる。これは、お客さんに奉仕するための制服だ。私はその象徴とも言える制服のボタンに手をかけて、ゆっくり、ゆっくりと外していく。そうして見えたワイシャツの白が、私にはやっぱり眩しかった。


「だからお兄さん、私に殺されてください。私に、お兄さんの命を吸わせてください」


 ああ、だめだ。今度は、ワイシャツを濡らしてしまいそうだ。


 涙が溢れる前に、ワイシャツのボタンを外していく。厚い胸板に触れ、彼のわずかな生気を感じながら、優しく指先でその体をなぞっていく。


「だめですか?」

「わかった」

「いい……んですね?」

「ああ、だけど……」


 お兄さんがガバッと起き上がって、私を押し倒した。一体どこに、そんな力が残っていたというんだろう。お兄さんのはだけたワイシャツから見える胸に、顔が熱くなってしまう。



「最期くらい、俺に愛させてくれ。幽霊として君から受けた愛を今度は、俺が返したいんだ」

「はい……たくさん、愛してください」


 彼の手指が、唇が私の全身をくすぐるように愛を注いでくれる。お兄さんの生気が少しずつ流れ込んできて、私は小さく声を漏らした。どうしようもないほどに、私は彼のことが好きだ。愛してる。


 だから、私は彼を呪縛から解き放ってあげたい。こうすることが、彼の心を命を罪悪感という呪縛から解き放てるのなら、私は幽霊として、一人の女としてそれに応えよう。


 はじめての行為には、意外なことに痛みはなかった。幽霊だからだろうか。彼の生気が私に流れ込んでくる感覚が気持ちよくて、恍惚に酔う彼の表情がたまらなく愛おしくて、私は夢中になって彼を求め、彼の求めに応じた。


 そうして、最期の時間が近づいてくるのを私は自分の体内で感じる。


「く、もう……」

「いいですよ、お兄さん」


 彼が、私の体内に自分の命を解き放った。


 その瞬間、私の手がピクリと、意図せずに震える。ああ、お兄さんの命が、終わっていく。全身でそれを実感できる。私の胸にパタリと倒れこんで顔を埋める彼の顔は、とても気持ちがよさそうだった。


「よしよし、かっこよかったですよ、お兄さん」

「ありがとう、愛ちゃん」

「いいえ、私はただ……あなたを愛しているだけです」


 お兄さんの頭を優しく撫でると、彼はゆっくりと目を閉じた。


「俺も、愛してる」


 そう言い終えた瞬間、お兄さんの命がハッキリと終わるのを感じた。私はしばらく彼の頭を撫でてから、丁寧に制服を着せる。腹上死だったけど、せめて、周りの人には、他人にたくさん奉仕して頑張ってきた人として弔ってほしい。


「……さようなら、お兄さん」


 私は最後に、彼の唇に口づけをした。ほのかに残る温かさと柔らかな感触を永遠に、留めておけたらいいのに。


 ホテルを出て、眩しい日差しとそれを照り返すアスファルトに挟まれながら、ふわふわと浮遊して家にまで帰る。私が通った真下のアスファルトには、ぽつりぽつりと滴のような濡れ跡ができた。


 いつものように扉をすり抜けて、家に入る。


「え!? お兄さん!? 浮いてる! え!?」


 家に帰った私の目に前にいたのは、白装束に身を包んでふわふわと浮遊しているお兄さんの姿だった。照れくさそうに笑う彼を前に、私は一体どんな顔をしているんだろう。口が開いていることだけは、わかる。


「なんで!?」

「いやあ……最期に見た君の顔が寂しそうだったから」

「え?」

「幸せにしたくなったんだよ。一緒に生きたくなったんだ」


 彼がふわふわと浮かんだまま、私の前まで飛んできた。私はただされるがままに、自分の手の指の間に滑り込んでくる彼の指を受け入れる。


「俺と、一緒に生きてくれますか?」

「……はい、はい!」


 たまらなくなって、彼の体を引き寄せる。そのまま思い切り彼の厚い胸板の中で、涙を流しながら笑った。


「ま、もう死んでるけどな!」

「ゆ、幽霊ギャグだ!」





 愛に手向ける藍の結晶――完。

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