寝顔

真花

寝顔

 半分開いた窓のカーテンを五月の風が揺らしている。寝室の照明はついていないが、迷い込んだ陽光に青く白く照らされて、全てがくっきりと見える。ベッドには一人分の膨らみがあって、妙子たえこはきっと眠っているから、音を立てずにそばに行く。

 寝息が聞こえる。寝息だけが聞こえる。妙子は横向きに寝ていて、手が顔の近くにあって、肩まで被った薄掛けから覗いている。つるりと滑らかな頬、閉じられた瞼。同じ妙子なのにまるで静かな光沢があって、僕は動けなくなる。壊したくない。

 近くにあった椅子をそっとベッドの脇に置き、腰を据えて妙子の寝顔を見る。妙子は僕がここにいることに少しも気付かないで眠り続ける。

 もう三年も一緒にいるね。

 普段思ったこともない言葉が湧いて、僕は蟻のように戸惑う。だが、もう少しこのまま進んでみようと決めた。胸の中で思うだけなら、現実を動かすことはない。

 三年、……ありがとう。

 今度は困惑しなかった。感覚的にそう言うことを自分が思うことを察知していた。感謝があるかないかなら、あるのだが、日常を一緒にいて敢えて言葉にしようとは思わない。だが、言葉にしなかった小さな感謝は少しずつ累積していて、それが今飛び出した。同じようにネガティブなものも堆積しているのだろうが、今はそれは隠れている。妙子の寝顔がそうなるように影響している。

 これからも、よろしく。……、いずれ僕達は結婚するのかな。あまり結婚式のイメージは湧かないけど、生活もちょっとは変わるのだろうか。子供? 何人出来るだろう。二人がいいな。パパって呼ばれるのは恥ずかしい感じがするから、お父さんって呼ばせよう。その頃には家も違うところに引っ越しているのかも知れない。同じ街かな。妙子はこの街が好きだから、この街の中で探すのかな。

 風が柔らかさを保ちながら腰のある強さで吹いた。僕はカーテンの隆起を眺めてから再び妙子を見る。妙子は起きない。寝返りも打たない。

 協力して子育てをして、反抗期を乗り切って、子供達が独立したらまた二人の生活になる。その頃にはおじさんとおばさんだ。子育てを潜った二人はきっと全然世界の見え方が変わっている。それとも意外と変わらないものなのかな。

 妙子は同じ表情のままだ。ずっと静かに眠っている。呼吸で肩が上下する。吹き込む風と同じような穏やかな上下運動だ。触れたくなって、だが手を止める。まだこのままで。

 ついに僕達はリタイアする。妙子の方が年上だから先だね。仕事以外にやりたいことを見付けておかないと暇死にするから、それまでに一緒に探そう。きっと今好きでやっていることだけじゃないものが現れる。

 僕はゆっくりと呼吸をする。妙子の眠りを妨げないように気を付けながら息をする。まるでこれから来る人生を一気に駆け抜けたみたいに、静謐が二人の間に垂れ込める。続きを考えたくなかった。だが、考えてしまう。

 必ず妙子を僕が見送る。その日、僕は今と同じようにベッドの脇から妙子を見ている。違うのは手を繋いでいることだ。最後の言葉を受け取って、息を引き取るまで手を離さない。妙子は今よりももっと安らかにあの世に行く。僕は泣かない。決して泣かないで、妙子が不安にならないように笑って手を握り続ける。いい人生だったって言えるように、想いを残さないように。僕は――

 僕から涙が一粒落ちた。すぐに次の涙が続き、止まらなくなった。妙子は静かに眠っている。涙を止めることが出来なくて、手のひらで拭う。鼻水まで出て来て、僕はそれをすする。

 妙子が死んでしまった。僕はこれからどうすればいいのだろう。もう握り返さないその手をついに離したら、妙子はもう戻らなくなった。僕は笑っていた顔をやめて、泣こうとする。だが、妙子の前では泣けない。

 僕の涙が終わらなくて、鼻を何度もすする。

「妙子」

 口をついて出た言葉に、妙子が反応する。ふわりと瞼を開けて、僕を見る。

「どうしたの?」

 僕は首を振る。

「何でもない」

 妙子は不思議そうに僕の涙を目で追って、窓と風を見て、また僕を見た。もうその目には不思議がる色は残っていなかった。

「そう」

 それ以上は言わず、妙子は目を瞑り、五月の風のように微笑んだ。


(了)

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寝顔 真花 @kawapsyc

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