くちなわなしと、よろこびの肉
雨藤フラシ
給餌と、飼育
ああ、死にたくない。俺はまだ四十だ。
気を緩めれば窒息か嘔吐の二択で、吐くものには内臓からの血が混ざる。脳は焦りと恐怖をいっぱいに詰めこまれて、マトモに働きやしなかった。
心臓がどうどうと早鐘を打ち、腹の底から湧き出る震えが止まらない。
「モリシタァー、大丈夫かァー?」
場違いに間延びした男の声が、朗々と響いた。
一見すると、茂の息子かと思う若さだ。スーツ姿に返り血、特に口元をべっとり汚したクチナシが部屋に入ってくる。彼を待っていた。
「クチナシ、お前に俺、守下茂を捧げる。食ってくれ」
茂は動く左腕を必死で伸ばす。
「足りないなら俺の名前をやる、守下だ、名字があれば何か役に立つだろ。だから、さあ、食ってくれ。もう俺は死ぬんだ」
ニタァッとクチナシは満面の笑みを浮かべた。
「
◆
二十年前。
世に最低最悪な仕事は数あれど、ヤブ蚊がうなる熱帯夜の山に、死体を埋めに行くのは十本の指に入るだろう。下請けの下請けの、木っ端ヤクザはそんなものだ。
新入りの茂は
やっと掘り終えた穴から出ると、「ノロノロやってんじゃねえ! とっとと埋めちまいな!」と兄貴分から罵声が飛ぶ。喉を潤す暇もくれないと言うわけだ。
その時だった。
「それェー、捨てるのかァー?」
場違いに間延びした男の声が、暗がりから朗々と響いた。
「捨てるなら、もらって良いかァー?」
真っ暗な森の中で立木が動く、かと思えば異様に背の高い青年だ。半信半疑に「二メートルはあるんじゃないか」と茂は考えたが、それは当たりだった。
ひょろりとした青年は薄汚れた着流し一つで、裾はボロボロ、裸足でこちらに歩いてくる。ニタニタと嬉しそうに笑っていて気味が悪い。
「おい、そいつ止めろ!」兄貴分の一喝。
茂より先輩たちの方が反応は早かった。いくら恵まれた体格の持ち主でも、屈強な男の二人がかりは不利なはずだ。
が、彼らは小枝が折れるような音と共に、転んで動かなくなる。
こいつは今、何をしやがったんだ? 茂は判断に窮して立ち尽くした
小さく「痛ぇ、痛ぇよ」とうめく声が聞こえてきたので、折れたのは小枝ではなく骨の音だったらしい。青年はただ、真っ直ぐこちらに歩いてくる。
「邪魔すると、うーん……あんまし、良くないぞォー」
茂たちが置いた投光器に、青年の人相が照らし出された。
口の端から耳の付け根まで、切り裂かれた痕のような痛々しい縫い目がある。肌は死人に似て艶のない白、それが腰まで伸びた髪の黒さを引き立てていた。
どうする、先輩たちと同じように殴りかかるか。バカか、返り討ちに決まっている。ああ、俺は考えるより口を動かす方が性に合っているんだ。
茂は口を開き、震えそうな手で死体を指さす。
「こんなモン、何にすんだよ」
「おれが食う」ニカッと嬉しそうに青年は答えた。
なるほど、屍食いならお天道様の下を歩けない人間に違いない。
「どうします、兄貴」
「……まあ、良いだろ」
死人をまた作って処理するのも手間だ、兄貴分は投げやりに許可した。青年はゆらりと泳ぐように近づいて、無言で死体を見下ろす。
「これェ-」屍を指さし。「ちゃんと、おれにやる、って言ってくれ」
「あぁ? やるよ、その死体。煮るなり食うなり好きにしろ」
茂が代わって答えると、青年は軽く首を振る。長い髪がぱたぱたと揺れた。
「おれは〝クチナシ〟って呼ばれてたんだ。クチナシにやる、って言ってくれ」
「……クチナシに、その死体をくれてやる!」
なんだそりゃと思いながら茂が返す。すると。
「
満面の笑みで、青年は大口を開けた。ブチブチと糸がちぎれる音がして、耳もとまでばっくり開く。ずらりと並ぶ牙が、それは切り裂かれた傷ではなく、本物の口なのだと示していた。誰もが化け物という言葉を思い浮かべただろうが、これは
「可哀想になァー、イガイガして苦い。血の中に断末魔が残ってて、まだ死にたくないって叫んでる。幼なじみの嫁と子供が二人、徳島の母親、心残りだらけだ」
よく見るとクチナシの舌は長く、蛇よりも深く縦に裂けていた。二つの赤い肉が指に絡まり、べろべろと血を舐める。
「何で分かるんだよ、そんなこと」
茂が不意に声をかけると、兄貴分がぎょっとした顔でこちらを見た。当のクチナシはこてん、と首を傾げてみせる。
「答えたら何くれる?」
「缶コーヒーやるよ、クチナシ」
掘った穴のふちに置いたまま、未開封のそれを茂は渡した。仕事の前に、自販機で買っておいたものだ。兄貴分に急かされて飲み損ねたのが、役に立った。
意外と普通に開け、クチナシは飲みながら質問に答える。
「ものを食べると、色んな味がするだろ。しょっぱいとか甘いか、悲しいとか寂しいとか味わっていると、そいつがどんな風に生きて、何を考えていたか、ぜんぶ分かる。嬉しい肉とか、幸せな肉は少ないな」はぁ、とため息を一つ。「誰か喜んで、おれに食われてくれねェかなァー」
茂は勝手に先輩の缶コーヒーを差し出した。
「お前、どこの星から来たんだ」
「星ィー??」
「な、宇宙人ってヤツなんだろ」
当時、リドリー・スコットが映画『エイリアン』を世に送り出すには数年早かったが、概念ぐらいは知っている。
「アー、おれは地球って星からだァ。んで日本の、えぇとどこだっけ……土の下の、牢屋からだァ。そっから最近、逃げて来た。これでいいかァー?」
地下牢か、そりゃこんなの閉じこめておきたくもなるだろう。
「おい」と兄貴分が茂の肩を叩いた。
「シゲミ、コイツは連れ帰る、テメェは世話係をやれ。ミノルもユタカもしばらく入院だから何とかしろ。で、コイツは
それが守下茂の人生を決定づけた。
事務所に連れてこられたクチナシは、自前の針と糸で頬を縫い閉じた。蛍光灯の下で見れば、その眼は真っ黒だ。瞳と虹彩の境目が分からないほどに。
「お前さ、牢じゃ風呂ってどうしてたんだよ」
さて、血と泥と葉と草まみれの男に風呂を浴びさせようとした茂だが、蛇口の使い方から教えることになるとは思わなかった。
「おれの世話をしてたシゲミって奴が、体を拭いてくれてたなァー。……どしたんだ、変な顔して。で、シゲミはもうしわけなさそうに、おれが服を脱いでこう、格子に手を回したら、手錠をかけてェ」
「牢屋の格子、その気になれば壊せたんじゃないのか」
よりによって同じ名前かよと内心毒づきながら、茂は蛇口を閉めたり開けたり、熱い方と冷たい方との出し方を実演してみせた。
「いいや、おれは起きたばかりで力が足りなかった。今だってもっともっと滋養が欲しい。死体、くれるって約束したよなァー?」
しゃべりながらクチナシが着流しを脱ぐと、素肌に着ていたらしく、裸体が露わになる。筋肉の一つ一つが鋼のように盛り上がり、しかし強く引き絞られた肉体。
成人してから、頭二つ高い所から見下ろされる経験など、通常しない。
「死体が出来たらな。よし、後は一人で洗えよ」
返事を待たずに茂は浴室を出て、素早く戸を閉めた。生物として、文字通り自分よりも完成された存在に見下ろされて、心臓が痛いほど鼓動を打っている。
落ち着くため、茂は適当な話題を探した。黙るより話す方が気楽だ。
「お前、自分で人は殺さねえのか。強いんだし、いちいちもらうより早いだろ」
『いのちに手を出して良いのは、同じいのちだけだ』水音と共に返事がした。『おれはおれに捧げられたものじゃなけりゃ、殺さない』
「つまり、生きた人間をお前にやるって言ったら」
『殺して食うなァー。くれるのか?』
そうか。食うのか。自分でも意味の分からない安堵を覚えて、茂は「見つかったらな」という台詞を最後に、脱衣所を出た。
※
クチナシから酒やつまみと引き換えに、食べた男の隠し預金やら暗証番号やらを聞き出すと、まとまった金ができあがった。
これで彼の価値は青天井だ。学のなさは茂とどっこい、世間知らずはそれ以上だったが、ささいなこと。
クチナシは極道でも組員でもないので、事務所の外に住居を与えて必要な時に呼び出す形に落ち着いた。
茂はクチナシを見張るため、前倒しで部屋住みから卒業だ。食べたものから情報を引き出す力は、ごく少数の秘密とされたから。
「モリシタ、このクッキーしけてるぞ」
「黙って食え」
牛乳瓶を五本、食パンを一斤、米を三合食った後、丸缶のクッキーを独り占めしてこの言い草だ。体積を無視した胃袋なだけあり、クチナシはよく食う。
好物は生肉、次に生魚、それに皮丸ごとの蜜柑。人間以外では、だ。
殺して良い相手なら死体にして、駄目なら手足の一本でも切ってクチナシに食わせれば、何も隠し事はできない。それを切り札に、組はのし上がり始めた。
木っ端ヤクザと呼べない地位を築くまで、ざっと五年だ。
更に五年が経つと、バブルが到来。全国の暴力団がそうであったように、組もまた波に乗って勢力を広げ、かつての兄貴分も茂も幹部として大金を手にした。
規格外の体格にあつらえたスーツも着物も、どんどんランクが上がっていったが、当のクチナシは頓着しない。だから服はいつも茂が選んだ。
「お前さあ、〝女を買う〟ってのは、食べるためじゃねえんだよ。出禁じゃねえか」
「知らねェー、知らねェー、食えないなら用はねェ-」
「しょうがねえなあ、遊び方教えてやるよ。黙ってりゃお前、面も悪くねえし」
クチナシは性欲が薄いと言うより、皆無なようだった。それが面白くなくて、色んな女と色んなプレイを見せつけたが、退屈そうに果物を囓るばかり。
そのくせ「婚姻」は理解できるらしく、茂がお気に入りのホステスを妻にした時は素直に祝福した。夫がクチナシから離れなかったため、別居は早かったが。
いつしか組はクチナシ頼みの派閥と、何も知らされず不満に思う派閥とに分断されていた。盃も交わしていない外様が、影でコソコソやって面白いはずがない。
そして内部抗争が起き、彼は「守下茂」を受け取ったのだ。
※
手首から先がばくりと
茂は喉を苦鳴で震わせながら、極限の集中力でその一瞬一瞬を見逃さない。
「美味ァい! ほんとうに、美味い。モリシタ、喜んでおれに食われてくれるんだな。ありがとう、ありがとうなァ」
茂は苦痛に泣き叫びながら、なお笑う、笑う。それをずっと聞きたかった、初めて彼に会った時、人を食うのを見た時から密かに抱いていた望み。
クチナシは老いない、病にもかからない、完成された肉体を持ち、俗世のことなど知ったことではない。美しく尊いものだ。
二十年間、クチナシが本当に美味いと言う肉を一度も与えてやれなかった。
だから。だから! こんな所でただ死ぬ事だけは、絶対に嫌だった!
二つに裂けた赤い舌が、繊細に傷口をねぶると痛みが和らぐ。そんな力は初めて知った。左手首の次は右手首、二の腕、足首、脛、太もも、舌と舌を絡めて引きちぎり、目玉をほじくり、痛み止めの唾液を塗りたくる。
苦痛そのものはあるが、気にはならない。生きたまま食ってくれるクチナシが、恍惚とした表情で自分の肉を、脂身を、血をすすり、頬張る姿を堪能する。
今まで生きてきて本当に良かった。茂がこれ以上ない満足感に充たされていると、ふとクチナシが眉根を寄せる。
「モリシタ。おまえがいなくなったら、おれどうやって食ってったらいいかなァー」
「あぁ……、簡単だ」
茂は迷わず、分裂した組をまるごと「クチナシにやる」と宣言した。しばらくは、食うに困らないはずだ。組の今後も、クチナシが何者かも心底どうでもいい。
俺たちはずっと、こいつに食わせてもらったんだ。
だから、食わせてやるのが当然だろ?
くちなわなしと、よろこびの肉 雨藤フラシ @Ankhlore
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