くちなわなしと、よろこびの肉

雨藤フラシ

給餌と、飼育

 守下もりしたしげみは事務所に広がる血だまりの中で、刺された腹を抱えていた。バブルが弾け、暴対法が施行されてしばらく、組の内部分裂による抗争だ。


 ああ、死にたくない。俺はまだ四十だ。

 気を緩めれば窒息か嘔吐の二択で、吐くものには内臓からの血が混ざる。脳は焦りと恐怖をいっぱいに詰めこまれて、マトモに働きやしなかった。

 心臓がどうどうと早鐘を打ち、腹の底から湧き出る震えが止まらない。


「モリシタァー、大丈夫かァー?」


 場違いに間延びした男の声が、朗々と響いた。

 一見すると、茂の息子かと思う若さだ。スーツ姿に返り血、特に口元をべっとり汚したクチナシが部屋に入ってくる。彼を待っていた。


「クチナシ、お前に俺、守下茂を捧げる。食ってくれ」


 茂は動く左腕を必死で伸ばす。


「足りないなら俺の名前をやる、守下だ、名字があれば何か役に立つだろ。だから、さあ、食ってくれ。もう俺は死ぬんだ」


 ニタァッとクチナシは満面の笑みを浮かべた。


うける!」



 二十年前。

 世に最低最悪な仕事は数あれど、ヤブ蚊がうなる熱帯夜の山に、死体を埋めに行くのは十本の指に入るだろう。下請けの下請けの、木っ端ヤクザはそんなものだ。

 新入りの茂は二十歳はたちそこそこで、学歴なぞ小学校未卒。二人の先輩も、現場監督の兄貴分も、似たり寄ったりだ。


 やっと掘り終えた穴から出ると、「ノロノロやってんじゃねえ! とっとと埋めちまいな!」と兄貴分から罵声が飛ぶ。喉を潤す暇もくれないと言うわけだ。

 その時だった。


「それェー、捨てるのかァー?」


 場違いに間延びした男の声が、暗がりから朗々と響いた。


「捨てるなら、もらって良いかァー?」


 真っ暗な森の中で立木が動く、かと思えば異様に背の高い青年だ。半信半疑に「二メートルはあるんじゃないか」と茂は考えたが、それは当たりだった。

 ひょろりとした青年は薄汚れた着流し一つで、裾はボロボロ、裸足でこちらに歩いてくる。ニタニタと嬉しそうに笑っていて気味が悪い。


「おい、そいつ止めろ!」兄貴分の一喝。


 茂より先輩たちの方が反応は早かった。いくら恵まれた体格の持ち主でも、屈強な男の二人がかりは不利なはずだ。

 が、彼らは小枝が折れるような音と共に、転んで動かなくなる。


 こいつは今、何をしやがったんだ? 茂は判断に窮して立ち尽くした

 小さく「痛ぇ、痛ぇよ」とうめく声が聞こえてきたので、折れたのは小枝ではなく骨の音だったらしい。青年はただ、真っ直ぐこちらに歩いてくる。


「邪魔すると、うーん……あんまし、良くないぞォー」


 茂たちが置いた投光器に、青年の人相が照らし出された。

 口の端から耳の付け根まで、切り裂かれた痕のような痛々しい縫い目がある。肌は死人に似て艶のない白、それが腰まで伸びた髪の黒さを引き立てていた。

 どうする、先輩たちと同じように殴りかかるか。バカか、返り討ちに決まっている。ああ、俺は考えるより口を動かす方が性に合っているんだ。

 茂は口を開き、震えそうな手で死体を指さす。


「こんなモン、何にすんだよ」

「おれが食う」ニカッと嬉しそうに青年は答えた。


 なるほど、屍食いならお天道様の下を歩けない人間に違いない。


「どうします、兄貴」

「……まあ、良いだろ」


 死人をまた作って処理するのも手間だ、兄貴分は投げやりに許可した。青年はゆらりと泳ぐように近づいて、無言で死体を見下ろす。


「これェ-」屍を指さし。「ちゃんと、おれにやる、って言ってくれ」

「あぁ? やるよ、その死体。煮るなり食うなり好きにしろ」


 茂が代わって答えると、青年は軽く首を振る。長い髪がぱたぱたと揺れた。


「おれは〝クチナシ〟って呼ばれてたんだ。クチナシにやる、って言ってくれ」

「……クチナシに、その死体をくれてやる!」


 なんだそりゃと思いながら茂が返す。すると。


うけた!」


 満面の笑みで、青年は大口を開けた。ブチブチと糸がちぎれる音がして、耳もとまでばっくり開く。ずらりと並ぶ牙が、それは切り裂かれた傷ではなく、本物の口なのだと示していた。誰もが化け物という言葉を思い浮かべただろうが、これは出々でだしに過ぎない。夜の底に溜まった暑気の中、死体の首をつかむと、一口に頭を噛み砕く。鮮やかとは言えない血と糞便の臭いが広がって、粘りつく汗と一体になると、茂はぐちゃぐちゃした空気に意識が溶けそうな感覚を味わった。髪も歯も爪も骨も金歯もお構いなしに齧って、砕いて、飲みこんで。股間を食いちぎった時、ああこいつ竿と玉も好き嫌いせず食ったのか、と変な感想が浮かんだ。残さず、綺麗に。


「可哀想になァー、イガイガして苦い。血の中に断末魔が残ってて、まだ死にたくないって叫んでる。幼なじみの嫁と子供が二人、徳島の母親、心残りだらけだ」


 よく見るとクチナシの舌は長く、蛇よりも深く縦に裂けていた。二つの赤い肉が指に絡まり、べろべろと血を舐める。


「何で分かるんだよ、そんなこと」


 茂が不意に声をかけると、兄貴分がぎょっとした顔でこちらを見た。当のクチナシはこてん、と首を傾げてみせる。


「答えたら何くれる?」

「缶コーヒーやるよ、クチナシ」


 掘った穴のふちに置いたまま、未開封のそれを茂は渡した。仕事の前に、自販機で買っておいたものだ。兄貴分に急かされて飲み損ねたのが、役に立った。

 意外と普通に開け、クチナシは飲みながら質問に答える。


「ものを食べると、色んな味がするだろ。しょっぱいとか甘いか、悲しいとか寂しいとか味わっていると、そいつがどんな風に生きて、何を考えていたか、ぜんぶ分かる。嬉しい肉とか、幸せな肉は少ないな」はぁ、とため息を一つ。「誰か喜んで、おれに食われてくれねェかなァー」


 茂は勝手に先輩の缶コーヒーを差し出した。


「お前、どこの星から来たんだ」

「星ィー??」

「な、宇宙人ってヤツなんだろ」


 当時、リドリー・スコットが映画『エイリアン』を世に送り出すには数年早かったが、概念ぐらいは知っている。


「アー、おれは地球って星からだァ。んで日本の、えぇとどこだっけ……土の下の、牢屋からだァ。そっから最近、逃げて来た。これでいいかァー?」


 地下牢か、そりゃこんなの閉じこめておきたくもなるだろう。

「おい」と兄貴分が茂の肩を叩いた。


「シゲミ、コイツは連れ帰る、テメェは世話係をやれ。ミノルもユタカもしばらく入院だから何とかしろ。で、コイツは若頭カシラに紹介する、分かったな」


 それが守下茂の人生を決定づけた。


 事務所に連れてこられたクチナシは、自前の針と糸で頬を縫い閉じた。蛍光灯の下で見れば、その眼は真っ黒だ。瞳と虹彩の境目が分からないほどに。


「お前さ、牢じゃ風呂ってどうしてたんだよ」


 さて、血と泥と葉と草まみれの男に風呂を浴びさせようとした茂だが、蛇口の使い方から教えることになるとは思わなかった。


「おれの世話をしてたシゲミって奴が、体を拭いてくれてたなァー。……どしたんだ、変な顔して。で、シゲミはもうしわけなさそうに、おれが服を脱いでこう、格子に手を回したら、手錠をかけてェ」

「牢屋の格子、その気になれば壊せたんじゃないのか」


 よりによって同じ名前かよと内心毒づきながら、茂は蛇口を閉めたり開けたり、熱い方と冷たい方との出し方を実演してみせた。


「いいや、おれは起きたばかりで力が足りなかった。今だってもっともっと滋養が欲しい。死体、くれるって約束したよなァー?」


 しゃべりながらクチナシが着流しを脱ぐと、素肌に着ていたらしく、裸体が露わになる。筋肉の一つ一つが鋼のように盛り上がり、しかし強く引き絞られた肉体。

 成人してから、頭二つ高い所から見下ろされる経験など、通常しない。


「死体が出来たらな。よし、後は一人で洗えよ」


 返事を待たずに茂は浴室を出て、素早く戸を閉めた。生物として、文字通り自分よりも完成された存在に見下ろされて、心臓が痛いほど鼓動を打っている。

 落ち着くため、茂は適当な話題を探した。黙るより話す方が気楽だ。


「お前、自分で人は殺さねえのか。強いんだし、いちいちもらうより早いだろ」

『いのちに手を出して良いのは、同じいのちだけだ』水音と共に返事がした。『おれはおれに捧げられたものじゃなけりゃ、殺さない』

「つまり、生きた人間をお前にやるって言ったら」

『殺して食うなァー。くれるのか?』


 そうか。食うのか。自分でも意味の分からない安堵を覚えて、茂は「見つかったらな」という台詞を最後に、脱衣所を出た。



 クチナシから酒やつまみと引き換えに、食べた男の隠し預金やら暗証番号やらを聞き出すと、まとまった金ができあがった。

 これで彼の価値は青天井だ。学のなさは茂とどっこい、世間知らずはそれ以上だったが、ささいなこと。


 クチナシは極道でも組員でもないので、事務所の外に住居を与えて必要な時に呼び出す形に落ち着いた。

 茂はクチナシを見張るため、前倒しで部屋住みから卒業だ。食べたものから情報を引き出す力は、ごく少数の秘密とされたから。


「モリシタ、このクッキーしけてるぞ」

「黙って食え」


 牛乳瓶を五本、食パンを一斤、米を三合食った後、丸缶のクッキーを独り占めしてこの言い草だ。体積を無視した胃袋なだけあり、クチナシはよく食う。

 好物は生肉、次に生魚、それに皮丸ごとの蜜柑。人間以外では、だ。


 殺して良い相手なら死体にして、駄目なら手足の一本でも切ってクチナシに食わせれば、何も隠し事はできない。それを切り札に、組はのし上がり始めた。

 木っ端ヤクザと呼べない地位を築くまで、ざっと五年だ。


 更に五年が経つと、バブルが到来。全国の暴力団がそうであったように、組もまた波に乗って勢力を広げ、かつての兄貴分も茂も幹部として大金を手にした。

 規格外の体格にあつらえたスーツも着物も、どんどんランクが上がっていったが、当のクチナシは頓着しない。だから服はいつも茂が選んだ。


「お前さあ、〝女を買う〟ってのは、食べるためじゃねえんだよ。出禁じゃねえか」

「知らねェー、知らねェー、食えないなら用はねェ-」

「しょうがねえなあ、遊び方教えてやるよ。黙ってりゃお前、面も悪くねえし」


 クチナシは性欲が薄いと言うより、皆無なようだった。それが面白くなくて、色んな女と色んなプレイを見せつけたが、退屈そうに果物を囓るばかり。

 そのくせ「婚姻」は理解できるらしく、茂がお気に入りのホステスを妻にした時は素直に祝福した。夫がクチナシから離れなかったため、別居は早かったが。


 いつしか組はクチナシ頼みの派閥と、何も知らされず不満に思う派閥とに分断されていた。盃も交わしていない外様が、影でコソコソやって面白いはずがない。

 そして内部抗争が起き、彼は「守下茂」を受け取ったのだ。



 手首から先がばくりとまれ、クチナシの黒々とした眼がはっと見開かれる。いつものニタニタ笑いではない、無邪気な歓喜が花咲いた。

 茂は喉を苦鳴で震わせながら、極限の集中力でその一瞬一瞬を見逃さない。


「美味ァい! ほんとうに、美味い。モリシタ、喜んでおれに食われてくれるんだな。ありがとう、ありがとうなァ」


 茂は苦痛に泣き叫びながら、なお笑う、笑う。それをずっと聞きたかった、初めて彼に会った時、人を食うのを見た時から密かに抱いていた望み。

 クチナシは老いない、病にもかからない、完成された肉体を持ち、俗世のことなど知ったことではない。美しく尊いものだ。

 二十年間、クチナシが本当に美味いと言う肉を一度も与えてやれなかった。

 だから。だから! こんな所でただ死ぬ事だけは、絶対に嫌だった!


 二つに裂けた赤い舌が、繊細に傷口をねぶると痛みが和らぐ。そんな力は初めて知った。左手首の次は右手首、二の腕、足首、脛、太もも、舌と舌を絡めて引きちぎり、目玉をほじくり、痛み止めの唾液を塗りたくる。


 苦痛そのものはあるが、気にはならない。生きたまま食ってくれるクチナシが、恍惚とした表情で自分の肉を、脂身を、血をすすり、頬張る姿を堪能する。

 今まで生きてきて本当に良かった。茂がこれ以上ない満足感に充たされていると、ふとクチナシが眉根を寄せる。


「モリシタ。おまえがいなくなったら、俺どうやって食ってったらいいかなァー」

「あぁ……、簡単だ」


 茂は迷わず、分裂した組をまるごと「クチナシにやる」と宣言した。しばらくは、食うに困らないはずだ。組の今後も、クチナシが何者かも心底どうでもいい。


 俺たちはずっと、こいつに食わせてもらったんだ。

 だから、食わせてやるのが当然だろ?

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くちなわなしと、よろこびの肉 雨藤フラシ @Ankhlore

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