竜胆の花嫁
沼坂浪介
竜胆の花嫁
「嫁に参りました」
空の向こうからやってきた竜は、私の前でくるりと回るとその翡翠でできた目を輝かせて言った。
とんだ青天の霹靂である。
私は竜に何者なのかと訪ねた。追い返すには、あまりに竜は美しく、また追い返すなど罰が当たりそうであった。竜は神仏の使いにも見えたし、地獄からの来訪者にも思えた。少なくともこの世のものには見えなかったのである。
「貴方の遠いご先祖様が、私の遠いご先祖様によい施しをしてくださいました。そのときにご先祖様は約束されたのです。子孫の百代目には花嫁をあげましょう、と」
百代も前の約束を守るために来たのだという。
「私はその花嫁になります」
そんな約束を律儀に守るとは驚いたものだが、これには私も身に覚えのある話であった。
父がその百代目であった。父は百代目として、生まれ先祖代々の言い伝えにより、生まれながらに婚約者がいたのだ。それがこの竜なのであろう。しかし、父は私の母と駆け落ちし、まあ悲喜交交、いろいろあったが、こうして私が百一代目というわけだ。つまり、竜は間に合わなかったのだ。しかし、そのおかげで私がいる。
「構いません。少しのことです」
竜はあっけらかんと言った。
「私はあなた様の嫁にきたのですから」
さて、また私は困ってしまった。駆け落ちをするような父とは違い、私にはそんな相手はいない。いないからといって、目の前の竜を嫁にとれるわけでもあるまい。なんとか帰ってもらわなければならなかった。竜にそう伝えると、竜は首を振った。
「私はこのために、遠くここまでやって来たのです。今更帰ることなどできません」
遠くからやってきたと竜は言う。どれほど遠くから来たのかと聞けば、空の向こうを指さして、ただ遠くだと答えた。竜がいうのだから、きっと空より遠い場所なのだろうと思った。
「私にも一族を代表して来たのです。我が一族が約束を破る者だと思われたくありません」
約束は反故にできない。尤もな話ではある。しかし、時効ではないだろうか。もう百代も前の話なのだから。いや、竜の時間の感覚は私とは違うのかもしれない。例えば、私にしたら一ヶ月前の約束、といった心持ちなのかもしれない。それならば、約束は守らなければならないだろう。
「三年でいいのです」
竜は困り果てた私を見かねたらしく、条件を出してきた。
「三年、私を嫁にしてください。三年もあれば、嫁としての務めは果たされるでしょう」
三年間、という期間は長いのだろうか。それとも短いのだろうか。とはいえ、期限がつくことはありがたい。この竜に一族の恥をかかせることもなく、務めを果たして帰らせることができれば、この問題は解決するだろう。私の一族だって、百代目までその約束を覚えて、言い伝えてきたのだから、同罪ではあるのだ。
「それでは、よろしくお願いいたします。旦那様」
こうして私は竜を嫁にもらった。
「これはほんの結納品です」
竜は鱗を一つ剥がすと、私の手に鱗を置いた。鱗は宝石のように光に透かすとキラキラと輝いていた。
「これは高く売れるでしょう」
鱗は確かにこれだけ美しいのだから、高く売れるだろうと思った。それも竜の鱗だ。高値がつくに決まっている。だが、嫁の体の一部を売るべきだろうか。幸いなことに、私は金に困っているわけではなかった。裕福でもなかったが、仕事はあるし、食うに困っているわけではない。竜を養うとなれば、また違うのかもしれないが、とはいえ、鱗を売るべきとは思わなかった。
だから、私は竜からの贈り物として大切に取っておくことにした。鱗はもう竜の体に戻すことはできないだろうから、三年経った日に竜に聞いて、必要であれば売って竜の好きに使ってもらうことにした。竜にはそれを言わずにいておいた。竜はきっと私のためにこの鱗をくれたのだから、その気持ちを無碍にするのは憚られたのだ。しまい込んで、戻ると竜はぐるり、ととぐろを巻いて、私を待っていた。
「旦那様、何か食事を作りましょうか。それとも着物を織りましょうか」
竜は何を食べるのか、と聞けば、私と変わらぬものを食べたいと言った。着物を織れるのか、と聞けば、竜は得意げに刺繍もできます、と答えた。
それならば、と私は思いついたことがある。いくら嫁に来たとは言え、竜には私たちの社会の中で一人でも生きていく術を知ってもらう必要がある。三年後には竜は自由の身となるのだ。だから、竜には着物を織ったり仕立てたりする仕事をするのはどうかと提案したのだ。
「鱗を売るのでは足りませんか?」
竜は不思議そうであったが、その体の一部を売るよりずっといいと説けば、納得はしてくれたようだった。そうと決まれば、私は竜を伴だって、町に繰り出すことにした。嫁を取ったのだから、外で食事でもしたい気分だった。
「旦那様、あれはなんですか?」
竜は町に来ると目を輝かせて次々聞いてきた。竜は町の何もかも見たこともなかったらしい。たくさんの人の中で、竜はとても目立ったが、それよりも「旦那様、旦那様」と繰り返す竜のせいで、私が目立っているのだと気付いた。
町を歩いていくと、布屋を見つけた。ここで竜に布と糸を買ってやることにした。竜がどれほど針仕事が得意なのか見てやろうと思ったのだ。
「それなら旦那様の新しい着物を作らせてください。帰ったら採寸をさせてくださいね」
竜は楽しそうに布を私に当てては、ああでもないこうでもないと考えている。布屋の主人は私達をみて、仲睦まじい夫婦ですね、と声をかけてきた。夫婦、と言われて私はずいぶんぎょっとしたが、考えてみれば、嫁にとったのだから、夫婦なのだろう。仲睦まじいかはさておくとしても、竜と私は夫婦になったわけだ。
「旦那様、この布などいかがでしょうか」
竜が選んだのは、藤色の反物であった。藤色は竜の色であった。
竜は尾まで続くたてがみがあった。それが美しい藤色をしていた。竜の手元にあったのは、その美しい藤色だったのだ。
「それから、肩には刺繍をいたしましょう」
きっと竜の刺繍をするのだろう、と思った。そうして私は竜の婿になるのだ。糸を選んだ竜は嬉しそうに荷物を運んでいる。長い尾をぐるり、と回すと、聞いたこともない音で鼻歌らしきものを歌っている。
「旦那様、ありがとうございます。楽しみにしていてくださいね」
それから、町を歩いていき、見つけた洋食屋に入った。竜は体が大きいから洋食屋の主人は、屋上に私達を上げてくれた。私が階段で昇る間に、竜はひょいと飛び上がり、屋上の上から降りてきた。そして行儀よくテーブルを囲み、ハンバーグを食べた。
竜は何度も「こんなに美味しいものは食べたことがない」と喜んでいた。こうしてみると、連れてきてよかったと思う。竜は大きなハンバーグを平らげると、最後はアイスクリームをぺろりと食べた。
機嫌のいい竜は、屋上だというのに私を持ち上げると、そのまま屋上から飛び降りた。そのままぐるりと体を回すと、道に降りた。みっともなく私は叫んでしまい、結局竜よりも目立ったのは私だった。
来た道をまた戻り、家に戻ると、竜はいそいそと裁縫道具を探してきて、私の採寸を始めた。器用に生地を切っていくと、それをテキパキと針仕事を始めた。まだこの家に来たばかりだというのに、ずいぶんと勤勉な嫁であった。私はその様子を見ながら、お茶を飲んでいた。
そうしていると、ふと、私は竜の名前を知らないのだと気付いた。名前を問うと、竜は手を止めて、長い爪で糸を切ってから答えた。
「旦那様には私の名前を発音することはできません。なので、私に名前をつけてくださいませんか」
発音できない、というが、ひとまず名前を聞いてみたいのだと聞き返せば、竜は困ったようにして、それから口を開いた。その音は、篳篥のような、笙のような音で、確かに私の舌をどう回しても出ない音であった。
「ですから、旦那様が私に名前をつけてください」
嬉しそうに竜は言う。これは名前をつけてやらねば、竜は納得しないだろう。しかし、急に言われても困ってしまった。この先三年間、その名で竜を呼ぶのだ。簡単には決められない。少し考えさせてくれ、と言うと竜は大きく頷いた。
「楽しみにしております」
こうして、私は竜の名前を考えることになった。
それから、夜も遅くなってきたので、私は眠ることにしたが、そういえば竜はどこで眠るべきだろうか。幸い、客人用の布団はあるが、竜と大きさが合わない気がした。
「旦那様がご心配されずとも、とぐろをこうして巻いて、このまま眠らせていただきます」
竜は私の着物を縫いながら平然と答えた。座布団こそ敷いているが、ほとんど竜が座布団に収まっていないことはよく知っていた。これは明日にでも大きな布団など買い揃えなければならないだろう。
「お優しい旦那様、そう私に気を使わずともいいのですよ」
竜はそのくせ嬉しそうに笑うものだから、私は明日仕事を早く切り上げようと思ったのだ。
「ささ、人はもう眠る時間です。さあ、おやすみなさいませ、旦那様」
竜に促されて、私は眠りについた。竜にも早く休むようにいったが、曖昧に返されて、結局夜遅くまで、竜は私の着物を縫っているらしかった。
次の朝、私が起きると、竜はとぐろを巻いて眠っていた。まだ手の中には着物があった。ちょうど刺繍をしているところだったらしい。細かな刺繍による草花が施されていた。てっきり竜が舞うようなものが刺繍されるものだと思っていた私は、驚いたものだが、美しい刺繍に文句はなかった。
「ああ、いけない。眠ってしまいました。とんだ失礼を」
ゆるりと頭をあげた竜は、長いヒゲを震わせてから、しおしおと頭を下げた。夜なべをするものではない、とだけ叱って私は朝食の支度にとりかかる。竜に顔を洗ってこい、というのはおかしいだろうか。人が使う洗面器が正しいのかもわからず、風呂場の場所まで伝えた。
さて、朝食についてだが、昨日の食事風景からすると、竜は確かに私と同じものを食べるらしいことがわかったので、ひとまずいつもの朝食の味噌汁と白米、それから漬物を二人分用意することにした。
顔を洗ってきたらしい竜は、長い首をのっそりと曲げて、私の手元を覗き込んだ。
「お味噌汁ですね」
嫌いか、と問えば、竜は好物だと喜んだ。
それから私たちは簡単な朝食を囲んで食べた。竜は存外器用に箸を使い、行儀良く味噌汁と白米を食べ、漬物をばりばりと噛んだ。品のいい嫁をもらったものだとその時思った。
それから、私は竜を残して家を出て仕事に向かった。竜は私が帰るまでに着物は仕上げておくと言った。それから昼食のことが気になって料理ができるのかと聞けば、竜は霞でも食べておきます、と適当なことを答えるのだった。朝食をあんな簡単に食べたくせに、と私は訝しげに竜を見つめてから、家を出たものだ。
それから仕事に励み、太陽が傾き始めた時間になって、仕事を終えて、私は帰路についた。竜のための布団はやはり見つけられなかったが、大きな毛布を二つほど買って、それを引き下げて帰った。
「旦那様、呼んでくだされば、私がひとっ飛びしましたのに」
竜は大きな荷物の私を見て、驚き慌てたようだった。それはずいぶん目立つ帰路になっただろうと思って、笑ってしまった。
だいたい、呼ぶにしたって、私の家にはまだ電話というものがなかった。電話はこの頃まだ高価だったのだ。すると、竜はあの人間が真似のできない声で笑って、
「そんなの旦那様が呼んでくだされば、飛んでいきますとも」
と言った。
なるほど、竜ならばそれもできるかもしれないと私は思った。竜の耳は大きく、いろいろな音を拾いそうに見えたのだ。
「さあさあ、旦那様そんなことより着物が縫いあがりました。ぜひ袖を通してくださいな」
竜は上機嫌に私を手招きした。立派な着物が出来上がっていた。藤色の着物には、色とりどりの草花が刺繍されていた。
「帯は旦那様の箪笥にありました、こちらを合わせるといいでしょう。それから羽織りはこちらのものがいいでしょう」
次々と合わせるものが手渡される。それにすっかり着替えてやると、竜は姿見を私の前に持ってきて、
「ああ、お似合いだ。私の見立ては間違いなかった」
と喜んだ。私も嫁に縫ってもらったこの素晴らしい着物がすっかり気に入った。礼を言えば、竜は恐縮しながらも、ふるりと尾を振ったのだから、喜びは伝わっているらしい。
「ここには私のたてがみを編み込んであります」
竜は着物の肩の花を指さした。一際美しい花に見えた。私は花に疎いから名前を知らないが、竜に似た美しい花だと思った。藤色の着物は竜のたてがみと同じ藤色だと思っていが、竜のたてがみはもっと美しい色だったのだ。
「竜のたてがみは魔除になると聞きます。これがきっと旦那様を守るようにと、まじないをかけておきました」
それはきっとご利益があるに違いないと思った。
私はもう一度姿見に写る自分を見て、なるほど、自分もこうしてみれば悪くないかもしれないと思った。美丈夫とはいかないが、この姿で街を歩くのも悪くないだろう。カンカン帽がほしいと思った。これは今度竜を連れていって、選んでもらうのがいい。
そして、この着物を着て出かけて、出来栄えを見てもらい、竜に仕事をもらわなければならない。これにはツテが思い当たるところがあった。
「そうそう。それから夕餉の支度をいたしました。旦那様着替えさせてしまって申し訳ありませんが、また着替えたら夕餉にいたしましょう」
確かにこの着物を汚してしまってもいけない。私は着物を着替えて、それから竜が作った夕食にありつくことにした。竜の作った筑前煮はとても美味しかった。
それから、竜の仕事の方もすぐに決まった。知り合いの仕立て屋は、竜を紹介すると、竜の存在よりも私に嫁ができたことに驚いた。そこではまさか三年だけの嫁だとは言えなかった。すでにそのときには私にとっては竜が三年後にいなくなることは、考えたくない話であったのだ。
「旦那様、鱗が落ちました。これを売ってください」
竜は時折そんなふうに鱗を持ってきた。私が体の一部を売ることを嫌うことは理解していたらしいが、落ちた鱗ならいいだろうというのだ。しかし、私はその美しい鱗を手放すのが惜しくて、いつも同じ箱にしまっておいた。
一年も経てば、私はすっかり竜との生活にも慣れてきた。この頃になって、私は初めて竜に名前をつけてやることにした。
近所の子供たちは竜のことを「キリンさん」と呼んでいた。確かにお伽話に出てくる麒麟と竜は似ていた。しかし、麒麟と違って、竜の足は蹄ではなく鳥のような爪と指があり、器用に刺繍もこなすのだから、麒麟ではないと思えた。
名前の候補を考えながら、私はたまたま竜からもらった着物に袖を通した。この頃、竜が私に仕立ててくれた着物はもう三枚目になっていた。どれもいつも竜のたてがみが刺繍に使われていた。そういえば、この花の名前を私は知らなかった。
そこでその着物を着て出かけた帰り道、こっそり花屋に寄って花屋の主人に聞いたのだ。この花の名前はなにかと。
それはリンドウという花だった。それだ、と私は思った。
キリンと呼ばれているのも良かったが、どうせなら私が送った名前で呼んでみたかった。ただ、リンという音は確かに竜に似合っていたのだから、それも織り込まれていて良い。リンドウ、ますます竜に似合う名前だと思えた。
「リンドウ、ですか。それはどんな意味なのですか」
竜は名前を聞いて、翡翠の目を輝かせて聞いてきた。
私はリンドウという花について教えてやった。竜のたてがみは、光に当たると深い色に輝くことがあった。それがリンドウという花に似ていると思ったと。そして、リンドウという花の見た目も竜に似ている気がしたのだとも。細長く、そして華やかだ。話してやると、竜はたいそう喜んだ。
「私はリンドウでございます」
それから竜はそう名乗るようになった。近所の子供たちと仲のいい竜は嬉しそうにその名を名乗ってみせているので、それからは私が「リンドウさんの旦那様」と子供たちから呼ばれるようになってしまった。
あと二年もすれば、私はその名は失ってしまうのに、私はそう呼ばれることを悪く思わなかった。子供たちと遊ぶ竜を見ているのも悪い気はしなかった。
その頃には竜は近所や町でも有名になっていた。竜のした仕事はいつも評判がよかった。それに縁起がいいと言われて、よく結婚式などの着物の刺繍を頼まれていた。竜が仕立てる刺繍の着物を着た花嫁たちは皆、幸せそうに見えた。
私は竜をあの花嫁たちのように幸せな嫁にしてやれているだろうか。
「花嫁、という言葉があるのです。花の名をいただいたリンドウは旦那様の花嫁で、毎日幸せでございますよ」
竜はそう言って笑った。その笑い声を聞くと、私は胸を撫で下ろした。
そんな日々がまた続いていき、竜が嫁にきてから三度目の季節がきた。これで最後の年だと思うと、胸が痛かったが、竜をいつまでも我々の先祖のせいで縛り付けておくほうが、私には耐えられなかった。
そう思っていた矢先、竜が倒れた。
美しい鱗がポロポロと落ち、たてがみが落ちていく。あんなに立派だったヒゲもしなしなとしている。とぐろを巻くこともできずに竜は毛布にくるまっている。
私がどうしたのかと尋ねれば体調が悪いだけだという。竜の看病など私はしたことがないから、栄養になりそうなものをいろいろと買い揃えて面倒を見てやった。病院にいこうといっても、竜はかかる医者がないと言い返しにくいことを言ってくるので、私にはそれしかできなかった。
もしか、ここの空気が悪いのか、と思い当たった。竜はきっと神聖な生き物だから、この町の空気が悪いのではないかと。だから私は竜とともに湯治にいこうかと誘った。しかし、竜は首を弱々しく振って
「私はこの町が大好きです。この町にいたいのです」
というのだから、私はまた言い返すことができなくなってしまった。結局私は竜の側に座って、毎晩体を摩ってやることしかできなかった。
「旦那様、旦那様」
ずいぶん弱くなった声で竜が私を呼ぶ。なんだか私は竜が消えてしまいそうに思えて、怖くなって竜の名前を呼んでやった。
「悲しむことはありません。これは私の天命なのです」
「私たち竜の天命なのです」
「私が天寿をまっとうしたならば、私の体の鱗を、たてがみを、ヒゲを売ってください。そうすれば、私は少しは旦那様の役にたったことになるでしょう」
「私は幸せ者です。旦那様は私をとても大切にしてくださった。仕事もいただいて、私はたくさんの幸せをいただきました」
「ご先祖様がどうしてこんな約束をしたのだろう、と不思議に思っておりましたが、なるほど、これは私の天命だったのでしょう。なんて幸せな天命をご先祖様は私に残してくださったのでしょう」
「ああ、泣かないでくださいませ。旦那様、それならば、私の名前を呼んでください。リンドウとお呼びください。旦那様がくださった中でも一番の贈り物でございます」
「それから、私が死んだならば、私の体を焼いて、残った骨は煎じて御飲みください。竜の骨は万病にきくと聞きます」
「本当かどうかは知りません。ですが、それで私が旦那様の一部となるのならば、私はきっと生涯旦那様をお守りいたしましょう」
竜の言葉はどれもこれも、どことなく聞き取りづらくなっていた。そのくせによく聞こえる声で竜は言った。いつものように竜は笑っていた。幸せそうに笑っていた。
私は竜というのは、人間よりずっと長生きするものなのではないか、と聞いた。御伽話の中の竜というのは、決まって人間より長命に見えた。
「それはお伽話の中のことでございます。亀は万年と申しますが、竜は言わないでしょう? 竜というのは人間から見れば短命なのでございます」
確かに実際の竜が長命かどうかは、聞いたことがなかった。私にとって竜というのは、目の前の竜だけだったから、それが当たり前なのかを確かめるすべもなかった。
竜が倒れて、半年が経とうとしていた。その頃になると、竜はもう自分の頭をあげることもできなくなっていた。食事もほとんど食べようとしなかった。食べれなくなっていたのは、なんとなくわかっていたが私はそれを信じられなかった。
「旦那様、旦那様、無理を申しますが、庭が見えるところに私を運んではくれませんか」
竜が細い声で言った。私はあわてて、竜を庭の見える部屋に連れて行った。庭といっても小さな、質素な、それを庭と呼ぶには小さすぎる場所だったが、私たちはそれを庭と呼んでいた。だから、竜がいう庭というのはそこに違いなかった。
「私が死んだら、そこに埋めてください。骨になった私を食べて、残った部分はこの庭に埋めてください。そうすれば、私はきっと花になり、旦那様の元に戻ってきましょう」
本当かと問えば、本当だと竜は答えた。それならば、私もそこに埋まろうと思った。竜が死んだあと、竜を埋めたあと、私もそこに埋まろうと思った。嫁を一人冷たい土の中に追いやるなど、夫としてひどいではないか。
「いいえ、いいえ、旦那様、いけません。あなたは人間としての天命をまっとうしなければなりません」
竜は言い張った。
「私が花を咲かせたときに、誰が世話をしてくださるというのですか」
それもそうだと思った。竜が花になるなら、その花を愛でるものが必要だった。そして、花を愛でるのは、私でなければならなかった。
「旦那様、私はこの世で一番幸せな竜でございます」
庭を見つめながら、竜はそう言った。それが、竜の最後に発した言葉であった。
それから冷たくなった竜の体からすべての鱗が落ちた。それを私はすべて拾い集め、箱に収めた。あの日竜が嫁いできた日から、貯めてきた竜の鱗はすっかり箱いっぱいになっていた。それからたてがみを刈った。たてがみはより合わせて糸にした。糸にして、私は組紐を編んだ。そして私は竜を火葬場で焼いてもらった。竜が焼ける匂いはまるで香を焚いているような、いい匂いがした。
それから、骨を持ち帰り、がりりと噛んだ。とても苦い味がした。そして、残った竜の骨を砕いて、庭に埋めた。
すると、庭から、なんの種も植えていないはずなのに、芽がでた。竜が帰ってきたのだとわかった。私は毎日庭の世話をした。次の季節、竜が私に嫁いできてから四度目の季節、花が咲いた。
リンドウの花であった。私はその花を愛でていたが、ふとその花に手をかけた。めりめりと土から捥いで、根茎を煎じて飲んだ。すると、やはりとても苦い味がした。なるほど、これが竜胆の味なのだと思った。
竜胆の花嫁 沼坂浪介 @Nmsk_MK
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