第二回:The Beach Boys/Pet Sounds

 人間、全くの未知な物に触れると、脳が理解を拒むと云うの、あれ本当なんですね。自分は、このアルバムを最初に聴いた時、その状態に陥りました。今思い返してみても一種異様な感覚だったと思います。


 曲は確かにスピーカーから流れているのに、それを曲として、音楽として認識出来ない、それまで感じた事の無い感覚に戸惑い、殆ど恐怖すら覚えた物です。何かが決定的にずれている。何とかしてそれを埋めようと、何度も何度もアルバムを再生して耳をそばだてて臨んだのですが、何度やっても結果は同じ、唯一、Sleep John B と云う、アルバムで言えばA面最後に収録された曲(このアルバム唯一のカバー曲)だけは辛うじていい曲だと感じたものの、それ以外のオリジナル曲に関しては全くの不可解な音の塊にしか感じられない、と云う結果に終わるのでした。


 終いには、疲れてそのまま寝入って仕舞う位には聞き返したでしょうか。いや、自分、何そんなになる迄ムキになって聴き返しとるん? と、皆さんお思いになるでしょうが、そこは、それ、当時高校生だった自分の懐事情を察していただけると。


 少ない手持ちの中から、何時間もウンウン悩みんだ末に、これと決めたアルバムが不可解極まりない物だった当時の著者の心境を鑑みれば、自ずと分かるでしょう。せめてどんな音楽か理解出来でもしないと、このままではあまりにも悲しすぎる。


 リピートモードにしていたのか、それとも思ったより眠りが浅かったのか、何分昔の事なのでそこいら辺は定かではありませんが、兎も角も目が覚めた時、未だ音楽は再生中で、ぼんやりとした意識の中で聞こえたのが、何やらとてつもなく奥行きを感じる音像で、特に遠くから徐々にこちらに迫って来る様なパーカッションが凄まじく、何て綺麗な音楽なんだろうとうっとりしている所で、思わずガバッと跳ね起きて、〝なにこれ?!″となったのを覚えています。


 ここに、このアルバムで展開されている音楽を非常にとっつきにくい物にしている要因の一つが有る様に思えます。このアルバムのオリジナル音源はモノラルなのですが、その処理の仕方が余りにも独特で、最初聴いた時は単に音のゴチャゴチャと団子状になった塊にしか聞こえない、と云った事になってしまう。

 ただ、この塊と云うのも、厄介な事に又ミソで、敢えてそうしてる所がある様にも思えます。深く入って行くと物凄く空間を意識した奥行きの深い音作りをしていながら、各楽器の音をきっちり分離せず、敢えて混ぜ合わせる事でそれまで誰も作った事の無い音を作り出そうとしている。其処に止めとばかりに思いきりエコーを利かせて全ての音が混然一体になる様に作られ、それは楽器だけに留まらず、ヴォーカルパートにまで及び、聞く側のチャンネルが合わない時は、それこそ何処に注目して良いか分からない音の塊になってしまうのでしょう。


 これは自分も含めてですが、どうしても歌の入った曲に触れる時、声と楽器を分離して聞く様に耳が定まってしまう。特に日本人の場合、カラオケ文化が根底にある物だから余計にそこから抜け出すのが難しくなっている様に思えます。そう云う風に耳が出来上がってしまっている中にいきなりそれを無視した形でこのアルバムにある様な音を流されたら、それは戸惑うのも無理のない話。

 今、このアルバムにある様に、と云う言葉を使いましたが、自分の乏しいながらも長さだけは誇る音楽経験を振り返ってみても、似たような発想は散見されるものの、それをここまで究極に推し進めた音楽は他に無い様に思います。それがこのアルバムを他に無い特別な物にしている要因の一つなのでしょう。


 更に言うなら、このアルバムが語られる際に良く話題になるのがベースの音遣いで、ルートから外れた、つまりこの展開ならこうだろう予想される音からひたすら外れた音遣いをしている。確かに、そう言われてベースの音に注目してみると、自分は音楽を聴くのは好きですが、理論などはさっぱりの素人ながら、何でこんな変な音の使い方をしているのだろうと、思わず首を傾げたくなる様な流れですね、これは。

 自分としてもこれは長い間謎であったのですが、この文章を書いている今正にふと気づいた事が有ったので、合っているかどうかは分かりませんが、勢いに任せて書いてしまいましょう。


 種を明かせば、歌と連動しているんです。ヴォーカルのメロディーラインを裏から支える、或いは取りこぼした音を補足する形でベースが鳴っている。裏を返すと、ヴォーカルの旋律も相当おかしい、と云う事になるのですが、そう思って改めて聴いてみると……、気の所為かも知れないけど、確かに何処となくおかしい。何処か決まったラインから外れた様な流れに思えるのです。もしかしてベースラインはうっかりヴォーカルが元の真っ当なラインに戻らない様にする為のガイド的な役割だったりして……。まあ、これは冗談ですが。


 こうして出来た曲の数々ですが、何と言いましょうか、聴いてて感じるのが、不安定と云うか、今にも壊れそうな儚さが感じられる。だからこそこのアルバムでの歌詞の持つ役割が非常に大きい様に思えます。謂わばもう一つの声と云った所でしょうか。


 ともすれば、不安定で何処に向かって行くか見失いがちの楽曲群に曲がりなりにも形を与える為の歌詞が必要だった。このアルバムで頻りに歌詞の重要性が取り上げられるのは、恐らくそれがあるからじゃないかと思っています。


 それが証拠に、アルバム内のインスト曲に触れた時、展開がコロコロ変わって、実際に最後は何処か遠い所に向けて消えて行く、と云った展開になっています。そんな何処か浮世離れした音を曲がりなりにも曲と云う形に落とし込むには、どうしても明確な意味を持った歌詞が必要だったのでしょう。


 その歌詞の大半を謂わば十台の人間の抱える不安に焦点を当てたのは実に秀逸だったと思うのです。


「貴方達には無限の可能性がある。」


 若い頃によく耳にした言葉だと思います。自分も実際何かの式典で似た言葉を聞いた記憶があります。どう思ったかって? 無責任な事ぬかしやがるな、と思いましたよ。君等の先の事など何一つ知らないし、知ったこっちゃない、と言っているのと一緒ですからね、これ。誰だか知らんが、わざわざ嫌味を言う為にこいつここに来たんか、と何だか無性に腹が立ったのを覚えています。

 ただ、この言葉、或る意味本質を突いていると云うか、確かな事など何一つない未来、と云う意味でその頃の自分を的確に表していたのだと思います。だからこそ図星を差された様で、ドキッともしたし、それだけに腹も立ったのでしょう。


 望む望まないに関わらず、絶えず変わって行く周囲の状況や人、その中で自分の気付かない内に代わって行く自分自身、一方で何一つ変わらずに周囲から取り残された様な気分の自分。


 そう云った当時の自分の心境を的確に切り取って見せた様にこのアルバムの歌詞は見えたんです。それ迄聞いて来た音楽のどれよりも、このアルバムの曲は自分の為に書かれたものに聞こえ、実際、この年の夏の間中、比喩でなく毎日このアルバムを浴びる様に聞きまくっていました。

 それで思い出したのですが、そもそも何でビーチボーイズのアルバムを買おうなんて当時思ったのか。単に夏だからビーチボーイズでも聞いてみるか、などと極めて安直な理由だった事を思い出したのでした。我ながら、何としょーもない……。


 其処までしてのめり込んだアルバムではありますが、それでも最後の最後でどうしても届かないと云うか、摑んだと思っても手の中から擦り抜けて行くと云うか、それは今に至っても未知の部分が残されている様に感じるのは、果たして自分だけでしょうか。


 それは、極めて緻密な制作過程を経て作られたにも拘らず、その発端となる最初の衝動が、恐らく作った当人にも説明不能な閃きに基づいているからではないでしょうか。

 実際、公開されたセッション音源を聞いていると、長時間にわたるセッションが、如何に既に頭の中に出来上がっている音に近付けて行くかに集中している様に思えます。


 誰しも心の中に秘めていると思われる原初に近い感情、恐らく夢の中で無意識に初めて剥き出しになるだろうそれは、現実に表現するとなると、必ずと言って良いほど何かしらのフィルターがかかる物で、音楽なら音楽、絵なら絵、言葉なら言葉、と云った風に一度何かしらの変換を加えないとそもそも形に成り得ない。


 このアルバムが驚異的なのは、そう云った変換の跡が殆ど見られず、頭の中に在った衝動がほぼそのままの形で音楽として表現されている、少なくとも自分にはそう聞こえる所です。


 だからこそ、と言うべきなのでしょうか、このアルバムで使われている音の使い方は、通常常識として知られる音楽の約束事を平気で無視している部分が多い。


 この事は、当時の自分にとって勇気づけられた、と云うか或る意味タガの外れる切欠となったと云うか。今こうして自分でもおかしな事書いてるなあ、と時々思う創作活動を始める切欠となったのが、このアルバムとの出会いなのですから。

 こんなおかしなこと考えてる自分は、変だ、とか、こんな事考えてないで、もっとまともな事に注意を向けないと、と思い悩んでいた自分。それでいながら何をやっても平凡でどうにも遣り切れなさを感じていた自分にとって、或る意味はっちゃけちゃった原因となりました。


 あっ、良いんだ、やっちゃっても良いんだ。自己流でも良いんだ、と、開き直って、自分の心に浮かぶ様々な事を何とか言葉にしようと取り組み始めたのがこの頃なのですから。


 最後に一つ余談ですが書き加えておくと、良く何かしらの創作活動に勤しむ人達への助言として、過去の芸術作品に種類を問わず、ジャンルを問わず手当たり次第に触れなさいと云う物があります。

 これを教養主義的な物として嫌う人も多いでしょう。実は自分もちょっと思っていました。ただ、確かにそう云った面もある事は否定しませんが、真意は其処じゃない。何が切欠になるか、他人にも本人にも分からないから、当たるも八卦、当たらぬも八卦、兎に角手当たり次第に試しなさい、という意味が含まれている様に思えてならないのです。

 残るからにはそれなりの理由があって、それが何時自分の伸び悩む要因になっている殻を吹き飛ばす爆弾となって作用するかは誰にも予想出来ないのですから。


 そう云った意味でこのアルバムは、単に好きとか共感、と云った理由とはまた別に自分にとって特別な位置を占めているアルバムでもある訳なのです。





 以上です。今回はどうも自分語りが多くなってしまい、反省頻り、と云った所です。まあ、人の極めて個人的な感情の部分を揺さぶる種類のアルバムであるから、それも仕方ないのかも知れませんが。

 次回は、バッハの平均律クラヴィーア曲集/Edwin Fischer演奏、を予定しております。いきなりクラシックへジャンルが飛んで、驚かれるでしょうが、好きな物は好きなんだからしょうがないんです。心に染みる音楽にジャンルなど関係ないのです。それではまた。

 



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

心に染みた音楽についてひっそりと語ってみます。 色街アゲハ @iromatiageha

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ