雨音が消えた夜

亜咲加奈

雨音が消えた夜

 勢いよく降り注ぐ雨の中を、芦毛の馬で駆け抜ける。

 御しているのは二十歳の兄上で、その前にまたがるのは五つの俺だ。

 両親を相次いで亡くした俺と仁兄は、従兄である兄上の家に引き取られた。俺の父が養っていた駿馬たちは皆、兄上の父上の物になった。今、俺と兄上が乗っているこの馬も、俺の父の持ち馬である。

 緑の草を、地面を、ひづめで蹴り飛ばす。当然泥がはねるが、兄上も俺も気にしていない。

 兄上と一緒にいるだけで、こんなにも気持ちが晴れる。いつまでもずっと一緒にいたい。その想いは日を追うごとに俺の小さな胸の内で育っていった。

 両親を亡くして泣いてばかりいた俺を、兄上はいつも遠乗りに連れ出してくれた。今日だって、雨の中、駆けようと言ってくれたのは兄上だ。俺はふたつ返事で兄上に飛びついた。

 兄上の胸を背中に感じながら、後ろへ後ろへと通りすぎてゆく景色を眺めるのは、とても楽しかった。



 家に戻るといつも、兄上が体を拭いてくれる。そのあとで兄上の膝を枕に寝入ってしまうのが常だった。

 そんな時、兄上の実の父上が来た。そして苦笑いしながら言うのだった。

「洪はほんとうに、操がいなければ夜も日も明けないのだな」

 その言葉を聞くと、俺は目を開ける。何かいけないことをしたのだろうかという気になるのだ。

 父上の横にいる仁兄は、七つなのに喜怒哀楽を顔に出さず、ただ黙って俺を見ている。その目を見ると俺は、兄上のそばにいることが悪いことのように思えて、頭を上げかける。

 微苦笑を浮かべ、兄上は父上にやんわりと抗議した。

「そのくらいにしてやってください。ずっと雨に打たれて、洪は疲れているのですから」

 父上が仁兄の頭をなでた。

「しかし、そう甘えん坊では、先が思いやられるなぁ。まして仁がしっかりしているから余計に」

 兄上が俺の頭に優しく手のひらを当てる。

「いいのです。こうしてやれるのも、あと少しなのですから」

「そうだな。もうすぐ操は洛陽で武官様になるのだものな」

「おめでとうございます」

 大声で言った仁兄に、兄上が笑う。

「仁も洪も、二十になれば孝廉だ。どこで勤めるのだろうな」

 らくようでぶかんになる。こうれん。

 初めて聞く言葉だ。俺は心細くなって兄上を見上げる。どういうことなのか、五つの俺にはわからない。それだけではない。兄上は「こうしてやれるのも、あと少しなのですから」と言った。俺と兄上は、離ればなれになるのだろうか。兄上の膝で眠ることも、一緒に遠くへ駆けることも、できなくなるのだろうか。たくさんの問いが浮かんできて、さらに怖くなる。

「あにうえ。なんのおはなしをなさっているのですか」

 兄上は俺に、優しいまなざしを下ろした。

「何でもない。眠れ、洪」

「あにうえは、らくようでぶかんになるのですか」

「ああ、そうだ」

「らくようとは、なんですか」

「帝がおわす都だ」

 恐ろしくなった。どこだろう。兄上は、俺にはわからない場所へ行ってしまう。

 俺の目に涙が盛り上がり、こぼれた。

「洪。泣くな」

 仁兄の鋭い声がする。

 俺の頬を流れる涙を手のひらでぬぐい、兄上は優しくほほえんだ。ほほえんでくれたけれど俺は、安らかな気持ちにはなれなかった。

 翌朝目覚めると、すでに兄上は、一人で出立したあとだった。

 俺になぜ、何も言わなかったのか。おとなになった今でも、納得できる答えは見つからない。



 建安二十四年(219)。

「まったく、孟徳のやつ、聞く耳を持たん」

 兄上の部屋から出てきた元譲兄が俺にぼやいた。兄上に、俺と離れるように求めていたのだろうことは想像にかたくない。

 あんな噂が流れたせいで、俺たち一族の絆は崩れた。漢朝に対して忠実な官吏であっただけの兄上が魏公にのぼるというだけで、素直にそれを祝福できない者たちはとても多くて、それが伏皇后による醜悪な、兄上の名誉を傷つけるような噂となって、雨が固い床を濡らすように広がった。

 俺一人が汚されるのであれば、いくらでも耐えることができる。しかし好奇の目にさらされているのは兄上も一緒なのだ。兄上は魏王となった今でも、噂を疑いもせずに鵜呑みにする輩と静かに戦い続けている。その戦いに、兄上は俺を入り込ませないように、細心の注意を払ってくれていた。それだけでなく兄上は、俺の長年の願いを叶えてくれたのだ。だから今俺は、兄上の隣に侍立している。もう一人侍立する仲康は、そういったことに関心がないといった感じで、顔色ひとつ変えない。

 俺があえて無視していると、元譲兄はここ長安の乾いた風に吹かれながら曇り空を見上げる。

「樊城は、長雨だそうだなあ」

 固くて暗い表情のまま、元譲兄は俺に言う。

「まさか、あの文則が投降するとは。令明はまあ、ああいう最期を遂げるだろうことは察しがついたが。それにしても関羽は大それたことをしたものよ。我らのもとまで攻めのぼろうとするとはな」

 俺は元譲兄の、眼帯をつけた左目を見て、言った。

「子孝兄はまだ籠城している。俺が行く」

「最初から俺かおまえが行っていれば、文則のように軍を失うことも、令明のように首を落とされることもなかっただろうな。だが」

 元譲兄は俺に背中を向けた。

「俺はもう年だし、孟徳はおまえを手放さない。では誰を送り込むかという話になる」

 俺は元譲兄の背中に向かって声を上げる。

「孟徳兄に俺から頼み込む」

 元譲兄が残った右目で俺をにらむ。

「その腕輪、まだつけているのか」

 言われて俺は左手首を右手で隠す。

 鈍く光る、細い銀の腕輪。

 これは兄上が、出陣する俺に贈ってくれたもの。俺の手を取って、手ずからつけてくれたもの。俺と同じものを兄上も、左手首につけている。

 元譲兄は憎々しげに続けた。

「そんなものを二人してつけているから、ねんごろだという話になるのだろうが。まあいい、今はそんな話よりも、誰が子孝のもとへゆくかだ」

「いい加減にしろ、元譲」

 兄上だった。狭い仕事部屋の扉を開けて、引き締まった長身を俺と元譲兄の間に割り込ませる。王の重たげな衣服をつけているが、頭上には冠がない。もとどりを長いかんざしでまとめているだけだ。

 元譲兄が顔を曇り空に向ける。雨粒が少しずつ落ちてきた。

「子孝を助けるにはどうするかを話していた」

 俺はすかさず一歩踏み出した。

「孟徳兄、俺が行く。子孝兄は俺が救い出す」

 兄上は銀の腕輪が光る左手を持ち上げた。その手を、甲冑をつけた俺の肩に下ろす。

「もう、命は下してある」

 俺と元譲兄は揃って息を呑む。

「誰なのだ」

 元譲兄の唇が震える。俺も兄上にただす。

「誰をゆかせるのだ、孟徳兄」

 兄上の口もとに一瞬だけ笑みが浮かぶ。けれどもその目は笑っていない。

「公明だ」

「なぜ」

 元譲兄の声がうわずる。

 公明。徐晃あざな公明。兄上に投降した将。長年共に戦ってきたその同僚の名を、俺は頭の中で繰り返す。

 元譲兄はあえぐように言う。

「なぜ。ここは子廉だろう。公明は身内ではない」

「妙才が死んだばかりだ。これ以上身内に死んでほしくない」

 妙才とは俺たちの従弟、夏侯淵だ。今年の始め、劉備の部将に斬られたばかりである。

 俺の右肩に左手を乗せたまま、兄上は優しく言った。

「子廉。辛かったな。借り住まいに帰って、休むといい」

 その声で俺は思い出す。洛陽で武官になる兄上。俺の涙を手のひらでぬぐってくれた兄上。何も言わずに出立した兄上。

 そのほほえみも、話し方も声もまなざしも優しいのに、なぜか俺は安らかな気持ちになれない。

「お一人に、なってしまいます」

 言葉を返した俺の背中を軽く叩き、兄上はまた笑顔を見せた。

「子孝を助け出す用意で、しばらくはゆっくり休めそうにない。おまえまで巻き込むわけにはいかない。いずれ子孝のもとへゆく。その時は迎えをやる」

 元譲兄が渋い顔で俺たちを眺める。

 兄上の左手首に銀の腕輪が鈍く光る。

 雨粒はしだいに大きくなり、速くなり、固い床に当たって弾けた。



 夢を見ていた。

 幼い頃に暮らしていた兄上の家。二十歳の兄上と五つの俺が、穏やかな日の当たる部屋で、二人で寄り添っている。

 洛陽から休暇で帰ってきた兄上と再会した時、俺は兄上に抱きついてひとしきり泣いた。そのあと二人で体を寄せ合い、眠ってしまった覚えがある。

 雨が強い音で降る。

 屋根を叩く雨音に扉を叩く音が重なり、俺の眠りを破った。

 借り住まいの寝台で、俺は目を開ける。

 あたりは暗い。ろうそくの灯りが卓上で揺れている。

 どれくらい眠っていたのだろうか。思いのほか疲れていたのかもしれない。横になるやいなや眠りに落ちたから。

 雨が屋根を、深夜の客人が扉を叩く音は、まだ続く。

 急な呼び出しに備えて、戦袍のまま寝ていた。寝台に立てかけた剣を取る。扉の前まで行き、注意深く問う。

「どなたでしょうか」

 息を呑む音がした。

 扉の向こうから、遠慮と緊張と動揺が混ざりあった声が答えた。

「――や、夜分に遅く、申し訳ございません。徐公明でございます」

 徐晃あざな公明。以前兄上に投降した。俺や元譲兄の代わりに、子孝兄の救援に向かえと、兄上から命を受けた。彼に関して知っているいくつかの断片が俺の頭の中でつながり合う。

「い、今、お話を、よろしいでしょうか。ほんの少しの間でよいのです。ご迷惑であれば、もうこのまま出立いたします」

 扉を挟んで話すというのも不自然なので、俺はかんぬきをはずし、扉を細めに開けた。

 彼は甲冑姿で雨に打たれ、俺を見るなり顔色を変え、目を見開いて立ちすくんだ。

「公明どの」

「子廉どの……」

「それがしの兄のもとへ向かわれると伺いました」

「はい――」

「申し訳ございません。本来であればそれがしか、元譲が向かうべきでありますのに」

 彼にかける言葉はそれしかない。彼が黙っているので、俺はあえて言葉を足す。

「それがしが参りますと申し上げたのですが、お許しが出ませんでした」

 彼の目が揺らぐ。日頃彼と親しく会話しない俺は言葉に詰まる。

 彼は笑った。泣いているとも、怒っているともどちらにも受け取れる、奇妙な笑いだった。

 彼は俺に、その笑い顔のまま、言った。

「あんな噂を立てられて、さぞかしご心痛でいらしたのではありませんか」

 なぜ今、俺と兄上との噂を彼は口にするのだろう。不穏なものを感じ、俺は下を向いたまま彼に告げた。

「お気遣いありがとうございます。そのようなことはございません。道中、お気をつけくださいませ。ご武運がありますように」

 俺は銀の腕輪をつけたままの左手首を上げて扉を閉めようとする。そこで、彼と目が合った。

 彼は俺の、銀の腕輪を、目を皿のようにして凝視している。

 雨粒は強く、激しく、彼の全身を打つ。

 彼の唇から、かすかに声が漏れる。

 雨音の強さで、その声は俺には届かない。

「公明どの」

 今、何とおっしゃいましたか。

 尋ねようとした俺の前で彼は顔をゆがめて涙を流し、また口を動かした。何を言っているか雨音で聞き取れない。

「公明どの、今、何と」

 公明どのが声をしぼり出す。

「――お慕いしておりました」

 その一言は、雨音を越えて俺の耳に届いた。

 目の前で嗚咽する彼。俺は声が出せない。

 雨音が消える。聞こえるのは、公明どのの息と、声だけだ。

 公明は身内ではないと言った元譲兄の声が俺の耳にまた響く。

 彼が派遣される理由を、俺は理解した。兄上はすべて知っていたのだ。

 兄上の笑っていない目が、俺の目に映った。



 公明どのは関羽の包囲を突き破った。

 子孝兄は公明どのに呼応して城から突撃し、関羽を追い払った。

 そして二人は明日にはここ、兄上の本陣にたどり着く。

「公明がやってくれたぞ」

 兄上が声を弾ませて皆に告げると歓声が上がった。

 元譲兄は洛陽で留守居をしているので、俺が兄上に同行している。

 静かに、霧のように雨が降る中、俺は兄上の幕舎に入った。

「公明どのが出立前に、訪れた」

 兄上と二人、身を寄せ合い、俺は告げる。

 雨音はほとんど聞こえない。

 兄上が俺にほほえむが、目は笑っていない。

「何を話したのだ」

「代わりに向かってくださり、申し訳ございませんと」

「他には?」

 想いを告げられたことを話そうか話すまいか、俺は迷う。

 兄上の目が、笑った。

「あやつはおまえに暇乞いしてから出立すると話していた」

「そうだったのか?」

「伝えておくとあやつに言ったのだが、忙しすぎて忘れていた」

 公明どのの言葉が聞こえたとたん俺から雨音が消えたあの夜を、俺はなぜか、思い出した。



 兄上は翌年の一月に亡くなった。あとを追うように元譲兄もそれから三ヶ月後に世を去った。

 公明どのは俺とすれ違っても目も合わせない。

 子孝兄と俺は、朝廷の回廊に肩を並べ、雨雲を見上げる。

「おまえは殉死すると思っていたよ」

 子孝兄が腕組みをしたままつぶやく。

 俺は子孝兄に答えず、空を見る。

 雨が降り始めた。

 雨音が消える夜はもう、俺には訪れないだろう。なぜか俺はそう確信した。

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