歌姫

凍花星

歌姫

空から歌声が響くのは、いつも決まって晴天の日だった。のどかな日差しの下、精霊達は騒ぎ立て、自然はいつも以上に美を奏でる。昨日まで蕾だった花は一斉に咲き誇り、木々の緑は一層を増す。心地いい風に乗った精霊は祝福を世の解き放ち、人々に幸福をもたらす。そして今日、この世界のどこかで未来の英雄が誕生し、過去の英雄は神の元へと旅立つ。めでたきこの日に生まれた我が子が英雄でありますようにと、人々は祈りを捧げる。


歓喜と祝福に溢れた世界でこの屋敷だけは違った。かろうじて暖かい日差しがカーテンから溢れ、地に垂れる天蓋はどこまでも優しく中の人を包んでいた。すぅすぅ、と規則正しいが、弱々しい呼吸音を立てながら、小さく開かれた口は微かに動く。先日からもう手を動かすことすらできないこの人は、今日神に迎えられる自身のために歌を歌う。神の使いが迷わず迎えにきてくれるための道標に、自分の人生を謳う。聴こえもしない歌声は精霊に拾われ、世界に響く。


静かなベットにはもう一つの呼吸音があった。ベットに横たわったその人の手を握っていた彼は目を覚ます。昨日の夜のうちに流した涙はすっかり乾ききってしまった。騒がしいカーテンの外を見れば、人々は歓喜に浸っていた。空から響く歌声はいつも自分のそばにあったそれで、いつも慈しむように歌っていたそれだった。


「おはよう」


静かにそう告げて、彼はまだ暖かい額にキスを残した。だが、その人は目を開けることもなく、ただ静かに横たわっている。深い溜め息を吐き、赤く腫れてしまった目を両手で覆う。黒闇に包まれてまたしても優しい思い出たちが蘇り、涙が出そうになった。溢れてしまう前に拭えばいいものの、涙は彼の手からいとも容易くするりと抜け出してしまった。


「今日で最後の日……」


ふと溢れた心は言葉として自身の耳に返り、心臓を突き刺す。目の前のこの人がどれだけ覚悟していても、自身はそれを受け入れることなんてできない。一緒に過ごした日々を思い返しても、もうそれは思い出となってしまう。また会えるからと言われてもこれからどれくらいの月日を一人で過ごさないと行けないのだろうか。死んでゆく人よりも、残された人の方がつらい。その言葉の意味を彼ははっきりとわかった。


「お願いだから……行かないでくれ……」


心の底から絞り出された弱々しい声。この人の前ではいつも強く振る舞ってきた。初めて会った時のように涙を流して欲しくないから、彼はこの人の隣で笑ってきた。だが、目の前のこの人にはもう自分が泣いていることすらもわからなくなっていた。硬く閉ざされた瞼に隠された瞳はもう彼に気づくことはないのだ。そしてその事実は彼の心を締め付けるばかりだった。


彼はいつしかの会話を思い出す。


「ねえ、死ぬのが怖い?」


「……怖いよ」


「ふーん。でもぼくは怖くない。まだやることをやりきれてないから死ぬのは嫌だけど、死ぬ覚悟を持ってここに立ってるから。だからぼくの死に時が今だって言うのなら、ぼくは怖いっていうより悔しいって思うんだろうね」


「……そうか」


彼はそれ以上聞けなかった。


「じゃあ、そのやるべきことを終えたら、あなたは喜んで死ぬのか?」


その答えを肯定された時、彼は笑っていられなくなると思ったからだ。簡単に全てを切り捨てて、自分のそばから離れてしまう日が来るのではないかと恐れたからだ。だが、どんなに恐れたからと言って、その現実がやってこないという訳でもなかった。現にこの人はその唇で小さな弧を描いてここに横だわっている。まるで長らく望んでいたことかのように、なんの抵抗もなく、ごく当たり前のように。


すっかり細くなったこの人の左手を取り、彼は自身の頬に当てる。所々傷跡があるこの手の体温は、もうすでにその薬指に嵌った金属の冷たさとほぼ変わらなかった。自身の左手にもあるお揃いの指輪に目を向ける。これを渡した時に浮かべた嬉しそうな微笑みではこの人を現生に止まらせる理由にはなり得なかった。ずっと一緒にいられると思っていた過去の自分に嘲笑を向けた。自身の指輪を外し、横たわるその人の指に嵌める。二枚重なった指輪は互いの窪みを補って、一枚になる。彼はいつかの来世でまた笑ったこの人が自分の元へこの指輪を返しに来ることを願って、その手のひらに最後のキスを残した。




「ねえ、お母さん。今日ってなんのお祭りなの?」


「今日はただのお祭りじゃないのよ。皆お空からきてくれる神様に感謝を伝えるのよ。いつも見守ってくれてありがとうって。私たちを守ってくれる英雄にお疲れ様って」


「かんしゃ? でもでも、みんなお祭りみたいに踊ったり、お歌を歌ったりしてるよ?」


「そうよ。お母さんだって貴女が楽しく笑って楽しそうにしている姿を見るのが一番嬉しいもの。だから元気な姿を神様に見せてあげるのが、一番の感謝の伝え方なのよ」


「へー。なら空のお歌は神様が喜んでるってことなの?」


「ええ、そうよ。今日はとってもめでたい日なのよ」 


「ふーん。じゃあ、なんであのお兄さんは泣いてるの?」


「大事な方がお亡くなりになられたんですって。こんなめでたい日においたわしい……」


「英雄さんと神様が助けてあげればいいのにね」


「そうね……」





この国は英雄に救われてきた。旱害に洪水に地震、魔物の侵略に魔王の暴走も、全て英雄に任せられてきた。世界で一番美しい祝福を得て生まれてきた彼らには当然のことだと皆思っている。だからどんな災害がきてもこの国は笑顔に満たされていた。


それは今よりも少し前のこと。この国には歌姫がいた。歌姫が奏でる旋律はたちまち人々を笑顔にしていく。歌姫の歌はどんな傷をも癒してくれる。歌姫の歌は無くなった腕だって元に戻し、挙句に死者まで甦られせられるのだという。そんな歌姫を誰もが愛し、誰もが敬っていたが、誰も歌姫の顔を知らなかった。


「歌姫は、醜い仮面をつけている」


歌姫の歌を聴いた者たちは皆そう言った。真っ黒なフードを深く被り、容姿を見られるのを恐れているのだと。それはなんとも人々の好奇心を掻き立てる噂であった。あの仮面の下にどんな宝石を隠しているのかと皆意見をする。


「きっとこの世のものとは思えないほど美しい容姿をしているに違いない。あんなに美しい歌を奏でる者なのだから」


見た者残らず魅了する美しさを持つ歌姫。


その噂は途切れず、国中に広まった。ついには王様の耳にまで届き、歌姫には王命が下った。


「その仮面を外して見せよ」


歌姫は黙ってしまった。歌姫の付き人の男は反対する。


「どうしてそのような命を下すのですか? 歌姫の仮面をそのような好奇心などで外してはいけません!」


「付き人風情がこの我に意見する気か?」


怒った王様は彼を死刑に処そうとする。そこで歌姫は仕方なく王様にある約束を取り付けた。


「次の戦争でこの国が勝ったらお見せしましょう」


王様は喜んで約束した。英雄がいる我が国が他国に負けるなどあるわけがないとそう思っていたから。


この国の誰もが歌姫の仮面の下を知らない。それは正確に言えば誤りであった。この歌姫の付き人であるこの男を除けばスラムで走り回る子どもたちがその誤りのもとにあたる。彼らたちによくパンを分け与えてくれる左頬に大きな火傷を負った少年こそが歌姫であったから。


「ねえ、今日はなんのパン?」


「毎日同じだろ? レーズンパンだよ」


「わあ! ありがと! 火傷のお兄さん!」


付き人の男が歌姫に言う。


「どうしてあんな約束をしたんだ」


「別にいいじゃん。仮面ぐらい。とって欲しいのならいくらでもとってやるさ。それに君、死刑になりかけていただろ? ぼくの代わりに誰かが死ぬところなんて見たくないよ」


男は悲しかった。彼は貴族として生まれたが、戦場で自分を救った歌姫に出会ってからは、このスラムで暮らしていた。歌姫をまさに神だと崇め、ついて回るようになったのだ。しかし自身があまりにも無力なせいで、歌姫は外したくもないその仮面を外さなければならなくなった。そのことは男にとって忘れきれない悔いとなった。


戦争は間も無くして始まってしまった。歌姫は戦場に立ち、自国のために歌を奏でる。


戦争は半年続いた。それは歌姫も欠かさず半年歌い続けたと言うことだ。


戦争に勝った。それはつまり歌姫が仮面を外すということだ。人々は歌姫を是非この目に収めておきたいと言って戦場から帰ってくる兵士を祝うパレードに賑わった。


だが、誰も歌姫を見つけられなかった。戦争から帰ってきたのは、歓喜に浸る兵士たちと、一人の痩せこげた醜い少年だった。


人々は不思議に思った。


麗しい歌姫はどこに消えたのだろうか。


もしかしたらあの干からびた戦場にまだ一人ただずんでいるのかもしれない。


そんな噂がまた瞬く間に広がれば、あの恐れられた戦場に向かう人が出てきた。


「ほらね。大差ないだろ? 誰もぼくのこと歌姫だって信じてくれないのさ」


歌姫は得気に男に言った。男はまた悲しくなった。


歌姫は言う。


「ぼくの最後の仕事をしに行こうか!」


二人は再びスラムに戻った。歌姫はスラムの子どもたちに歌を贈った。スラムには傷を負った子どもも腕や足をなくした子どももいた。だが、歌姫の歌を聴いてもそれらが良くなることはなかった。歌を歌い終えた歌姫に子どもたちは盛大な拍手を送った。


「すごい綺麗な歌だったね!」


「火傷のお兄さんお歌上手!」


「ありがとう!」


歌姫は笑った。これまでに送られたどんな賞賛の言葉よりも嬉しいと笑っていた。


「ぼくの夢はね、小さなホールでぼくの好きな歌を大好きな人たちに歌ってね、小さな拍手をもらうことだったんだよ。なのに、あいつらおかしいんだよ。ぼくの歌は奇跡をもたらすとか言ってきてね。毎日毎日声を枯らすまで歌わされてさ。ぼくがこんな醜いやつだってのも知らないで、勝手に『歌姫』って言う名前までつけちゃって馬鹿らしい。ぼく、歌うの疲れちゃったよ。ねえ、君に最後の歌を歌ってあげるから、ぼくを誰にも見つからないところまで連れてってよ」


少年は男に言った。男は相変わらず悲しそうな顔をしていた。

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歌姫 凍花星 @gsugaj816

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