たかが紙切れ一枚と侮る事なかれ

夢神 蒼茫

たかが紙切れ一枚と侮る事なかれ

 先日、JA鳥取より表彰されました。


 まあ、これは毎年恒例のやつで、その年に最も活躍した人に賞を贈る事になっています。


 それが今回、自分が選ばれたと言うわけです。


 脱サラして、白ねぎ農家を始めて今年で7年目。


 そうか、農家として表彰されるまでになったかと、感じ入っています。


 昨年は、とにかくメディア出演が多い年でした。


 新聞、雑誌、ラジオにテレビと、自分の料理と共に現れては、白ねぎの美味しさをこれでもかとアピール!


 他にも食育活動として、小学生への農業体験や調理指導、高校生とのコラボでレシピ開発なども行ってきました。


 その件で、今年初めに「食育活動において、多大な功績あり」として、平井県知事より表彰されたりもしました。


 そして今回、JAからも表彰されたというわけです。


 頑張ったね、おめでとう、と。


 受け取ったのは激励の言葉、そして、賞状とQUOカード3000円分。


 形に残らぬ言葉、紙切れ1枚、3000円の商品券。


 言葉にすればしょうもなく思える事かもしれない。


 しかし、紙切れ一枚と侮る事なかれ。


 そこで、皆さんに質問です。


 あなたは最近、誰かを褒めた事はありますか?


 逆に、褒められた事はありますか?


 自分はありません。


 と言うか、毎日ねぎと対話しては、「どっこいしょ~」と畑から引っこ抜いては箱詰めしている日々ですから。


 ねぎよ、たまには人語で語ってくれ。


 とまあ、冗談はさておき、この“褒める”という行動は非常に重要です。


 人間は“感情”の生き物である。


 いかに“理性”と言う名の仮面をつけて日々を暮らしていようが、何かの拍子にその裏に潜む感情が飛び出しては暴れ出す。


 そんな光景を今まで何度目撃してきた事か。


 もちろん、自分自身を含めてである。


 ゆえに、その感情を高揚させる“褒める”という行動は、人を動かすうえで一番重要とさえ言える。



 やってみて 言って聞かせて させてみて ほめてやらねば 人は動かじ



 自分が座右の銘としている、山本五十六提督の言葉である。


 実践し、説明し、やらせてみせ、結果や努力を褒める。


 これでようやく人は動くのである。


 褒める、と言う行動にも多岐にわたる。


 結果が出たのならば、昇給やボーナスを求める人もいるだろう。


 勲章やトロフィーなんかを欲しがる人もいるだろう。


 恩人や上司からの労いだけで十分という人もいるだろう。


 それは人それぞれだ。


 問題は“上に立つ者が、弟子や部下を正当に評価しているかどうか”だ。


 これに尽きる。


 経営者、現場監督、労働者、立場は色々あるだろう。


 上が褒めて、下がそれを受け取る。


 褒め方は人それぞれだ。


 金銭などの物質的欲求、勲章や賞状などの箔付けによる名誉欲、どれを選択し、与えるか。そこが管理職の腕の見せ所の一つではないかと思う。


 人を雇い、会社を経営してみると、それが嫌と言うほど分かる。


 経営者よ、あなたは褒めてやれていますか?


 労働者よ、あなたは褒められていますか?


 そこにギャップが生じたとき、それは崩壊していくのだ。


 自分がそもそも“脱サラ”して、農家になったのも、かつての経験からだ。


 労働の負荷と、それの対価としての賃金。


 働けば賃金が支払われる。


 金が欲しいのであれば働け。


 ごくごく当たり前のことだ。


 しかし、経営者としては、賃金は安く仕上げたい。


 労働者としては、賃金は高い方が良い。


 これも当たり前の話だ。


 従業員のやる気を上げたければ、何の事はない。昇給やボーナスで応じてやれば良いのだ。


 しかし、それでは経費がかさみ、経営が成り立たなくなる。


 賃金の適正値の見極め、これが重要である。


 だからこそ、別の事で褒める。


 よくやった、凄いぞ、この程度でもいいのだ。


 適正な給与が支払われ、職場の環境や雰囲気が良ければ、労働者は余程の事がなければ離職しない。


 さあ、皆さん、よくよく考えてみてください。


 あなたは正当に評価されていますか?


 あなたは労働の対価としての給料、それが真っ当に支払われていますか?


 そこに疑問が生じたとき、そこが“転職”の転機なのかもしれません。


 そうでなければ、“脱サラ”なんて博打はやりませんとも。


 博打を打ちたくなるほど、やる気も湧かなければ、対価も支払われていない職場、そこは地獄でしかない。


 そして、自分は抜け出して、思わぬ幸運を掴み、そして、今に至る。


 もちろん、幸運を掴むための努力を惜しんだつもりはない。


 確かな稼ぎ、これがあるからこそ、今のような農業を続けていられるのだ。


 実際、今は調理師として働いていた時の月給が“週給”になるほどに稼いでいる。


 博打に勝った、とも言える。


 それを“一枚の紙きれ”で証明してもらえたのだ。


 ちゃんと結果を残せてよかったな、と。


 実際、自分のように農家になり、そして、挫折して離農した人も幾人もいた。


 だが、自分は残った。


 結果も残せた。


 その証として、今回の受賞である。


 たかが紙切れ一枚、されど、侮る事なかれ。


 さあ、皆さん、もう一度言いますよ。


 経営者よ、あなたは褒めてやれていますか?


 労働者よ、あなたは褒められていますか?


 そこのギャップが生じたとき、職場は崩壊します。


 もちろん、何の修正もしなければですが。


 だからこそ、上に立つ者は下をよく観察し、正当に評価せよ。


 下は上に不満があれば述べ、改善を求めよ。


 そのギャップが縮んでこそ、よりよい職場環境が生まれるのだ。


 言えないのであれば、言えないなりの理由があり、不満や不当な評価があるのだろう。


 そこが転機、踏み出せるかどうかの、だ。


 自分は踏み出せた。


 もちろん、幸運に恵まれたし、努力も惜しまなかった。


 一枚の紙切れを手にしただけだが、その一枚の紙切れすら手に入れる事が出来なかった者はいくらでもいる。


 欲して手に入れたものではないが、だからと言って無碍に扱うつもりはない。


 評価は同時に“期待”でもある。


 評価されたと言う事は、それに見合う価値があり、価値があるからこそ大切にもされる。


 しかし、価値が下がれば、お払い箱ともなろう。


 ならば答えは一つ。


 たゆまぬ努力を続ける事だ。


 成長を怠れば、衰の末路が待っているのは世の常だ。


 常に向上し、常に鍛練を繰り返さなければ、価値なきものへと成り下がる。


 それを戒めるためにも、賞状は額縁に入れて、壁に飾っておいた。


 たかが紙切れ一枚と侮る事なかれ。


 それは自分自身への戒め、その監視者なのだ。


 続けよう、努力を。


 次の勝利のために。


 次の次の勝利のために。


 次の次の次の勝利のために。


 その額縁に飾られた一枚の紙切れを眺めながら、気持ちを新たにした。


 さあ、今日も元気に畑に行こうか!


 可愛い娘達しろねぎが畑で自分を待っているのだから!

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