2部4章 行商隊が来るまで、あと……。思いもよらぬ事態は多い 1
森での一件から、ひと月ほどが経過した。
その間、また何か非日常的なことが起きるようなことはなく、オレたちは毎日毎日同じようなことを繰り返しながら生きていた。起床して、墓参りに行って、食事をして、仕事をして、帰宅して、食事をして、眠りにつく――そんな一日の繰り返し。
ディパルさんの墓前に皇族様の剣を供えてからの数日は、その豪奢な装飾が目に入るたびに、森で出会ったあの二人組について思いを巡らせてもいたけれど、それもやがてしなくなった。墓参りのたびに剣を目にしても、とくに何も考えることはしなくなった。
「――あぁ~あ」
聞こえてきた声音に、オレは読んでいた薬草学の書物から顔を上げる。
テーブルに頬杖をついているナーナとは、目が合わなかった。
カノジョの横顔は、眼差しは、高位置にある窓のほうを向いている。
なんだか……ぼんやりとして見えるが。
「…………」
とくに意味のない溜息か何かだろう。
声をかけることもせずに、再び紙面へと目を落とす。
薬草学は、この先、知っておけば役立つに違いないことだ。せっかく学べる書物があって、読んでもいいと言ってくれたのだから、有難く、全力で知識を吸収しなければならない。ましてや、今は夜。月が移ろって月光が窓から射し込まなくなれば、読めなくなってしまうから。オレの学習のために、貴重な蝋や油を使えるわけもないのだし。
「……ねえ、アクセルくぅん」
話しかけてこられたので、もちろん顔を上げる。というか、もしかしてさっきの「あぁ~あ」に対して、声をかけるべきだったのだろうか。
「どうしたの?」
「散歩、行かなぁい?」
「え?」何を言い出すのかと思えば。「別にいいけど、あっ、村からは出ないからね?」
先回りして、封じておく。
好奇心の強いカノジョなら、たとえもう夜であったとしても、言いかねない。
顔を向けてきたカノジョは、にっこりと笑った。
「行かない行かない」
そんな笑顔で言われると怖い。
信用するしかないけれど。
オレは椅子から立ち上がった。
「ちょっとだけだよ? もしシルキアが起きちゃったら、大騒ぎになるだろうから」
ここ最近、妹はここでの生活に馴染めたのか、ここが安心できる場所になったのか、悪夢にうなされて跳び起きるようなこともなくなった。昔と一緒で、一度眠りに落ちたら、あとはもうぐっすり、朝まで目覚めないようになった。
とはいえ、ふと目覚めないとも限らない。
そのときにボクが隣にいないとなったら、もう、わんわんだろう。
「そうだねぇ。間違いなく、大泣きだ。村中、跳び起きちゃうだろうね」
言いながら、ナーナも立ち上がる。
「じゃあ、ちょこっとだけ。ね」
「ん」
歩き出したカノジョについていく。
家から出ると、涼やかな夜風に包まれた。
少し、肌寒い。
「んん~、ちょ~っと涼しいねぇ~」
同じことを思ったようだ。
「だね」
「……アクセルくんたちと暮らし始めた頃は、も~っと温かったよねぇ」
「だねぇ」
「だねだねってぇ、ちゃんと受け答えしてよぉ~」
「え~、いやだって、そうだねとしか言いようないじゃん」
あはっ、とカノジョは短く笑った。
「それもそぉだ」
進行方向はカノジョ次第だから、オレは一歩後ろをついていく。
「…………」
「…………」
門とは反対方向へ、ゆったりした歩調で進んでいく。
「……背、大きくなったよねぇ」
「え? そうかなぁ」
「そうだよぉ。シルキアちゃんも、成長してる」
「う~ん……まあ、成長してくれなきゃ困るけど」
「そうだねぇ。あたしたち、いつまでも子どもじゃいられない」
「……ナーナは、どちらかと言えば、もう大人じゃないの?」
「え~、まぁだ子どもだよぉ……全然、なぁんにもできない、子どもだよ」
「全然」以降の声は、小さなものだった。
二人きりの夜でなかったら聞き逃していたくらいに。
だから。
それはオレに言ったものではないように思えた。
「……ところでさ、アクセルくんって将来の夢ぇあるの?」
「夢? 何になりたいかとか、そういうこと?」
「そそ。前にも聞いたことあったかもしれないけど」
確かに、そんなようなこと、話したような。いやでも、ないような。
まあ、すでに話していてもいなくても、別に構わない。
将来のことなんて、何度話してもいいんだ。
「オレの夢は……一番の夢は、シルキアが幸せでいてくれることだよ」
「……幸せって、どういうこと?」
「え?」
「アクセルくんにとって、シルキアちゃんがどうなることを幸せって言うの?」
「それは……」
悩んでしまう。
どうなることを幸せと言うのか。
オレは、何が幸せだと、言いたいのか。
「あはっ。ごめんね、なしなし。なんか難しい話になっちゃったねぇ」
「……ううん。その、なんとなくなら、言えるよ」
思い付いたことは、あった。
「そう? なぁに?」
「うん。幸せはさ……毎日、お腹を空かせないこと。毎日、安全なところで寝起きできること。毎日、楽しく、笑っていられること……かな。ははは。なんか普通のことばっかりだ」
「ううん。どれも、大事なことだよ。どれも、間違いなく、幸せには必要だね」
「うん。だから、そのためには、お金を稼がないとね。イイ仕事を見つけてさ」
お金があれば、食べ物は買える。
お金があれば、ちゃんとした寝床も手に入る。
お金があれば、当たり前だけれど、ないよりは幸せになれる。
「間違ってないね。お仕事は大事だ」
うんうん、と頷くナーナ。
納得したようだ。
「ナーナは? 夢、何?」
「あたしは……あたしは、楽しく生きてたい。母さんが元気でいて、村のみんなも元気でいて、もちろんアクセルくんやシルキアちゃん、ファムちゃんも元気でいて、それで、あたしも、楽しく、元気でいられたらなぁ、って感じかなぁ」
とてもカノジョらしいな。
……う~ん。
らしいこと、言ったけれど。
「……この村に、ずっと、いるの?」
ナーナが足を止めた。
一歩遅れて、オレも止まる。
こっちに向けられたカノジョの目は、見開かれていた。
驚いているかのように。
あはっ――短く笑ったカノジョは、前を向くと、ザッと地面を右足で蹴った。
その蹴った行為に、一体なんの意味があったのか、オレにはわからなかった。
でも何か、カノジョには、意味のあるものだったのだろう。
何もない、ただなんとなくやっただけかもしれないけれど。
「いる、と、思う」
言いながら、ナーナは歩き出した。
「そっか」
思う、というのは、不確定な物言いだけれど。
将来どうなるかなんて、自分にもわからないこと。
オレだって、まさか、故郷を失うだなんて少しも思っていなかった。
「っていうより、いなきゃ、っていうか」
いなきゃ。
それは。
その言い方は。
つまり。
「……いたい、じゃないんだね」
言おうか、どうしようか、迷った。
でも、今のこの散歩においては、言ったほうがいいことだと思った。
ナーナがまた足を止め、こっちを向く。
「ッ」カノジョに脇腹を突っつかれ、喉奥で変な声が鳴った。
それにしても。
どうやら、図星を突いてしまったから、突かれてしまったようだ。
「いたい、でもあるよ? そりゃあさ。大事な故郷だもん」
「うん……」
「でも……でもさぁ……ずっとここにいて、これから先、何かあるのかな……」
「それは、それはぁ、わかんないよ」
「だよねぇ……」
わかるわけがない。
この先、何があるかなんて。
「……やりたいことがあるなら、やってみたらいいんじゃないかな」
カノジョが何を言って欲しいのか、正確なことはわからないけれど。
言われたいことは、なんとなく、こういうことなんじゃないだろうか。
それは多分、この村では、カノジョの知り合いでは、オレにしか言えないことだから。
村の外からやってきて、いずれ、村の外に戻っていく存在だから。
同じ村の人で、背中を押すような言葉を投げかけてくれる人は、恐らくいない。
だって小さな、とても小さな村だから。
唯一、言ってくれるとしたら、カノジョのことを一番想っているハーナさんくらい。
でも、仲良し母娘だからこそ、ハーナさんのことを想えば、ナーナも動けない。
だって、愛する人と別れることを選ぶことなのだから。
やりたいことがあるなら、やってみたらいいんじゃない?
そんな言葉をその背に投げかけられるのは、オレしかいないんだ。
ある意味で、この村になんの責任もない、無責任が許されているとも言える存在だから。
「そう、かなぁ」
「……決めるのは、ナーナだよ。ただ……いつ何が起きるなんて、ほんと、自分にもわからないんだよ。だからさ、やりたいことくらい、やったほうがいいのかな~ってね」
ハッとしたように、ナーナは目を瞠った。
「あっ、ご、ごめんねっ。こんな話題、アクセルくんに相談することじゃなかったね」
故郷を失いたくて失ったわけでない人に、やりたいことのために故郷から離れてもいいと思うか相談する。人によってそれは、とても惨いことだろう。
とはいえ、オレに怒りは芽生えていない。
カノジョに悪気なんてないって、カノジョがそういう人でないって、わかっているから。
「ううん、気にしないで」
「ごめんね、ほんとに……」
「いいよいいよ」
「うん……」
以降、ナーナは喋りそうになかった。
自己嫌悪に陥っているのだ。カノジョは優しい人だから。
……オレが何回気にしてないよって言っても、今日はずっと気にしたままだろうなぁ。
反省するのも、そこから立ち直るのも、結局当人次第。
いいんだよ気にしないで~とどれだけ言われたって、気にする人はするのだ。
「……そろそろ、戻ろっか」
「うん、そうしよっか」
カノジョからは切り出しづらいだろうと思い、オレから提案した。
これ以上、この散歩を続けても進展はないだろうから。むしろ、カノジョはどんどん気にして、どんどん落ち込んでいってしまうだけ。
なら、さっさと横になって目を瞑ってしまったほうがいい。
二人、ひと言も喋らずに帰路を行く。
次の更新予定
転じてXするために『キミ』はいる 富士なごや @fuji29nagoya
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