忌雨
葉月瞬
忌雨
この雨は止みそうにないな。
黒く濁った雲を見上げながら、静かに嘆息する。
かつての雨だったら傘をさせば濡れずに済むだけだったが、今は傘が有っても意味がない。特殊な素材でできたレインコートが必要になる。皮膚に当たれば、水と一緒に皮膚ごと蒸発していく。
「
そう、定義されてから幾年月。
「今日はもう帰れないか」
俺はそう、独りごちて研究室へと戻った。
いい加減、自分の愚かさと間抜けさに辟易する。忘れ物が多いのは一種の病気だろ、とすら思える。
「今日は泊まりかぁ」
どうせ、男のやもめ暮らし。帰宅せずとも心配する者は一人もいない。
雨がこうなってから、色々と研究されてきた。原因は何か。組成成分や構成物質はどうなっているのか。そもそもあの黒い雲はどこから湧いてきたのか。呪いや呪術関係も含めて、各種調査されてきた。
例えばこの現象が、どこかの大国の実験の成れの果てだったりしたらさぞかし気が楽だろう。神罰にしても、神さんのせいにすればいいだけのことである。
しかし、我々研究者はそうはいかない。
何のために研究するのか。それは、真理を探究するために決まってる。理解できない現象はそれだけで許せない。
その甲斐もあって、特殊素材のレインコートなどという発明品が生まれたりもした。俺の発明ではあるが。
研究室に戻って、俺の机に向かう。最下段の一番大きな引き出しからカップラーメンを取り出す。お湯を注いで待つ間、今夜は何をしようか考える。せっかく研究室に戻ってきたんだ。研究の続きでもするかと、大きく溜息が出る。
「しかし、こうして飲料水の類は普通に飲めるし、何も起きないんだよなぁ」
すると、やっぱり外から来た雨なのか、と地球外の事に思いを馳せる。あいつはあの時確かに言った。我々は地球を侵略に来ていると。さしずめ、静かなる侵略と言ったところだろうか。
腕組みして三分待つ間に思考をさらに巡らせる。
彼らはなぜ地球を選んだのか。
もしかしたら、神の怒りに触れたのか? 神が本当にいたら、の話だが。人間の傲慢さが破滅を呼び込むとしたら、彼らはその先兵なんじゃなかろうか。ゲノムインパクトにまで手を出し始めている人類は、神さんにとっちゃ目の上のたんこぶなんだろう。
そこまで考えたところで三分が経ったことを、スマホのアラームに知らされる。
割り箸をパンと割って、麺をすすり始めた。うん。消費期限は大丈夫、な味だ。
食べ終わって寝袋を部屋の隅から引っ張りだしたところで、窓の外をふと見やる。陰鬱な雨が上がっていることに気付いた。
「よっしゃ! これで家に帰れるぜ!」
早く帰って、モンハンのラスボスを倒さなければ!
嬉々として帰宅準備をして、一階までかっ飛ばして行く。
出入り口の屋根伝いに空模様を確認すると、黒い雲は消えていた。胸を撫で下ろす。
扉から飛び出そうとすると、目の前に少女が一人立っていた。なんというか、透明なという形容詞がピッタリ来るような少女だ。肉体が透けて見える。
『ワスレモノ……』
「?」
『忘れ物……トリニキタノ』
忘れ物……、瞬間的にそれが何を示しているのか、解ってしまった。暫瞬、それがある場所へと向かうべく踵を返したところで、背中越しに何かが蒸発するような音が聞こえた。振り向くとそこには、クレーターができていた。一瞬、何が起こったのか理解できなかった。
「ちょ、まじかよ、おい!」
目の前に迫りくる水の鞭だか触手だかを寸出で交わし、這うように階段の下まで駆けていく。俺の研究室は四階にある。今時、エレベーターが無いのは悔やまれるが。階段を一段飛ばしで駆け上がっていく。
息が切れ、鼓動が早くなる。
日頃から運動しておくんだったと、暫しの後悔。
研究室の鍵を開ける間に、水の触手が這ってきた。間一髪で扉が開き、分析器の中に放り込みっぱなしにしてあった試験管を手に取り--放った。触手の方へ。
近付いて来ていた少女は、「え?」というような、なんとも間の抜けた顔をしていた。
「持っていきやがれ。それはただの欠片でしかない。そいつの組成式はちゃんとここに入ってる」
そう言って俺は自分の頭をトントンと小突いた。
◆
二週間ほど前。
あいつとの出会いは偶然だった。否、もしかしたら必然だったのかもしれないが。
いつものように、自宅の鍵を開けるとき気付いた。ドアノブが奇妙に濡れていることに。その日は一日中晴天だった。だから濡れているという事実も奇妙だったが、濡れ方も奇妙だった。
(妙にベトついてやがる……)
その粘着性の液体からは、薄っすらと湯気のような、煙のようなものが立ち上っていた。
俺は取っ手には触れないようにして、ゴム手を二重にはめて試験管に採取した。その後ハンカチで取っ手を念入りに拭き取ると、当のハンカチは塵となって消失した。
(……やっぱりな)
例の雨と同じ成分なのかもしれないと、俺は思った。
翌日。
俺は例の液体を研究室に持っていく事にした。どうしても調べたい衝動に駆られたからだ。
まず電子顕微鏡で覗いてみると--、
「なんだこりゃぁ!」
思わず変な声が出てしまった。
シャーレの中の粘性の何かが、蠢いていたからだ。それは、奇妙なダンスのようにも見えた。陽気な、でもなく、陰鬱な、でもなく、奇妙なダンスだ。それは、この世のものとも思えない、得体のしれない何かだった。
急いで器材の準備をして、そいつを成分分析器にかけることにした。試験管の中に試薬を垂らし、器材に放り込む。電源スイッチをオンにした後、俺は席を立つ。分析している間、外で昼食をとることにしたからだ。
確証はなかったが、戻ってきて分析結果を目の当たりにして酷く驚いた。それは、今まで見たことのない組成式--、凡そ地球上では見られない分子組成式だったからだ。
「こいつぁ……」
俺は言葉に詰まるほど、興奮の極致に達していた。
--もしかしたら、ノーベル賞ものかもしれない。
と。
それから一週間後。
俺は、家でモンハンを集中攻略していた。つまるところ、もう一度件の液体を残していった奴と接触できないかと、休暇を取って家で待ち伏せしているのである。
曜日は当てずっぽうだが、根拠がないわけではない。先週と同じ曜日にしてみたのだ。運が良ければ当たりを引ける。時間は分からなかったから、一日中家にいることにした。家でやれる仕事もあることだしな。
モンハンを一通り遊んで飽きた頃、腹の減り具合に気付いた。ふと時計を見やると、午後九時三十分を指していた。
「もう、そんな時間か……」
熱中すると時間の過ぎるのが速い。
冷蔵庫の中身が悲惨な状況なのを確認すると、デリバリーを頼むか、コンビニ弁当を買ってくるか、逡巡する。できればあいつが来るまで、家から出たくない。
「よし! 決めた! 今日は贅沢しちゃおう」
デリバリーを頼もうと、スマホのアプリをタップしたところで玄関のチャイムが鳴った。
(……来た!)
何となくだが、俺の勘がそう告げた。
急いで覗き窓を見ると、そこには痩せこけた年齢不詳のお子様みたいなやつが、野球帽を目深に被って立っていた。表情はここからじゃよく見えない。
「イルンデショ、開けてよ」
酷く濁った声が、そう呼びかけた。
開けるべきか否か迷ったが、俺は意を決して開けることにした。
俺が扉を開けた瞬間、そいつはずいっと歩み寄ってきて扉を閉める隙を与えなかった。つまり、有無を言わさず入られたのだ。
今、目前にして解ったこと。そいつは予想以上に、小さかった。身長百三十cmあるかどうか。子供、というよりも幼児に見える。皮膚は、透明な液体が蠢いているように見えた。光の屈折率は大きいようだが。そして、
「話をシニキタ」
開口一番、彼はそう言った。最も、彼という人称が当てはまるかは判らないが。
「話とは?」
俺は喉の乾きを覚えつつも、絞り出すように言った。
「トリアエズ、上がらせてモラウヨ」
家に入るのが当然のように、彼は靴を脱いで
「おい、家主の許可もなく……しょうがねぇな」
俺は肩を竦めて、扉を閉めた。
「まず、ナニカラ話ソウカ」
彼が上がり込んでから三十分以上経過したところで、静かに切り出した。
「まず、君の素性から……、君は何者なんだ?」
「第百三十五宇宙系百五十万銀河系一千万五百九十星系第七惑星カラキタ…………君タチ地球人類がイウトコロノ地球外生命体ダ」
俺は開いた口が塞がらなかった。
「地球外生命体って本当に居たんだな……」
俺の呟きに、彼は目を丸くして瞠った。
「マサカ……、今ノ今マデ、地球外生命体ト接触してナカッタノカ?」
「ああ。宇宙開発が進んだのも、近現代からだしな……」
「オマエタチ……遅れてるンダナ」
一番言われたくないことを指摘されて、頭を抱えて苦悩する。
「話、ススメテイイカ?」
「……どうぞ」
「我々ハ、お前タチノ故郷、コノ地球を侵略シニキタ」
「な、なんだって!?」
「我々の星ハモウナク……、ン? 何をシテイルンダ?」
俺は台所から素早く持ち出した包丁を、彼に向けて正眼に構えて立っていた。
「何って、侵略者相手に戦う構えだよ」
俺はそう言い捨てると、ゆっくり吸って、ゆっくり吐き出す。呼吸を整えて、精神を落ち着かせる為だ。大丈夫だ。モンハンで鍛えたイメージ通りに立ち回れば、きっと俺でも戦える!
「戦う為にキタノデハナイ。カンチガイスルナ」
彼は大きく溜息をついて言い放った。
「君タチニ、戦うスベヲ渡す為ニキタノダヨ」
俺を真っ直ぐ見据えて放言した彼の瞳には、たっぷりと自信が篭っていた。
「私ハ、君タチ地球人類ニ警告ト助言ヲシニキタ」
彼のために淹れてやったインスタントコーヒーを一口啜ると、彼は続けて言った。
「初めニ言ってオク。私ハ、コノ地球ガ好きダ」
「それで?」
「彼らノ目的ハ、コノ長雨ヲ利用シテ、君タチ地球人類ヲ孤立サセ、各個撃破アルイハ懐柔スルコトダ」
「は? いまいちよく解からんのだが? 自然現象は自然現象だろう?」
「マダ、理解ガ追いついてイナイヨウダナ。コノ雨は、我々ガ任意に降らせテイルモノダ」
「何?」
「我々ノ身体ノ組成成分を----シテ、雲ニ変換シテ雨ヲ降らせてイルノダヨ」
今、一瞬、聞き取れない言葉があったが、気のせいだろうか?
彼の語る話は突飛なもので、俺には少しばかり理解が追いつかなかった。が、要約するとこういうことらしい。
この忌雨は、地球を侵略するために彼らが降らせているものだ。そしてその「雨」は彼らの身体の組成成分と同等だという。雲と雨が彼らの体の一部で組成されてるなら、同じ組成の物質で対消滅させることができるということらしい。
侵略者達も一枚岩ではなくて、他の惑星を侵略してでも安住の地を手に入れようとする急進派と、平和裡に解決しようとする穏健派とに別れているという。今目の前にいる彼は、穏健派のリーダー的立ち位置だという。
俺に白羽の矢が立ったのは、俺が特殊素材研究のスペシャリストだからだそうだ。
「私ノ身体ヲ、使ってクレテ構わナイ。彼らノ、静かなる侵略ヲ、止メテクレ」
俺は身体が震えるのを自覚した。それは、興奮、奮起、戦慄、そのどの言葉でも当て嵌まるような、心の激震だった。
◆
彼女の襲撃から一夜明けた。
俺はすぐさま動くことにした。
今は秘密裡に造られた、東京駅の地下研究所で、特殊タンクに入っている「彼」の元へと向かう。
俺の頭の中の組成式を元に、「彼」の身体を利用して水の分子構造を書き換える。
六ヶ月後。
俺達の悪足掻きの集大成が、黒雲の遥上空に打ち上げられた。
黒い雲に穴が穿たれ、天国の階段と呼ばれる光芒が広がっていく。
久方ぶりの太陽を拝みながら、俺は静かに言った。
「あいつは、自分を犠牲にしてこの
了
忌雨 葉月瞬 @haduki-shun
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