*****


 共働きの両親は帰りが遅く、昔から夕飯は兄と二人で食べることが多かった。


「美大行くって、ほんと?」


 リビングの机に、スーパーで買ったらしい惣菜と温めた冷やご飯、兄の作った卵焼きが並んでいる。焼き魚の身を箸で解していた兄は、僕の言葉に少しの間手を止めて、

「ああ」

 肯定とも嘆息ともつかない声を洩らした。

「美大じゃなくて、芸大だけど……受かったらね」

「東京の大学って聞いた」

「うん。そこ以外、許可貰えなかったから。倍率高いし、地方の一般家庭じゃ予備校なんかそうそう―――まぁ基本、反対なんだろうね。記念受験みたいなもんだよ」

「受かったら、家出るの」

「そうなるな」

 肩を竦めて、兄は丁寧小骨を取り除いた身を口に運んだ。俯いて、手許を見詰める。食欲は湧かず、テレビに映るバラエティーを眺める気分にもなれなかった。口調は軽いものの、兄は本気で芸大に行こうとしている。そう、思えた。

 でなければ、聞き分けよく振る舞うことに慣れた兄が、家族に漠然と気を遣いながら生きてきた兄が、両親の反対を押してまで強情を通そうとはしないだろう。

「早く食べなよ」

 促され、僕は味のしない食事を噛んで飲み込んだ。東京。バスでも電車でも容易に行けないその場所は、子供にとっては現実感がないほどに遠い場所と思われた。

 そんな場所へ、兄が行こうとしている。

 記念受験と兄は言った。たぶん相当難しい大学なのだろう。行けるかどうかは分からない。でも、兄なら―――――


(……兄ちゃんと僕は本当の兄弟じゃない)


 その一事が急に、ひどく心許ないことに感じられた。心の繋がりは薄く、血の繋がりもない。住む場所が離れてしまったら、何が僕と兄を繋ぐのだろう。少なくとも兄は置いていったもの―――僕に、きっと深く頓着しない。


 兄と疎遠になるかもしれない。


 その予感が胸の底に、暗く冷たい影を落とした。


 兄が高二、僕が小五の、春の出来事である。


*****






 漠然とした不安を抱えながらも、夏休みを惰性で過ごす。

 時折、居ても立ってもいられない焦燥に駆られて、逃げるように家を出た。行く当てはなく、夏日に照らされた町を漫然と歩く。


 今年の豪雨も酷かったが、六年前の豪雨はもっと酷かった。


 山が削れ、岸が削れ、道が削れ、押し寄せた濁流と土砂と流木が子供時代から親しんだ景色を攫っていった。無事なところは案外昔と変わらない。僕の家の周囲も無事だった。だが、ほんの五分、十分歩いたところには、かつてとは全く違う景色が広がっていて、大小無数に点在する傷痕は繕っても元には戻らなかった。

 剥き出しの山肌の一部はコンクリートで覆われて、川や道や橋は補修と改修によって次第機能を取り戻したが、それは決して過去に存在したものではないのだ。


 その場所に差し掛って、目を細める。

 兄とよく一緒に歩いた川沿いの道も、六年前の豪雨で様変わりした。


 川の両側に広がる田圃、岸の斜面には季節の草や野花が茂って、その下を子供が遊べるほどの浅い川が流れている―――そんな風景は六年前、すっかり水に呑まれ、踏み潰されて、長い工事が終わった後には、寂しい更地とコンクリートで舗装された無機質な見知らぬ川が現れた。通学のためバス停へ向かう道すがら、毎日目にする景色ではあるが、未だに慣れない。


 眺めていて落ち着かないのは、ここで兄が死んだのを知っているからでもあるだろう。僕はしばし岸の上から川を見詰めて―――家に帰ろう、と踵を返した。



 だんだんと、夢はあの日に近付いている。順序立ててそこへ至る過程を辿り、夢を通して僕は過去の自分と向き合っている。




 兄の絵は、もうすぐ完成するだろう。






*****


 朝からの豪雨に学校は休みだったが、両親の仕事はそうでなかったらしい。あの日、僕は兄と二人きりで家にいた。


 町にとって、水害に対する警戒を強める、ある種の分水嶺となった集中豪雨だ。


 元々雨のよく降る土地で水害には慣れていたのだけれど、だからこその油断があり、規格外の豪雨に際して情報共有や避難指示が一歩遅れていた。結果として相当の人的被害が出てしまった、そういう豪雨。


『記録的な大雨により、…――県で新たに死者が――――――』


 雷雨の影響だろうか。時折ノイズが走るリビングのテレビ―――そこに映る雨と濁流をじっと見詰めて、兄は目を見開いていた。何かに取り憑かれたように、熱を帯びた瞳が揺らでいる。


「兄ちゃん」


 呼び掛けたが反応はなく、兄は恐らくほとんど無意識に机上のスケッチブックと鉛筆を掴み、ソファから立ち上がった。どこか浮ついた足取りでリビングを出て、玄関へ向かう。


「―――………」


 口を開きかけ、また閉じる。

 呼び止めても無駄だ。分かっている。

 僕は唇を引き結び、黙って兄の背中を追い掛けた。


*****






「―――――」


 目が覚めた。

 いや、目を覚ましたと言うべきだろう。

 夢の中であの後、何が起こるか僕は知っている。逃げるようにして、意識を現実へ引き摺り上げたのだ。無理矢理起きたせいか、少し頭が痛い。

 厭な高鳴り方をしている心臓が落ち着くのを待ち、携帯を手に取って現在時刻を確かめた。


 午前二時十三分。


 ブゥ――――――――ン――――……


 扇風機が低く唸って、汗で湿った身体に生温い風が当たった。網戸から吹き込む夜風は室内に淀んだ空気より、幾分か涼やかで心地好い。ゆっくりと息を吐き出し、吸う。

 田舎の夜は人気がない。虫も寝静まったのか、耳鳴りがするほどの静寂が辺りに満ちて、その中にあって隣室の物音が全く聞こえないことにふと不安を覚えた。


「………兄ちゃん」


 呟いて、立ち上がる。

 この時間は、いや、絵を描き始めてからずっと――朝も昼も夜も――兄は集中力が続く限り、あるいは描く過程で何かしら待つ必要が生じた場合以外ずっと、黙々と絵を描き続けていた。

 耳を澄ませばいつも微かに、隣室で兄が何か作業している音が聞こえていたのだ。それが聞こえない。


 恐る恐る、廊下を覗く。


 暗い廊下に一筋、無機質な白い光が落ちていた。隣室――兄の部屋の扉が薄く開いて、その隙間から室内の明かりが洩れているのだ。


「兄ちゃん」


 部屋の前に立ち、呼び掛けた。

 返事はない。


「…………」


 意を決して、扉を開ける。テレピンやペトロールのつんとした匂いが鼻を突く。

 無人の部屋。

 その中心―――所々が絵の具で汚れた床に、暗い色彩の四角いものがぽつねんと置かれていた。F50号のキャンバス。兄の最後の作品だ。


 逡巡して、けれども近付く。

 僕には、これと向き合う責任がある。


 近付くほどに心臓が高鳴り、神経が張り詰めた。イーゼルから降ろされているのはたぶん、こういう形で観賞するものだ、と示しているのだ。


 キャンバスの前に立つ。


 重なり合い、鬩ぎ合い、弾けた無数の暗い色彩が、滑らかに、しかし激しく画面を埋め尽くし、足許に迫りそうな勢いで駆け抜ける。降り注ぐ雨に、視界はぼんやりと煙っていた。ここに沈めば死ぬのだ、という死の予感を濃密に湛えたその水面を――――――






 兄は、覗き込んでいた。






 雷雨の中を着の身着のまま、傘も差さずに兄は走って、家に一番近い川――あの川沿いの道で立ち止まった。普段は岸のずっと下側を穏やかに流れている川が、道の傍まで怒濤の勢いで迫っていて、もうすぐにでも溢れてしまうのではないかと思えた。乱れた息を整えて、スケッチブックを開き鉛筆を宛がい、濡れた紙には絵を描けないという当たり前のことに、やっと気づいたらしく顔を歪める。

 そんな兄の姿が雨で煙った視界の中、ぼんやりと見えるのだけど、子供の足と体力では中々兄に追い付けないのがもどかしかい。


 やっと追い付いた時、兄は汀に立って荒れ狂う水面を覗き込んでいた。


 描けない代わり、目に焼きつけようとしたのだろう。見ているこちらの息が詰まるほど集中し、じっと足許の水を見詰めている。

「兄ちゃん」

 川の流れは刻一刻と激しさを増し、水嵩が次第上がっているような気がする。兄はそれでも、動こうとしない。


「兄ちゃん!」


 一際強く、大きな声で兄を呼んだが、反応はなかった。このままだと危険だ、と子供でも分かる。引き摺ってでも、家に帰るべきだ。家は大丈夫だから家にいなさい―――父も母も電話でそう言っていた。だから、


(だから?…………――――――――――)


 思考の間隙に、水音がどうどうと入り込む。

 だから、家で兄と明日を待つ。明日になったら、日常がきっとまた少しずつ戻ってくる。

 日常。

『受かったら、家出るの』

『そうなるな』

 兄の不在に怯える日常が。




 兄は僕に背を向けている。


 今なら、




 ふと、あの衝動が、いつからか時折湧き上がるようになった、あの攻撃的な衝動が胸を満たした。腕を裂く。目を刺す。そうしたら、兄は絵を失うかもしれない。絵以外のものに、興味を示すかもしれない。僕の声に本当の意味で応えてくれるかもしれない。だが、違うのだ。絵を失った兄は、兄の残骸でしかない。そんなことをするならいっそ、






 殺すべきだ。

 いつもそう、思っていた。






 今なら、殺せる。


 その一言が頭を過った刹那、兄の背中を押していた。止まらなかった。止まれなかった。見開かれた兄の目が僕を捉えて、激流に沈む。水面に一瞬生白い手が藻掻くように突き出され、虚空を掻いてまた水に呑まれた。

 

「……兄ちゃん」


 茫然として呼びかけたが、返事はなかった。当たり前だ。僕が兄を川に突き落としたのだから。興奮は速やかに冷め、自分が何をしたか、それを認識して頭が真っ白になった。覚束ない足取りでその場を離れる。町に溢れ返った水音が轟々と耳朶を打ち、僕を苛んでいるような気がした。


 その後の記憶は、曖昧である。


 夕方やっと、兄が川に落ちた――と両親に電話で伝えたと思うのだけど、それ以上のことはたしか何も話せなかった。両親はその日、家に帰れず、僕は停電のせいで真っ暗になったリビングで一人きり、川に落ちた兄がどれだけ苦しんで死んだのか、繰り返し繰り返し考えて泣いた。


 泣きながら、自首はしないと決めた。


 僕は人殺しで、人殺しはきっと裁かれる。サスペンスドラマを見て、裁判の様子は漠然と知っていた。僕以外の誰かが、兄に対する僕の感情を語るのだ。それは絶対に、あってはならないことだと思われた。

 目撃者は、いなかったのだろう。大人達は勝手に、頑なな僕の沈黙を『事故現場を目撃したため精神的ショックを受けて、だから何も話せないのだ』と解釈して、事の真相を深く追求しようとはしなかった。兄の遺体は川に流され、いつまで経っても見つからず、永遠に見つからない方がいい―――と僕は思って、そして、



 水は彼岸と此岸を繋いでる。



 兄の言葉が頭を過った。

 そして、

 そして、兄は帰ってきた。水を伝って。

 足許にはあの日の川が横たわり、フラッシュバックした過去と現在がぐちゃぐちゃに溶け混ざって眩暈がする。実を言えば、兄が帰ってきた時、少しだけ僕は期待したのだ。僕に復讐するため、兄は帰ってきたんじゃないか、と。

 それだけのことをしたはずだった。水に沈む直前、兄の目は確かに僕を捉えて見開かれ、だから今度こそ、もしかしたら……と、不安と恐怖と一抹の期待が胸に渦巻き、結局何もかも杞憂で、無意味だった。


 兄は最期に見た光景を、目に焼きついた一瞬を、生涯で最も心惹かれたテーマを、描き切ることにしか未練を残さなかった。


 僕のことなど最初から最後まで眼中になかったのだ。町に溢れ返った水音が轟々と、僕を苛むように耳朶を打つ。幻聴なのか、本当に聞こえているのか最早判然としなかった。

 衝動の根源にあるものが何なのか。今なら多少言葉に出来る。僕は義兄を兄として慕っている。画家としての兄の、たぶん最初のファンだろう。絵を描く兄が好きで、兄の描いた絵が好きだ。だからこそ、慕い、憧れる相手にとって、僕という人間が価値ある何者かでないことが、居た堪れないほど悲しく、辛く、寂しく、惨めで、もどかしく、――――


 けれども確かに、


 重なり合い、鬩ぎ合い、弾けた無数の暗い色彩が、滑らかに、しかし激しく視界を埋め尽くし、足許に迫りそうな勢いで駆け抜ける。降り注ぐ雨に、辺りはぼんやりと煙っていた。ここに沈めば死ぬのだ、という死の予感を濃密に湛えた水面。

 その水面に、跪いて手を伸ばす。

 兄の態度と在り方に心の奥底がずっと膿んだようにじくじくと痛んで、だが歩み寄りも相互理解も実ところ、僕は兄に全く求めてはいなかったのだと今更気づいた。


 兄は僕の憧れなのだ。

 だから。


 隔絶した存在であって欲しかった。

 超越した存在であって欲しかった。

 輝かしい存在であって欲しかった。

 本気で追い掛けてなお、決して追いつけない存在であって欲しかった。

 手を伸ばしたら、相応の報いを受ける存在であって欲しかった。


 兄は、僕が兄に求めた全てを満たして死んだ。であれば、義兄あには最期に至るまで、正しく僕の理想の兄だった。


「兄ちゃん」


 呼びかけたが、返事はなかった。当たり前だ。僕が兄を川に突き落としたのだから。、突き落としたのだから。水面へ―――兄へ向かって、手を伸ばす。

 指先に濡れた感触があり、ふと(これは絵だ)と我に返って息を呑んだ。乾いていない絵の具に触れてしまった。咄嗟にそう思ったけれど、違う。粘性のない本物の水の感触が、ぞっとするような勢いの水流が指にぶつかり、絡みつき、フラッシュバックした過去と現在がいよいよぐちゃぐちゃに溶け混ざって眩暈がする。


 手が。


 水面に突き出た生白い手が、本来なら虚空を掻いたはずの兄の手が、僕の手首を掴んだ。溺れる人間の必死さで、骨が軋むほど強く―――兄の爪が皮膚を突き破って肉に食い込み、激流が兄を僕ごと水に引き摺り込む。



 気づけば、川に落ちていた。



 水に翻弄されて、どちらが上でどちらが下かも分からない。身体中を激しく殴られているような気がする。息が出来ない。何も見えない。僕の手首を掴んでいた兄の手はいつの間にか離れてしまって、兄がどこにいるかも定かでない。しかし、そんなことはもうどうでも良かった。




 水が僕を包み込んでいる。


「――――――――――!」

 声にならない声で叫んだ。




 兄にとって、死の気配を孕んだ水は母だった。だから惹かれ、だから描いた。僕にとって、水は―――この水は――――――――



 死の淵にありながら、自然と胸に歓喜が湧いた。肺に水が入り込み、命を圧迫する感覚すら愛おしい。





 ああ。


 今。











 僕は兄の中にいる。







  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

雨天 白河夜船 @sirakawayohune

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説