*****


 大きな黒いリュックを背負って、兄が僕の前を歩いている。どこに行くかは知らない。僕は黙って兄を追い掛ける。

 八月の午後。白い陽射しが世界を焼いて、路傍の夏草と田圃に茂る稲葉の緑が眩しい。

 歩く。

 歩く。

 どれだけ歩いたろう。家の最寄りを流れる川を遡り、やがて兄は林の奥――水が綺麗な小川の前で立ち止まった。リュックから筆箱と画板とスケッチブックを取り出して、無言で小川を描き始める。

 僕は少しだけ兄から離れた。兄より背が低いので、距離と角度を選ばなければ、うまい具合に兄の手許が見えない。

 せせらぎと蝉の声と葉擦れの他は、兄が紙に鉛筆を走らせる音しか聞こえなかった。自分や他の子供達が使うのと同じ鉛筆―――その線が絡み合い、重なり合って、物の輪郭を、陰翳を、ただの紙の上へ精密に浮かび上がらせていく様は魔法のようで何だか不思議だ。


 兄ちゃん。


 呼び掛けたが、返事はなかった。

 いつもそうだ。僕は何かを堪えるように、唇を引き結んで足許の石を軽く蹴り、兄と兄の描く絵をただただじっと見詰めていた。


*****






 目を覚ましてからややあって、幼い頃の夢を見たのだと気がついた。たぶん小学校低学年―――夏休みの記憶である。

 久しぶりに兄と話したことで、脳が勝手に埃を被った思い出を引っ張り出したのかもしれない。溜息を吐き、ベッドの上で上半身を起こした。携帯の待受画面を確かめる。午前二時三十二分。喉が渇いている。

 麦茶でも飲もうと部屋を出たところで、隣室から無機質な白い光が暗い廊下へ洩れているのを見つけた。兄の部屋の扉が薄く開いている。

 油絵は揮発性油を使うため、なるべく換気をする必要がある。だから兄の生前は、時折見た光景だった。開けた窓の傍に置かれているだろうサーキュレーターの音が、くぐもって聞こえる。


 人の動く気配。


 筆が紙を擦る微かな音。


 鼻から息を吸い込めば、兄の死後は次第薄れていったテレピンやペトロールのつんとした匂いが鼻腔を突いて、


「兄ちゃん」


 思わず呼び掛けたが、返事はなかった。

 無視しているのではない。集中する余り、周りの音が聞こえていないのだ。

(…………僕は、何をしてるんだろう)

 自嘲して、一階へ降りた。

 兄が、何のために帰ってきたか。

 疑問の答えは、実のところ最初から分かりきっていた。あえて明言を避けていたのは、不安と恐怖と一抹の期待が胸に渦巻いていたからだ。今度こそ、もしかしたら、と。結局何もかも杞憂で、無意味だった。

 台所でグラスに麦茶を注ぎ、顔を覗かせた幼少期の感傷――――いつまでも薄れてくれない、焼け付くような感傷ごと、冷たいそれを一息に飲み干す。


 兄は、いつまでこちらにいてくれるのだろう。





*****


 清々しく晴れた秋空の下、山裾に広がる田圃が黄金色に燦めいて、羽黒蜻蛉が目の端を過る。

 気紛れに外で行う、いつものスケッチ。


「……ねぇ。どうして、水の絵ばかり描いてるの」


 その時兄はスケッチブックに、近所の防火水槽を描いていた。

 埋設されたものではなく、色褪せた青緑色のフェンスの内側に剥き出しの水が溜められている、古い形の防火水槽である。一見すると長方形の小さいプールのようだが、どんより濁った水の底は見通せず、小学校では「底がない」とか「昔ここで子供が死んだ」という噂がまことしやかに語られていた。

 まさか、とは思うものの、長閑な田園風景の片隅にぽつねんとある、暗い水面を見詰めていると、不安になって「もしかしたら」と感じてしまう、そんな場所。

「…………」

 兄は鉛筆を動かす手を止めて、隣に立つ僕を無感動な目で見下ろした。

 一口に『描く』と言っても、集中して描いている時と手遊びに描いている時があり、後者の時は雑談にもわりあい反応してくれる。経験から僕はそれを知っていて、折を見て話し掛けたのだ。


 しばしの沈黙。


 機嫌を損ねたというよりは何事か考えている風の沈黙だったが、漠然と落ち着かなくて視線を逸らせた。いつからだろう。兄と真面に目を合わせられなくなったのは。

 兄の目は、対象を観察することが身に染み付いた絵描きの目である。向かい合っていると、何もかも―――見られてはいけないものすら見透かされているようで、居た堪れない。


「川とか池とか雨とかさ、よく描いてる」


 気まずさを誤魔化すように言葉を継いで、今まで見た兄の絵を頭に思い浮かべた。

 ずっと気になっていたのだ。風景も人も動物も植物も、兄は何でも描いたし何でも描けたが、特に好んで描いているのはやはり水だ。描く回数が明らかに多く、描写も巧みで緻密。何より、


 ―――眺めていると不安になる。


 僕は、防火水槽をちらと見た。

 あの暗い水面を見詰めている時に感じるのと、同じ不安。どれほど明るく透明感のある色彩を使っていても、ここに沈めば死ぬのだ、という仄かな、しかし鬼気迫るような死の予感が、兄の描く水には滲んでいた。


「水、好きなの?」

「好き――かは分からないけど、怖いとは思う」


 兄は呟いて、目を細めた。その視線の先、青緑色のフェンスの向こうで、真っ黒な水が空を映して光っている。

「水は彼岸と此岸を繋いでる」

「ひがん? しがん?」

「あの世とこの世のことだよ。お前、溺れたことある?」

「ない、かも」

「そ。………母さん。俺の本当の母さん、小さい頃はまだ、俺達が住んでるあの家にいたんだけどさ、変な人でね。風呂入る時、たまに俺を湯に沈めたんだよ。段々息が苦しくなって藻掻くんだけど、押さえつけられてどうしても浮き上がれない。頭が痛くなって、視界が暗んで―――『これ以上先にはとても怖いものがある』そう本能的に感じた瞬間解放されて、ようやっと息を吸うんだ。

 必死で呼吸する俺を見て、母さんはころころ笑った。

 で、俺を抱き締めて耳許で何か囁くんだけど……頭がくらくらして気分が悪いし心臓の音が五月蠅いしで、何を言ってるのかよく分からない。でも、そういうことをした後は必ず、特別に優しくしてくれたから嬉しかった。

 そんな人だったんで、俺の知らないところで何かしら問題を起こしたのかもしれない。いつの間にか離婚してて、ある日ふっといなくなった。それきり全く会っていないから、何であんなことしたのか分からないまま。

 …………

 昔の家族写真、たぶん父さんが捨てたんだろうね。何も残ってないし、今じゃもう、母さんの顔すら曖昧で―――なのに、そんなことばかり、はっきりと覚えてるんだ」


 水は彼岸と此岸を繋いでる。


 もう一度兄は呟いて、黒い水面を見据えたまま微笑んだ。

「意識が遠退く刹那、確かに見たよ。水の中には彼岸がある。遠くて深い、暗闇がある。母さんが見せてくれたそれを、俺は描きたい。形のないものを形にする―――俺にとっては絵だけが、それを成し得る方法だ」

 半ば独り言つような調子で滔々と語り、ふと我に返ったのか、兄は気恥ずかしそうに眉根を寄せた。


「………だから、描いてる」


*****






 死者と暮らしているせいだろうか。

 最近よく昔の夢を見る。目を逸らしていた傷の形を確かめるように、なぞるように古い記憶は再生されて、絶えず胸がざわつき落ち着かない。


 兄が帰ってきて、もうすぐ一ヶ月。


 イーゼルに立て掛けられたF50号のキャンバスには、次第色が重ねられ、完成の日がたぶん近付いている。自分では出来ない、と数日置きに兄は僕に掃除を頼むので、制作途中の絵を目にする機会は度々あったが、僕は未だに『それ』を直視できていなかった。見えているのに、見ていない振りをする。

 呼吸はもう止まってるから比喩だけど。

 そう前置いて兄は一度だけ、こっちは息苦しい、と弱音らしきものを零した。水中や高い山の頂上――そんな留まってはいけない場所に、留まっているような感じがするらしい。ただ、そこにいる。それだけのことが苦しい。死者にとって、此岸はそういう場所なのかもしれない。



 それでも、兄はで絵を描いている。


 兄が彼岸から戻ってきてまで、此岸にしがみついてまで、描きたかったもの。暗い色彩の『それ』は、たぶんあの日の――――



「終わったよ」


 舞った埃が絵に付着するため、今は掃除機を使えない。拭き掃除を終えて兄に声を掛けたものの、反応はなかった。睡眠は必要ないと言っていたが、着色にはやはり気力を使うのだろう。絵の具の乾燥を待つ、掃除が終わるのを待つ、そうした作業の合間に生じる待ち時間を、兄はいつも仮眠に当てていた。

 ただ、今はまだ眠っておらず、ベッドに横たわってぼんやりと天井を見詰めている。その瞳は恍惚として、佳境を迎えた作業に心底高揚していることが窺えた。


 絵の他に、未練などきっとない人だ。絵が完成したら、彼岸に戻ってしまうのだろうか。



 ふと、イーゼルの前に置かれた椅子の横―――小ぶりな作業台の上からペインティングナイフを掠め取り、兄の利き手を切り裂いてやりたいような衝動に駆られた。



 意識しなければ、当時と姿格好が変わらないのかもしれない。七月に死んだ兄は、いつもあの日と同じ服――半袖の黒いシャツとジーンズを着ている。シャツの袖から伸びた生白い右腕。その血管が青く透ける前腕にナイフを突き立て、絵の具で汚れた掌にまで深い真一文字の傷を刻んだら。そうしたら、




「……馬鹿馬鹿しい」




 そっと呟き、頭を振った。

 相手は幽霊だ。腕を裂いても、絵が描けなくなるわけではあるまい。それに、よしんばそれが適ったとしても、僕はやらない。考えるまでもなく、知っている。

 兄の生前、何度同じ衝動に駆られても、やらなかった。腕を裂く。目を刺す。そうしたら、兄は絵を失うかもしれない。絵以外のものに、興味を示すかもしれない。僕の声に本当の意味で応えてくれるかもしれない。だが、違うのだ。絵を失った兄は、兄の残骸でしかない。そんなことをするならいっそ、


 そこまで考えて、自嘲した。

 

 衝動の根源にあるものが何なのか。今なら多少言葉に出来る。僕は義兄を兄として慕っている。画家としての兄の、たぶん最初のファンだろう。絵を描く兄が好きで、兄の描いた絵が好きだ。だからこそ、


 慕い、憧れる相手にとって、僕という人間が価値ある何者かでないことが、居た堪れないほど悲しく、辛く、寂しく、惨めで、もどかしかった。

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