雨天

白河夜船

 梅雨のある日。


 死んだ兄が帰ってきた。


 比喩ではなく、本当に。

 ただいま、と玄関の扉を開けて、帰ってきた。


「おかえり」


 昼時のリビング。兄を一瞥して、母が言う。僕は黙って目を瞬いた。

 その日は雨がどうどうと激しく降っており、町は半ば水に浸ったようになっていた。大雨特別警報。携帯が時折五月蠅く鳴り響いて、危険を告げる。父母の会社も、高校も休み。国道の一部は水没し、各所で土砂崩れが起こっているという。

 ただ、家のある位置が山からも川からも程々に離れた軽い高台なので、別段逃げる理由がないと僕も家族も、漫然と家に留まっていた。必要に迫られなければ、あえて寛げる家を離れようとは思えない。


「おかえり」


 父も言う。生前の兄が帰ってきた時と大差ない様子に、夢――それも生温い悪夢と現実が入り混じったような感覚がして、少し気持ちが悪い。兄は何かしら反応を求める風に僕を見て、………僕は咄嗟に視線を逸らせた。

 水から上がった直後のように、兄の身体も服も濡れている。

 雫が兄の生白い指を伝ってぽたぽたと垂れ、リビングの床に水溜まりを次第広げてゆくのを、僕はただ身を竦めてぼんやりと見詰めた。




 兄が死んだのもやはり梅雨―――大雨の日だった。




 遺体は川に流されて、未だ見つかっていない。永遠に見つからない方がいい、と当時は思った。豪雨で増水した川は荒れ狂い、樹々や土砂や石塊や藻やゴミや何かの破片を呑み込んで、ともすればコンクリートで舗装された岸すら削り取る勢いで駆け抜ける。そんな中に人間が落ちたのだから、遺体がまともな状態である可能性は低いだろう。

 なら、見つからない方が、マシだ。兄であった何かを見て、厭な気分にならないで済む。そう、考えた。


(だけど)


 川に呑まれたままだったから、兄は帰ってきたんじゃないか。竜宮、ニライカナイ、三途の川、井戸底の地獄―――水は彼岸と此岸を繋いでいる。兄は水を伝って帰ってきたに違いない。しかし、何のために。




 兄は、あの日から家に留まっている。




 帰ってきたと言っても、生き返ったわけではないらしく、兄の存在は浮草めいて曖昧だった。父も母も、兄が家に『いる』ことを気にしない。兄も当たり前の顔をして、我が家の日常に溶け込んでいる。しかしその一方で、兄の暮らしぶりには生活感というものがまるで感じられなかった。

 食事も摂らず、風呂にも入らず、家から一歩も外へ出ず、生命や生活を維持するためのあらゆる活動を放棄して、ただ忽然とそこに『いる』。

 自分以外に誰も、それを奇妙とも不気味とも思わない様子なのが、薄気味悪い。何をされるわけでもないが、ひたすらに薄気味悪くて、



 後ろめたくて、気まずかった。



 なるべく鉢合わせたくないと思うのだけど、高校生という立場上、家の他に夜をやり過ごせる場所などありはしない。友人の家に泊まるにしても所詮は一時しのぎだし、『幽霊がいる』というのは高校生が家に帰れない、と主張する理由としては弱すぎる。兄の存在に違和感を覚えるのが僕だけである以上、僕が我慢するしかないのだろう。



 兄が現れて、ちょうど一週間目の夕方。



 仕方なし腹を括り、数日の逃避を挟んで家に帰ってみると、兄が憮然とした表情で僕を出迎えた。


「掃除をしてくれ」

 出し抜けにそんなことを言う。

「………掃除?」

「俺の部屋だよ。あんな埃っぽい部屋じゃ、絵の具を使えない」

 埃が混ざる。

 苦々しげに吐き捨てた顔を見て、溜息が思わず洩れた。拍子抜けしたような、空振りしたような。とにかく、生前とあまり変わっていない。

「自分でやれば」

「出来るならやってる。ずっと試してるけど、駄目なんだ。掃除道具に触れない」

 そういえば、箒は魔除けの道具でもある――と、いつだったか本で読んだ。年末の煤払いには、厄や穢れを祓い清める意味が含まれるとも聞く。掃除そのものが、ある種の神聖さを孕んだ行為なのだとすれば、死穢を纏った幽霊がその道具に触れもしないのは、まぁ当然かもしれない。

 しかし、それはそれとして、

「父さんか母さんに頼めばいいだろ」

「あの人達には挨拶くらいしか出来ないよ」

「なんで。僕とは普通に話をしてるじゃないか」

 拭いたのか乾いたのか知らないが、今はもう濡れていない頭を左右に振って、兄は面倒臭そうに眉根を寄せた。

「希釈されてる」

「は?」

「関心が希釈されてる……みたいに感じる。小さな羽虫が部屋にいるのを想像しなよ。視界に入ったと思ったら、次の瞬間には見失ってる。意識してる間は気になるけれど、目で追ってても、ふとした弾みでどこにいるか分からなくなって――――で、また見つけるまでは存在すら忘れてるんだ。父さんと母さんにとって、今の俺はその程度の存在なんだよ。その場限りの話しか出来ない。頼み事や約束なんて、してもすぐに忘れられる。生前の俺に対する関心が薄いほど、今ここにいる『俺』を正しく認識出来ないのかも」

「………」

 兄が死んでから、もう六年経っている。兄の享年と僕の年齢は並んでしまい、かつては見上げていた瞳が――いつでも周囲を淡々と観察していた、あの瞳が――今は目前にあって気圧された。

 今更のように思い出す。


 僕は兄と目を合わせるのが、苦手だった。






 全く掃除していないわけではないが、普段誰も使わない兄の私室は他の部屋と比べると、確かに少し埃っぽかった。


「意外に物が残ってて良かった」


 ぽつりと呟く兄は、そこだけ比較的丁寧に清掃された机の前に佇んで、暇潰しのつもりなのか机上に置かれた小さな仏壇を、何の感慨もなさそうな顔付きで画帳にスケッチしている。

「………若い奴がいきなり死ぬと、手、付けにくいんだと。物捨てるのも大変だし、特に片付ける必要もないから、ほとんどそのまま」

「ふぅん」

 さして広くない部屋の一部を画材や油絵の習作が圧迫しており、掃除が地味に面倒だ。ただ、絵画コンクールで貰った無数の賞状やトロフィーは、いくつかの形を気に入ったらしい小振りなものしか飾られておらず、その点だけはありがたかった。棚にずらりと並んでいれば、きっと扱いに困っただろう。

 埃を落として、掃除機をかける。この作業が終わったら、雑巾や布巾でこびり付いた汚れを拭った方がいいかもしれない………

 人がそんなことを考えながら、掃除機片手に立ち働いている傍らで兄は黙々と絵を描き続け、その様子が何となく気に食わなくて、僕は愚痴混じりの問いを兄に投げ掛けた。

「今まで何してたんだ」

「今までって?」

「家に帰ってから、今まで」

「下絵を描いてた」

「下絵?」

「そう、下絵」

「何の」

「何のって、知ってるだろ。―――ああ。あと、たまに掃除しようとしてた。これでも、お前に多少は遠慮したんだよ。露骨に避けられてたからさ。でも、やっぱり駄目だったんで、仕方ない、頼もうと思ったら数日家にいやしない。困る」

「自分の部屋以外で描けばいいだろ」

「俺は別にそれで構わないけど……画材の匂いが付くし、あちこち汚れるからやめろって昔、文句言われたからさ」

 コードレス掃除機を動かして、邪魔だからどけ、と身振りで伝える。兄は頼んだくせに少しだけ鬱陶しそうな顔をして、無言で部屋の外へ移動した。





 兄と僕――いや、兄と家族の、と言うべきだろうか――の間には、昔から微妙な蟠りがあった。別段険悪というほどでもないのだけれど、良性の、しかし確かに存在するしこりのようなその蟠りは、やや複雑な家庭環境と兄の気質にたぶん由来している。


 両親の結婚は双方二度目で、僕は母の、兄は父の連れ子なのだ。


 僕と兄に血の繋がりは一切無く、従って兄のことは本当なら『義兄』と称するべきなのだろうけど、物心つく前に両親が再婚したために、ある程度長じてから、そうしたややこしい事情を知らされた。その手前、僕はどうしても、義兄を『兄』としか思えない。

 しかし一方で、両親に事情を説明された時、何となく腑に落ちるものがあった。僕と兄、兄と両親の間に漠然と横たわるわだかまりの正体を見つけたような気がしたのだ。


 兄は幼い僕に対して、取り立てて冷たいわけでも意地悪なわけでもなかったけれど、いつも態度がどこか事務的だった。求められる最低限をこなしている―――子供心にそんな印象を、僕はぼんやり受けていた。


 喧嘩をしない代わり、一緒になって心からはしゃぐこともない。


(……人ん家の兄ちゃんみたい)


 それを他家の兄弟と比べてしまって、寂しいような、もどかしいような気がしていたけれど、事情を知れば理由については納得出来る。

 再婚時、兄は小学校低学年か中学年くらいの年齢だった。そこにいきなり『新しい家族』が現れて、年少者への配慮を要求されたのだから、素直に受け入れられる子供ばかりではないだろう。兄の場合、表立った反抗はせず、子供なりに家族関係を仕事と割り切ることでやり過ごした。



 詰まるところ、僕が義兄を『兄』と認識していたのと反対に、兄はあくまで僕を事務的に世話する相手―――『義弟』と認識していたのである。



 加えて兄の、あの気質。



 兄は、好んで絵を描く子供だった。

 暇な時間はほとんどずっと絵を描いているか、絵の参考になりそうな本や映像を見ているという徹底ぶりで、取り憑かれたように描くという表現が小学生の時分からとても似合っていた。


 絵を描くためには対象を、よく観察する必要がある。


 だから兄は、よく見ていた。遠景を近景を町並みを家の中を山を川を海を空を植物を動物を人間を、よく見ていた。それもただ、表面を見るのではない。それがどういう色や形をしていて、どう動くのか、どういう性質を持ち、見る者にどういう印象を与えるか―――あらゆる細部を観察し、本質すら見通そうとしていた。


 その観察眼は周囲の者が自分に何を求めているか察するのにも役立って、存外何にでも器用な兄は――しかも、突き詰めると絵にしか興味のない兄は――面倒事を避けるため、必要最低限それに応えたのである。

 結果として、兄は家族にとって非常に聞き分けのいい、しかし内心が不透明な存在となり、義弟とも義母とも、ともすれば実父とも決定的な衝突を起こさない代わり、本当の意味では打ち解けなかった。

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