六月二日 明日で何もかも終わる。

はすかい 眞

六月二日 明日で何もかも終わる。

 見返した日記には、一ページだけ意味のわからない箇所がある。

 同じ日の出来事を同じページに連ねて書くようになっているタイプのもので、二〇二四年から二〇二八年の五年間、もう六十年程も前の日記だった。

 人類が滅亡するというときに日記を見返すなんて、我ながら呑気なものだと思う。世間では様々な宗教団体がそれぞれの祈りを捧げ、歌を歌い、泣き、笑い、叫び、最後の晩餐を楽しみ……人類の最後を慈しんでいる。

 私はというと、屋根裏部屋で独り、昔の日記を見返している。

 一緒に嘆き悲しむべき家族や友人とはとっくに別れを告げており、悲嘆よりも向こう側の世界でようやく会えるのかもしれないという淡い期待の方が大きく、私は走馬灯をみるために屋根裏に登ったのだった。

 八十を超えた老体に跳ね上げ式の梯子は堪えたが、ここで落ちても死ぬのが数時間早まるだけだと思えば気持ちは軽い。まるで六十代の頃のように易々と登れた。

 人類の終焉が予想され始めてから既に三ヶ月は経っており、社会インフラはとうに機能していない。逆算して少しずつ食べていた備蓄食糧も、もう未来の自分に遠慮することはない。ありったけをリュックに詰め込んで背負って登った。

 ここで最期を迎えるつもりだ。

 どのみち、この身体では梯子を降りることは適わないだろう。

 低い天井にぶら下がったLED電球が屋根裏部屋に似つかわしくない明るい色を放っていた。オレンジの光の下で、段ボールに詰め込まれて追いやられていた私の人生が再び明るみに出る。事あるごとに詰め込んでは忘れて去ってきた私の人生。

 日記だけではなく、学生時代に作った意図不明の図画工作、何で受賞したかも忘れたトロフィー、ほつれかけたぬいぐるみ、すっかり日に焼けてしまった本。どれもこれも分厚く埃が被っていて、自分すらもその存在を忘れかけてしまっていたものたちだが、予想どおり、眺めていたらそれぞれの思い出が少しずつ脳裏をよぎった。

 昔を思い出して、過去の栄光に縋って死ぬ。それが終末に私の選んだ死に方だった。

 私にお似合いの死に方だと思ったが、走馬灯は誰しもが見るような話も聞くので、誰しも死ぬときは過去の栄光に縋っているのかもしれない。

 考えてみれば、死ぬということはそれ以降の栄光は発生し得ないので、過去の栄光に縋るしかない。

 走馬灯を強制的にみようとするなら、やはり過去のことを思い出すのが一番だろうと日記を開いたものの、最初の一冊の半分ほどのところで奇妙なページを見つけて手が止まった。


 二〇二四年六月二日(日) 明日で何もかも終わる。

 二〇二五年六月二日(月) 明日で何もかも終わる。

 二〇二六年六月二日(火) 明日で何もかも終わる。

 二〇二七年六月二日(水) 明日で何もかも終わる。

 二〇二八年六月二日(金) 明日で何もかも終わる。


 意味が分からず、その一ページに至るまでなにがあったのかを思い出そうと緩やかに記憶を辿る。

 日記を付け始めたのは二〇二四年からだが、ふと思い立って日記を買ったのは二〇十三年だったはずなので、そのきっかけは記録に残っていない。もちろん記憶にも残っていない。

 ともかく私は二〇二四年に日記を付け始めて、覚えていないので推測だが、どうせ長い文章は書けないだろうと思って一日当たりの書く量が少ないものを選んだはずだ。一日当たりの分量は少ない代わりに一ページに五年分の日記が書ける。それが三六五ページ。そんな日記だ。

 当時の私は二十二歳。コスパとタイパを最重要視しており、いかに社会に馴染むかに頭を悩ますいじらしい新社会人だった、と振り返って思う。

 当時の私は新社会人と呼ばれていたが、退職して既に十五年以上立つ今の私は元社会人と呼ばれるのだろうか。今はもうその歯車の連鎖など機能していないのだから人類皆元社会人ということになるか。

 こんな形で人類が滅亡するなら、社会の役に立つことなんて考えずにもっと自分本位に生きたらよかったという後悔が顔を出すが、この後悔とはもう三十年来の付き合いで特に気にすることはない。あとから何を思おうと、その時々の私はその時最善だと信じた道を選んできたはずだ。

 日記をつけ始めた二〇二四年の一月から三月もそうだった。

 社会に出るまでの最後のモラトリアムを精一杯楽しんでいる様子とこれからの期待が記されているが、期待の反面書かれてこそいないが不安もあったはずだ。それでもその道を信じて四月の入社式に臨んだ。

 一つ下の段の二〇二五年では、打って変わって、仕事で疲れているのか書き込みがまばらだ。ひどいときなどは二週間も何も書かれていない期間がある。

 更にその下の二〇二六年は、会社に慣れてきたのか初めてのウィンタースポーツを楽しんでいた。

 当たり前だが、六月二日ただその日を覗いて、日記には毎年違う内容が書かれている。日記というものはその日にあったことを書くのが基本でありあるべき姿だ。

 いくら考えてもこんなことを毎年毎年書いた理由はなにも思い出せない。せっかく最後にいい気分で終わろうと思っていたところを邪魔されて、過去の自分に腹が立った。いや、日記を見ようなんて感傷に浸ったのが悪かったのかもしれない。

 一旦忘れようと日記を段ボールに戻し、当たりを見回す。ガラクタがうず高く詰め込まれたここには探せばなんでもあるような気がした。

 この家を買ったのは三十二歳のときで、さっきの日記やトロフィーなど捨てられない人生の遺物は引っ越し当日からこの屋根裏部屋に仕舞われていた。それから今日までの五十一年間、他のものを仕舞う度に奥へ奥へと押しやるばかりで、見返すことはなかった。

 満員電車に詰め込まれることに辟易して、都心から新幹線で一時間かかるここに家を買った。引っ越しと同時に東京の会社を辞めてこちらの地元企業に転職した。ここでの生活は妻も私も気に入っていて、何不自由なかった。

 刺激に満ち溢れたと言えば嘘になるが、十分に幸せだった。新幹線に乗ればあっという間に大都会東京に出られたし、普段の生活に刺激は対して求めていなかった。ほとんど社会のメインストリームからは離れた穏やかな時間が長く続き、情勢が変わりつつあることに気づいたときにはもう遅かったのかもしれない。

 年々暑くなっていたり、豪雨が相次いでいたり、それらが人間活動による気候変動のせいだったりすることは、学校でも習ったことで知識としては知っていた。今年はキャベツが不作、今年はトマトが、なんてことも毎年のように農家を営むお隣のおばあちゃんから聞いていた。けれど、私自身には実際なにも被害がなく、暑ければクーラーをつけるし、不作の農作物があればその年それを食べる量を減らすし、大問題だと考えたことがなかった。

 そうやって少しずつ適応しながら日々を暮らしていたら、いつのまにか三十年が経って、地球は取り返しのつかないところまでボロボロになっていた。

 あの年は還暦を迎える歳だったこともあり、よく記憶に残っている。

 働き始めた頃には、ニュースサイトを見ても記事の横にバナー広告がある程度で、少し邪魔だなとは思ったが、支障はなかった。それがどんどん肥大化していき、引っ越した頃にはニュースを見るために倍量の広告を見る羽目になる状態だった。その量は年々増えていっていたし、都会に疲れて田舎に行く人間が世間のニュースを気にしているはずもなく、私は世間の動きから取り残されていった。

 なので、あのときもきっかけは隣のおばあちゃんだった。彼女は今の私くらいの年齢で、この県から出たことがないと言っていたが、いろいろな情報を集めることが好きで、その意欲は世界情勢まで及んでいた。

「北極がついになくなったらしいでな」

 野菜のおすそ分けを持ってきてくれた彼女に冷たいお茶を振る舞っていたら、いつもの世間話のテンションで、そう言った。

「北極が?」

 少し申し訳ないが、このとき私はおばあちゃんが少しボケたかと思っていた。

「そうよ、北極。ちょっとずつ溶けていったのは知ってるでな。あれが、もうなくなったらしい」

 溶けていたのは氷河ではなかったか。北極がなくなることなんてあるのか。

 おばあちゃんが帰ったあとに調べたらどうやら与太話ではないようで、各社その報道で持ち切りだった。私が知らなかっただけで既に地図上から文字通り消えた島嶼国がいくつもあり、日本の領土も減っていた。沖ノ鳥島が沈んでいたのは既に何年も前のニュースだった。

 アフリカや中央アジアの砂漠は巨大化し、アラスカの永久凍土からは未知の病原菌が発見されていた。幸いCOVID-19とは違い、世界的な猛威を奮うことはなかったようだ。十数年分のキャッチアップを十分で行い、それでも私はまあなんとかなるか、と思っていた。

 食糧はあったし、電気が供給されさえすれば生きていける、そういう楽観的思考だったが、半月もしないうちに、この想定は第三次世界大戦の勃発により崩された。

 北極の喪失はすなわちアメリカとロシアの間の冷たい大地の喪失であり、中国を巻き込んだ戦争となった。

 戦争は一年と少しで終結したが、前線に一番近い第三者国となった日本は否が応でも防衛戦を強いられ、それは、私には畑で育てる野菜が国によって指定され、それを買い上げられることと疎開してきた人々による村の人口増加という形で影響した。

 私は不謹慎にも、過疎化が解消されてよかったじゃないかと少し思った。

 海面上昇は、日本の海岸線もじわじわと侵食していて、東京湾の海岸線は国会議事堂近くに迫っており、有事のどさくさにまぎれて首都は京都に移っていたが、戦争が終わっても人々は京都ではなく関東圏に戻っていった。帰る家がそこにあれば、それはそうするのが道理だろう。

 京都への首都移転は、京都に住んでいる人を含めて誰も賛成している人がいなかったように思う。

 空港が遠くて不便だし、何より永田町や霞が関のそっくりそのまま移す都市としてのキャパシティがない。ただ一点、内陸で水没の危機がないという点だけが大きな決定打だったのだろうと誰もが思った。移転後にそういう問題をどうやって解決したのかは私の知るところではなかったが、首都がどこかなんて大して私には関係がなかったので気にも止めなかった。

 ほんの束の間、世界情勢は落ち着きを取り戻したように思えたが、北海の真ん中に人為的に引かれた境界線に腹を立てた時のアメリカ大統領が突拍子もない計画を立て始めた。それがこうして人類を滅ぼすことになるとは、あの時は誰も思っていなかったはずだ。

 田舎で緩急のない生活を長年送っていたせいで、社会の動きはここ二十年ほどの激動しか覚えていない。

 それでも色々あったなあとしみじみ思う。こうした激動を一人で経験したというのも大きいのかもしれない。妻が生きていた頃は、もっと顕著に世界から隔絶されたところにいたように思う。この家と隣の畑を中心としたこの集落だけが世界だった。車で三十分かかる駅が最寄りの外界との接点。それだけで十分だったのだ。

 この家にいると、家中どこででも妻と飼い犬の面影が見え、二人がまだ一緒に暮らしている気がして、寂しさはそれほどなかった。廊下の突き当たり、玄関のポーチ、部屋の角、ベランダ、キッチンの戸棚の下……。

 どこにでもいて、私を包んでいる。

 ただ屋根裏部屋には二人との思い出がほとんどなくここに二人はいないが、この終焉に二人を巻き込むのは忍びないので、これでいい。全てが終わったらまた会えるだろう。

 妻が亡くなってから、偶然ではあるが世界が騒がしくなり始め、その騒がしさのクライマックスと言えるのが、今の人類滅亡の危機だろう。きっかけはときのアメリカ大統領の乱心、といっても国際世論が最終的にはそれを支持したらしいので、彼女の責任ではないはずだ。

 建前としては、北極の氷が全て溶けてもなおとどまるところを知らなかった地球温暖化をなんとか打開しようとしていたのだから、うまくいけばヒーローになる算段だったのだと思う。

 アメリカが、海面上昇と干ばつにより住人がいなくなった自国の領土・アラスカに人工隕石を落とす計画を発表したのが十年前。恐竜すらも絶滅に追いやった寒冷化を人工的に作ろうとしていた。温暖な気候と寒冷な気候を比較すれば、いくら暑かろうが温暖な方がまだましのように思われたが、熱波で毎年何万人と人類が死んでいく中で、人々は冷静さを失っていた。

 計画は具体性を帯びる前から全世界的議論を巻き起こし、全地球に影響を及ぼすということで、アメリカの最後の良心だったのか、国連で議決が取られることになった。海面上昇の影響を一番大きく受けていた島嶼国が賛成し、それに続く国が出た結果、いとも簡単に賛成多数で決議され、実行に移されることになった。

 全世界が、一発逆転を狙っていた。

 第三次世界大戦を経て、常任理事国という制度がなくなり完全に持ち回りになっていた国連安全保障理事会でも拒否権を発動した国はなく、あっけなく計画は実行に移されることになった。重要な決定というのはいつもあっけないものだ。

 六千六百万年前に落ちてきた隕石と同程度の石が月の採掘場から切り出され、狙いを定めてアラスカに落とされた。コンピュータに制御されて落とされた隕石は狙いの位置から数メートルとずれることなく落下に成功したと言われている。

 少なくともその落下自体は成功だった。

 その後、アメリカのシナリオでは落ちた隕石が大量の粉塵を発生させ、それが大気に充満することで温暖化が一転して寒冷化が進み、人類の危機が去るはずだった。

 実際には、隕石が落ちて以降、アラスカも含まれる環太平洋地震火山活動活発地帯いわゆるリング・オブ・ファイアで地震が相次ぎ、火山が立て続けに噴火した。そのせいで隕石の落下に伴う噴煙が収束しないうちに太平洋を囲む一帯のあちこちで噴煙が上がり、発生した粉塵の量は想定の五倍以上となり、寒冷化は想定の五倍どころではないスピードで進んだ。この時点で既に世界の終わりのような様相だったが、事態は悪化の一途を辿った。

 アメリカが人工隕石を落としたのは五月の頃だったが、夏以降食料の収穫量が激減し、家畜は既に熱波であらかた死んでいたし、培養肉や植物工場の動力となっていた太陽光発電も発電量が激減し、各国は食料難に陥った。

 人はパンのみにして生きるにあらずという言葉があるが、パンがなければ生きてはいけないので、どこもかしこも暴動に継ぐ暴動だった。日本でも、戦争の頃のように食糧生産の調整が図られようとしたが、この日射量では何も育たない。調整する作物はなく、政府が管理する米倉庫が襲われた後はなにも残らなかった。

 政府は畑で食糧を生産することを諦め、合成食を作り国民に配給していた。曇天続きと火山灰のために畑では何も育たなくなっていたので、私を含め畑を持っていた人たちもそれに頼らざるを得なかった。

 日本では人口が限られていたので政府による合成食の配給が功を奏していたが、他国ではそうはいかなかったようだった。

 マスコミはその機能を失っていたが、SNSはサーバーが再エネのものだけかろうじて稼働しており、二十年そういうものから距離を取っていた私もさすがにこの状況下ではそうしたところから情報収集をするようになっていた。

 合成食の配給がいつまでもつかわからない状態が続いたが、不安はすぐに、それを上回る絶望により塗り替えられた。

 大気中に粉塵が充満した結果太陽光が全く差し込まなくなり、植物は光合成をやめて枯れた。寒冷化と並行して、寒冷化よりも急激なスピードで進んだのが大気中の酸素濃度の低下だった。

 人類は産業革命以後、あり得ないスピードで大気中の二酸化炭素濃度を上げ続けたが、今進んでいるそれはその何倍も速い。二酸化炭素だけでなく、二酸化硫黄、硫化窒素などの濃度が上がっており、それは同時多発的に噴火した数多くの火山から排出されている火山ガスと推測された。

 酸素濃度が下がり続ける地球での暮らしは、比喩でなく、真綿で首を絞められているようなものだった。

 そのうちに息ができなくなることが目に見えているという恐怖に耐えかねて、人類の滅亡よりも先にあの世に旅立つことを選択する人も多かった。

 それでも、その選択をすることそれ自体が恐怖であり、私は何も選べないままに漫然と今日この日を迎えた。

 SNSの顔も知らない誰かが続けているモニタリングデータによれば、明日にでも人類が生存できる酸素濃度を下回ることが予想された。

 明日……?

 これまであの発表からただ漫然と、カウントダウンのように残りの命の日数を数えていたが、今日は何月何日だ?

 唯一屋根裏部屋に持ち上がっていた電子フォトフレームは、普段写真しか表示されないように設定していたが、日時表示がされるように後ろのスイッチを切り替える。

 表示された日付は二〇八七年六月二日。

 なんとなく予想していたとおり、今日はあの不可解な日記の記述が続いた日だった。

 なぜ、六十年も前に今日のことを予言したようなことが書かれていた? 

 なぜ、私は今の今までそのことを忘れてしまっていた?

 何か壮大なドッキリを仕掛けられているような、そんな気すらし始めたとき、ふっと天井にぶら下がっていたLEDが消えた。

 屋根裏部屋には窓がなく、急に消えたせいで目は暗闇になれず、自分の手すら見えない。

 リモコン式のスイッチに手が当たってしまったかと思い、手探りでスイッチを探し当ててボタンを何度か押すが、点かない。

 停電かと思ったが、先ほどまでついていた電子フォトフレームすらも光を失っている。あれは電池式で動いているので停電時にも消えることはないはずだった。

 電池から連想ゲーム的に懐中電灯を持ってきていることを思い出し、リュックから出そうとこれも手探りでごそごそとやる。形状が特殊なのですぐに見つけることができたが、電子フォトフレームと同様これもつかなかった。

 世界の終わりに閉じ籠ろうとしているのだから停電くらいは想定していたが、電池式の機器すらも使えなくなることは全く予想の範囲外で、思わず独り言が漏れた。

 手当たり次第明るくなりそうなものを調べていたら、突如ぶわっと眩い光に包まれて絶句する。

 暗転した状態で照明弾を投げられたような。

 反射的に目を閉じたのと一緒に無意識に息が止まっていたのか、何もしていないのに息を吸って吐くことに必死になる。

 息が上がったことに釣られてパニックになりそうになる。気持ちを抑えるためにゆっくりと肩で息をしながら、薄く目を開いた。

 様子がおかしい。

 ここはどこだ……?

 先ほどまで目の前に積み上がっていた段ボールやガラクタの類がない。それどころか正面に窓がある。

 目が慣れてきて、じんわりと視界に入るものが輪郭を帯び始める。見覚えがある。

 白い壁、大きく開かれた窓、その手前にシングルサイズのベッド、小さなローテーブル。新卒の頃上京してきて初めて住んだアパートの部屋にそっくりだ。

 視界がはっきりしてきたので見回すと、やはりワンルームの部屋のようで、開け放されたドアの先に暗い玄関が見えた。

 何が起こったのかなにもわからないまま、状況を把握するために外に出ようと玄関の方へ足を踏み出す。

 足が軽い。腰も痛くない。

 普通に歩ける。

 思わず自分の足元を見たときに視界に入った自分の手がつるりとしていた。何十年もかけて見慣れてきた皺くちゃな手とは比べ物にならない。

「え……?」

 漏れた声にまたびっくりする。しわがれていなくて若々しい。

 いやいやいやいや、え?!

 玄関から外に出ようとしていたが、一旦やめてなぜか場所がわかる洗面所に駆け込んだ。ユニットバスに据え付けられた鏡で、自分の顔を見るとそこには紛れもなく六十歳若返った私がいた。

 落ち着こう。深呼吸。

 吸って、吐いて、吸って。

 視線を一度落とし、もう一度鏡を見る。変わらずそこにいるのは二十代の私。

 そうすると……そうするとどういうことだ。

 今私は二十代で、新卒の頃に住んでいたマンションにいる。

 今、何年なんだ? 私はタイムスリップしてしまったのか?

 先ほどの光に伴って転移したのは私だけのようで、手に持っていた電子フォトフレームはない。手元には確かめられるものがなにもなく、寝室兼リビングダイニングに戻りテレビを点ける。そういえば時間もわからない。さっきまでは夜だったが、窓の外は明るいので昼間なのだろう。

 最近はもう見かけなくなったタイプのリモコンで赤いボタンを押したとたん、大きな歓声が上がった。画面では野球中継が流れている。これももう最近やっていなかった気がする。

 時間がわからないので、数あるボタンの中から「番組表」ボタンを探し出す。野球中継が少し小さくなって、番組表が表示され、上部に今日の日付が見えた。

 六月二日。時刻は十四時五十七分。

 あいにく年の表示がないが、なんとなく二〇二四年な気がした。

 テレビをつけたまま、年がわかるものがないかと見まわし、そういえばこの頃は玄関にカレンダーを貼っていたことを思い出した。自分の家なのかも定かではないが、見覚えがありすぎるために思わず我が家のように好き勝手に歩き回っている。

 玄関の下駄箱の上部には、思ったとおり日めくりのカレンダーがかけてあった。

 大きく書かれた日付は先ほどテレビで確認したのと同じ六月二日で、その上には二〇二四年と書かれていた。

 下を見やると普段履きのスニーカーとサンダルが出ており、この家の家主が一張羅の他の靴で出て行っていない限りは在宅のように見える。そうすると、今現在、この世界に私が二人いるようなことは発生しておらず、私はなんらかの作用で二〇二四年に戻されたと推測できる。私が若返っていることもその仮説を裏付ける。

 理由はさておき、せっかくこの世との別れを惜しんでいたのに、また六十年生きなければいけないということに気づき憂鬱な気持ちになる。しかも世界があんな終わり方をすることを知っているのに。

 かと言ってこのまま今ここで首を吊る勇気も気概もなく、生きているから生きなければいけないのだと思い知らされる。

 そうだ、日記。

 六十年後に私が見ることになる日記の今日の日付には「明日で何もかも終わる」とそう書いてあった。

 まだ昼間なので今日の分はしたためていないだろう。

 どこに置いていたっけ、と探す間もなくローテーブルの下に無造作に置いてある日記を見つけた。リボンのしおりが挟まっているところを開くと、見開きの右側に六月二日のページがあった。思ったとおり、まだ書き込まれていない。

 同じことを書くべきか別のことを書くべきか迷うが、この世界では私の人生の羅針盤がどちらを向いているのかまだわからず、少なくとも明日確実に世界が終わるようなことはないはずだ。そんなときに吞気に野球中継なんてしていないだろう。

 そうだとすると、同じことを書くのは憚られる。

 まだ日も高いので六十年前の東京を散歩して、何か書くことを見つけてこようか。

 床に置いてあった懐かしい財布を手に取り、どこも痛まない最高の足取りで玄関を踏み出した。

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