六
雨はまだ降り続いている。だから、雨音もまだしているはずなのに、音が遠くなっていくように感じた。
織笠さんはなおも続ける。
「お母様の行動もそれを裏付けていると思います。紫陽花を嫌がる娘に、なぜ毎年紫陽花を見せたがるのか。
青い紫陽花は、いわばお兄様から藍川さんへの愛です。いえ、お兄様だけではありません。ご両親からの愛でもあると思います」
「え?」
その言葉で、イメージの塗り替えで目まぐるしく回る頭が一度止まる。両親?
「紫陽花は非常に色が変わりやすい植物だと言われています。おそらくですが、ジュースを掛ける方法で、綺麗な青色の紫陽花を維持するのは難しいんじゃないでしょうか。それどころか、ジュースを掛け続けると、根が弱ってしまう可能性が強い。
仮に、ジュースで土壌を酸性に変えられるのだとしても、泣いてしまうほど叱られたお兄様がジュースを掛け続けるとは思えません。それなのに、藍川さんのお家の紫陽花は毎年綺麗な青色を維持していたんですよね?」
「……はい」
「誰かの手伝いがなければ難しいはずです。きっと、お兄様の事情を知ったご両親が手伝って、正しい方法で土壌を酸性に変えたのだと思います」
「……」
「だから、どうしても見てほしかったのでしょう。そして、紫陽花を綺麗だと思ってほしかったのだと思います」
そう言って、織笠さんはくすり、と笑みをこぼした。
「藍川さんのご家族、なんだか紫陽花みたいですね」
「どういう意味ですか?」
「紫陽花は、漢字で書くと紫の陽の花と書きますが、あれ、実は間違いだそうです。唐の詩人の白居易が別の花に付けた名で、平安時代の学者の源順がこの漢字をあてたことから誤って広まったと言われているんです」
織笠さんは「ちなみに別の花とは、ライラックのことではないかと言われています」と補足を入れてから、軽く咳払いして、
「紫陽花の本当の表記は、集まる真の藍と書いて、『
駅を出ると、雨は止んでいた。
空の色はそこまで明るくないものの、端の方がほんのりオレンジに色づいている。まだ雨が降っていたらどうしようかと思っていたけれど、もう大丈夫だろう。
雨上がりのひんやりとした、湿った空気の中を歩いて、家路を辿る。
家に帰りつくと、車庫には一台も車がなかった。母親は出かけているらしい。その代わり、紺色の自転車が一台置いてある。弟のものだ。そう言えば、顧問が出張で、部活が休みになるとかなんとか言っていた気がする。
私は玄関に向かわず、そのまま家の裏手に回った。久しぶりに足を踏み入れる裏庭は随分小さく見えた。それもそうだ。私も随分大きくなった。
ツゲの木の間に、淑やかに咲く紫陽花を見つける。
私はバッグからスマホを取り出し、カメラを起動した。藍色の紫陽花を写真に収める。今度はLINEを開き、兄とのトーク画面をタップする。写真を送信し、少し考えてから、〈綺麗に咲きました〉と打ち込んだ。送信ボタンを押す。
静かな時間が流れていた。
それを打ち破ったのは、声変わり直後のまだ不安定な声だった。
「姉ちゃん何してんの?」
弟だ。少し前に衣替えしたばかりの夏服の白が目に眩しい。それにも関わらず、足元はサンダルなので、少し滑稽だ。
「ちょっとね」
バッグにスマホを仕舞い、私は弟に声を掛ける。
「
「何? 俺、今から課題やるんだけど」
弟は最近反抗期で、少しだけ態度がとげとげしい。
それを気にせず、私は言った。
「私、これからコンビニに行こうと思うんだけど、一緒に来る? アイス買ったげるよ」
「え、いいの?」
途端に声が高くなる。こういうところは、まだ子供だ。
「うん」
「ハーゲンダッツでも?」
「あはは、いいよ」
「まじか、よっしゃ! 靴履き替えて来る!」
サンダルのぺたんぱたん、という間抜けな音が勢いよく遠ざかっていく。
私はもう一度だけ、紫陽花に目を遣った。綺麗に咲いている。
探偵は傘の下 久米坂律 @iscream
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。探偵は傘の下の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
箱(仮)/久米坂律
★15 エッセイ・ノンフィクション 連載中 74話
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます