雷は鳴りを潜めたものの、まだ雨は強い。強い風に煽られて頬に散った雫を、手の甲で拭う。


 歩きながら、織笠さんはこちらを見た。

「一つ、確認したいことがあります。

 ――藍川さん」

「はい」

「紫陽花が嫌いなもう一つの理由なんですけど、もしかして紫陽花について嫌な迷信を聞いたことがあるからではないですか? 例えば……赤い紫陽花は根元に死体が埋まっていて、その血を吸い上げているから赤いんだ、みたいな」

 唐突な発言に驚いて、つい織笠さんの顔を見る。涼しい顔をしている。

 私は静かにうなずいた。

「……。はい、その通りです。でも、どうしてそれを」


 織笠さんは手で顎を包みながら言う。

「んー、そうですね。一番ヒントになったのは、藍川さんの『恥ずかしい』という言葉ですね。『紫陽花の嫌いな理由のもう一つは恥ずかしいから話さない』と言っていましたよね」

「そう、ですね」

「藍川さん、ホラーや血が苦手なことを随分と恥ずかしがっていましたよね。だから、紫陽花が嫌いな理由もホラーとか血とか、そういったものが関わっているのでは、と思って。そこで思い出したんです。死体の血を吸った紫陽花が赤くなるって迷信を聞いたことがあったなあ、と。藍川さん、『桜の樹の下には』の話にも過剰に反応してましたし」


 一旦言葉を切って、あはは、と自信なさげに後頭部を掻く。

「と言っても、ほぼ当てずっぽうでしたけどね。藍川さんとは今日会ったばかりですから、藍川さんが他に何を恥ずかしいと思うか分からなかったし。それに、紫陽花の迷信も一部で言われてるだけであって、藍川さんが知ってるとは限りませんし」


 織笠さんは人差し指をぴっと立てると、

「紫陽花の色と土壌のphの関係は、昔からミステリーのネタに使われることが多いらしいです。紫陽花の色が変わってるから、土に何か埋まってるんだ! って具合に。アメリカのミステリー作家のヘンリー・スレッサーが書いた『花を愛でる警官』だったり、かなり多いそうです。日本だと、漫画の『×××HOLiC』でもこういった話が出て来ると聞いたことがあります」

「そうなんですね」

「紫陽花の色が変わる性質とか、『桜の樹の下には』の死体の話とか、血の色とか、そういったものを題材にしたフィクションとか、いろいろなものが混ざって生まれた迷信なんでしょうね、おそらく」


 私は小さく溜息を吐いてから言った。

「さっき、ホラー好きの親戚がいると話しましたよね。その人から聞かされたんです。」

「なんとなくそうかな、と思ってました」

「それでこの話、何と関係があるんですか?」

 織笠さんの顔を覗き込んで問う。あまり繋がりが見えない。織笠さんは少し「んー」と唸ってから、「うん」とうなずいた。


「結論からお話ししましょう。

 藍川さんのお兄様は、藍川さんのためにジュースを捨てていたんですよ」

「わ、私のためです、か?」

 思いがけない言葉に声が裏返りかける。私のため? なぜ。


 織笠さんは「順番にお話ししましょう」と前置きしてから話し出す。

「先ほど、お兄様の海外旅行の写真を見せていただきましたよね。そこにはザワークラウト、エスカベッシュ、ホレシュテ・キャラフス、ヤムプラームックらしきものが映っていました」

「え、な」


 唐突に、織笠さんの口から呪文のような言葉が飛び出し、目が白黒する。今なんて?

 戸惑う私をよそに、織笠さんは続けた。


「ザワークラウトはキャベツを使ったドイツ料理です。一緒に映っていた方の目と髪の色がドイツ人に多い色だったので、おそらく。ビールも映ってましたし。

 エスカベッシュは地中海沿岸部の魚料理。こちらも目の色と髪の色からイタリアで撮られたものだと判断しました。ホレシュテ・キャラフスはペルシア料理で、セロリを使ったシチューです。ヤムプラームックはタイのイカサラダです。一緒に映ってた方の顔立ちも東南アジア系でしたし、間違いないかと」

 あの一瞬で、そこまで判断していたのか。末恐ろしいものを感じている私に、織笠さんはなおも続けた。


「そして、これらの料理は全てすっぱい味付けなんですよ」

「……え」

「あと、お酒を飲んでいる写真もありましたね。青色のカクテル。青いカクテルにはいろいろ種類がありますが、ブルーキュラソーが使われているものが多いです」

「ブルーキュラソーって言うと」


 それより先の言葉が出てこない私を見ると、織笠さんは「藍川さんはお酒飲まない、って言ってましたもんね」と軽く微笑み、

「ブルーキュラソーはオレンジのお酒です。つまり、お兄様の飲んでいたカクテルが、ブルーキュラソーの使われているものだとしたら、柑橘風味のカクテルということになります」


 さすがにここまで来ると、織笠さんの言わんとしていることが分かった。

「もしかして、兄はすっぱいものとか柑橘系が嫌いどころか好き……ってことですか?」

「はい。俺はそう考えてます。そうなると、すっぱい味付けのジュースが嫌いだから捨てていた、というのは説明が付きません。年を重ねるとともに味覚が変わった可能性もなくはありませんが……もしお兄様が昔からすっぱいもの好きだと仮定すると、ジュースを捨てる行為には何か別の目的があったと考える方が自然です」

「別の目的……」


 思考の海に沈みかけた私を、織笠さんの声が引き上げる。

「ところで、藍川さんは土壌のphがどうなると紫陽花の色が変わるかご存じでしょうか?」

「え。ええっと、酸性の土だと赤くなって、アルカリ性の土だと青くなる、んでしたっけ」

 小学校の理科の教科書のコラムで読んだ記憶がある。でも、いかんせんだいぶ前のことなので、自信の無さが語尾に出てしまった。


 織笠さんは楽し気に笑った。

「残念、はずれです。酸性だと青、アルカリ性だと赤です」

「小学校の時に教科書で見ただけだったので、もう忘れちゃってますね」

 私の少しの強がりに気づいているのかいないのか、織笠さんは優しげな調子で言った。

「リトマス紙の色と反対なので、分かりにくいですよね。正確に言うと、アントシアニンとアルミニウムイオンが結びついて青くなるので、単に酸性、アルカリ性の話ではないらしいんですけどね」


 織笠さんは「ここからはややこしくなるので割愛しますけど」と断りを入れてから、続けた。

「これを踏まえての話なんですけど。藍川さんのお家にあった紫陽花、先ほど見せてもらった写真では青かったですけど、昔は赤かったんじゃないでしょうか?」


 言われて考える。母から送られて来る写真の紫陽花は青かった。けれど、兄が両親に怒られているのを見た時、紫陽花と泣きじゃくる兄の頬が同じ色をしていると思った記憶がある。そうだ、確かに色が変わっている。

 小学生の頃から紫陽花を避け続け、その次に見たのは母から写真が送られて来た高校生の時。紫陽花に対する忌避感にプラスして、紫陽花を見ていない期間が長すぎて、色にまで意識が向かなかった。


「……言われてみれば、赤かったです。でも、私、紫陽花が赤かったとか言いましたっけ」

「いいえ?」

「じゃあ、何で」

「ツゲの木です」

「ツゲ?」

「紫陽花の後ろに映り込んでいたツゲの木はとても青々として綺麗でしたね。とても丁寧に育てられているのが分かります」


 どうもこの人は回りくどい話し方をする。何が言いたいんだ、と横目でじとりと見つめると、織笠さんは私の視線をひらりと躱して答えた。

「ツゲの木はアルカリの土壌でないと綺麗に育たないんです。酸性の土だと緑色が綺麗に出ないそうで。だから、藍川さんのお家の土壌はもともとアルカリ性に調整されていたのではないか、と。そうなると、ツゲより後に植えられた紫陽花はアルカリ性の土壌で育っているということになるので、赤色だったんではないかな、と」

 そこで、織笠さんは一度言葉を切ると、綺麗な笑みを浮かべてこちらを覗き込んだ。

「藍川さんからすれば、とってもとっても怖い赤色の紫陽花ですね」

「……」


 この人は意地が悪い。私がホラーや血が苦手なことを恥ずかしいと思っているのに、こういう言い方をする。

 むすっとしている私に気づいているのかいないのか、織笠さんは飄々と続けた。


「ジュースを捨てる事件があったのは、藍川さんが五歳の時。 そして、お兄様は藍川さんの七つ上。ということは、お兄様は当時小学校六年生だったということになります。……小学校六年生は、理科の授業で酸性やアルカリ性について学ぶ年です。藍川さんと同じく、紫陽花の色の話をお兄さんも習ったのかもしれません」

「はい」

「お兄様は藍川さんが赤い紫陽花を見て怖がるかもしれない、と考えた。かと言って、まだ小学校に入学したばかりの妹に、酸性やアルカリ性の話をしても伝わらない。なら、自分で色を変える、つまり土壌を酸性にするしかないと考えてもおかしくはないでしょう」


 ここまで来ると、私にもなんとなく話が見えてきた。

「土壌を酸性にするには鹿沼土や無調整ピートモス、ミョウバンを使う方法が一般的ですが、小学六年生の子が果してその方法に辿り着けるでしょうか?」

「……無理、ですね」


 仮にその方法を知ることができたとしても、手に入れる段階まではいけないだろう。さっき名前が挙がったものは日常であまり耳にしないものばかりだ。正直、大学生になった今であっても、どこに行けば手に入るのかよく分からない。

 そうなると、小学生が次に取りそうな行動は何か。


「小学生の子にとってアルカリ性の物質は想像がつきにくくても、酸性の物質はいろいろと思いつきやすいですよね。レモンをはじめとした柑橘やお酢、平たく言うとすっぱいものですね」

「だから、兄はすっぱい味のジュースを土にかけて、土壌を酸性にして、紫陽花を青くしようとした、と?」

「俺はそう考えています。すっぱい味のジュースを掛けて、本当に紫陽花が青くなるかどうかは置いておいて、小学生の子がそう考えて実際に行動に移すのは、おかしな話ではないと思います」

「……」

 一気にあの時の光景のイメージが塗り替えられていく。怒られていた兄は反抗期なんかじゃなくて……。

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