那智瀧を望む

奈良ひさぎ

那智瀧を望む

 不意に、何もかもが煩わしくなり、全てに対する気力を失った。仕事はおろか、何かしら手を動かす気にすらなれず、このまま廃人になるのかと考えるほどであった。


 きっかけが何であったかと問われると、それもよく分からない。ただ、この先何十年と真っ当に生きるのが急に馬鹿らしくなった、というのが近いか。生きる意味を常に探し求めるような意識の高さは元よりないが、世に言う生きる意味のあれやこれやに意義を見出せなくなってしまった。


「……何をしようか」


「……あるいは、何をすべきか?」


 かといって、この世に未練がないかというとそうでもない。いざ死ぬとなれば文句はたらたらである。結局自分が怠惰なだけなのだと結論づけると、難しく物事を考えてそれらしい理屈をつけようとしていた自分が馬鹿らしくなる。


 この皮肉なほどの飽食と呆れんばかりの長寿の時代、もはや人生五十年で締めくくられる人間の方が珍しい。何から手をつけるべきかなんて、少し考えれば山ほど思いつくはずで、ひとまず思いついたものを片っ端からやってゆけばよいだけだというのに、どうにもその気が起きない。やりたいことがあるとすれば、強いて言えば金に糸目をつけない放浪の旅に出てみたい、というものだった。自らを見つめ直す、新たな自分に生まれ変わる。そんなもっともらしい言葉にかこつけて、世の中を生きることで感じる煩わしさから体よく解放されたいだけなのだ。


「……ここか」


 熊野三山は、そんな俗な欲にまみれた私を快く受け入れてくれたと、そう感じる。殊に那智は人々の営みからそれほど離れていない場所にあり、それでいて自然の雄大さ、恐ろしさを実感できることが私にとって好都合だった。自分の足で歩いてみたいと思い、大門坂でバスを降りて一つ深呼吸をする。歩いて登ってみようと考える観光客は多いらしく、丁寧な案内がなされていた。私もそれにならって、一歩ずつ前へ踏み出してゆく。

 生きる上で起こる全ての事象に意味を求めても仕方がないことは分かっている。しかしどんなにくだらないことでも、少しでもいいから理由や根拠が欲しいと考えてしまう厄介さが私にはあった。中途半端に高等教育を受け、中途半端に聡くなってしまった私は、変に理屈臭い人間に成り下がってしまったのだ。


「……ああ」


 参道は一本道であり、迷う箇所はない。その昔、森の中を切り拓いて作られた道がほとんどそのまま残っており、現代人の虚弱な足には酷な石段が延々と続いていた。一段一段、踏みしめながら登ってゆくと、圧倒されるほどの静けさが私を包んでいることに気づいた。「静けさ」という雰囲気をもって人間を小さく俗な存在であると認識させてくるところは、伊勢にも似ていた。俗世から隔絶されたような雰囲気を特に感じる外宮げくうの景色を、私は思い出していた。


「ふう……」


 どのくらい、足を動かしていただろうか。ふと石段が途切れ、欧州の丘にあるような草原を想起させる空間にたどり着くと、大門坂の頂上までもう間もなくである。そこで一度息を入れ直し、最後に少し構えている急坂を上り切ると、那智大社参道の入口が見えた。那智大社もまた、ここを訪れた理由の一つではあったが、しかし私にとって先に行くべきはそちらではない。観光バスも通る道の端を選び、今度は下り坂を進んでゆく。少し下り、一つ店の前を通り過ぎるたびに観光客の姿が増えてゆく。そうしてひと際観光客でごった返していると感じる場所で、大きな鳥居が荒々しく口を開けて構えていた。那智の大滝を擁する飛瀧ひろう神社である。


「まだ歩くの? え~っ」


 那智大社から青岸渡寺、三重塔を通ってここまで散々歩いてきたのだろう家族連れの子どもが、文句を言っていた。大人になってのこの運動はそれほど苦に感じないが、確かに私が彼ほどの歳であれば文句の一つや二つも垂れていただろうと思う。急に何のやる気も起こらなくなるなど、すっかり私はまだ子どもの延長線上にいるものだと自嘲していたが、こうして気ままな旅に出ようと考えるようになったあたり、少しは成長しているのかもしれない。

 先ほどよりは随分と歩きやすくなった石段を上ったり下ったりしながら、奥まで歩ききると、目の前に雄大な滝が姿を現す。いくらか参拝料を納め、さらに目の前で望めるところまで近づく。


「……」


 滝の落差というものは、写真や映像で見る分にはその凄みを上手く受け取れない。現地に来ても遠目で眺めるだけでは同様である。こうしてあわよくば水飛沫を浴びられるのではないかと思うほど近寄ってこそ、その威力を感じられる。私はここに来て初めて、それを実感した。

 重力に任せ落ちてきたはずの水が、岩に当たり砕けるに従って細かくなり、煙や霧のようになっていくらか飛散してゆく。液体のまま滝壺まで落ちる水がいったいどれほどなのか、もはや確認することが難しく、また確かめるのがおこがましいと思えた。


「はい、チーズ」


 観光地に着いたら写真を撮る。それは当然であり、疑うことでもない話だろう。だが私はそれすら忘れ、ただただ目の前の光景に見とれていた。そういえば幼い頃から、水の流れるのを目的もなく見つめるのが好きだったと、ふと思い出す。流れる様子であれば何でもよかった。少し広い公園に鎮座しているような噴水や、大雨の日に勢いよく流れる排水溝でも、それらは私を楽しませてくれた。そんなものの何が楽しいのかと問われると、言語化し答えるのは難しい。私は流れる水を見ることそのものを楽しんでいて、そこに理由や根拠は何ら求めていなかったのだ。


「……そうか。そうだな」


 そう、独りごちた。いつの間にか私は、大したことのない理屈っぽさを持ち合わせていることを理由にして、現実から目を背けていたのだ。わざわざ口に出さずとも、あるいは紙に書き出さずとも、人間は目の前に用意された山のような「やるべきこと」を整理し、無意識的に取り組む順番を自分なりに決めている。少なくとも、私はそうであるという自信があった。しかしそれはあくまで、物事の数が片手の指で数えられるほどであればの話で、それ以上に溢れてくると手に負えなくなる。何か一つ、適当に目についたものでもいいから取りかかるべきであるはずなのに、ぴたりと手が止まってしまう。整理する段階で、途方もない時間がかかってしまう。私自身の思考プロセスがそのようにできているのであって、これはちょっとやそっとのことでは直らない癖や習慣であると気づいた。いったん気づくと、肩の荷がいくらか降りて、楽になった。


「あれと……あれ、それから……」


 今考えてもどうしようもないことをいったん頭の中から排除し、4個くらいに絞り込んでからパズルを始める。そうすると、不思議とあっさり組み直すことができた。これまで悩んだ末に頭の隅に追いやって、なかったことにしていたものが、あっという間に解決してしまい呆然とさえしてしまった。


「……そうか」


 私はすう、と一つ深呼吸をしてから、飛瀧神社を後にした。

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那智瀧を望む 奈良ひさぎ @RyotoNara

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