山椒魚と海

フカ




わたるの葬儀が終わったあとに、俺は山椒魚を見た。

渉は連れてかれたんだな、あんなに小さくなったのに、あいつはこの両生類みたいなものから逃げられない。俺が死ぬまで、ぶよぶよしたあの生き物の体の中から逃げられない。

小雨が地面を濡らす。おかに上がった山椒魚は俺を見つけると歯の見える口をぱくぱくさせて、消えた。



あれは祭りの日だった。俺も渉も十四の年だ。

自分とこの船を海へ出して灯りを焚く。そうするとイカが寄ってきてぴかぴか光る。それを眺めて男衆が酒を飲む。ダツがいるからへりには出ない。ぬるい海風に撫でられながら、遠目で輝く海を見る。

十三のときふたりとも、ようやく作業員として船に乗せてもらえたのを思い出す。それぞれの親父の船の前ではしゃぐ俺と渉に何遍も、なによりも事故を起こさないようにと男衆が言っていた。陸に上がれば、みんなちゃらんぽらんみたいな男衆の眼差しが違う。俺は怯んで、少し顔を背ける。隣で、渉が神妙な顔をしてうん、うんと頷いていた。


なのに、渉が突然海へ落ちた。我に返って音に振り向くと海翔丸の前でさざ波がたっていたから、船が騒がしくなる前に俺は着ていた半袖投げて光る海へ飛び込んだ。

寄っていたイカがさあっと逃げて、海は真っ暗闇になる。でも俺は夜目がきく、様子のおかしい渉が見える。ここらで二番目に泳ぎのうまい渉が手足をばだばだして、だんだん下に沈んでいく。

目いっぱいに水をかき、腕を体にぴったりつけてダツみたいに渉に近寄る。

背中からTシャツ掴んで上げようとした、とたん、水のなかにらんらんと光る目玉が見えた。

一瞬魚か思ったが違う。俺らの背えよりでかいなにかが、渉に伸し掛っている。俺はそいつに手を伸ばして触った。ずりゅんと右手が滑る。口から息が噴き出て泡になる。

それは渉を押しのけて、口あけて俺の脇腹を舐めた。

あいた口から歯が見えた。人間と同じ、肉の色した歯茎に上下に一列ずつ、揃って歯が生えていた。


尾を翻して見えなくなったそいつは山椒魚に似ていた。寸胴にふくらんだ脚が四つ、てんでばらばらに動きながら海の底へ消えていく。渉を腕に抱えたまま、俺達は引上げられた。親父が、見たこともないような顔で俺達ふたりを睨みつけて、それから唇を一文字にして呻き声を噛み殺していた。渉の親父は呆然として、男衆は下を向いたまま黙る。俺はわけがわからなくて、ぼうっとしている。ぼうっとしたまま、脇腹を掻いた。爪が滑る。驚いて指の先見ると、透き通る粘液が灯りにあたっててらてら光る。脇腹を見る、灼けたように変わった皮膚から絶えず汁が染み出している。生臭い。


皆で船をおかへ戻すと親父と、渉の親父が顔を見合わせて、俺の親父が頷いたから俺と渉は家へ帰った。親父は眉間に皺寄せたまま、聞くかお前。そう言った。すぐ俺は頭をタテに振る。四軒向こうで渉もそうしたそうだ。俺達はそれぞれ頭から順に聞かされる。


あれはなんか、わからんのよ。わからんけどずっとここにおる。いつ出てくるかも決まってないやなんもわからん。なんもわからん、けどたまにこやって出てきて目印つけて帰ってくのや。お前らふたり目えつけられた。“つい“になった。わかるか、対や。お前らふたりで一個になって、どっちか先に連れてかれる。どっちか連れてかれたらあれは、おかに上がれるようになる。そしたら残りも連れてかれて、なんもなかったような顔してあれも海に這っていくんや。わかるよ、あんなんおるのに海に出るんかて。なんもせえへんのや。あれに対してなんもしやん。あんなんおるのに海出るし、祭りもやるし、おらんフリして各々生活しよる。なにやってもきかん。なにやってもきかんの。せやかて神さんみたいにしたら、神さんみたいになってしまうからなんもせえへん。


「口に出すと恐ろしいのよ」

来る気がするのよ。親父は自分の肩に手をやる。

「だから皆言わん。あれが出るまで。だからお前らあれを知らんかったのよ」

親父の目えから涙が溢れる。堪忍な。そう言う。

ほんまに。お前らふたり仲良えから。堪忍な。

親父が畳に突っ伏して吠えるみたいに泣き始める。

ぶ厚い背中に手え当ててさすると冷たい。

驚いて手を引っ込める。手のひらを見て、親父を見て、駄目なのか、と思う。こんなになった親父は今まで見たことがない。母さんが俺が三歳のときに海難事故で死んだときも、立派な喪主やったらしいのに。

半信半疑が消える。ずっとここにいたからわかる。海はそういうものだ。


次の日、俺と渉は黙ったまま学校へ行く。それぞれ自分の自転車を押してちんたら歩く。通学路の中程まで行き、渉がごめんて呟くから、いや、とだけ俺も呟いた。もっと、何か上手なことを返したかったがなにも言えない。大丈夫、気にするな、お前のせいじゃない。俺こそごめん、でもわからない、なんで俺達かわからない。どれも役に立たないから俺は首を横にだけ振る。


それから渉は海に入れなくなった。

海水が体につくと、重い日焼けのようになる。赤くただれて熱を持つ。海に近寄るとめまいがする。船に乗ると吐く。

俺は真水がだめになった。水道水が、蛙のような魚のようなぬめった体の臭いがする。無理して飲んでも戻してしまう。風呂を浴びると皮膚が傷んだ。しかし体を洗わなくてはいけないから、二、三日おきにはお湯に浸かる。するとうおの皮膚になる。あの日舐められた脇腹のように、汁が染み出る場所が広がる。

気が狂いそうだった。ある日に、やっぱり耐えきれなくなって、斑の腹に塩をすりこむ。塩は少しだけちりちりとして、粘液と混ざって溶ける。それだけ。なにも変わらず、どうしようもない。しぶい顔した親父の傍ら、俺は仕方なく山椒魚の皮膚を体に増やし続けた。飲水は、唯一、喉が焼けないペットボトルの硬水をわざわざ買い込む。それで体も拭きたかったが、馬鹿らしくなってやめた。


海に入れなくなった渉は、漁師を継ぐのを諦めた。

俺も渉も幼児のころから毎日のように海に潜った。浅瀬や岩場で海水をかぶって渉は笑う。背が少しずつ伸びるたび、砂浜から沖へと進む。渉は船に乗れる日をずっと楽しみに待っていた。俺はまた思い出す。十三の年の灯祭りのあと、ふたりとも見習いとして船に最初に乗った日に、海翔丸のへりから渉はおおきく手を振った。

あれだけ船と、海が好きだった渉は一度だけ泣いた。壁のように高い防波堤に腰掛けて、水平線を見ながらじっと泣いた。俺は隣にいて、親父にしたように背中をさする。薄い渉の背中は温かかった。俺の手のひらはまだ人の皮膚で覆われている。


俺達が高校へ上がっても、変わらずふたりともそれぞれにそれぞれの水が駄目だった。ただ俺の皮膚だけは乾いて、粘液は出なくなる。痣のようなものは残った。夏服の半袖からはみ出たそれは、火傷の痕に見えたから聞かれるたびにそう答えた。フェリーに乗って通う高校では、の話は誰も知らないようだった。


渉は水泳部に入り、部の誰よりも速く泳いだ。ずいぶん身長差がある三年生にも、大差をつけてプールの向こう岸の壁を蹴り、あっという間に戻って来る。さらさらしていた黒い髪が、塩素の入った水にさらされて次第にごわごわとしていく。あれだけ海に出ていたのに、赤くなるだけで濃くならなかった顔はすっかり日焼けして、ずいぶん健康そうに見えた。

俺は部活には入らずに、帰ってすぐに仮眠を取り、夜になると海へ出た。灯りに照らされ、巻き上げられる網に絡め取られる烏賊をぽいぽい分けながら、たぶん先に連れてかれるのは俺じゃないか、と思う。そう思いたかった。あばらのあたりにできた膨らみがどうにかなってしまう前に、もうどうやっても助からないなら、さっさと楽にして欲しかった。


なのに先に連れて行かれたのは渉だった。

二年生になった夏、購買で渉に会った。渉とはクラスが離れているから、学校の中で会うのは久しぶりだった。渉は、お弁当忘れちゃった。そう言って、辛いパンを三つ買っていた。パンと一緒に抱えているパックの牛乳を見て、昔は飲めんかったのにな、と少し笑った。渉は、昔より美味しい気がする。そう言う。もうすぐ大会なんだよね、とも、嬉しそうに言っていた。その二日後だった。


漁の準備をしていると渉の親父が血相変えてうちに来た。渉がおらん、帰ってこん、陽ちゃん知らんか。切れる息でそう聞かれる。

渉は部活が終わればいつも真っ直ぐ帰ってくる。後ろで聞いてた親父も顔色変えて出ていく。

方々ほうぼう声かけて探したが、渉は見つからなかった。空が明るくなってきた頃に、あとは警察に任そう。そう言って皆家に帰った。俺と親父もそうした。俺の家の前に何かがあった。

綺麗に並んだ人骨だった。

仰向けの格好で、磨いたように白い骸骨が玄関の前に寝かされていた。きちんと人型に組まれた骨は作りもんのようだったから、これが渉だったなんて思いもしない。いや、思いたくなかったから、おい、骸骨やぞ親父、とか、くだらんなあ、くだらんことを、冗談めかして言おうとしたら親父は俺らが”対”になった日とおんなじ顔をしていた。

歯の治療痕が一致して、骸骨が渉だったと警察官が口にするのを俺はぼうっとしながら聞いた。



暗い空に焼き場の煙がたなびいている。白骨死体でも火葬はするんだなと思う。骨になった渉を棺に並べて、肉もないのに火にくべた。渉のばあちゃんと、おふくろさんはいない。家から出られなくなってしまった。

待合室でじっと待った。喪服の人が何人か行ったり来たりしていた。

骨を焼いて、骨が出てくる。それを骨壺に順に納める。動かすたびに脆くなった骨がさらさらと粉になり、骸骨の下の灰と混ざった。



あれから五年も経ったのに、まだ俺は連れて行かれない。初めは、いつ来るかもわからないそれに潰されそうだった。明日か、明後日か、秋か春か、二年後なのか今日なのか。考えると、曖昧になる。夢の中にいるように場面があちらこちらに飛ぶ。朝も昼も船にいても、ぼんやりするか怯えているか、使い物にならなくなった俺に船の上で親父は言う。

こんなに長いのはわからへん。

渉君がしとるんちゃうか。おまえを連れてかれんように。

聞いて、俺は苦笑いをする。

ずっと昔、保育園かそこらのとき、渉は熱が出た俺にざ自分のこづかいでアイスを買ってきてくれる。腹も下しているとは言えずに、溶けかけのカップのアイスを渉と一緒に平らげて、腹は更にくだる。二、三日して治った俺がアイスの話を渉にすると、よかったねえ、って喜んだ。

渉はそんなやつだ。抜けているけど、いい奴なんだ。

「罪人みたいになっとんのにな」呟いて、残ったのが俺で良かったと思う。漁師のうちの息子のくせに、遠足で行った水族館にいたアホロートルを怖がった。脇腹に生えたえらに渉は耐えられないだろう、きっと。

山椒魚は肺呼吸だ。鰓があるのは幼体だけだ。

幼体の俺は海に潜る。本物の山椒魚なら死んでしまうだろう海に。時間がある限り海にいた。海のなかにいるときだけは頭も体もちゃんと動く。何時間も海水に浸かり、山椒魚の影を探した。光る目玉は見つからない。

俺はつぎのあれになるんだろうと思う。

渉といっしょにんなって、夜の海をぶよぶよ泳ぐ。歯と、歯茎を剥き出しにして、またつぎのあれになる対を求めてぶよぶよ泳ぐ。

また体を埋め始めた、斑の皮膚を掻き毟った。爪に粘液がたまる。

「ごめんな」親父に言う。親父は口を引き結ぶ。

ぎりぎり音立てながら、巻き上げられるイカ網を親父が止める。しん、とする。波の音は聞こえた。

夏の夜の生温い潮風が体にあたる。

胴長の下、ひらひらした桃色の鰓は、日に日に小さくなっている。

ごめんな。口には出さずに渉に言った。もうええよ、とも言う。ごめんな。また言う。できるんなら、そうなっとるなら、俺といっしょにあれになって欲しかった。渉がいるなら、いっしょなら、別にそんなに怖くない。

ゴム手を抜き手のひらをぱた、ぱたと返して、見る。

ふくらんだべたべたの手のひらが、てらてら光る。







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山椒魚と海 フカ @ivyivory

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