薄膜
惟風
薄膜
車両はスムーズに減速して、ホームに到着した。扉が開くと熱気が顔に貼り付いてくる。スマホを操作しながら改札を目指す。
ターミナル駅は昼夜問わずごった返しているけど、この時間は小さな子の手を引いた家族連れがよく目に付く。あからさまに日曜日だ。
プレイリストからポッドキャストを再生する。古い映画の考察や感想をだらりと喋る男達の声が、僕を包む。
人が多すぎる。すれ違う度に自分の境界が侵食されて、自分も誰かを侵食して、僕の形が曖昧になる。
イヤホンから流れる声に縋る。自分だけに語りかける誰にも聴こえない会話が、僕の形を薄く守る。やっと気が大きくなって顔を上げる。駅を出ると緊張が和らぐ。人との距離が空くからだ。
昼下がりの陽光が額に刺さる。五月にしては空が濃い。
ポッドキャストの男達は脱獄映画の話をしている。自分も観たことのある映画だ。ビターな終わりだけど爽やかで良かったと思う。観た時に感じた気持ちが、他人の感想を聴くことでやっと形になる。自分はいつだって一人で何も話せない。これからどんな劇的な体験をしても、ずっとそうな気がする。
十分ほど歩いて路地に入ると途端に人気がなくなった。イメージしていたよりも道が狭い。日陰に吹き抜ける風が程よく身体を冷ましていく。汗は暑さのせいだけじゃない。
――面倒なこと頼んじゃってゴメン
――自販機が並んでるとこ曲がったら見えてくるから
昨日の電話の会話と、その前に何度も交わしたやり取りを反芻しながら歩く。
あいつの声は電話越しだと少し幼く聴こえた気がする。
赤と青の自動販売機が並ぶ交差点が見えてきた。あいつの住むアパートは、少し古びていた。
あいつと出会ったのは一年くらい前だ。職場の先輩に連れて行かれたバーにいた。
細身で、色白なせいで黒い部分が余計に黒く見える男だった。髪も、瞳も、それを縁取る濃い睫毛も。
周りからはゴンと呼ばれていた。名無しの権兵衛、なんて言い回しは今の子供達も使うのだろうか。
ゴンは嘘つきだ。自称する名前も年齢も職業も、聞く度に違っていた。ある日は無職のタクヤだったし、ある日は商社の誠司、ある日はタクシー運転手の幸志郎だった。ホストの時もあった。
孤児、五人兄弟の長男、双子の父、バツ二。
バーで語る身の上話なんて別に嘘でも何でも良い。真偽なんて誰も気にしない。ただ、僕はゴンの嘘の一つ一つを素直に受け取った。全部信じたわけじゃなかった、「そういうもの」とすることに抵抗がなかっただけだ。
僕は自分の境界線を守ることに必死で、その線の先にまでかかずらっていられない。僕にとってはゴンが何者であるかは重要でなかった。僕でない者、がハッキリしていることが大事で、中身が見る度に変わっていようとどうでも良かった。僕の
ゴンはくるくる変わる身の上を飽きもせず話してくれて、僕の身上には興味がなく、それが何とも心地良かった。自分のことを話すのは苦手だ。人混みに紛れただけで自分があやふやになってしまうくらいに希薄な僕には、大した経験なんてない上に口調もオドオドとして、いつも場を白けさせてしまう。僕は何でも面白おかしく語るゴンに憧れた。
いい加減なことばかり話す上に人の話を聞かないゴンは、バーの常連達には呆れられていた。でも、ゴンは同じ嘘は二度とつかなかった。そのこだわりがゴンの薄膜だった。僕にとっては十分な信用だった。
ある日、ゴンはカウンターを見つめて「死のうと思う」と言った。そういう名前の酒があるのかと思った、それくらいにさりげない抑揚だった。表情はヘラヘラしていた。出会った時は短かった髪はこの一年で随分と伸びて、前髪まで長いものだから、ゴンの目をほとんど隠してしまっていて口元だけで感情を量った。僕はゴンの唇を見つめて「そっか」とだけ返した。
その日は自殺の方法について、派手なものから簡単な方法からお互いに案を出し合った。自殺を本気で考えたことなんて無かったから、駅のホームとか高い建物から飛び降りるくらいしか思いつかなかった。ゴンは薬をODした後輩や女の首を絞めて無理心中しようとした兄貴の話をした。初めて聴く話ばかりだった。
次の週に顔を合わせると、一杯目が出てくるより早くゴンは自死の予定を告げた。
ゴンは同じ嘘は二度とつかない。
僕はまた「そっか」と返した。そして、何故死にたいのかを聞いた。何を聞いたところで何も返せないのに。
「親がクソ」
端的な答えだった。それすら「そっか」と流しそうになったところで、ゴンは長い指で僕の袖を摘んだ。早くから飲んでいたようで、もう大分酔いが回ってそうだった。いつもの流れるような語り口とは違ってぽつぽつとしていた。
うちさあ、親父がなあ。いなくって。いやいるにはいるんだけど、心はいないっつーか。仕事とか趣味……スポーツだかバイクだか、どんなのかよく知らないんだけどとにかく家にいなくて。まあ女も外で済ませてさ。
母さんいっつもイライラして、子供なんか産むんじゃなかったって邪険にする割には俺が離れるのは許さなくてさ。
そんなんでも機嫌の良い時は普通のお母さんって感じだったんだ、昔は。
話し相手は俺しかいなくてずっと家にいるから母さんからの話題なんかなくて、俺が一方的に喋ってずっとご機嫌とるんだ。でも子供だから何話して良いかわかんなくて、適当なことばっかその場で言ってた。作り話をする癖はそっからだよ。
母さんがいつからおかしくなってたのかって、もう最初からだったんだと思う。親父と結婚して、俺が生まれてからずっと。あの人は親父のことがずっと好きで、子供なんか欲しくなくて。
俺、自分でも嫌になるくらい親父の顔に似ちゃってさ。毎日暮らしてて、あの人がそれを見逃すわけがなくて。ちょっとでも同じ話をしちまうと半狂乱になるようになって。他の女と間違えたんだろって。あの人の方が俺と親父を混同してんのに。
ま。それで。
疲れちゃったんだよな。
抱くの。
そんな顔すんなよ。
俺、あんたが好きだよ。
誰も俺の話ちゃんと聴いてくんないの。でも、あんたはいっつも最後まで聴くじゃん。今だって。口下手とか関係ない、あんたの良いトコだよ。
だからさ、話のネタをあげるよ。俺のこと、よそで何でも話して良いよ。
その代わり、一つ、頼まれて。
ゴンの打ち明け話がどこまで本当なのか考えている間に、玄関扉の前に到着した。表札には「
玄関に施錠はされていなかった。自分のやるべきことは、開けた瞬間から臭いでわかった。
発見者になって欲しい。それがゴンの頼みだった。「本当の俺を知らない人間に見つけられて、見当違いな死に際を語られたくない」とのことだった。
止めて、でも手伝って、でもなかった。もう全てを成し終えてあった。
短い廊下の奥の一室で、ゴンは血塗れでぶら下がっていた。
テーブルに置かれた封筒に子供みたいな文字で「遺書」とあった。
打ち合わせの電話で聞かされた通りだった。多分、浴室に女の死体もあるんだろう。確認する義務もないから、僕はスマホのポッドキャストを切って救急にかけた。知人が自殺を仄めかしていたので心配して見に来たこと、身体が変色・硬直していて明らかに生きてはいないこと。
やりとりする自分の声が別人のように聞こえた。ゴンの顔は見れなくて、汚物で汚れた爪先を見つめた。
電話を切ると静かになってしまった。聞こえないはずの音まで聞こえるほどに。
――俺、あんたが好きだよ。
昨夜の通話、切る前に聞こえたゴンの言葉がずっと脳内で響いていた。
ゴンは同じ嘘は二度とつかない。
薄膜 惟風 @ifuw
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