シルバー帝国の逆走

沙月Q

または「真っ白扉」の秘密

椙山すぎやまさん、今朝も完食ですね。よかったです」

 私はトレイを下げながら話しかけた。

「ごちそうさま。サワラの塩焼き、美味しかったわー」

 椙山さんは満面の笑みを浮かべて応えてくれる。

 本当にそう思っているのが、ありありと分かった。

 

「じゃあ、食後のヘルスチェックしますね」

 椙山さんの体内から送られて来た情報がタブレットに表示される。オールグリーン。

「はい、問題ありません。先週の微熱も完全におさまったみたいです」

「ここの食事のおかげよ。美味しい物を食べるのが、健康には何より一番!」

 およそ、科学的ではない椙山さんの言葉に思わず笑ってしまう。

 かつて高名な物理学者だったという彼女の過去を思うと、あまり似つかわしくないごく普通の高齢者らしいコメントだったから。

 本人もおかしいと思ったのか、照れくさそうに付け加える。

「あとはやっぱりP.O.L.S.おまわりさんのおかげよね」


 この時代、日本の人口に占める六十代以上の高齢者の割合は七十%に迫ろうとしていた。

 私が看護師として勤める高齢者向けホーム〈ヴィラ・クロノス〉も常に満室状態で、空きの出るいとまも無い。

 

 二十一世紀初頭に始まった少子高齢化はおさまることなく続いていたが、人口そのものは増加していた。

 高齢者の寿命が伸びたからだ。

 二〇五〇年代に開発された医療ナノマシンP.O.L.S.ポリス(Physical Online Life Surveyor)は、体内にインストールされると量子レベルでユーザーの健康状態を監視し外部に報告する。

 そして異常があった際の対処や治療法も、量子技術によって以前とは段違いに精密かつ効果的なものになっていたのだ。

 健康状態から推定される残りの寿命も、本人が希望すれば高い精度で知ることが出来る。

 例えば私が担当しているこの椙山さんは現在八十三歳だが、このまま問題なければあと二十五年は生きられるということが分かっている。

 完全に安定したQ.O.L.(クオリティ・オブ・ライフ)を保ちながら……


 最先端技術による超長寿社会を実現した日本の医療は、世界でもロールモデルとして注目される一方、社会に閉塞感をもたらし経済的負担も大きいことから、この状況を「高齢者シルバー帝国」と揶揄する向きもあった。


「でもP.O.L.S.おまわりさんがいくら優秀だからって、美樹ちゃんのような人たちもいないと困るわよねえ」

 私が担当する椙山さんは、実の祖母のように私の名を呼び接してくれる。

 そして、お年寄りはP.O.L.S.ポリスを「おまわりさん」と呼ぶことが多い。

「どうでしょう……私たちもじきに用済みかもしれませんよ。最近は介護ロボットも高性能になって来ていて、AIの集中管理で介護の完全自動化も夢じゃないって……」

 椙山さんは眉をひそめた。

「いやだわ。私は選べるなら、美樹ちゃんのお世話になりたいわねえ。色々面倒をかけてしまうでしょうけど……」

「私も椙山さんのお世話を続けたいですよ。その前に失業したくない、というのがありますけど」

 私の冗談に椙山さんは破顔した。

「ねえ、美樹ちゃんはどうしてこのお仕事に就いたの?」

「私ですか? そうですね……中学生の時、たまたま交通事故の現場で救護のお手伝いをしたんです。お年寄りが横断歩道で車にひかれて……救急車が来るまでの間、学校で習った応急処置をしたりして……結局、その人は病院で息を引き取られたそうなんですけど、後で担当医の先生に私の処置が適切だったとほめていただいて。それで医療の道が向いているかも、と思って看護学校に入ったんです」

「まあ、そうだったの。お気の毒だけどその亡くなった方が、あなたに道を示してくれたのね」

「その方……救急車に乗る時、私に不思議なことを言ったんです。『真っ白扉』って。私にはそう聞こえたんですけど、何のことかいまだに謎なんです」

「まっしろとびら? 不思議な言葉ねえ。どこに続いている扉なのかしら……」

 私は久しぶりにあの時のことを思い出して、改めて考えてみた。

「真っ白扉」……

 どういう意味だったのだろう?


 その時、部屋の外から大きな声が響いて来た。

「危ない! 佐中さん! 止まってください!」

 私は椙山さんに断ってから、廊下に出て声のする方を見た。

 入居者の男性、佐中さんがこちらに向かって歩いて来る。

 背中をこちらに向けて……

 佐中さんは逆歩きをしているのだ!

 ただでさえ足元のおぼつかない高齢者が逆向きに歩くなど、危険この上ない。

「どうしたんですか! 佐中さん!」

 私は佐中さんに駆け寄り、背中からその歩みを止めようとした。

 だが、佐中さんは足を止めようとせず、私の腕の中でもがき続けた。

「えじょどぅ! えじょどぅ!」

 佐中さんの口から意味不明の呻き声が漏れる。

 やがて男性介護士たちが助けに来て、佐中さんの体を抱え上げるとなんとか部屋に連れ帰った。

 

 私は椙山さんの部屋に戻って、トレイを引き取った。

「佐中さん、どうしたの?」

 椙山さんは心配そうだ。

「わかりません……廊下をまっすぐ逆向きに歩いて来られたんです。訳のわからないことを言いながら」

「ああ、聞こえたわ。まるで口が回らない人みたいだったわね」

「でも、佐中さんは言葉も気持ちもしっかりしている方だったんです。認知症の気配もなかったし、昨夜もちゃんと挨拶してたのに……」

 私の話を聞きながら、椙山さんは首をひねった。

「おかしな話ねえ。P.O.L.S.おまわりさんが診てるから、そんな突然に認知症が発症するわけもないし……まるで高速道路の逆走みたい」

「なんですか? それ」

「今の人は知らないわね。昔、まだクルマの完全自動化が実現してなかった頃、よく高齢ドライバーが反対車線を逆走する事故があったのよ。認知機能の低下で判断を誤って、他のクルマと衝突したりしたの」

「怖いですね!」

 椙山さんは自分のタブレット端末を取り出して、ネット検索を始めた。

「こんな事例、よそで起こってないかしら。P.O.L.S.ポリスの見落としとかがあったとしたら大変だわ」

 おまわりさんという愛称が消えて、椙山さんの学者としての好奇心が動いたらしい。

 私は、自分も後で調べてみますと告げて部屋を辞した。

 だがその時は、まさに椙山さんの言う高速道路の逆走に近いことが起こっているとは、想像もしなかった。


 数日後。

 

 夕食を届けに行った私に、椙山さんが聞いた。

「佐中さんの様子はどう?」

「はい、あれからすぐ普通の状態に戻ったそうです。でも自分が逆向きに歩いたこととか、変な言葉を口走っていたことは全く覚えていないって。担当医の先生はこんな認知症の症状は見たことないから訳がわからないって言ってました」

 椙山さんは「ふうん」と呟き、タブレット端末の画面を私に見せた。

「佐中さんだけじゃないかもしれないわ。やっぱりあちこちで同じことが起きてるみたいなの」

 画面にはSNSに投稿された、逆歩きする高齢者の映像が映っていた。

 私はニュースや介護関係の情報しか調べていなかったので分からなかったが、SNSでは家族や知人の奇行としてちらほらと投稿が見受けられたのだった。

「これ……偶然とは違うんでしょうか。何か原因につながりかあるとか?」

「わからないわ。不思議なのはみんな意味不明の言葉を口走っているということね。そこに共通している鍵があるのかも……」

 

 さらに数日を経て、事態は思わぬ形でニュースに取り上げられた。

 高齢者の失踪が相次いだのだ。

 そして、行方不明の高齢者が姿を消す前、逆向きに歩いたり意味不明の言葉を口走ったりという異常な状況があったと報じられた。

 さらにそれらの人々が、一人残らずP.O.L.S.ポリスによる医療モニタリングを行っていたことも分かった。

 警察は行方不明者の搜索に全力をあげ、科学厚生省はP.O.L.S.ポリスに異常事態の原因がないかの調査に乗り出したという。

 私は椙山さんの他、担当している利用者に異常な様子がないか、いつにも増して注意するようになった。

 

「椙山さん、お散歩に行きましょう」

 ルーティンワークの一つになっているウォーキングに連れ出そうと部屋を訪れると、椙山さんはタブレット端末の画面に向かいながら紙に何かを一生懸命書いている。

「椙山さん?」

「あら、ごめんなさい! 気がつかなかったわ。もうご飯?」

「いえ、その前にお散歩に行きましょうと……何を書いてるんですか?」

 見ると、紙は複雑な数式でいっぱいだった。

「いえね。まだ仮説なんだけど、最近の高齢者の異常行動が何に起因しているのか、ちょっとひらめいたことがあって……それを検証してたの」

「すごい! 原因が分かったんですか?!」

「うーん、まだまだ分かったとは言えないわねえ……なにぶんデータが足りなくて……」

 そう言うと椙山さんは私に向き直って手を合わせた。

「ちょっとお願いできないかしら。廊下にセキュリティカメラがあるわよね。この間、佐中さんが逆歩きをした時の記録って残ってない? 出来たら見せて欲しいんだけど……」

「あー、それはちょっと難しいですね。プライバシーの問題があるから、入居者の方にはちょっと……」

「職員さんは? 美樹ちゃんも見せてもらえないのかしら?」

「一応、私も保安責任者なので閲覧は可能です。でも、見ても何も分からないと思いますけど……」

「見たままの様子を私に教えてくれればいいわ。むしろ大事なのは音声なんだけど」

「音声?」

「佐中さんが口走ってた変な言葉ね。あれが何て聞こえてたかだけでも教えて欲しいの」

「カメラ……音声まで記録してたかなあ……」


 記録されていた。

 録画を確認した私は、翌日佐中さんの変な言葉を聞こえたまま椙山さんに伝えた。


「えじょどぅ?」

「はい。『えじょどぅ、えじょどぅ』って繰り返してました。そこははっきり聞こえたんですけど、あとは本当によく聞き取れなくて……」

「ありがとう。それだけでも大いに参考になると思うわ」

 椙山さんはタブレット端末で一つのアプリを立ち上げると、画面に向かって声を出した。

「えじょどぅ、えじょどぅ」

「何をしてるんですか?」

「これはね、録音した音声を逆再生するアプリなの。このボタンで……」

 椙山さんがボタンをタップすると、今録音した彼女の声が逆再生で流れ出した。

「 ド ウ シ テ 、 ド ウ シ テ 」

 奇妙に変調されてはいたが、椙山さんの声はかろうじて意味のある言葉となった。

「! 佐中さんは逆さに言葉を喋っていたんですか?!」

「やっぱり、そういう事だったのね……これは思っていたよりやっかいな事態かも……」

 椙山さんは、憂いに満ちた顔を窓の外に向けた。

 

 その翌日、状況が一気にエスカレートした。

 

「大変! 大変! テレビ見て!」

 スタッフの声に食堂へ駆けつけると、職員も入居者もそろってテレビの前に釘付けになっていた。

 映っていたのは渋谷のスクランブル交差点だった。

「何これ!?」

 交差点は人でいっぱいだった。

 ほとんどが高齢者であることは一目で分かる。

 しかしその全てが、逆向きに歩いていたのだ!

 交差点には高齢者に混じって、普通に歩こうとしている通行人や、必死に安全を確保しようとしている警官隊やらでパニックになっていた。

 信号は用をなさず、クルマも停止したまま渋滞を作り出している。

 現場リポーターも困惑気味だ。

「すごい数のお年寄りが逆向きに歩いています! 非常に危険な状況です!」

 皆が固唾を飲んで画面に見入っていると、今度は居室の方からスタッフの声が響いた。

「大変だ! 佐中さんがいない!」

 その後、職員総出で施設内、周辺地域を捜索したが発見に至らず、警察に捜索願いを出すこととなった。

 佐中さんも失踪者のリストに加わったのだ。

 渋谷での事態は軽傷者が数十人出ただけで収拾していた。

 が、ニュースに登場した各分野の専門家も、何が起きているのかはっきり説明出来なかった。

 

 私は仕事をあがる前に椙山さんの部屋を訪ねた。

 

 椙山さんは、相変わらず計算用紙と格闘していた。

「あら、ごめんなさい。もう就寝時間ね。夢中になると、つい時間を忘れてしまって……」

「お邪魔してすみません。何が起こっているのか分からなくて不安で……この状況ってまだ続くんでしょうか」

「多分ね。もっと大事になっていくと思うわ。残念だけど……」

 椙山さんの落ち着きはらった言葉は、私に一層寒々と不安を感じさせた。

 私は椙山さんのベッドに腰掛けると、自分の体を抱くようにして手をさすった。

「私……健康管理が専門なのに、同じことがあったら何も出来そうにありません。情けないけど……仮説でも結構です。何が起こっているのか分かっていたら教えてくださいませんか?」

 椙山さんは私の隣に座って、励ますように肩を抱いた。

「美樹ちゃんが気に病むことはないわ。これはどんな偉いお医者さんでもどうにも出来ないことだから。いま何が起こっているのか、ひとつだけ確かだと思うのはね……」

 人差し指をあげると、椙山さんは肩越しに自分の後ろを指差した。

「……高齢者が時間を逆走し始めているってこと」

「!」

 あまりにも突飛な話に、私は言葉を失った。

 どういうことなのか知りたいという思いは強かったが、仕事あがりの疲れた頭では話についていけそうになかった

 その様子を察した椙山さんは、もう遅いから詳しい話は明日しましょうと言ってくれた。

 私は部屋を出る時、こらえきれずに椙山さんにうったえた。

「椙山さん。いきなり逆に歩き出さないでくださいね。いなくなったりしないでくださいね」

 椙山さんは、ただ微笑みながら……

「心配しないで、おやすみなさい」

 ……と言って手を振った。

 

 そして翌朝、椙山さんは消えた。

 

 椙山さんだけではなかった。

 施設の入居者、半数以上の居所が分からなくなっていた。

 ニュースによると、全国で逆歩きする高齢者が街にあふれ出しているということだった。

 椙山さんが言った通り、さらなる大事になっていたのだ。

 だが、うちの施設では今回、手がかりがあった。

 この事態を予見していた施設長が、あらかじめ全ての入居者に極薄GPSタグ入りのシールを配布し、自分の足の裏に貼ってもらっていたのだ。

 

 施設長の指示が飛んだ。

「スタッフを二班に分けます! 追跡班と輸送班! 追跡班は一刻も早くシールのありかを探して持ち主の安全を確保! 輸送班に連絡して迎えに来てもらってください!」

 私は追跡班として、まず椙山さんの居所を探すことになった。

 通勤用の電動スクーターで施設を飛び出し、GPSの示す方向へと走る。

 ニュースで言っていた通り、街には逆向きに歩く高齢者がウロウロしていた。

 その全員を誰かが探していると思うと、一人一人の安全を確保してあげたい気持ちが湧いたが、今は抑えて椙山さんの元へ向かう。

 やがてスクーターは三軒茶屋の近辺にたどり着いた。

 国道二四六号線でも高齢者たちが逆歩きをしていたが、椙山さんの姿はない。

 ちょうどこの位置にいるはずなのだが……

「!」

 私は頭上を走る高速高架を見上げて理由を悟った。

 まさか!

 逆歩き高齢者を避けながら、全速でスクーターを首都高の三軒茶屋入り口に走らせる。

 Uターンを切り、上りレーンに駆け上がって私は戦慄した。

 首都高は逆歩き高齢者で埋まっていた。

 歩くスピードは普通だが、その数と高速道路上という状況が「逆歩き」などというおとなしい表現に相応しくなくなっている。

 逆走高齢者の群れだ。

 私は路肩にスクーターを乗り捨て、椙山さんの姿を求めた。

 いた!

「椙山さん!」

 不思議なことに、椙山さんは逆歩きをしていない。

 その場にじっと立ったまま、器用に周りの逆走高齢者たちを避けているようだった。

 まるで、私が迎えに来るのを待っていたように……

 椙山さんに怪我がないことを確認し、私は彼女を引きずって路肩に退避した。

 緊急避難用の階段から高架下に降りて、輸送班に連絡する。

 その時……

 私の腕の中で、されるがままになっていた椙山さんが言った。

「まっしろとびら……」

「!」

 合流した輸送班のワンボックスには、収容された入居者がすし詰めになっていた。

 やはり訳の分からない言葉を口にしながらもがく人が多かったが、椙山さんはそれきり何も言わずにおとなしくしている。

 だが、こちらの言葉には反応せず、心ここに在らずの状態だった。

 施設の収容作戦はなんとか無事に完了し……


 翌日……

 

 様子を見に行った私に、椙山さんはいつもと変わらず微笑みかけた。

「おはよう、美樹ちゃん」

 椙山さんは何も覚えていなかった。

 高速道路にいたことも、私が迎えに行ったことも。

「真っ白扉」と口にしたことも……

「そう……そんなことがあったの。でも不思議じゃないわ。私が考えていた通りのことだから」

「どういうことですか?」

「高齢者が時間を逆走しているって話はしたわよね? その原因はやっぱりP.O.L.S.ポリスだったのよ」

 人間の体内を常時監視しているナノマシンP.O.L.S.ポリス

 椙山さんによると、この量子的監視状態に耐えられなくなった体が、やはり量子効果を利用して逆方向の時間に逃げ出したと言うのだ。

 二〇二〇年代には人間の脳内で量子計算が行われていることがわかっていた。

 人間の意識には量子もつれが関係しているらしいと考えられるようになったのだ。

 二つの状態が併存し、観測されることでそれが一つに確定する量子もつれの世界。 

 それがもし、常に量子レベルの監視状態に置かれたとしたら?

 健康を守るためのモニタリングが、脳や意識の活動に齟齬を生み出す原因になったのかもしれないというのだ。

「量子もつれを利用すると、二十五%の確率で過去を変えられるという研究もあったのよ。でも、常時監視の状態に耐えられなくなった体が過去へ向かうとは、誰も思っていなかったでしょうね。まるで、うるさいお医者さんから逃げるみたいに時間を遡るなんて……」

「じゃあ……佐中さんや行方不明になって人たちはどこへ行ったんですか? 過去へ飛んで行っちゃったとか……?」

「消えてしまった人たちは、無事に過去へ……その人たちにとっては未来に向かって歩き出しているんだと思うわ。今、この時間の流れで逆に歩いたりしている人たちは、まだ逆の時間に乗り切れていないのね。昨日の私もそうだったと思うんだけど、これから時間を折り返すわけだから、昨日の私は私には未来の私。だから何も覚えていないのよ。これから起こることだから」

 私は混乱した。

 昨日の椙山さんは、彼女自身にとっては過去ではなく未来の自分?

「私が動かずじっとしていたのは、何が起こっているか分かっていたからなのね。そして美樹ちゃんが迎えに来てくれるのも……いえ、迎えに来てくれたから見つけやすいようにそうし続けていたんだわ」

「とても難しい話ですけど……じゃあ……皆いつかは逆の時間に完全に乗り移るってことですか?」

「そうね。ちょうど高速道路の逆のレーンに移るみたいに……そう考えると面白いわね。乗り移り切れていない状態の年寄りが交差点や高速道路にいきなり現れるのは、意識のどこかで観念的に行き先や方向を探していたからかもしれないわ。地理的にじゃなくて時間的に探さなきゃいけないのに」

 椙山さんはそう言って笑った。

「笑い事じゃありませんよ。だって、乗り移ったらもうこちらからは会えないんですよね。行方不明になっちゃって……」

「そうね。でも仕方ないわ。もしかしたら、乗り移れてない状態みたいな事故が起きて、またこちらに現れるかも。いえ、こちらでは過去だから、ね……」

「さびしい話ですね。もうすぐお別れなんですよね……」

 椙山さんはちょっと悲しげに微笑んだ。

「でも私、美樹ちゃんのことは忘れないわ。逆方向にも続くなら、もしかしたら時間は円環になっているのかも。そのうちどこかで会えるかもしれないわよ」

 でも、その円がつながっているのは遥かな遠い未来(過去?)なんだ……

 部屋を出ようとした私に、椙山さんが声をかけてくれた。

「ありがとう、美樹ちゃん」

 振り返ると、椙山さんはどこにもいなかった。

 私はハッとして、自分の端末にインストールしてあった逆再生のできる録音アプリを起動した。

 よもやと思いながらも確信に突き動かされて、録音ボタンを押してつぶやく。


「真っ白扉……」


 逆再生された自分の声を聞いて、私は涙を流した。

 事故は起きていた。

 十数年前の中学時代に。

 思い出した。

 あの時、私が助けた人は横断歩道を逆に歩いていたのだ。

 そのせいで車に轢かれた……

 あれは彼女だった。

 彼女はすべて悟って私に最後の言葉をかけてくれた。

 私に道を示してくれたのは、椙山さんだったのだ。


 私はもう一度逆再生ボタンを押して、自分の口から出た椙山さんの言葉を聞いた。


「 ア リ ガ ト ミ キ チ ャ ン 」


 完 

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