第15/15話 エンディング2
新北野紺斗は軽SUVが辰晴をはねる直前、両手をハンドルから、右足をアクセルペダルから離した。
体を助手席に引っ込ませ、シートに背や尻をつける。どんっ、という音が鳴り響き、車が揺れた。左手に握っていたシートベルトの金具を右手で引ったくり、バックルに突き刺した。
〇・一秒後、どがあんっ、という音とともに車が急停止した。北の壁、トイレ出入口の左右に衝突したに違いなかった。
(──)
前に飛び出そうになった体はシートベルトにより押さえつけられた。腹が強烈な苦痛に襲われ、意識が遠ざかりかけた。エアバッグに顔面が衝突し、視界が真っ白になった。
(た、辰晴はどうなった…………!?)紺斗は激痛に歪む顔をなんとか上げ、フロントウインドウに視線を遣った。
トイレの中、正面の壁が血塗れになっていた。まるで赤いペンキを缶まるごとぶち撒けたようだった。
その下には辰晴が転がっていた。死んでいることは明らかだった。首が曲がらないはずの方向に曲がっているからだ。はね飛ばされた後、壁に衝突した時か床に落下した時に折ったに違いなかった。
(やった、やっつけたぞ……!)
実際に温かさを感じられるかと思うほどの安心感が胸じゅうに広がっていった。同時に強烈な睡魔に襲われ、まぶたが下がり始めた。
(駄目だ、駄目だ……!)渾身の力を込めて目を開き続けた。(まだ終わりじゃない……早く妃乃を起こして……助けを呼んでもらわないと……!)
シートベルトを外すと、目を覚ました妃乃が血を見て再び失神することのないように各種の作業を行った。それが済むと、カーオーディオを操作してメイロン行進曲を再生した。スピーカーから冒頭のトランペットの音が聞こえてきた。
数秒も経たないうちに、妃乃が「うーん……」という唸り声を上げながらまぶたを開けた。
紺斗は「妃乃……」と呼びかけた。自分でも驚くほど弱々しい調子の声だった。出血のせいだろう、すでに手足の感覚はほとんど失われていた。
妃乃は体を起こすと視線を向けてきた。「紺斗くん……」明らかに困惑していた。「どういう状況、これ?」
「実は──」事の次第を端的に説明した。「──というわけだ」
「わかった」妃乃はうなずいた。顔が強張っていた。「救急車だね」スマートホンを取り出した。
(……それにしても、辰晴をやっつけられて本当によかった)紺斗は辰晴を倒すために立てた作戦について思い返し始めた。(大成功だったな)
妃乃はスマートホンを右耳に当てた。「救急です」と喋りだす。「彼氏が撃たれて、その、拳銃で──」
(辰晴がコンビニに戻ってきた時、おれは準北東にある陳列棚の東端の近くにいた。そこから防犯ミラーを通して辰晴の行動を観察していたんだ。
辰晴は軽SUVの助手席のドアを開錠することに成功した。それを確認したところで、まず、腕時計のタイマーをセットし、南東にある陳列棚の東端に隠した。次に、北の壁と北東にある陳列棚に挟まれた通路に移動し、そこに潜んだ)
車のフロントウインドウはサンシェードで覆われていた。もともとは助手席に載せてあった物だ。これがなければ、妃乃はトイレの壁にぶちまけられた血を目にして再び失神していたことだろう。
(やがてタイマーが零秒に達し、電子音が鳴り始めた。想定どおり、辰晴は腕時計のある売り場の南東に視線を遣り、そこの床に転がっている拳銃や弾倉──おれがあらかじめ置いておいた物──に気づいた。
その後、辰晴は準北西・準北東にある陳列棚と準南西・準南東にある陳列棚の間を通って拳銃のある所に向かった。同時に、おれは北の壁と北東・北西にある陳列棚の間を通って軽SUVの停まっている所に向かった。
案の定、辰晴がおれの移動に気づくことはなかった。なるべく音を立てないように注意していたし、腕時計の電子音のボリュームは最大にしていたからな)
電子音は未だに、びりりり、と鳴り響いていた。率直に言ってうるさいが、なにしろ現在進行形で生死の境をさまよっている、止めに行く気にはなれなかった。
(おれは車の助手席の前に着いたところで、再び防犯ミラーで辰晴の様子を観察した。辰晴は拳銃と弾倉を回収した後、売り場の北東を見て驚愕した。そこで死んでいたはずの店員の姿が消失している、と気づいたんだ。
その直後、おれは右手に握っていたロープを思いきり引いた。その始端はあらかじめトイレの扉の右端に繋げておいた。扉の表面にマグネットフックを貼りつけて、それに結びつけておいたんだ。そこから西に伸ばして、売り場の北西にある円い柱の側面に沿わせて曲がらせ、南に伸ばし、カウンター内、南の出入口の手前にある円い柱の側面に沿わせて曲がらせ、東に伸ばしておいた。
要するに、ロープを引けばトイレの扉を左にスライドさせて開けることができるわけだ。もちろんロープの終端は見つからないよう隠しておいた。ロープもフックも、売り場の工具コーナーから調達した物だ)
紺斗は腹にブランケットを被せていた。もともとは助手席に置いてあった物だ。銃創を覆っているバスタオルに滲み出ている血を妃乃に目撃されないようにするためだ。
(フックは扉が半分弱スライドした時点で外れてしまった。だが、それでかまわなかった。いちばん問題なのは、この後トイレに来る辰晴にロープを目撃されることだからな。あえて、強く引けば外れるような仕組みにしておいたんだ。辰晴にはトイレの扉が少しでも動くところさえ目撃させられればいい。フックが外れた後はさらにロープを引いて、辰晴に見つからないよう扉から遠ざけた。
案の定、辰晴は「店員はトイレに逃げ込んだ」と考えたらしく、そこに向かい始めた。その間におれは軽SUVに乗り込み、助手席からハンドルやアクセルペダルを操作して発車した。そして陳列棚を押し退けて突き進ませ、トイレの出入口の前に突っ込ませて、辰晴をはねたんだ。
乗車してから発車するまでの間は、どうしてもいろいろな音が出てしまったが、想定どおり辰晴には気づかれなかった。いずれも小さな音だったし、腕時計の電子音が大ボリュームで鳴り響いていたからな)
「──はい。お願いします。失礼します。はい」
妃乃は耳から離したスマートホンをスカートのポケットにしまうと、心配そうな視線を向けてきた。
「紺斗くん、大丈夫? しっかりして……。救急車を呼んだから、あと少しの辛抱だよ」
「ありがとう……」ふと、今のうちに伝えておきたいことを思いついた。「なあ、妃乃」と話しかけてから、言う。「愛してる」
東本町伽織は椅子の背にもたれながら朝刊の二面の記事を読んでいた。伽織は今、北通研究所の主任室のデスクについていた。後ろの窓から差し込む日光が当たり、心地よかった。
記事には写真が掲載されていて、その写真には妃乃が写っていた。見出しには「新北野外務大臣 世界平和人民賞授賞式に出席」と書かれている。二面には、他にも「神津大学 二十年前の拳銃殺人事件の教訓」だの、「ストックホルム スキージャンプ大会 元今里選手 金メダル」だの、「四万十川 河口に超巨大アザラシ出現」だのといった記事が並んでいた。
伽織の出で立ちは基本的には以前と変わらなかった。目元の皺や髪に交じっている白い毛は少なくなかったが、知性の高そうな印象を強めていた。
(……小腹が空いたわね)
記事を読み終えると、新聞を折り畳んでデスクに載せた。菓子箱に手を伸ばすと、クッキーを一つ取り、口に入れて噛み砕く。小島が、一週間ほど前に家族で海外旅行をした時にお土産として買ってきた物だ。
扉がノックされた。「はーい」と返事をしながら立ち上がる。扉の前に行き、開けた。
廊下には紺斗がいた。「どうも、お義母さん。ご無沙汰しています」
ニヒルな雰囲気はずいぶんと和らいでいて、髪型もきっちりしたものに整えられている。身に着けている緑色系統の長袖シャツやスラックスもフレッシュなデザインだった。電動車椅子に腰かけている。
「ほら、
紺斗は横にいる新北野美緒に言った。美緒は「お祖母ちゃん、ご無沙汰しています」と言い、頭を下げた。
美緒は十一歳で、おっとりとした目つきをしていた。ツインテールにまとめられている長い黒髪はとても可愛らしく、まるでアイドルのようだ。身に着けている赤色系統の長袖ブラウスや膝上丈スカートもよく似合っていた。
伽織はにんまりと笑った。「どうぞ、入って入って」体を引っ込ませた。
三人は応接スペースに移動した。伽織は東側のソファーに座り、美緒は西側のソファーに座り、紺斗はその横に佇んだ。
伽織はにこにこしながら「美緒ちゃん、最近の調子はどう?」と言った。「友達付き合いとか小学校とか……そうだ、何か勉強するうえでつまずいていることはない? お祖母ちゃんでよければ手伝ってあげるけれど」
美緒は右手をテーブル上の器に伸ばしていた。器にはプチろまんチョコのパックが山のように盛られていた。
「別に、普通だよ。友達付き合いも普通、テストの成績も普通」
パックを取り、開封した。チョコレートスナックを摘まみ出し、口に入れて咀嚼する。
「お祖母ちゃんのほうこそどうなの? 噂じゃ、このところ研究の進捗が芳しくない、って聞いているけれど」
「ああ……」伽織は苦笑した。「たしかに最近は上手くいっていないけれど、深刻なものじゃないわ。そうね、わかりやすいように言うと……」腕を組み、数秒間考えを巡らせた。「ナハトムジーク予想、っていうのがあってね。第一予想から第四予想まであるんだけれど。お祖母ちゃんは今、第三予想を解決しようとしているの。それがとても難しくてね……たぶん現役の間はもう、その件にかかりっきりでしょうね」
「ふうん……」
しばらくして雑談は終了し、紺斗と美緒は退室した。伽織は、そろそろ仕事を再開しましょうか、と思い、デスクに戻った。
椅子に腰かける直前、ふと窓の外の景色が視界に入った。公園の真ん中にそびえている大きな柊の木に鳥の巣が作られているのが見える。ちょうどそこに鳩が飛んできて、雛に餌をやり始めた。その様子を眺め、和んでから仕事に取りかかった。
〈了〉
絶体絶命コンビニ 吟野慶隆 @d7yGcY9i3t
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