街では色んな不思議が起こった
色街アゲハ
街では色んな不思議が起こった
「まるで、輪っかを幾つも嵌め込んだみたいだね。」
こう友人が言ったのには、少しばかり説明の必要があるかも知れない。
僕の住む街は、全体的に擂り鉢状の構造をしており、中心部から外側に向けて階段状に家々が昇って行く。隣り合う家々はほぼ同じ高さにあるからか、遠目にはそれ等が繋がっている様に見え、それ等を辿って行くと一つの大きな輪に見える、という寸法だ。
僕達が会話していたのは、こんな擂り鉢の一等外側、一番高い所にある草原であった。そこからだと、街全体を見渡す事が出来る。この草原は周りを森に囲まれており、五月から六月にかけて沢山の蛍が生じ、付近の人々の目を楽しませている。僕も一度ならず見に行った事が有るが、それ等が暗い森の中、薄緑色の光を点々とさせている様は、空の星々が気紛れに降りて来たか、或いは、海の底で一杯に広がる発光生物を連想させ、殊に後者の場合、ついそこいら辺に人魚姫でも潜んでいるのではないか、などど埒も無い想像をしてしまう程に、それは神秘的な光景だった。
少し前、友人にこの事を話したら、「是非、実際に見てみたい。」などと言い出し、そのやけに乗り気な態度に押し切られる形で、今日という日を迎えたのだった。
昨夜運良く大量の雨が降った事から、今夜は絶好の‶蛍日和″になる筈だった。これも日頃の行いの良さだろう。友人は、「その理屈なら、日頃の行いが良いのは自分の方だろう。」と言い出し、他人から見れば心底どうでも良い言い争いの末、気付けばこの場所に着いていた。
後ろに森を背負い、前方は大きく開け、その間にポツンと孤立する様に位置するこの草原。世界に忘れられたかの様な、何処か間延びした長閑な空気。木の陰から牧神がひょっこり顔を出しそうな。
改めて友人は眼下の街を眺め、
「メエルシュトレエム(大渦潮)みたいだね。」
と、気取った言い方をする。その言葉は僕に言ったと云うよりも、自分自身に向けた物の様だった。その視線は尚も遠く街の景観に据えられたままだったから。
それを聞いた僕は、おや、と思わずにいられなかった。と云うのも、ちょうどその時話そうか話すまいかと迷っていた事と、この言葉が(先の「輪っか」と合わせて)実にぴったり重なる物だったのだから。
それに勢いを得た僕は、次に述べる話をする為に、友人に向き直るのだった。
それは、随分前の事。僕が学校帰りにふと気紛れ心を起こし、この草原に立ち寄った時の事だった。どうしてそんな事をしたのか。その日の道行く自分の影が、何時もと違ってとても青っぽく見えて、それに目を奪われている内、何だか無性に何時もと違った道を選びたくなる衝動に駆られ、歩きに歩いて、後の事など考えもしないで、そうした末に着いた所が此処だった。そうとしか他に言い様がない。
もう大分遅い時刻だったので、街にはほんの数える程しか灯は点っておらず、後には、顧みられないまま孤独な夢想に耽る街灯が所々に見られるだけであった。
頭上には遮る物とて無く、数え切れない星々が異様に光輝く空が、お椀を逆さにかぶせた様に地上を包み込んでいる様が、はっきりと見て取れた。そして、それ等を全て見下ろす様に、僕の丁度真向かいには真ん円の月が浮かんでいた。
まるでジオラマだな。僕は思わず口を衝いて出たこの言葉に、自分でも驚かずにいられなかった。正しく! 下に臨む擂り鉢状の街が何とも言えない雰囲気に包まれ、こんなにも青い、光とも影とも言えない色の中に浮かび上がった姿は、これがどうあっても人の住む所とは思えない代物であった。
家々の境界は失われ、為に各層の「輪」は繋ぎ目の無い物として映った。月の光を浴びる壁面は、鈍色の、真鍮か鉛の様な光を湛え、街全体がそっくり金属製の作り物の様相を呈していた。
これは、確かに誰かが遊びで作った様な街だな。そんな事を考えていたのだが、同時に僕はこの情景から受ける別の空気も感じ取っていた。まるで抑え付けられた巨大な怪物の、一瞬の隙を衝いて暴れ出そうとする前の、一種言い様の無い緊迫感に、それは似ていた。
僕は背中を何か冷たい物が奔り抜けるのを感じていた。これは只事ではない。このままで収まる訳が無い、きっと何かとんでもない事が起こるに違いない、と。
果たして、その「何か」は起こった。眼下の擂り鉢が、始めはゆっくりと、次第に恐ろしい勢いで廻り出したのであった。その回転は一様なものではなく、輪っかの一つ一つが、或る物は時計回り、又或る物は反時計回りと云った様に、それぞれが勝手な方向に、しかもそれぞれが違う速度で回転していた。更に、いつの間にこうなったのか、それまで舗道の両脇で踏ん張っていた街灯達が、各々の輪に沿って並び替えられて、その上、それぞれが固有の色、赤や黄、青や緑と云った光で瞬くので、今やこの街は、巨大なメリーゴーラウンドとでも言うべき景観を成していたのであった。
しかし、事はそれだけでは済まなかった。隣り合っている輪の位置が少しずつずれ始め、やがてそれは、中心の輪と外縁の輪とが互い違いに上下運動を繰り返すまでになって行ったのだから。この動きも始めはゆっくりとしたものとして始まり、徐々にふり幅も大きく、速度を増して行った。外縁の輪が浮き上がり、中心が大きく沈み込む時には、ダンテの地獄もかくやと云った巨大な空隙が生まれ、それはまさしく友人の言う、巨大な渦潮さながらであった。そして、反対に今度は中心が上昇し外縁が大きく落ち込んだ時には、それはまるでバベルの塔を彷彿とさせる巨大な塔として高々と空に向けて伸び上がったのであった。
どの位の時間その動きが続いたであろうか、その間僕はただ呆気に取られてみている事しか出来なかったので、遠くから少し遅れて響いて来る、轟々と云う音だけが耳に残っているのである。
やがて、動きの大きさはそのままに、ゆっくりと滑らかになって来て、最後には中心が伸び切った、即ち天高く伸び上がった形となって、それは止まった。
塔の頂には、ちょうど空の真ん中に懸かる月が重なっていた。もし、今あの塔を登って行けたとしたら。それを見ながら僕は思った。あの頂上から月の世界へと行く事が出来るだろう、と。
と、その時、月の表面がまるでカメラのシャッターが開く時みたいに、パクっと割れたかと見ると、その後ろに控える真っ白な世界から、何やら小さい物がパラパラと毀れ落ちて来るのが見えた。
オヤ、と見る間に再びシャッターは閉じ、思わずそちらの方に気を取られている間に、街は元通り、何時もの擂り鉢型に戻って、まるで何事も無かったかの様な静かな月夜の眺めなのだった。
しかし、本当に何事も無かったのか。僕は別に、自分の見た事を誰かに話した、と云う訳ではなかったが、その後、月の良く照る夜ともなると、何やら得体の知れない輩が街のあちこちに現われた、という噂が囁かれる様になったのである。曰く、夜遅く、家路を急ぐ途中通りが掛かった草野球場の真ん中で、居るんだか居ないんだか良く分からない半透明の連中が、ピョンピョン飛び跳ねていたとか、大手量販店の勢いに押されて、すっかり寂れてしまった商店街でも特に寂しい場所、表通りから奥へと続く店並びで、そこは昼間でもシャッターが締め切りになっていると云うのに、或る夜、そこの一番奥まった店が開いており、そこから皓々と光が洩れて、とても人とは思えない者達がガヤガヤとそこに犇めいていた、と云った風に。
「それで、」
僕は、後者の出来事を目撃した人と顔を合わせた時に尋ねてみたものだ。その人は、偶々僕が懇意にしていたレコード店の店長で、その人は、どうせ人なんか来ない店だ、だったらいっその事開き直って自分の好きな事を思い切りして仕舞おう、と、半ば捨て鉢な気持ちでこの店を開いたのであったが、これが思いの外当たり、「今では、わざわざ遠い所から来店してくれたり、注文があったりするんですよ。」などと、ホクホク顔で言うのであったが、それは兎も角。
「確かめてみたのですか?」と、僕は件の出来事について聞いてみた。
「何を?」
「つまり、そこに行って……、」
「飛んでもない! あんなものに関わった日にゃあ……、これですがな。」
そう言って、店主は自分の首を絞める仕草と共に白目を剥いて、舌をベロン、と出して見せた。中々迫真の演技であった、とここに記しておく。
実の所、僕も見た事が有る。あの不思議な出来事があってから暫くして、すっかり遅くなって静かな街の通りを歩いている時の事だった。何者かが時折自分のすぐ傍を通り抜ける気配を感じたり、「大丈夫かな、このまま放っておいて。」「彼なら大丈夫。どうせバラした処で、誰も信じやしないさ。」「違いない。」同時に、ドッと起こる笑い声。僕は恐ろしくなって、その場を全力で走り去ったのであるが、その間、あの笑いが何時までも耳にこびり付いて離れようとしないのだった……。
「そんな事も有るかも分からんねえ。」
僕の話を聞いた友人は、あっさりとそんな感想を漏らして見せた。自分としては相応の覚悟を持って臨んだ事だったので、これには拍子抜けだった。もっと、こう、困惑するだとか、「そんな事有る訳ないだろ。」などと拒絶される事を予想していただけに。
「君は遅れているなあ。偶にはもっと世の中の事に目を向けてみるべきじゃないか?」
などとしたり顔で言って来る物だから、此方もムッとして、どういう事か、と尋ねると、
「最近さんざん話題になっているじゃないか。」
友人の語る所に依れば、僕達の存在する宇宙は、全体的に見れば膨張している。しかし、それはあくまで全体として見た場合に言える事であって、一部に於いては逆方向、即ち縮む方向に動いている部分もあるらしい。ここでは一般的な世界の進行とは逆の行き方をしている事から、時間は未来から過去へと向かっているのだと。
ただ、そこで起きている事象は、単に僕等の世界の逆回し、と云う訳ではなく、それ独自の物を持っているとの事だった。
確かに、時の流れが逆であっても、それが僕等の世界に属さない所から齎された物であるのなら、そこに僕等の想像の及ばない世界が飛び出して来ても、何ら不思議も無いと云う訳だ。
所で、こんなさかしまの世界が長く長く伸びた挙げ句、僕達のいる地表にまで達したとするならば、果たしてそこではどんな事が起きるだろうか? それは、先に僕が友人に話した通りの事になるのでは?
未来からやって来たこの長く伸びた先端が、月の像を媒介し、地上にやって来たとしよう。正反対の物は引かれ合う。この先端の真下に位置する街の中心部は、呼応する様に、同じく塔の形になって伸び上がったのではあるまいか? そして、互いに月の像で二つはぴったり重なり合い、そこからは過去も未来も無い無時間の、と云うより時間に捉われない物が出現する……。
もし、この理屈が通るのであれば、案外この種の事は世界のあちこちで起きているのではないだろうか? こんな事を僕は徐々に暮れて行く空を見ながら考えていた。
「実際、起きているんだよ。」
僕の疑問に答える様な形で友人は言った。
「だから言っただろう? そんな事も有るかも分からん、って。それはもう大騒ぎさ。何せそれまで現実と信じていた事が全部ひっくり返っちゃったんだからね。結局の所さ、所謂現実なんて物は、今では一部の連中がそうと信じたいだけの、数あるファンタジーの一つに過ぎなかった、と、そう云う訳さ。連中の慌てふためいた顔ったらなかったよ。阿鼻叫喚と云う言葉がぴったりと当て嵌まる騒ぎ様だったよ。当然の報いさ。今までさんざん上から目線で自分達の現実とやらを押し付けて来たんだ。それが自分達の番になったって、それだけの話さ。
さあ、こんな辛気臭い話はも良いよ。そんな事より早く行こうよ。日が暮れちまうよ。」
……いや、日が暮れないと意味ないんだが。今日ここに来た目的憶えてる? という言葉を飲み込みつつも、僕と友人は当初の目的、ホタル観賞の為、この草原を後にするのだった。
終
街では色んな不思議が起こった 色街アゲハ @iromatiageha
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