怒り心頭500円
渡貫とゐち
放課後の面談
今日は三者面談の日だった。
……のだが、教室にはふたりしかいない。
ふたつの机を左右に並べ、向かいにはひとつの席がある。
ふたつの机の片方には派手なメイクをした女子高生。
その対面には、三十路にしては老け顔の男性担任教師が座っていた。
教師は準備していた書類を確認しながら、腕時計をちらちらと確認している。
「――先生ってさ、ぜんぜん怒らないよね。うちのお母さんがドタキャンしたのに、今も冷静に書類整理してるし」
「まだドタキャンと決まったわけではないだろう。やむを得ない事情があったのかもしれない。……連絡がないのは困ったものだが。――もしかしたら交通事故にでも遭っているのかもしれないな(笑)」
「いや、事故に遭ったかもしれない親の娘に言う冗談じゃないでしょ」
おっとすまない、と教師が片手で謝罪を示す。
窓から夕日が入り込む放課後。
運動部の練習の声が聞こえてくる。
軽い雑談をしていても声は入り込んでくるものだった。
「親がきた時に聞こうと思っていたが……仕方ないから聞いてしまおうか。
「特に。あれがいいこれがいいって思ってることはないかな。ふつーに大学にいくと思うけど……、無理せずわたしでもいけるとこ」
「そんなところはないが」
「そんなわけなくない? 大学なんて選ばなきゃ入れるところはあるものでしょ」
希望に沿って絞ってしまうから数が少なくなるだけで、一切の理想を捨て、とにかく数を出せば中には悪童でも入れる大学のひとつやふたつあるはずだ。
最低限の審査はあるだろうが、他よりも緩いことは確かだろう。
「選ばなければ、か……結婚と同じだな。選り好みさえしなければいつでも誰とでもできるものだ。希望を出し、絞ってしまうから婚活難民が出てくる――私みたいに」
「先生も選り好みしてるの?」
「それはそうだろう。私は比較的ロリコンだ」
「え?」
しん、と教室が静まり返る。
騒がしかった部活の声もなぜか今だけ止んでいた。
教師の対面に座る女子高生は自分のスカート丈の短さに後悔しながら、両手で自分を抱きしめ危機感を募らせる。……教室でふたりきりはまずいのでは?
「せ、先生ってば、冗談やめてよ。さっきから笑えない冗談ばかり……」
「選り好みしなければ生徒とも結婚できるのは、だってそうだろう?」
「選り好みしてもしなくても、教師と生徒はダメなんだけど!」
「なんてな。冗談だ」
「冗談…………には聞こえなかったんだけど」
ふ、と教師が微笑んだ。
意味深な表情に高崎がゾッとする。
「それはともかく」
「……流しにくい話題なのよ……」
教師がちらりと見せた狂気性に、高崎の表情が引きつった。
その後、雑談が続き、花が咲いたところで時間もだいぶ経っていた。
予定されていた三者面談の終了時間が迫ってきている……彼女の親からは未だに連絡もなく、慌てて駆け付ける足音も聞こえてこない。今日は無理かもしれない――――
「高崎の保護者はこないか……となると、また別の機会に面談、となるな」
「先生、ほんとごめんね、うちの母が」
「――まったくだ」
書類が強めにぱたん、と閉じられた。
その時に、閉じた勢いで、ふっ、と風が高崎の頬を掠る。
ん、と風に片目を瞑った高崎が、不安そうに、
「……やっぱり怒ってる? 時間を無駄にしたーってことだし」
「いいや? 怒ってないさ」
「でも――怒ってるように見えるよ? 雰囲気も刺々しいし」
「しつこいな……怒っていないと言ってるだろ!」
「めちゃくちゃいま怒ってるよ!?」
立ち上がった教師に驚き、高崎が「ひぃ!?」と手で顔を覆う。
が、彼女の杞憂だったようだ。教師は乱れた服を整え、ゆっくりと座る。
「怒っていないさ。……怖がらせてしまったか? すまない高崎」
「いえ……。怒ってない……? ほんとに?」
言ってから、またしつこいと怒られるかもしれない、と気づき不安になるが…………
一度落ち着きを取り戻した教師は簡単にカッとなることはない。
「ほんとにだ。マジで。だって怒るのだってエネルギーを使うんだぞ? 高崎くらい若いと一日に使えるエネルギーも多いだろうが……。先生はもう三十路を過ぎている。仕事して、家に帰って家事をして――と考えたらエネルギーはほとんど使い切ってしまう。ただでさえ少ない中で、怒るほどのエネルギーなんてもうないさ」
「先生も若い方じゃん。うちのお母さんは逆に、若くないのにエネルギーがあり過ぎだよ……あ。だからたくさん怒ってるってこと?」
怒るほどエネルギーが有り余っているということか?
「中には怒ることでエネルギーが増えていく人もいるが」
増えている、というよりは自覚していなかったエネルギーが怒ったことで見えてきた、なのかもしれないが。
「先生はな、怒るエネルギーのことを『500円支払うこと』と思っているんだ。一日に使える体力が――つまりはエネルギーだな――私の場合は6000円だ」
「6000円は……少ないの?」
「高崎は一万円を持っているだろう。若ければ持てるお金も多いわけだ」
「子供よりも大人の方がお金をたくさん使えるのに……それとは逆になってるね」
「稼いでいる大人は使えるが……そうでなければ子供と似たようなものだ」
使えるお金も多いが支払うものも多いと思えば、一長一短だろう。
大人も子供も、良いところがあれば悪いところもある。
「少ない小遣いの中で500円は大金だ。何の得にもならない『怒る』を、500円も支払ってするか? って話だ。高崎だって500円も払って他人を怒るくらいなら、別のことに使いたいと思わないか?」
お金で言えば、たとえばスイーツを食べるとか。
欲しいものがたくさんあるだろう……、それを買ったり、怒らなかった分の500円を足してちょっと高めの買い物をしてもいい。
――500円とは、元に戻せば500のエネルギーだ。
怒らなかったことで浮いたエネルギーを他に回せると考えれば、怒ることがどれだけ損になるかが分かるだろう。
「怒る価値のない他人を怒っても、こっちが損をするだけだ」
「…………」
高崎が黙り込む。
彼女の異変に気づいた教師が、
「どうした?」
「……怒る価値がない……わたしたち、先生に怒られたことないんだけど……」
「…………あ、いや。そういう意味じゃないぞ? そもそもこっちが怒るようなことを生徒がしないからな……怒りようがないんだ」
「嘘だ! だって怒られるようなことたくさんしてるよね!?」
制服を改造したり禁止されているメイクをしたり、スカート丈の短さだって何度も注意されている。だけど高崎は直さなかった。
その報告が担任教師にいっているのは明らかで、教師が上から注意を受けている場合もある。
――生徒が言うことをきかないのは担任教師のせいだ、と言われているかもしれない。
教師は、生徒を怒る理由があるはずなのに……。
この場合は、怒った方が得な気もするが……。
「怒らないことの『許容範囲』が広いのかもしれないな。授業中におふざけしようが、毎日遅刻しようが怒らないよ。成績に影響する、と分かっているだろう? 成績が悪ければいきたい大学にいけないかもしれない。そういうリスクを負っているなら、こっちからはなにも言わないよ。だから私は怒らない」
優しい顔と口調で、内容は冷徹だった。
怒らないけど助けない、見捨てる――と、正面から言っているわけだ。
「い、いちばんこわい……」
「生徒が卒業できなくとも正直なところ気にしないものだ。教師として外聞は悪いが……まあ仕方ないことだ。自分の評価のために生徒を利用するつもりはない。
……本人にやる気がなければ言っても効果は出ないからなあ。もちろん、やる気があるなら付き合うが。仕事中であれば手助けをするのはやぶさかではないぞ」
教師が書類をまとめ、机の上でとんとん、と整えた。
ちょうど、面談が終わる時間だった。
「さて、結局こなかったみたいだな。……今日はもう帰りなさい。面談はまた後日やろう――日程は追って相談するよ」
「はぁい。……あ、お母さんからメールだ」
「さっきは冗談で言ったが…………事故ではないよな?」
「事故ではないみたい……けど、電車の遅延で――――
うわぁ……文面から滲み出てくるイライラがすっごい伝わってくる……」
「どれどれ」
不躾にスマホを覗く教師。
高崎は教師の自然過ぎる行動に違和感を抱くことなくスマホを見せた。
――ふうん、と文面を読み終えた教師が一言。
羨ましそうに言った。
「500円以上の怒り方だね――エネルギッシュなお母様だ」
…了
怒り心頭500円 渡貫とゐち @josho
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