崇拝ごっこ。~二重の意味で『推し』てます~

柚鼓ユズ

崇拝ごっこ。~二重の意味で『推し』てます~

「あり得ない……やっぱり何度考えてもあり得ないでしょ、こんな事……」


 ……そう、あり得ないのだ。現実的に考えて。


 所詮、漫画や恋愛ゲームの世界。空想と妄想の中でしか起こり得ない出来事。現実にそんな事はある訳がない。そう思っていた。


『みんなー!今日も来てくれてありがとう!こんちゃー!』


 自分のノートパソコンからいつも通り流れる生放送の配信。そして、何故か壁一枚を隔ててうっすらとサラウンドで聞こえるその音。


 自分の『推し』である動画配信者の生放送。パソコンからなおも聞こえてくる音声。


『さて!じゃあさっそくこの前の続き、始めますかー!皆、今日もお付き合いよろしくお願いしまーす!』


 ……その声が今まさに、隣の部屋からリアルタイムで発信されているのだ。


(……落ち着け私。いつもの様に空気になれ。絶対に、絶対にご本人に悟られてはいけない。お隣さんの私が貴方を崇拝する程の熱狂的ファンだという事は。隣人が視聴者……いや、信者だと気付かれたら迷惑どころではない。自分が向こうの立場だったら恐怖以外の何者でもない)


 かくして私、ひびきカナデは今日も『推し』の生放送を壁一枚隔てたアパートの隣室で息を殺して視聴している次第である。



 ……話は、二ヶ月ほど前に遡る。


 今まで住んでいたアパートが老朽化のため取り壊しが決まり、急遽引っ越しを余儀なくされた自分が慌てて不動産屋に行って選んだのがこの物件であった。


(……どうせ遊びに来る友達もほとんどいないし、彼氏もいない。出来る予定もない。ネットが出来てキッチンがある程度広けりゃ何でも良いしね)


 自分で言っていて悲しくなるが事実なのでそう思ってその条件を伝え、二件目に紹介されたのがこのアパートだった。職場にも近くバストイレ別、入居後即ネットが使える。提示された家賃も含めてここ以外を探す理由が見当たらなかった。


(これ以上部屋探しに時間を取られるのも嫌だし、もうここで良いかな)


 そうして、自分の新居探しは早々に決まり、引越し支度は特に大きなトラブルもなく終わった。


「……隣の部屋の片方は空き部屋、もう片方の角部屋には入居者がいるのか。……引越し挨拶、した方が良いのかな」


 昔と違い、最近は騒ぐような小さな子供のいる家族連れでもなければ大家さんにだけ挨拶すれば大丈夫というところも少なくない。実際、前のアパートでもわざわざ引越し挨拶に来られた人はほとんどいなかった。


(自分が使わないタオルや洗剤を貰っても正直微妙だし、顔合わせした時に挨拶すればいいよね。うん、そうしよう)


 そう思って引越し作業を済ませ、荷運びを終えて引越しは無事滞りなく終わった。


「ふう……どうにか休みの間に最低限の準備が出来て良かった。あ、明日は燃えるゴミの回収日か。仕事に行く前に捨てるのを忘れないように気をつけないとね」


 そう一人つぶやき、ゴミ出しの準備をして眠りに就いた。


「ふわぁああ……眠いなぁ……。仕事は午後からだし、ゴミ出しのためだけに朝から起きるのは辛いなぁ。……今からもう着替えるのも面倒だし、このままでいいか」


 寝ぼけまなこでゴミ袋を掴んで部屋を出る。どうせアパートから目と鼻の先のゴミ捨て場までだからと寝間着のスウェット上下、眼鏡のままでサンダルを履いて部屋を出る。


「あっ……おはようございます」


 玄関のドアを開けると、自分と同じくゴミ袋を持った青年が出てきて目が合った瞬間、こちらに会釈して小声で挨拶してきた。


「うぇっ!?……あ、お、おはようございます……」


 慌ててこちらも会釈しながら挨拶を返す。お隣さんに引っ越し早々、女子力ゼロの姿を晒してしまったことを心の中で悔やんでいると、彼の方から言葉を掛けてきた。


「あの、先日越してきた方ですよね?あ、隣の部屋の新田あらたです。よろしくお願いします。……あ、ゴミ捨て場の場所、分かります?良ければすぐそこなんで案内しますけど」


 そう言って恐る恐るといった感じでこちらに声をかけてくる新田さん。その様子と言葉に悪い人では無さそうで安心する。

 隣人ガチャでハズレを引いたらどうしようかと不安に思っていたが、この人ならまだ分からないが大丈夫そうだ。


「あ、ありがとうございます。大家さんから事前にお聞きしているので大丈夫です。あ、私は響と申します。こちらこそよろしくお願いします」


 そう言ってもう一度一礼する。そのまま二人でゴミ捨て場に向かう。特に会話もないため、横目でちらりと気付かれないように新田さんを見る。ちょっとダウナーな感じもするが、黒髪ベースの長髪に金のインナーカラーを入れたお洒落な雰囲気な青年だ。髪だけでなく見た目にも気を使っているのが一目で分かる。


(……フードと片袖だけ柄の入ったオシャレパーカーにスキニーかぁ……きっとこの人、コンビニに行く時もきちんと着替えるタイプの人なんだろうなぁ)


 寝間着のスウェット姿ではもちろん、高校の時のクソダサジャージでコンビニどころかスーパーに余裕で行ける自分とは真逆の存在である。そう思った瞬間、急に恥ずかしい気持ちになった。そんな気持ちを必死で押し殺してゴミ出し作業を完了させる。二人でゴミ袋をボックスに入れたところで新田さんが私に声をかけてくる。


「じゃ、自分はこのままコンビニに行くので失礼します。これからよろしくお願いします」


 そう言って自分に挨拶し、新田さんはコンビニへと向かって歩き出した。一人になって改めて自分の姿を再確認し、気恥ずかしくなって足早にアパートへと戻る。


(……これからは寝間着で外に出るのは自重しなきゃ。……せめて朝ぐらいは)


 そう思い早々に自分の部屋へと戻る。朝食を済ませ、着替えて出勤の支度を始める時、新田さんの事を思い出して普段より少しだけ職場に向かう前に支度に時間をかけた。



「カナデちゃんお疲れ。今日はもうお客も引けたし、洗い物もあらかた終わっているから着替えてもう上がっていいよ。あ、これ今日の賄いね。タッパーに入れておいたから」


 店長にそう言われ、お言葉に甘えて上がらせて貰う事にする。私服に着替えて店長夫妻に挨拶して帰ろうとした時に女将さんに声をかけられる。


「あっ、そう言えばカナデちゃんってタバコ吸うわよね?これ、良かったら持っていかない?」


 そう言って女将さんが自分にタバコの箱を手渡す。中身はまだ二本程しか吸われていないほぼ新品のメンソールのタバコであった。


「これさ、昼間カウンター席にいた出張でこちらに来たって言うお客様の忘れ物なのよ。お財布やアクセサリーとかならご連絡するか忘れ物入れに保管するけどタバコだからさ。私は吸わないし、旦那ももう何年も吸ってないから良かったら持っていかない?」


 自分も少し前に電子タバコに完全に切り替えているのだが、タダで貰えるなら貰っておこうとありがたくその言葉に甘える事にする。


「じゃあ……いただきますね」


 そう言って女将さんからほぼ手付かずのタバコを受け取り帰路に着く。帰りにコンビニに寄り、歩きながら携帯をいじる。


「はぁ……我ながら変化のない人生だなぁ」


 帰り道をとぼとぼと歩きながらつぶやく。学生時代からずっと勤めていたバイト先の中華料理店にそのまま就職してもう何年も経っている。調理師免許を取った事と社員になったことでやりがいと責任感が生まれ手取りも増えたものの、一日のルーティーンは十代後半からほとんど変わっていなかった。そんな事を考えているうちにアパートへと辿り着いた。


「……うん、お酒の買い置きは充分だし、お店の賄いの炒飯と麻婆豆腐があるからこれをレンチンしてサラダだけ作れば良いか」


 冷蔵庫の中身を確認しつつ、その勢いで缶ビールを開ける。一日の疲れがこの一口で癒される。すかさず一服をしようと思った時、奥さんから貰った紙巻タバコの事を思い出す。


(……そうだ。女将さんから貰ったタバコがあったっけ。封も切ってあるし、湿気る前にそっちを先に吸っちゃおうかな)


 そう思いキッチンの換気扇前で吸おうと思ったが、どうしても匂いがあるしベランダで吸おうと思い、灰皿とライターを探す。


「えーと……どこにやったかなライター。捨ててはいないと思うんだけど……」


 電子タバコに切り替えてからというもの、ライターをとんと使わなくなったため慌ててライターを探す。小物入れの中にまだガスの入っているライターをようやく見つけ、タバコと共にそれを手にしてベランダに向かって窓を開けると、ふわりとタバコの香りがした。


(……あれ?まだ私吸ってないのに何で?)


 そう思いながらベランダに出ると、隣の新田さんがベランダでタバコを吸っていた。


「……あ、お疲れ様です」


 そう言ってタバコを吸ったまま一礼してきた。慌てて自分も会釈して言葉を返す。


「あ、お疲れ様です。新田さん、タバコ吸うんですね」


 そう自分が言うと、新田さんも自分に声をかけてくる。


「えぇ。……あ、もしかして響さん洗濯物とか干そうとしてました?すみません、すぐ消しますんで」


 そう言って口にしていたタバコを消そうとする新田さんに慌てて言葉を返す。


「あ、違います違います!そのまま吸って貰って大丈夫ですから!ほら、私もこれなんで」


 そう言って手に持ったタバコと灰皿を見せる。それを見た新田さんがホッとした表情で笑う。……やっぱりイケメンだなこの人、と思いながら自分もタバコに火をつける。一口吸って煙を空中に吐き出しながら思う。


(……あー、久々だなぁこの感じ。やっぱり、紙巻きには紙巻きの良さがあるよなぁ)


 匂いや灰の問題が片付くため、電子タバコに完全に移行したものの、やはり紙巻きのタバコの味は電子タバコでは得られない味わいがあった。


「……随分と、美味しそうに吸いますね」


 自分の様子を見ていたのか、新田さんがぽつりと言う。


「そ、そんなに美味しそうに吸っているように見えました?お恥ずかしい……」


 そう言って今でこそ電子タバコだが、昔は紙巻きタバコを吸っていたと話す。そう自分が話すと新田さんがまた笑いながら言う。


「いや、でも良かったです。自分、時々こうやってベランダで吸うので引っ越してくるお隣さんが嫌煙家の人だったらどうしようかとちょっと不安だったので。……あ、でもベランダで洗濯物を干すようならすぐ行ってくださいね。その時は吸わないようにしますから。勿論、洗濯物があった時も吸わないように気を付けます」


 その気遣いに思わず笑ってしまう。改めて隣人ガチャに外れなかった事を確信すると同時に感謝する。


「や、自分はほとんど室内干ししますし、普段は電子タバコなんで大丈夫ですよ。お気遣いありがとうございます」


 そう言ってしばし二人でタバコを吸いながら世間話に興じる。


「へぇ……こんな風に外やベランダでタバコを吸う人の事を『ホタル族』って言っていたんですか」


 何本目かのタバコに火をつけ、互いに自分の部屋から持ってきた缶ビールを飲みながら会話を続ける。ただの世間話とはいえ、お店の常連であるおじちゃんやおばちゃんとの世間話も楽しい時はあるが、イケメンとの会話はただただ癒しである。


「そうそう。うちらよりずっと上の世代の人らがベランダや玄関で吸う時の姿が遠くから見たらホタルに見えたからそんな風に言われたんだろうね。そう思うと、その頃から喫煙者って肩身が狭かったんだねぇ」


「本当ですよ。電子タバコでも喫煙者ってだけでもう迫害されちゃいますし、コンビニとかで気軽に買えるくせに喫煙所はどんどん少なくなるし……」


 そんな会話をしているうちに、新田さんのスマホが鳴る。釣られて自分もスマホを見ると結構な時間が経っていた事に気付いた。


「……あ、もうこんな時間ですね。それじゃ自分はこの辺で。おやすみなさい」


 そう言って新田さんが灰皿を持って立ち上がる。自分もそれに合わせて立ち上がる。


「そうですね。それじゃお疲れ様です」


 そう言って互いに部屋へ戻り窓を閉めた。


(ふう。思わぬ形でイケメンなお隣さんとの喫煙所コミュニケーションが出来たなぁ。さて、この勢いでご飯とお風呂を済ませちゃいますかね)


 そう思い頂いた賄いで簡単に食事を済ませ、そのまま寝転がりたい気持ちを抑えてバスルームに向かう。その時にふと髪に先ほどのタバコの残り香に気付く。


(やっぱり、紙巻きだと多少匂いが付くなぁ。……でも何か、懐かしくて嫌じゃないな)


 ストレス発散での喫煙ではなく、会話を楽しみながらの喫煙だったのも大きかったのかもしれない。酒もタバコもストレス解消のためではなく楽しむために嗜む時が一番美味しいのである。そんな事を思いながらいつもより丁寧に髪を洗った。


「ふぅ……。さてさて明日はお休みだし、夜更かしコースといきますかね」


 髪を乾かし終え、冷蔵庫からビールを新たに取り出しノートパソコンを立ち上げしばしネットサーフィンを楽しむ。


「お。二、三日見てないうちに色々新作動画が上がっているじゃないの。良いですねぇ」


 そんな風につぶやきながらいつも観ている動画を手当たり次第に視聴する。


 ハスキーの多頭飼い動画、ゲーム実況、ソシャゲのガチャ配信、チャレンジ大食い動画。我ながら雑食だなと思いながら次は何を観ようと更新ボタンを押す。するとトップの画面に配信予定のサムネが表示される。


「……あ、ナラセさんの動画上がるんだ。しかもこれから生放送。リアルタイムで観られる!ラッキー」


 そこには今、自分が一番推している配信者さんの生放送予定のページが見えた。


夢桜むざくらナラセ』。最初は自分の好きなレトロゲームの実況を飲酒しながらプレイしている動画をたまたま観たのがきっかけであった。


 ゲームの実況プレイの腕前は平凡ではあったが、合間に挟む会話やプレイ中のツッコミや着眼点が自分のツボにハマり、ラジオ感覚で聴ける心地良さもあってチャンネル登録をして過去の動画まで遡って観る程にハマってしまった。彼に合わせて自分も飲みながら動画を観るのが楽しみになっていた。


(……ナラセさん、実況プレイも面白いけど、また歌ってくれないかなぁ)


 実況動画も面白いのだが、自分が彼にハマったきっかけはある日、彼の歌う動画を聞いたのが決め手であった。


『さて!今日は歌ってみた動画を上げてみます!叩かないで優しい目で見て聴いてねー!』


 実況中もプレイ中に鼻歌を歌ったり、BGMに適当な歌詞を付けて歌ったりしているナラセさんだったが、それがコメント内でも割と好評であったため、時々歌う動画を上げていた。


『じゃ、今日はこの歌に挑戦してみまーす』


 彼が選んだ曲は自分も知っている曲だったが最初は何の期待もしておらず、今日は実況プレイ動画の続きじゃないのかぁ、といった感じで聴いていた。すぐにオケの音源が流れて前奏が始まり彼が歌いだす。


 が、Aメロが始まりサビになった瞬間、自分はその歌声に完全に脳髄を持っていかれる程の衝撃を受けた。


(何これ……ところどころ調子は外しているし、音程よりも感情のまま好き勝手に歌ってる。……でもこの歌声……凄く……癖になる)


【結構いいやん!原曲とは違う良さがある】

【想像してたより上手くて草】

【ナラセ節全開!いいぞもっとやれ】


 歌っている最中もリスナーからのコメントが次々と流れる中、自分は全神経を耳だけに集中して固まっていた。


(……何だろう、この感情。初めてライブハウスでバンドのライブを観た時や、CDショップで流れている曲に一目惚れ、いや一耳惚れした時の感覚に近いけど……でもちょっと違う)


 そう思いながらも無言で感謝の意を込めて、他の人よりも高額の投げ銭を送る。すぐにそれを見た本人からコメントが返ってくる。


『え!?こんな高額な投げ銭?マジですか?ありがとう神様……』



 ……違う。違うのだ。


 貴方が、神様なのだ。私の神様なのだ。

 だからお願いします。……今日から貴方を崇拝させてください。


 その日を機に、私にとってナラセさんは『推し』であり『神様』になったのだ。


「よし、五分前だからPC前待機……っと」


 一服を済ませて生放送が始まるのを待つ。時刻になったと同時に待機前のムービーが流れる。少し待つと映像がぱっと切り替わり生放送が始まる。


『はい、お待たせしましたー。じゃ、今日もやっていきましょうねー!』


 いつもと変わらぬテンションでゲーム実況が始まる。相変わらず小気味良いテンポの喋りに自分も思わず酒とコメント入力が捗る。


【その着眼点には流石に笑う】


 ストーリーには全く関係の無い箇所に勝手に想像を張り巡らせて一人考察を重ねる彼に対してコメントを入力してビールをまた一口あおる。


(はぁ……やっぱりナラセさんのトークは聴いていて気持ちいいなぁ。でも、早くまた歌う声が聴きたいな)


 そう思っていると、同じ事を思っていたリスナーからコメントが流れる。


【そういやナラセさん、最近歌ってないけど次はいつ歌うの?】


 自分と同じ気持ちのリスナーがいた事に喜びを感じつつ、ナラセさんの返答を待つ。そのコメントに気付いたのかそのコメントに対して返事を返す。


『あー……歌ねぇ。歌ってみたい曲はあるんだけれどちょっと事情があってねぇ……』


 そう言って言葉を濁らすナラセさんに、プレイが丁度行き詰まっているのもありコメントが続く。やれデスボイス曲挑戦とかアイドル曲期待とか、果てにはまさかの歌手デビューなどのコメントが流れる。後半の歌手デビューに関しては、もしそれが本当ならば自分としては発狂レベルで投げ銭を連投する事態に陥るのだが。


 そんなリスナーからの勝手な想像と妄想のコメントが流れる中、慌ててナラセさんがコメントに返答する。


『違う違う!そうなったら嬉しいけどさ!や、自分今角部屋に住んでいるんだけど、最近隣の部屋に新しい人が引っ越してきたのよ。俺、アパートに住んでて今までは隣とそのまた隣の部屋も空き部屋だったから割と自由に大きな声を出せたのよ。流石に隣人さんがいる中で時間を気にせず今までみたいには歌えないからしばらくは様子をみる感じなんだ』


 それを聞いて、『おのれ隣人!』と思いながらもナラセさんクラスの配信者でもアパート住まいなのだと思った。

 てっきり登録者数の人数からして防音仕様のお高めなマンションとかに住んでいるものだと勝手に思っていた。そんな事を思っているとまたリスナーからのコメントが書き込まれていく。


【むしろ隣人に聞かせるように大声で歌ってみればよろし】

【これを機に防音設備の整ったところに引越しすれば良いかと】

【むしろ隣人がナラセリスナーという可能性に賭ければワンチャン】


 好き勝手に書かれていくコメントにナラセさんが笑いながら新たな缶ビールを開けつつコメントに返信していく。


『お前ら他人事だからって勝手なこと言い過ぎ!引っ越してきたお隣さんに通報されたらお前ら責任取れんのか!?』


 そう言ってしばらくコメントに対して応酬するナラセさん。調子が良くなると実況を放置してコメントに対して返信をするのがいつものお約束である。それに比例してコメントの数も増え、彼もますます流暢になっていく。


【逆に考えるんだ。あえて聞かせて隣人をリスナーにしてこちらの世界に引き込むチャンスなのだと】


 リスナーの一人のコメントに、名案じゃないのと思いながら追加のビールを取りに立ち上がろうと思ったところでナラセさんがそれに対して返答する。


『ないわ馬鹿たれ!この前初めてご挨拶したけどお隣さん女性の方だったし、とても俺の放送観るタイプの人じゃなかったわ!』


 その返答にまたコメントが盛り上がる。こうなるともはや今日の生放送はゲーム実況よりトークがメインの放送になるだろう。それはそれで面白いので自分としては大歓迎である。リスナーの大半も同様の様でまたコメントが溢れる。


【フラグの予感】

【ナラセ『俺……実は配信者で』ってちゃんと挨拶した?】

【時おり奇声や絶叫があがりますが、よろしくお願いしますって隣人さんに言わないと!】


 好き勝手に流れるコメントに笑いを堪えつつ、ナラセさんの返信を見守る。やがてそれらのコメントを見たのかナラセさんがビールを飲んでから返答する。


『やめろってお前ら!俺のご近所生活を崩壊させる方向に持っていくな!』


 そう言って次々と書き込まれていくコメントを節々で読み上げながら返答していくナラセさん。隣人が女性という事があってやはりそれに対して突っ込むコメントが多かった。


 やれ隣人が可愛いのかとか、どんな感じの人なのかのようなものが大半であった。それらのコメントは華麗にスルーしつつも返事を返していく。少し場が落ち着いたのもあって、自分もトイレ休憩をしつつ追加のお酒を取りに立ち上がり、キッチン脇にある冷蔵庫へ向かう。


「……うーん。どうしようかな。立て続けにビールを飲んだから次はハイボールにしようかな」


 少し悩んで缶のハイボールを取り出し、イヤホンを装着すると流しっぱなしにしていたパソコンからナラセさんの声が聞こえる。相変わらず隣人ネタをメインとした雑談が続いていたようだ。ハイボールの缶を開け、再びパソコンの前に座り視聴を再開する。相変わらず隣人ネタをいじられていたようだが少し落ち着いた感じでナラセさんがまた喋りだしている。


『やー、でもお隣さんが喫煙者で良かったわ。今日ベランダで偶然会ってタバコ吸いながら世間話したし。お隣さんが嫌煙家だったらこれから大変だったよなぁ』


 ……え?引っ越してきた隣人とベランダで喫煙しながらお喋り?


 何気なくそう話すナラセさんに、ハイボールを飲む手が止まる。先程の新田さんとのやり取りを思い出し、そんな偶然があるのかと思った。思わずコメントが流れる画面に目を止める。その間もコメントを見たナラセさんの会話の応酬が続く。なおも隣人の事に突っ込みを入れるコメントが大半を占めていたが、話題がそればかりになった事を気にしたのかナラセさんがぱん、と手を叩き場を切り替えるように言う。


『はいはい!隣人さんのお話はもう終了!疲れたし一旦一服休憩入ります!皆も今のうちにトイレ休憩なり行っておいてくださいねー』


 そう言って画面が席を中座する際の専用ムービーに切り替わる。実況の合間に時折行われる買出しや一服休憩の時に流れるいつもの画面を眺め、イヤホンを一旦外して落ち着きを取り戻す。


(……そうだよね。いくらこのご時世とはいえ、隣人とベランダでタバコを吸って世間話をしたなんてよくある話だよね。うん、考えすぎだよな私)


 そう思った次の瞬間、イヤホンを外して無音になった部屋の中、隣からベランダの窓がガラガラと開く音が聞こえた。


 ……まさか。でも、本当にそうなのか。


 息を殺してベランダに近付く。すぐにジッポーのかちゃんという音が聞こえる。次の瞬間、耳を疑う言葉が聞こえた。


「……ったく。隣人さんの話引きずり過ぎだっての。会話切り替えないとだな」


 その言葉に再度自分はフリーズする。その後は無言で吸っているのか音は聞こえない。時間にしておよそ数分の時間であるが、その間自分は一歩も動けなかった。


 やがてタバコを吸い終えたのか、またガラガラと窓を閉める音が聞こえたのですぐにパソコンの前に戻りイヤホンを装着する。それとほぼ同時にBGMが切り替わり実況プレイの画面が映し出されナラセさんの声が聞こえる。


『よし!一服休憩終了!んじゃ、大分脱線したけど実況再開しまーす!』


 彼の言葉を皮切りに、隣人に対しての件を引き続きコメントする者も何人かはいたものの、すぐに実況しているゲームの内容のコメントで埋もれていった。だが、自分はその実況の内容が全く頭に入ってこなかった。


(嘘でしょ……?新田さんが……ナラセさん!?)


 その後、ナラセさんの実況は一時間程続いたが自分の頭には一切内容が入ってこなかった。



「うぅ……ほとんど眠れなかった。今日が休みで本当良かった」


 あれからすぐに横になったものの、衝撃の事実に目が冴えてしまいまともに眠れなかった。ようやく眠気が訪れた頃には外が明るくなっていた。


「……まぁ、缶のゴミの日だったからちょうど良いか。出し忘れると悲惨だからなぁ」


 前のアパートの時、ついうっかり缶ゴミを出し損ねて缶の入ったゴミ袋を溜め込んでしまった事が何度もあり、その度にサンタ状態で部屋とゴミ捨て場を半泣きで往復した苦い記憶が蘇る。


「よいしょっ……と」


 パンパンに缶が入ったゴミ袋を持ち上げてドアを開ける。袋を一旦地面に置いて鍵をかける。鍵をかけ袋を持ち上げたところで隣の部屋のドアが開いて新田さんが自分と同じように缶の入ったゴミ袋を抱えて出てきた。


「あ、おはようございます響さん」


「…………!」


 人間、本当に驚いた時に声が出ないというのは本当であったのだと身を持って知る事となった。が、このままでは挙動不審どころか不審者そのものになってしまうという理性が勝りようやく挨拶を返す。


「お、おはようございます新田さん」


 どうにか自然体で挨拶を返す。新田さんの様子を見る限り、不審には思われていないようで安心する。ゴミ袋を担いで新田さんが自分に声をかけてくる。


「響さんもゴミ捨てですか?この前といいタイミング合いますね。じゃあ行きましょうか」


「あ、はい。そうですね」


 そう言われ自分も缶のぎっしり詰まったゴミ袋を持つ。半透明の袋からはビールとハイボールだらけの中身がばっちり見えている。女子要素皆無のその中身が恥ずかしくなり、新田さんと反対側に袋を持ち極力袋が見えないように新田さんとゴミ捨て場までの道を歩く。


「へぇ、中華料理屋さんで働いているんですか。仕込みとか片付けとか凄く大変そうですよね」


 歩きがてら世間話をする事となり、言葉に詰まりそうになる自分から自然と会話しやすい雰囲気に誘導してくれる新田さん。実況の時も思っていたがやはりトークスキルが高いなと思った。


「ですねぇ。夏場の調理なんて地獄ですよ。ただでさえ暑いのに厨房でガンガン火の前で鍋を振るうなんて当たり前ですからね。今はもう大分慣れましたけどね」


 話しながらも横目で新田さんを見る。今日の服装は細身のデニムに襟と袖だけに柄の入った長袖の黒シャツだった。相変わらずのお洒落さんである。


「凄いですね。俺なんて自炊ろくに出来ないからほとんどコンビニや宅配で済ませちゃいますもん。料理が出来るって時点で俺より人生のレベル高いです」


 天から二物どころか三物も四物も与えられていそうな彼にそう言われ、複雑ながらもお礼の言葉を返す。


「ありがとうございます。でもそんな褒められたものじゃないですよ。鍋を振っている時の顔なんて女捨てた表情ですし、油跳ねで腕なんて酷いことになってますから。綺麗で色白な女の子の手とか見ると羨ましくなっちゃいます」


 そう言って空いている方の手をひらひらと振りながら答える。自分の言葉に新田さんが言葉を返す。


「いやいや、それって勲章ですよ勲章。色白で綺麗でも包丁持った事がない女の人の手より、料理をきちんと作っているんだなって分かる人の手の方が素敵ですって」


 本心はどうであれ、こういう言葉をさらっと言えるところがイケメンたる所以なのだろうか。販売セールスの仕事とかならかなり優秀な成績を叩き出すのではないだろうか。思わず新田さんに質問する。


「……新田さんは、何のお仕事をされてるんですか?」


 ……つい聞いてしまった。まさか正直に配信者と答える事はないだろうとは思うが、純粋に興味が湧いてしまったというのもある。一瞬だけ会話が詰まったが、すぐに新田さんが口を開く。


「……自分は在宅ワークがメインですね。それと兼業で友人の会社を定期的に手伝っています。商品の梱包とか発送とか。あと、実家が農業なので繁忙期だけそっちで働いたりしますね」


 ……確か、実家が農業だとかなり前の生放送でぽつりと漏らしたことがあった気がする。やはり、本当にナラセさんなのだ。動揺を悟られないように必死に抑えながら会話を続ける。


「へぇ。実家が農業なんですか。何か以外です。農業こそ大変だと思いますよ?畑を耕すところから始まって、作物の収穫作業とか。テレビとかで観てて凄いなぁって思います」


 そう言うと新田さんがこっちに向かって笑みを浮かべて言う。……やめろ。そのスマイルは私に効く。


「いや、本当大変なんですよあれ!繁忙期しか手伝わない自分が言うのもアレなんですけどね?深夜から早朝にかけて一気に収穫して、泥を落として傷物をはねて箱詰めして……の作業を延々と繰り返しますから。俺は繁忙期だけですけど、跡継ぎの弟と親はこれを一年中やっている訳ですからね。自分には無理です、無理」


 兄弟がいるとは生放送で聴いた事があるが、弟さんだったのか!と内心で新情報を得たと思ってしまう自分を自制して会話を続ける。互いのゴミを集積所に捨て、その後も差しさわりのない会話をしながらアパートへと戻る。


「へぇ。中華料理がメインなんですね。凄いなぁ。エビチリとか麻婆豆腐とか素も使わずに作れるなんてやっぱりプロじゃないですか」


「あはは。お店のキッチンじゃなきゃ普段作ることなんてほとんど無いですけどね。せいぜい自宅で作るのは炒飯やレバニラ程度ですよ」


 流石に店名までは言う気はなかったが、それぐらいは良いだろうと思い、そこからは中華料理の話をメインで話した。名残惜しいような感じではあったが、無常にも部屋まではあっという間に辿り着いてしまった。


「それじゃ失礼します。いつか、響さんのお店でご飯食べてみたいですね」


 ……勘弁して欲しい。『推し』が自分の職場で食事する光景なんぞを見たら、バイト時代の様に鍋を振るった際のように中身を盛大に地面にぶちまけかねない。


「あはは。そんな機会があったら面白いですね。それじゃ失礼します」


 そう言って互いに一礼して部屋に戻る。……鍵をかけ靴を脱いだ瞬間、即効ベッドへダイブし、枕に顔を埋めて声にならない声で叫ぶ。


(……あああああぁ!!なにこれ!なんなのこれ!あれか!ドッキリか!それとも長い夢か!推しの素顔どころか無料のトークイベントとかあり得ないだろ!金払わせろ!投げ銭するぞこらぁ!!)


 隣の新田さんに聞こえない範囲でなおも枕を抱えてジタバタしながらベッドの上でごろごろと転がる。


 ……落ち着け自分。そもそもこんな事が起きてはいけないのだ。自分はあくまでただのリスナーであり、一ファンという存在なのだ。生放送やアーカイブを観て、好きっていう気持ちをぶつけられるだけで満足だったはずだ。


(過去にどれだけハマったバンドやアイドルだって、ライブ会場や即売会、トークイベントで逢えるだけで満足だったし、そもそも『推し』に認知されるのが嬉しかった時代もあったが今は自分の存在が知られぬままで推すのが幸せなパターンだった。なのに、今回の状態はどうした?何があった?……って感じだ。もう自分の感情が追い付かない)


 悶絶しながらそこまで思ったところで、ふと我に返る。


(……いや待てよ?そもそも、自分が一人で興奮していたけれど、新田さんからしてみれば、自分の存在はただ世間話程度の会話が交わせる程度の隣人なのだ。別にフラグが立ったとか、そういう展開になった訳じゃないんだ。落ち着け。まず冷静になれ私)


 一周回ってようやく冷静に考える。お隣さんがイケメンでまさかの『推し』配信者の中の人。それは間違いない。


 ……だが、それを知っているのは現状自分だけなのである。そして、自分はそれを周りに吹聴する気は微塵もない。ましてや本人に打ち明けるなんて論外である。


 現実での自分はゲームで例えるならモブキャラである。恋愛ゲームで言えば主人公のクラスメートC位のポジションだ。それも攻略に関する重要なヒントを告げるようなキャラではなく、主人公の日常での会話シーンを繋ぐためだけに出てくるような立ち位置で出てくる存在である。


(……そうだ。私があくまで無害な隣人として振る舞えば全て丸く収まるんだ。ナラセさんを知らないただのお隣さん。そうすればリスナーとしても、隣人としても上手くいく。新田さんからは目の保養としてイケメン成分を補充、ナラセさんには変わらず『推し』としての癒しを貰える。それで良いじゃないか私)


 そもそも、『推し』であり神様である存在の方と恋愛だなんて想像も出来ない。むしろ考えられない。自分の見た目がヒロイン級のキャラならともかく、クラスメートCの自分では想像出来ないどころかしたくもない。


(……うん。それが良い。私はあくまでお隣さん。ナラセさんの信者という事を知られないままに過ごそう。その方が私にとってもナラセさんに対しても幸せだ。悟られる事なく、かつ無害なご近所さんを装ってこれからも過ごしていこう)


 そう心の中で誓ったのであった。



 そうして、はや数ヶ月が経過した。月日が経ったものの、新田さんとの距離が変わる事はなかった。あくまで無害な隣人を装い、ゴミ出しや買い出しの時に遭遇すれば挨拶や軽い世間話をするに留まる関係に無事に落ち着いた。


 世間話をする度にテンパりつつも、推しのプライベートに立ち入るのは厳禁、という自分の理性が勝り、どうにか日々を無事に過ごしていた。


(……これで良い。これが適切な距離感。自分が『推し』に好きをぶつけるのはあくまでネット越しで良いんだ)


 ネットを開けば貴方に逢える。その距離感を保てば良い。そう自覚してからは新田さんとして対面しても少しずつ自然に接する事が出来た。


 ゴミ出しやコンビニで出逢いながらも、そ知らぬ顔で生放送の時に投げ銭を送る。そんな毎日にようやく慣れてきた。さて今日も生放送の日だな、と仕事をしながらそんな事を考えていると店長から声がかかる。


「カナデちゃんお疲れ様。この前無理言って残業してもらったから今日はもう上がって良いよ。洗い物も片付けもうちらだけで間に合うから」


 不意に店長から声がかかる。いつもなら予定がない時なら大丈夫ですといつもの時間まで作業を続けるが、今日はナラセさんの生放送の日だったので事前に食事や入浴をこの時間に帰れれば余裕を持って済ませておけるかと思い、その言葉に甘える事にする。


「あ、そうですか?じゃあ、お言葉に甘えさせて貰いますね」


 そう答えて洗い物を済ませて着替えて店内に戻ると女将さんが声をかけてくる。


「ほらカナデちゃん、これ待って帰りなさい。せっかく自分が作ったんだからさ」


 そう言って女将さんが注文が重なったため多めに仕込んだ炒飯をパックに詰めて袋に入れて手渡してくる。正直、今日は賄いで麻婆炒飯を頂いたのでご飯とご飯がかぶってしまうため無理には要らなかったのだが、既に女将さんの手によって丁寧にフードパックに詰められていたため断るのも躊躇われたので、ひとまず受け取る事にした。


(……ま、明日食べるか冷凍すれば良いよね。晩御飯は買い置きのカップ麺で済ませば食費が浮くしその分投げ銭に使おうっと)


 そう思っていると、女将さんが炒飯の入った袋と一緒にタバコの箱を渡してきた。


「あ、カナデちゃんついでにこれも持っていって。これ、買い出しの時に街頭キャンペーンか何かで貰ったの。試供品ってやつ?私はいらないけどカナデちゃんは吸うでしょ?」


 そう言いながら女将さんが自分に炒飯の入った袋と新品のタバコを手渡す。昔紙巻きを吸っていた時に愛飲していたメーカーのタバコだ。メンソール系のタバコを愛飲していたが、特にこのメーカーの清涼感が好きでカートンで買っていた事を思い出す。


「あ、ありがとうございます。じゃあ、いただきますね」


 そう言ってパックに詰めた炒飯と新品のタバコを受け取って退勤する事にした。


「うーん……貰ったは良いけど冷凍庫の空きあったかな。この前炊いたご飯の残りも冷凍したしスペースがないかもだよなぁ……」


 そんな事を思いながらアパートへ向かう。途中コンビニに寄って酒とタバコを買い、さてアパートに帰ろうと思っていた矢先、不意に声をかけられた。


「……あれ、響さん?仕事終わりですか?お疲れ様です」


 その声に曲がった背筋がぴんと反り返る。


「ファッ!?あ、新田さん?お、お疲れ様です!」


 反射的に返事をしたものの、今の自分はコック帽を被っていたため髪は悲惨な感じだし、いくら着替えたとはいえども髪や体には全身油や焼き物の匂いが染み付いている。この状態で『推し』との対面や会話は自分にとっては罰ゲームを通り越して羞恥プレイである。


(待って待って待って!何で私、この格好で神様にエンカウントしなきゃいけないの!?罰ゲームでもこんな事ないでしょ!?何?神様って死体に鞭打つのがマイブームなの!?デスゲームでもこの状態で遭遇とかありえないから!)


 既に女子力ゼロの姿を見られているとはいえ、仕事終わりのくたびれモードの自分の姿を見られたくはなかった。ましてや相手は『神様』であり『推し』である。この姿を見られるならライブで全力で大騒ぎした汗だく状態の姿を見られたほうがまだマシというものだ。


 だが悲しいかな、イケメンにはモブの心は分からぬと見える。いつもの笑顔で新田さんがこちらに話しかけてくる。


「あ、響さんコンビニ帰りですか?自分は今からコンビニでご飯とお酒を買いに行くところだったんですよ。すれ違いですね」


 相変わらずの爽やかスマイルで自分に声をかける新田さん。自分の見た目の残念さはもはや諦めるとしても、近距離でこの自身に染み込んだ料理臭を新田さんに嗅がせる訳にはいかない。必要最低限の会話に留めて一刻も早くこの場を離れようと思った。


「そ、そうなんですよ。仕事終わりにお酒とタバコを買って帰ろうとしたところで……」


 そう言った時に、ふと女将さんに待たされた炒飯の事を思い出した。反射的に言葉が口に出た。


「……あ、新田さん今コンビニでご飯買うところなんですよね?も、もし良ければこれ……炒飯なんですけど……食べますか?」


 そう言って持ち帰った賄いの炒飯の入った袋をエコバッグから取り出して新田さんに差し出す。


「え?それって……もしかして、響さんのお店のご飯ですか?」


 自分で言っておきながら、今更自分のしでかした事に気付く。


(……いやいや!待て私!ただの隣人がいきなり炒飯の入った袋を渡したらキモいだろ!アパートの隣人が『作り過ぎてしまいましたので良かったら……』なんて漫画や妄想の世界だろ!そもそもこのご時世、いくら店で作った物とはいえ、出会い頭にこんな事言われたら相手も困るでしょうが!)


 自分の発した言葉に後悔しつつも脳内でテンパる自分に対し、新田さんの反応は意外なものであった。


「……え?良いんですか?是非頂きたいです」


 ……え?


 新田さんの返答が咄嗟に理解出来ずに一瞬フリーズする。即座に正気に戻り慌てて返答する。


「あ、もしかして気を遣わせてしまいましたかね!?あ、新田さんも何かお目当ての物を買いにコンビニに来たんですもんね?変なこと言ってすみません!」


 そう答えたものの、新田さんが自分に言葉を返す。


「いえ、ご迷惑でないなら本当にありがたいです。正直、何を食べようと決めてコンビニに来た訳じゃないんで。そしたら買い物もお酒とタバコだけで済みますし、良ければ頂きたいです」


 そう言われるともはや自分に返す言葉はなかった。震えそうになる手を抑え、かつ自分の匂いを少しでも感じ取られないように腰が引けた状態でおずおずと炒飯の入った袋を差し出す。


「そ……それなら是非。あ、今日食べないようなら冷凍するか明日中には食べてくださいね」


 自分の言葉に新田さんがまたにっこりと笑いながら言う。


「いえ!まだほんのり温かいし、コンビニで買い物したらすぐに頂かせて貰います。ありがとうございます響さん」


 あれよあれよという間に賄いの炒飯を手渡す事となり、キャパシティの限界を迎えそうだったためその場を去ることにする。


「そ、それでは私は失礼しますね」


 それだけ言ってアパートへ戻ろうとする自分に、炒飯の入った袋を丁寧に持ちながら新田さんがにこやかに言う。


「本当ありがとうございます!後でさっそく頂きますね!」


 そう言ってこちらにまた満面の笑みを浮かべる。やめてください尊死してしまいます。


 新田さんのその言葉にぺこりと会釈してアパートへと戻った。


(ふう……やっと落ち着いた。ていうか、心臓に悪い)


 帰宅して速攻でお風呂に入り、汗と体に染み付いた匂いを念入りに洗い流した。髪を乾かしようやく人心地ついた。


「ふぅ……ご飯の前に一服しよう」


 缶ビールを冷蔵庫から取り出し、風呂上がりではあったが女将さんから貰った試供品のタバコを待ってベランダに向かう。既に風呂も済ませていたが一、二本くらいは良いだろう。窓を開けて一服する前についつい隣の部屋の方を見てしまう。


(……明かりが点いてる。新田さん、本当に炒飯食べたのかな。食後の一服しに出てこないかな)


 そんな事を一瞬思ったところで我に帰る。……いけない。これではまるでストーカーの思想ではないか。


(だから駄目だって自分!あくまで私は何も知らない無害な隣人になるって決めたでしょうが!)


 感情を振り払い、試供品のタバコのフィルムをぺりぺりと剥がしてタバコを取り出してライターで火を点ける。すぐに一口吸うと少し独特の香りとメンソールの味が広がる。


(……これ、最近流行りのアロマとかそういった類のフレーバーなのかな。私はいつものメンソールだけの方が好きだな)


 そんな事を思いながらタバコを吸い終える。もう一本吸おうかとも思ったが止め、窓を閉めてカップ麺を取り出してお湯を沸かす。


「さてと。今日もナラセさんの生放送だし、パパッと済ませてゆっくりリアルタイムで視聴しようっと」


 そう思いながら買い置きのカップ麺をすすり、簡単に晩ご飯を済ませた。


『みんなお待たせー!こんちゃー!じゃ、早速今日も実況初めていきまーす!』


 いつものテンションでナラセさんが時間通りに生放送を始める。ゲーム実況の前にいつもの雑談に入るナラセさん。コメントが流れてそれを読んだナラセさんが回答していくいつものパターンである。


【出だし早々テンションが高くて草】

【隣人さん逃げてー】

【お疲れ!寝ないで待ってた】

【隣人『また何か隣の人が叫んでる……』】

【こんちゃー】


 流れるコメントの合間に時々隣人ネタが書き込まれる。逃げるなんてとんでもない。こうして皆と一緒にリアルタイムで視聴させて頂いていますと思いながら自分も無難なコメントを書きこむ。適度にコメントに返答しつつナラセさんが実況を開始する。


『さてと、じゃあ早速この前の続きからいきまーす』


 そう言うと画面がゲームのプレイ画面に切り替わる。今回ナラセさんが挑戦しているのは一昔前に流行った所謂サウンドノベルゲームだ。


 今回ナラセさんが実況しているゲームは自分も幼少期にプレイした事があるゲームで、昨今は美麗なグラフィックやCGだらけのゲームの中、昔のゲームという事もあり画質も荒く、今なら笑って見ていられるが当時は飛び上がるほど怖い話やしばらくトラウマで夜に思い出したくない様な秀逸なシナリオがあった事を思い出す。


『あー……ここでこの選択肢かよー……選ぶの怖いって!』


 ナラセさんの脅える様子に思わず酒が進む。このシナリオは自分も当時怖かったので覚えている。確か四つの選択肢の中の一つを選んでしまうと即バッドエンドに突入してしまう筈だ。案の定選択肢を選ぶところでプレイの手を止め長考に入るナラセさん。


【これは確かに怖い】

【自分ならAを選ぶなぁ】

【てか現実的に考えてこの時間に入れるってセキュリティガバガバやん】


 おそらく自分の様に昔にこのゲームをプレイした事があるリスナーもいるだろうが、訓練された我々リスナーの中にはネタバレをして興が冷めるような事をする者はいなかった。どうしてもナラセさんがクリア出来ずに積んだ時にせいぜいヒントを書き込む程度であった。改めてリスナーの民度が高い事に安堵する。


(……あ。ここ覚えてる。確か、Cを選ぶとバッドエンドなんだよなぁ。ナラセさんどうするかな)


 コメントを読みながら長考するナラセさん。ホラー体勢が無いようでいつもよりかなり恐る恐るといった感じでようやく口を開く。


「決めた!俺はCを選ぶ!」


 そう宣言したナラセさん。自分は既に今後の流れが読めてにやにやが止まらない。……まだだ。まだ堪えるんだ。そんな事を思っていると、今後の展開が読めたのかコメントも一層盛り上がる。


【ざわ……ざわ……】

【ちょっと待って普通に怖いんだが】

【やっちまったな……】


 次々と流れるコメント。だがナラセさんは画面に注視しているからかコメントに目が行かない。次の瞬間、絶妙のタイミングでゲームの音楽が一転し、荒い画質ながらもおどろおどろしい無数の手が画面いっぱいに現れゲームの主人公が引きずり込まれる。


『ぎゃ――!!!!』


 同時にナラセさんの絶叫が響く。大笑いしたい気持ちを必死に堪え、声をかみ殺して笑う。今頃他のリスナーも大爆笑している事だろう。


 それを示すかのように未だ【THE END】の画面の前で震え声を発しているナラセさんに対してコメントが殺到する。


【約束された勝利の絶叫】

【これが見たかった】

【自分も怖かったけどナラセさんの声の方がびびった】

【これがあるからナラセの実況はやめられない】


 心から同意したくなるコメントにうんうんと頷きながら一旦イヤホンを外して次のビールを取りに行くと同時にキッチンの換気扇に向かう。おそらく今の状態から立ち直るまでには時間がかかるだろうからその間を狙って電子タバコで一服する事にした。室内で吸う時には換気扇の横で吸う習慣は、紙巻きから電子タバコに変えても変わらなかった。


「あー……面白かった。今日一の名シーンだったなぁ。しかし神回だった。アーカイブ残るだろうし、今度もう一回ゆっくり見よう」


 ビールを一口飲み、タバコを吸いながらつぶやく。しばらくはあれで思い出し笑いが出来そうだ。


「さてと。そろそろナラセさんも復活する頃かな。さて、続き続きっと」


 電子タバコのスティックを灰皿に入れ、イヤホンを再びセットする。予想通り、ショックから立ち直ったナラセさんがリスナーのコメントに対して応酬を繰り広げていた。


『いや!だってビビるっしょ、あんなん!昔のゲームだってナメてたわ!マジで焦ったわ!」


 予想通り先程の絶叫をリスナーからいじられており、それに対して反論しているナラセさん。確かに幼少期の自分も焦ったシナリオだったため、同意出来る気持ちもあったがホラーに耐性の無いナラセさんをイジリ倒すコメントがその後も延々と続く。


【で?やっぱり今日はもうこれで終了?】

【無理するな。お前はもう充分頑張った】

【今日一の絶叫も聞けたしな。無理する事はない】

【あの叫びを聞けただけで今日は満たされた感あるな】


 気遣いとイジリが程よく混ざったコメントが流れる中、ナラセさんが口を開く。


『いや!いつもの俺なら今日はこれくらいにして次回に繋ぐけど今日はもう少しやる!少なくともこのシナリオを終えてから終わりにする!』


 いつものナラセさんとは違う反応に自分はもちろん、リスナーからも驚きのコメントが流れる。


【どうした?何かあったか?】

【おん?いつもならギブアップやろ?】

【無理せず次回にリベンジするのが最善手】


 そんな風にコメントが流れる中、ナラセさんが言葉を続ける。


『いや!続行する!さっき晩飯にめちゃくちゃ美味い炒飯食べて満たされたから今日の俺はまだやれる!』


 ……は?今、何て言った?


「炒飯……?それってまさか……」


 自分が一人狼狽している中、コメントとナラセさんの応酬が続く。


【この時間に炒飯食いたくなった。訴訟】

【いいなぁ炒飯。どこの奴?】

【今から炒飯買いにコンビニ行ってくる】


 コメントが炒飯に関する話題で盛り上がる。


(……本当に食べたんだ。しかも、美味しいって……)


 直接会った時ならば、嘘でも義理でも『美味しい』とは言える。だが、まさかネット越しにそう言って貰えるとは思ってなかった。


「……あぁ、どうしよ。これヤバイかも」


 ただのリスナー、いや、一ファンとしては決して抱いてはいけない感情を抱いてしまいそうになる。


(……駄目だ駄目だ!これ以上は駄目!『推し』に対して邪な気持ちを抱くのはヤバい!)


 そんな自分に、イヤホンからは相変わらずコメントに対してのナラセさんの声が響く。


『いや、残念だけど頂き物で貰った炒飯だから店の名前とか分からないのよ。ただめっちゃ美味かった!あれなら三食炒飯縛り生活でも余裕で生活出来るレベル!』


 ……隣人と言ったらまたそれをネタにまたイジられると理解しているのか、あえてそれを言わないナラセさん。個人情報の漏洩のためなのか、隣人である自分への気遣いなのか、あるいはその両方か。


(どちらにしても、もう心臓に悪い。……私が一人で興奮しているだけだけど)


 あくまでナラセさんは『推し』で、新田さんは『隣人』である。それなのにどんどん意識してしまっている。自分が単にナラセさんのリスナーであり、新田さんが夢桜ナラセであることを知っているだけの事なのだ。自分が勝手にあれこれ悩んでいるだけの話である。それだけの事なのだが、自分がこうして苦悩している間にもナラセさんとリスナーの応酬は続く。コメントに対してナラセさんが応答する。


『いや、食って本当に感動したのよ!冷凍の炒飯やチェーン店の炒飯とは別物だったの!もうこの炒飯しか食えない!とかまでは流石に言わないけど、倍の価格払ってもそっちが食べたいレベルだったの!』


 炒飯とはいえど、自分の料理をしきりに語る『推し』の姿。そのトークを聞いて一人混乱する。


 ……どうしてこうなった?……おかしい。こんな風になるはずじゃなかった。


(貴方は、あくまでネットを通して逢える私にとっての『神様』。そんな存在だった)


 こっちから一方的に『好き』って気持ちをぶつけられるだけで良い。それだけで満足だった。思わず一人でつぶやく。



「……なのに、どうして?」


 お付き合いするどころか、ましてや恋愛に発展する予兆すら全くない。だが、今の自分は推しの配信を別の視点から見てしまっている。このままでは自分が一番嫌いな厄介な信者になってしまう。それだけは何としても避けたい。


(……少し、離れた方が良いのかな。ナラセさんから)


 隣人という関係上、新田さんとしての接触を断つというのは難しい。なら、適切な距離を保ちながらあくまで隣人として接し、その間に自分が新たな『推し』を見つけてこの感情に落ち着きを取り戻せば良い。自分にそう思い込ませるように心の中で言い聞かせる。


「そうだよね。うん、それが良い。……だから早く、私にとって次の神様を見つけなくっちゃ」


 そう誓い、後ろ髪を引かれる思いでブラウザを閉じた。



「無理なんだよなぁああ……!」


 あれから二週間ほどが経過し、ゴミ出しやコンビニに向かう際に極力新田さんとの遭遇を避けつつ、ナラセさんに代わる『推し』の存在を見つけるべくネットの海を彷徨った。


 ……が、結果としては誰一人、自分にとって夢桜ナラセという存在を超えるほどの『推し』に出逢う事は叶わなかった。


「いや!同じ路線の配信者もいたし、顔出しでイケメンな配信者もいた!歌メインの配信者も更新頻度がマメで楽しい企画動画を上げている人もいる!……でも、何か違う」


 単純な実況動画や歌のクオリティだけ比べてみれば、ナラセさんよりも技術が上の配信者は沢山いた。だが、それらの動画を観ていてもどこかナラセさんと比較してしまう自分がいた。


「参ったなぁ……。こんなんじゃいつまでもこのままじゃんか私」


 そう思い、気分転換に一服しようと思いタバコを手に取ると、まだ何本もあるかと思っていたタバコがあと二本しか入っていない事に気付いた。


「げっ。残り二本じゃん。この時間でこれじゃ足りる訳ないし……はぁ。面倒だけどコンビニ行くか」


 パーカーのフードを目深にかぶり、部屋の鍵をかけてコンビニに向かう。湯上がりの肌に夜風が心地良い。鼻歌を歌いながら夜道を歩く。


(雨が降ってなくて良かったな。この道結構暗いし、傘とエコバッグを両方持って歩くのって嫌なんだよねぇ)


 そう思っていると、目の前にコンビニ袋を持った新田さんと遭遇してしまった。


(ぎゃっ!遂にエンカウントしてしまったか……!ここ最近、ゴミ出しや買い物の時間を気付かれない範囲で微妙にずらしていたのに……)


 こちらに気付いた新田さんがにこやかに話しかけてくる。


「あ、お疲れ様です響さん。こんな時間にコンビニですか?ていうか、何気にちょいとお久しぶりですね」


 そう言って屈託なく笑う新田さん。……違います。私があえて意図的に避けていたのです。……などと言えるはずもなく、何とか自然な笑顔を装い言葉を返す。


「そ、そうなんですよ。帰ったらタバコがもう残り少ない事に気付いちゃって……あはは」


 気取られないように慎重に会話する。幸い、自分の様子を不審に思われる事もなく、新田さんが会話を続ける。


「あー。分かりますそれ。まだあったと思った時に空箱だった時、ショックですよね」


 そこまで話した時、はっとした表情を浮かべて新田さんが言う。


「あ!そうだ!この前頂いた炒飯、めちゃくちゃ美味しかったです!今まで食べた中で一位ってくらい美味しかったです。すみません、お礼を言うのが遅れて」


 ……知っております。既にネットでご感想を頂いております。……とは口が裂けても言えず、慌てて言葉を返す。


「お、お口に合えば良かったです。こっちも冷蔵庫がパンパンだったから助かりましたよ」


 少し久々だったのもあり、話し出したら徐々に自分も自然に話す事が出来た。新田さんが更に言う。


「いやー、本当美味しくてあっという間に完食しちゃいましたよ!響さんのお店の他の料理も気になります!」


『次はお店に食べに行きます!なんでお店の場所と名前教えてください!』と言われたらどうしようかとひやひやしていると、自分の方を見て慌てて新田さんが言う。


「あ、ごめんなさい。買い物に行くところだったのに。引き止めてしまってすみませんでした」


 そう言って慌てて会話を打ち切る新田さん。自分もこれ以上話してまたボロを出す前にその流れに乗る。


「あ……いえいえ。そうですね。で、では失礼しますね」


 そう言ってぺこりと頭を下げて慌ててコンビニに向かう。コンビニの中に入ってようやく落ち着きを取り戻す。


(……おかしくなかったよね、私。ちゃんと、普通の表情で話せてたよね)


 そう自分に言い聞かせながら買い物を済ませる。


(せっかく来たんだし、お酒も二本くらい……あ、そういえばキッチンペーパーも切れそうだったんだ。思い出して良かった)


 タバコだけを買うつもりだったがついつい他にも色々買ってしまう。いつもは節約のために極力スーパーで買うようにしているのだが、たまには良いだろう。


「ありがとうございましたー」


 会計を済ませ、店員の声を背中に受けつつコンビニを出る。アパートに向かいながらふと思う。


(明日は休みだし、少し夜更かししようかな。また『推し』探しの動画巡りでもしよう)


 そう思いながらアパートまでの道をてくてく歩いていると、街灯の下でスマホを見ながらタバコを吸っている新田さんがいた。驚いて思わず声をかける。


「えっ……新田さん……?」


 自分の声で顔を上げる新田さん。自分に気付いた新田さんはすぐにタバコを携帯灰皿で消し、それをポケットにしまい自分に近寄り声をかける。


「あぁ、お疲れ様です響さん。帰ろうと思ったんですけど、この先の街灯が切れていて真っ暗だったんで、危ないかなと思って少し響さんを待ってました。一、二本吸っても来なかったら帰ろうと思っていたんですけど、待っていて良かったです」


 ……マジか。それでわざわざ自分を待っていたというのか。新田さんの持つコンビニ袋には明らかにお酒の缶が入っているし、タバコ以外にあれこれ見て回ったため少なくとも十分近く自分はコンビニに滞在していたはずなのに。


「え……す、すみません。飲み物だってぬるくなるのにそんな気を遣って頂いて……」


 まさかこんな事になるとは思わず、慌てて新田さんに謝る。


「いえ、自分がそう思っただけなので。……あ、逆にこういうの迷惑でしたかね!?そしたらごめんなさい!」


 そう言った新田さんに慌てて手をぶんぶんと振り否定する。エコバッグの中には炭酸入りのお酒があったがそんな事を気にしてはいられない。


「と、とんでもないです!お気遣い頂いてありがとうございます!恥ずかしながら、行きの時に全く気付きませんでしたから……」


 のほほんと鼻歌を歌いながらコンビニに向かっていたため、向かい道の際には全く気付かなかった。そもそも自分がそういった手合いの対象になるなど微塵も思っていなかったというのがあるのだが。


「それなら良かったです。じゃ、帰りましょうか」


 そう言って二人でアパートまでの道を二人で歩く。新田さんの言った通り、途中本当に真っ暗な場所があった。スマホをいじったり鼻歌を歌っていたから全く気付かなかった。


(……新田さん、これに気付いてわざわざ待っててくれたのか。ただのお隣さんのためにこんな事出来る人ってリアルに存在したんだ)


 そう思った瞬間、現状を把握する。暗い夜道を二人で歩く男女。これではまるでカップルではないかと一瞬妄想するものの、すぐにその考えを打ち消す。


(勘違いするな私。……あくまで新田さんは隣人の仮にも女性を親切心で気遣ってくれただけ。それ以上でもそれ以下でもないんだ)


 そう自分に言い聞かせ、ほぼほぼ無言でアパートへ向かう。たまにちらりと横目で気付かれないように新田さんを見る。やはりイケメンである。


(……やっぱり、彼女とかいるんだろうな。いつか新田さんの彼女とドア開けたらばったり遭遇、とかあるんだろうな)


 そんな事を考えていると、あっという間にアパートに着いた。自分の方から新田さんに声をかける。


「ありがとうございました。お気遣い嬉しかったです。それじゃあおやすみなさい」


 そう言って頭を下げて部屋に戻ろうとした時、新田さんが少し慌てた様子で自分に声をかけてくる。


「いえ……あ、あの!ちょっとすみません!」


 その様子を見てドアノブから思わず手を離し、新田さんの方を見る。何か少し気まずそうな表情をしている。


「あ、あの……もし、俺の部屋が何かうるさかったらすぐ言ってくださいね?気付かないうちに大きな音出してご迷惑をおかけしているかもしれないんで……」


 あぁ、そういう事か。口には出さずとも実況や配信の音を心配しているのだろう。実際のところ、自分の部屋が無音の時に僅かに聞こえる程度だし、不快どころか自分にはご褒美なので気にはならない。なので、安心させるための答えを返す。


「大丈夫ですよ?ここ、割と防音しっかりしているみたいですし、今まで気になった事もないです。前のアパートなんてここより壁薄かったですし、夜中にいきなりギター弾くような人とかいましたし。全然大丈夫ですよ!」


 そう自分が答えると新田さんがほっとした表情を浮かべる。



「そ、そうですか。突然変な事聞いてごめんなさい。それじゃ、おやすみなさい」


 そう言ってぺこりと頭を下げて部屋に入る新田さん。自分も部屋に戻り鍵を掛けてソファに座り込む。一人になって改めて思う。


(……やっぱり、素敵だな新田さん。イケメンなだけじゃなくて優しいし。あれじゃあ勘違いする人も沢山いるんだろうな)


 そんな気持ちを振り払うように頭をぶんぶんと振り、気持ちを切り替えるべくビールを片手に一服すべく換気扇の下に向かう。タバコを吸ってようやく落ち着く。


「さてと。また動画巡りでもしますか」


 そうつぶやいてPCを立ち上げる。いつもの動画サイトを立ち上げると一番上のページにナラセさんのサムネが表示される。


(……あ、ナラセさん今日この後生放送なんだ。だからさっき自分にあんなことを聞いてきたんだな)


 少しの間ナラセさんの動画から離れていたため、情報が分からなかったがチャンネル登録をしていたため表示されたのだろう。少し悩んだが、久しぶりに生放送を観てみる事にした。


「……ま、いっか。今日普通に顔を合わせても話せたし、生配信を見るくらいなら大丈夫だよね」


 そう思って他の動画を観ながらナラセさんの生配信の時間を待つ。二、三本他の動画を観ていると程なくしてナラセさんの配信が始まった。


『こんちゃー!皆、今日もありがとう!んじゃ早速今日も始めさせて貰います!』


 ナラセさんの明るい声で配信が始まる。リスナーのコメントが流れ、それに答えるナラセさんのやり取りが続く。が、それが落ち着いたタイミングで不意にナラセさんが口を開く。


『えー……じゃ、突然ですが今日は久々に歌ってみようと思います』


 ナラセさんのその言葉に自分は驚き、コメント欄は盛り上がる。


【待ってた!歌配信久しぶりだから楽しみ】

【隣人さんからクレームフラグ】

【全力待機!はよはよ】


 流れるコメントに自分も戸惑いを隠せない。まさか久しぶりに観た生放送が歌ってみた動画だとは。他のリスナーに紛れるように無言で思わず投げ銭を送る。盛り上がるリスナーのコメントを目にし、ナラセさんがおずおずと話しだす。


『あー……皆ありがとね。ただ、ご近所から苦情来たら即中止って事で。それだけ了承して観てくれたら助かるわ』


 なるほど。自分が隣に越して来てから初めての歌配信だからか。その心配は微塵も必要ないのだがそれを伝えるすべもないので視聴を続ける。


(……いつものトークとゲーム実況ならブラウザを閉じるって選択肢もあったかもしれない。……でも、久しぶりの歌配信と聞いたら観ない訳にはいかない)


 そう思ってイヤホンをした耳に意識を集中する。三分ほど待ったところでナラセさんがすぐに口を開いた。


『よっし。じゃ、準備出来たしいきます。聴いてください。◯◯で――』



 ……正直、そこからの記憶があまりない。



 覚えているのは、聴いた事のあるイントロが終わったと同時に歌い出すナラセさんの声。


 相変わらずの音程よりも感情任せの歌。だがこの声から耳が離せない。イヤホンをしている耳だけに全神経を集中していた。時間にして僅か五分にも満たない時間であったが自分の感情を根こそぎ待っていかれてしまうには充分であった。


『……はーい、ありがとう。歌わせていただきましたー。んじゃ、今日は短いけれどこの辺で。次回はまたゲーム実況の続きをやりまーす』


 ナラセさんのその声で現実に戻ってくる。コメントにはアンコールを望むコメントがたくさん書き込まれている。


『うーん。ありがたいけどご近所の事も気になるし今日はこの辺で。また様子見てそのうちやります!ありがとねー!』


 そう言ってナラセさんが放送を終えようとしている最中、慌てて周りのコメントに紛れて投げ銭を送る。……コメントにはただ一言。


『えっ!もう終わるのに投げ銭ありがとうございます!えっ……?『神様』って……何?』


 ナラセさんのコメントには答えず、イヤホンを外ししばし放心する。タバコを吸う気にも酒を飲む気にもなれず、しばし部屋の天井を見上げながらぼうっとする。


(……やっぱり、最高だったな。ナラセさんの声)


 先程の余韻が消えず、そのまま先程のナラセさんの歌を思い返す。そうしていると、隣の部屋のベランダの窓がからからと開く音がする。


(……あ、ナラセさん一服か。今日は気持ち良く歌ったから美味しいタバコになるんだろうな)


 程なくして、ジッポーのかちゃん、という音が聞こえる。その後、しばらくの間無音の空間が広がり、やがてまたからからと窓を閉める音が聞こえる。その瞬間改めて実感する。


 ……あぁ、ごめんなさい。次の神様なんて見つけられませんでした。


 どうやら、私の崇拝活動はまだ続きそうです。



「あ、おはようございます響さん。今日はお仕事ですか?」


 身支度を整えてゴミ袋を待って部屋を出ると、同じくゴミ袋を持った新田さんと出会う。今日の格好は胸に動物の刺繍の入ったロング丈の長袖シャツだ。その姿に昨日の歌声を思い出してまたドキッとしてしまう。表情に出ないように気を付けて言葉を返す。


「おはようございます。はい。少し早いんですが、本屋に寄ってから職場に向かおうと。新田さんはお休みですか?」


 そう言う自分に新田さんが言葉を返してくる。


「ですね。なんで先にゴミだけ出しちゃおうと思って。お仕事ご苦労様です」


 何気ない会話をしながらも今目の前にいる新田さん、そしてナラセさんである二人の『推し』について考える。どちらも今自分にとって活力を与えてくれる存在である。


 ……新田さんに自分が今抱いている気持ちが恋愛なのかはまだあやふやだけど、異性として意識してしまい始めているのは確かだ。そして、ナラセさんに関しては現状替えのきかない存在である。なら、開き直って今はこの状況を受け入れよう。それが自分の出した答えであった。


 ……いつか、本当にいつの話になるかは分からないけれども。


 自分に、本当に二人よりも『推し』という存在がいつか出来た時。その時はこの崇拝を終わりにする事が出来るだろう。もっとも、今の時点ではそんな気持ちはないが、いつかそうなる時が訪れるかもしれない。未来は何も分からないのだ。


「……その時までは、崇拝させてくださいね」


 自分の横を歩く新田さんに聞こえない程度の小さな声でこっそりつぶやく。本当に小さくつぶやいたので新田さんには聞こえていない。そうこうしている内にゴミ捨て場に着き、二人でゴミを出す。ボックスの蓋を閉めて新田さんがこちらに振り返って言う。


「それじゃ、自分はコンビニに寄ってアパートに戻りますね。お仕事頑張ってくださいね」


 そう言ってこちらに会釈してコンビニに向かう新田さん。その後ろ姿を見つめて思う。


 ……あなたは、神様。わたしの、神様。


(もう少し、勝手に崇拝させてくださいね)



 そう心の中でつぶやき、新田さんの背中に大きく手を振った。




_________________________


お読みいただきありがとうございました。

普段自分が書かないジャンルに挑戦してみましたが難しい……

ただ、自分の大好きなアーティストを絡めて書けたのは楽しかったです。

また機会があればチャレンジしてみたいと思います。


普段は異世界ファンタジーをメインに書いていますので、よければそちらもお読み頂けましたら幸いです。

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崇拝ごっこ。~二重の意味で『推し』てます~ 柚鼓ユズ @yuscore

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