人生アルバム
針音水 るい
人生アルバム
人生の記憶の一ページ目。
覚えているのは、何の変哲もない、ただの青空の風景だ。
いつの記憶なのかは今や定かではないが、まだ物心ついたばかりの頃だろう。
家族と出かけた時の光景なのか。
はたまた寝転がりながら、窓越しに一人で眺めていたのか。
空なんて毎日見るから、記憶が頭の中でごちゃまぜになって、本当は一昨日見た景色を人生最初の記憶だと言い張っているのにすぎないのかもしれない。
それでも表紙をめくって、一番最初に目に映るものが、紙いっぱいの美しい青だったのなら……。
幾分か気分も晴れやかになるものだ。
この後に続く平凡な人生を思うのならなおさら。
ページを進んで子どもの頃の思い出を振り返ってみると、家族と一緒に写っている写真が極端に少ないのが目立つ。
別に家族仲が悪かったわけではない。
ただ、父も、母も、姉も、「個」の時間を各々が尊重していたし、そもそも日常の中で「家族」としての団結が必要な場面がそこまで多くなかった。それだけだ。
一枚の写真がふと目に止まる。
昔の実家のリビング・ダイニングが写っており、リビングのソファには、おそらく母親だと思われる背中が見える。
当時は4LDKの一軒家に暮らしていて、今思えばそれなりに裕福な家庭だったのだろうが、両親は子供二人が家を出ていった翌年には、都心から離れた小さなマンションに引っ越していた。
「二人だけには広すぎた」と父は言い、「家の中がどこも静か過ぎるのよね」と、母は寂しそうに微笑んでいた。
何の相談もされなかったから、自分の家ではなくなる前に、最後に目に焼き付けておこうなんてことができるわけでもなく。時間と共にだんだんと家の内部の詳細は忘れていってしまったが、この写真を見てそれが鮮明に頭の中に戻ってきた。
うちは、リビングとダイニングそれぞれにテレビを設置していたのだが、学校から帰ってくると、母はリビングで、姉はダイニングの方でよくテレビを見ていた。
趣味が違うから別々に見ているのは理解できるのだが、時々同じ番組を二人ともつけて見ている時があって、「なんで一緒に見ないんだろう?」と不思議に思ったのを覚えている。
同じ番組を付けていると、音が二重に聞こえるから変な奥行きが生まれて、テレビの中の人の会話や音楽がぼやけてしまっていた。
その音が自分はなんとなく嫌いだった。
思春期時代のページは、別に写っているものはいたって普通なのに、それに付随する思い出がなんだか気恥ずかしくて、ついページをめくる速度が速くなる。
よく着ていた読めやしない筆記体が書かれているTシャツ。
当時はそれがおしゃれだと思っていた。
百均で買った有線イヤホンと、母親のおさがりでもらった型の古いipod。
今みたいにノイズキャンセリングなんて洒落た機能はついていないから、本当は母や姉が夕飯の時間だと一階から二階の部屋に向かって叫んでいるのが聞こえていたが、聞こえていないふりをして無視してしまったのが懐かしい。
高校の修学旅行で買ったどこかのご当地キャラクターのキーホルダー。
一体何をモチーフにしたのかもよく分からないし、なぜこれを選んだのかも覚えてはいないが、班員全員で同じのを買って、当時気になっていた人と偶然おそろいのものをゲットできたのは心底嬉しかった。
三年間ずっと好きだったのに、結局告白する勇気もないまま卒業して、それ以降二度と会わなかったけれど。
大学生、社会人と時間を進めると、白黒の写真がだんだんと目立つようになってくる。
思い切って背伸びをして、知り合いが誰もいない大学に進学したのはいいが、本当に誰とも関われないだなんて思ってもみなかった。
高校までは学校側が指定したクラスがあって、嫌でも週五で同じ人と顔を合わせるから、特に苦労もなく友人ができていた。
だが、大学に入ると急に全ての選択肢が自分に降り注いでくる。
どの授業をとるか。どこの席に座るか。どのサークルに入るか。
そもそも別に授業に出なくたっていい。
課題を出さなくたって、義務教育のように怒られやしない。
ただ、静かに評価が下げられるだけ。
それが自分にとっては辛かったし、知らない場所に突然放り出されたような感覚だった。
インスタで同級生が見覚えのある人と一緒に写っている投稿を見て、最初のころは「そんなすぐに新しい交友関係ができるわけないか」なんて安心していたが、それも束の間。
本来人間は、環境に徐々に順応していくものなのだから。
卒業式の日の桜は華やかだったんだろうけど、写真に写る白黒の花弁と、周りが抱き合っている中、一人ぽつんと佇む自分の表情からは、その美しさは微塵も感じられなかった。
ページをめくり続けると、写真のほとんどが現像に失敗したかのように真っ黒だったり、ぼやけたりしている。
社会人一年目のころだろう。
ここら辺はほとんど覚えていない。
就活を始めたときから、会社で働くことが向いていないことは薄々分かっていたが、だからといってどうすることもできず、唯一内定をもらえた小さな商事に入社した。
ホワイトではないが、別にブラックというわけでもない。
世の中の新しい風習を理解しながらも、所々古い慣習が残るグレーな会社だった。
上司とも同期とも仕事上の付き合いはあったが、大学生時代に失ってしまったコミュニケーション力の損失は、思いの外大きかったのかもしれない。毎日事務的な会話をするだけで、飲み会にも誘われたり誘われなかったり、影の薄い存在だった。
少しずつ会社の中で自分の輪郭がはっきりと写り出してきたのは、そこから二年くらい経った後だろう。意外にも後輩の指導は向いていたらしく、新入社員の教育を任され始めてからは、自分の会社での立ち位置が形成されてきて、どんどん息がしやすくなっていった。
給料は入社した時から大して上がってないし、グレーな社風にも依然変化はないが、気づけば五年も勤めていたし、大転職時代だと言われていても、きっと自分は定年退職までここに居続けるんだろうなーと、本気で思っていた。
まぁ、あながち間違いではなかったけれど。
そして人生の記憶の最後の一ページ。
別に特別なことは何もない。
強いて言うならちょうど梅雨明けで、久しぶりの晴天だったということくらい。
いつも通り会社に向かうために、駅を出て少し大きめの交差点で信号待ちをしていた。
スマホで今日のスケジュールを確認して、あとで後輩の書類を確認してあげないとなー、なんてのんびり考えていた。
そんな時に耳をつんざくようなブレーキ音と共に、強い衝撃が全身を駆け抜けた。
体が仰向けに宙を舞う。
自分にかかっていた力が全て抜ける。
視界いっぱいに広がる青。
それが今覚えている、一番最後の記憶。
*****
ゆっくりとアルバムを閉じる。
青で始まり、青で終わる。
自分の平凡な人生にしては悪くない構成だ。
最後の写真はかなり手ブレしていたが、逆に雲一つない平坦な青空に味が出て、いい感じになっている気がする。
「すべてご覧になれましたか?」
コツコツと音を立てながら、和服を着た青年が近づいてきた。
彼に会うのはまだ二度目。
人の顔を覚えるのが苦手だからか、青年の顔をぼんやりとしか覚えていなかったが、改めて見てみると、「ああ、こういう顔だったな」と何となく思い出す。
恰好が格好だから、てっきり下駄を履いているのかと思ったら、音の正体は厚底の黒ブーツだった。
気づいたらここにいて、途方に暮れていた時に、どこからともなく彼がふらっと現れて、突然このアルバムを渡され、またどこかへ行ってしまった。
最初はどうすればいいのかよく分からなかったが、ゆっくりページをめくっていくうちに、自分の身に起こったことを少しずつ理解していった。
最後のページまで読み終えた今は、どこかスッキリした気持ちですらいる。
「はい。自分の人生がアルバムになっているなんて不思議な感覚ですね。かなりのボリュームだし」
「そうですね。これでもかなり省略されているはずですよ。長い人生の中で心に強く残っているシーンだけが、こうしてアルバムとして現像されますから」
一人の人間の人生を全て描き出すなんて、なかなかできることではないですしね、と彼は笑う。
「自分の人生へのフィードバックとかはないですか?」
「フィードバックですか……?うーん、特にはないですね。平凡な人生だったなってことくらいしか……」
「そうですか?平凡な人生を歩んでいる人なんて誰一人いないと思いますけどね。浮き沈みは必ずあるでしょう?」
「それはそうかもしれないですけど……。それでも物語のような、魅力的な起承転結ストーリーなわけではないですから。面白味はないですよ」
アルバムの表紙を優しく撫でる。
見てきた写真は確かにどれも自分の短い人生の中で印象深いものだったが、同時に「そんなものだったか」と、どこか他人事になっていた。
当時は人生の終わりのように感じた後悔の念も、眠れずに頭を抱えた悩みも、積み重ねてきたもの全体で見れば、意外と些細なことだったのかもしれない。
「そういうものですよねー」
うんうんと青年は頷きながらアルバムを指さす。
「そういえば、そのアルバムはどうしますか?」
青年はじっとこちらを見つめる。
「一緒にこの先に持っていきますか?」
この先。言いたいことはなんとなく分かる。
もちろん、どんなに中身がつまらなくても、自分の生きてきた人生だから大事にするべきなのだろう。実際問題平凡だとは思うけれど、積み重ねてきた記憶はどれも尊いもので、今の自己を形成しているコアなのは間違いない。
それでも次のステップに進むためには、少々邪魔な手荷物になる気がした。
「いや……。いいです」
アルバムを青年に返しながら言う。
「生きていた頃に持っていたら、きっと自分の人生を客観的に見れて、もっと理性的に過ごせたのかもしれないですけど……たぶんこの先見返すことは二度とないでしょうし」
それに……と頭の中でゆっくりと言葉を選びながら口に出す。
「ほら、アルバムってなんだか自分では捨てづらいじゃないですか。だから、ここに置いていった方がいい気がするんですよね」
両手で大事そうにアルバムを受け取ってくれる青年。
その顔には、少し安堵の表情が浮かんでいるように見えた。
「そうですか。それはよかったです。また真っ白なページから新たなアルバムを作れそうですね」
じゃあそろそろ行きますか!と青年は大きく背伸びをする。
「せっかくなら記念に本当に本当の人生最後の一枚を撮りましょうよ。私こう見えて写真家を目指していたんです」
開けたスペースに進むと、博物館に飾ってありそうなかなり古い写真機が真ん中にポツンと置かれていた。今のコンパクトなカメラじゃ想像もつかないような厳かな見た目で、レンズの前に立つと少し緊張が走り、顔が歪む。
逆に青年は、カメラを手慣れた感じでいじり、真剣な表情で向き合っていた。
普段スマホでそんなに写真を撮るわけではないが、気軽にボタン一つで撮影できる現代の技術に関心すると共に、目の前の風景を、その瞬間を切り取ることの重みを、この壮大なカメラを見ていると考えさせられる。
「本当はね、ここは人生に未練がある人がよく迷い込んでしまう場所なんです。あなたみたいに訳も分からず突然死んでしまった人も、自分の人生がまだ続いていると思い続けてここに来る」
青年は最後の調整を終えたのか、片目をつぶってファインダーを覗き込む。
「だから次に進む手伝いができるように、ここで人生のアルバムを見て、振り返ってもらうんです。ページをめくればめくるほど、直近の記憶になっていって、最後は自分の手で本を閉じなければならないから」
「でもそれだと過去の後悔が再燃しちゃう人も多いんじゃないですか?」
ずっと疑問に思っていたことをぶつける。
たまたま自分はまだ若造で、人生経験が少なくて、大して中身のないアルバムだったけれど、この先に持っていきたいと願った人はどうなるのだろう。
「確かに、あなたみたいに潔くアルバムを手放せる人は少ないです。感情が昂って、アルバムを叩きつけてしまったり、破こうとしたり……。そんな人を何人も見てきたし、私もその気持ちは痛いほど分かります」
でも……と青年は上を見上げる。
「ここでそれらを全て消化しないと、きっとその人たちは永遠に終わった過去を憂いて彷徨い続けることになりますから。そうならないためにも、ここが存在するのが、ここに私がいるのが、私の今の生きがいなんです」
なるほど……。そういうものなのか。
分かったような、分からないような。
ただ、自分も次の人生では、新しい自分の生きがいを見つけてみたい気がした。
「じゃあいきますよー!ちゃんとレンズを見ててくださいね」
青年はファインダーを除きながら、こちらに手を振る。
「それでは、これからのあなたの新しい人生が照らされていることを祈って__ 」
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まばゆいフラッシュが全てを覆う。
反目になってないといいなーなんて思いながら、笑顔でレンズを見つめ返した。
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