Epilogue 青黒いクリスマスの夜に
分厚い扉の向こうからマジカル冬子の汚い声が漏れ聞こえてきた。
「サンタなんていないと思っていたでしょ?いるんだな、ここに!」
ミニスカのコスプレといい、顔中のワタひげといい、楽屋ですれ違った葉介は世界一汚いサンタクロースに心臓が止まりそうになった。
「うるさいんだよ、アンタは!」
何も言っていない葉介に一喝を与えると、マジカル冬子は道具をひとつずつ指差して確認すると舞台袖へと上がっていった。
よくこの年の瀬にこれだけ人を集めたと思う。
マジカル冬子からのオファーは、「いつまでもくすぶってんじゃないわよ!」という暴力的なものだった。火傷で断裂した小指の神経を理由に一度は断ろうとも思ったが、懸命のリハビリによって葉介の指先はふたたび奇跡を操れるようになった。
マジシャンとしてふたたび世界を駆け巡るつもりはない。
葉介は地元の不動産会社で社会復帰をした。いまだに手書きの伝票を起こしている小さな会社ではあったが、社長は葉介の生真面目さを気に入ってくれた。
仕事から帰り、コンビニ弁当を温めると、葉介は取引事例の本や税法についての資料を開く。休日は火曜と木曜。晴れた日には美術館にでかけ、そのまま地下鉄に誘われ腹が減ったら新しい店を見つける。夜は近くの区民体育館で一時間ほど汗を流す。それ以外に特に用事はない生活が続いている。
くだらないおしゃべりのせいでマジカル冬子の持ち時間が押しているが、そろそろはける頃だろう。葉介はスタンドに乗せたシルクハットを持って舞台袖に移動しようとしたが、スマホに留守電が入っていることに気付いた。
<――パパ。ミリリットルとデシリットルの計算がよくわからないんだけど>
そうだ、用事を忘れていた。娘から冬休みの宿題を手伝ってほしいというメッセージをもらっていた。
「ごめんごめん、パパはこれからショーだから明日の午前中でいいかな?」
ビデオ通話をつなぐと、娘たちは画面に写った葉介の燕尾服姿に声を上げた。
もう2ヶ月ほど会っていない。たまの3連休に娘たちが葉介の部屋に泊まりに来ることはあったが、葉介が長野の上田に行くことはしなかった。
彼らが家を出ていってから数ヶ月が過ぎた。ふと仕事中に娘たちのことを思い出して涙が乾くまでトイレに籠ることはあったが、葉介は必死に「それは体に良くないことだ」と自分に言い聞かせてきた。
「ちゃんとツリーも飾ってるからね!」
娘の肩越しに小ぶりのクリスマスツリーが赤や緑の電飾を放っているのが見えた。
本来なら、今宵は手の込んだ料理を並べて「ケーキはご飯を食べてからね」と娘たちに微笑んでいただろう。しかし葉介にとっての今年のクリスマスは、コンビニからプレゼントを詰めた段ボールを送った時点で通り過ぎていった。
「ママに代わるね」
突然画面が揺れると、しばらくしてそこに晴香の横顔が見えた。
「…おつかれさま」
カクカクと乱れた画面から晴香の声が届いた。
「ごめん、もうすぐ出番だからゆっくり話せない」
これから出番だというのに心を乱すわけにはいかない。葉介は晴香の「がんばって」という言葉を聞き終えず、急いで通話を切り上げた。
「――お待たせしました!今宵伝説のマジシャンが復活します!色々あって引退してたけどアタシが強引に引っ張ってきたってわけ!」
マジカル冬子が塩辛声で客席を盛り上げている。
葉介は胸から下げた琥珀のペンダントを握った。音楽が変わり、椎名林檎のアップテンポの曲が流れ始めた。
目を閉じてリズムを数える。ひとつ、ふたつ――。
葉介はヒュッと息を吐くと、シルクハットを手に革靴をゆっくり鳴らして舞台の中央へと進み出た。割れんばかりの拍手が舞う。スポットライトの中で目を細めると、葉介は呼吸を整えながら会場を見渡した。
左の隅にアキコの顔を見つけた。彼女は顔の前で小さく手を振って微笑んだ。
一ヶ月ほど前、とうとう一線を越えてしまった。しかし事が済んだ時、彼女は葉介の腕の中で小さくつぶやいた。
「今夜だけやで…」
その言葉に従う形でそれ以来会っていない。
葉介はサッと空中を撫でた細い指先にステッキを現すと、その上に白い鳩を生み出した。
会場が沸く。拍手が飛ぶ。体温が上がる。
汗が頬を伝う。アキコの白い歯が見える。
オレは必要とされている。
誰にも喜ばれなくても、オレは誰かの皮膚の中で存在している。
死を選びたくなる夜があっても、矛盾だらけの毎日だったとしても、頼みもしない朝が来たなどと自分の価値を誰かに投げ出してはいけない。
葉介はすべてを薙ぎ払うように手を広げると、スポットライトの中で深々とお辞儀をした。
希望 マジシャン・アスカジョー @tsubaki555
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