竜の玉子
色街アゲハ
竜の玉子
自分が休暇で或る宿場町を訪れた時の話である。
実際、そこを訪れたのは偶々で、久し振りに長い休みが取れた事から、普段ではまずやらない事をやってみようなどと気紛れを起こし、予定も立てずに気の向くままに列車を乗り継いで、その折、車窓から眺めた風景が気に入った、ただそれだけの理由で降り立たのがこの場所だっただけの話だ。
元より大して期待していなかった事もあり、軽い観光気分を味わう積りで適当に歩いてみた所、これが中々どうして、思った以上の良い雰囲気に、当初考えていた以上に時間を費やして歩き廻ってしまった。
街並みの其処彼処に何処となく異国風の建材を使った色彩豊かな佇まいが見られ、図らずも久しく味わえなかった観光気分に浸る事が出来たのだった。
そんな中、気の赴くままに土産物屋を冷かしている時の事。不意に後ろから声を掛けられ、訝しげに振り返ると、何やら飄々と云うか、何処か惚けた山師風な人物が其処に居た。
何でも、自分が地元の人間でない事を見越して、その上で協力を仰ぎたいとの事。
では、何に協力して欲しいのか、と問うと、男は俄かに熱っぽい口調で、しかし声を潜めながら言うのだった。
「竜の玉子ですよ、貴方、竜の玉子です。興味、おありでしょう?」
あからさまに怪しい話に何故自分は乗ったのか、と今にして思うのだが。しかも言うに事欠いて竜の玉子と来た。相手にしないのが普通である。恐らく、もう自分はその時には見えざる手によって、この一連の出来事の駒の一つにされていたのだろう。
何の疑いも持たず、それどころか妙な高揚感を抱きながら、この男の後を足取りも軽く着いて行ったのであるから。
街の外に行くに従って、家々もまばらになり、代わって折しも秋、枯れた背の高い草々が目に付く様になり、遂には一面の枯草野。
遠くに聳える岩肌も荒い絶壁まで遮る物とて無い、目に眩い黄金色の波打つ風景が、晴れ渡る空の下、広がっているのだった。
俄かに「伏せて!」の声と共に、身を屈める動作に釣られ、自分もこの深草の中に埋もれる様にしゃがみ込むと、「見えますか?」と空の一点を指す指先に導かれ、目を凝らせば、果たして、陽の逆光に小さく、余程高い所を飛んでいるのだろう、時折金属の光沢を煌めかす、それは紛れも無く竜なのであった。
点々と空の青い海原に浮かぶ小島よろしく漂う雲の間を、ゆったりと泳ぐが如く旋回する竜の姿。対して、地を這う蟲さながらに男と自分は草の中に身を横たえ、空を見上げる内、次第に水底から水面を見上げる様な心地に捉われ、知らず交わす会話も蟹がポツポツと泡を吐き出すが如く、秘密話めいた小さな声になるのだった。
男は語る。「竜は聡い。動く物に敏感です。特に自分の玉子を狙う者には。」続けて、「ああやって優雅に飛んでいる様に見えて、玉子を狙う者が居ないか監視しているのです。」
軽い気持ちで見学と洒落込む積りが、予想外に危険な事態になりつつある事に、内心慄きながら、「では、どうやって近付いたものでしょうね。それとも、引き返します?」と、自分の希望をさりげなく織り交ぜつつも問い掛ける。
「大丈夫、方法はあります。」
その言葉の断固とした調子に、傍らの男が自分を逃す積りなど全くない、という事が分かって、気分は落ち込む一方なのだった。
自信ありげに断言した割に、男の示した方法とやらは、開いた口が塞がらぬとしか言い様の無い、児戯に等しい物だった。
草の上を寝転がりながら、目的の場所までゆっくりと転がって行くと云う。
こうすれば、動きが非常にゆっくりなので覚られ難い。加えて、寝返りを打つ度に、空に居る竜の確認が出来ると云う。果たして、本当にその理屈は通るのか。
ともすれば竜に捕捉されて命を失う危険な状況だと云うのに、こんな有様。どうしても危機感が湧き起って来ず、むしろ、自分が幼年時に途絶えたままになっていた遊戯を再開したか、という考えが擡げて来る程に、長閑で牧歌的な気分に捉われ、ふと、そう言えば竜と云う存在その物が謂わば神話の領域、何処か御伽噺めいた物を感じさせるのであるから、自分達のこの惚けた所作も、もしかしたらお似合いなのかも知れない、などと考えてみるのだった。
男の示した方法が図に当たったのか、それとも、単に取るに足らない物と見逃されたのか、ともあれ自分達は目的の竜の巣穴へと通じる入口に辿り着いていた。
切り立った断崖に走る亀裂が、奥へと続く洞窟の入口となっており、どちらからともなく無言で顔を見合わせ、薄暗い空間に向けて足を踏み出すのだった。
奥に進むにつれて暗さは増して行き、歩くのも困難になる所が、幸いと云うか、湿った壁面に這う様に生い茂った薄らと光る苔が辛うじて洞窟内を照らし、足元を掬われそうになるのを防いでくれていた。
僅かな光に浮かぶ壁面はしっとりと濡れ、それは巨大な生物の体内を進んでいる様な、夢の胎内を蠢いている様な、そんな圧迫感に呑み込まれそうな感覚に苛まれて行く。
一刻も早く此処から抜け出したい、と願う一方で、この圧し潰されそうな悪夢の中で、徐々に消化されて行く様な感覚に抗い難い蠱惑を覚え、終わって欲しいと、まだ続いて欲しいと云う、相反する感情が綯い交ぜとなったもどかしさに体中が擽られている様な感覚を覚えていた。
しかし、そんな感情などお構いなし、とばかりに、物事という物は終わる時には終わる。俄かに景色が開け、頭上の割れた亀裂より差し込む光が辺りを眩く照らし出し、その光の下で育った草々に包み込まれる様に横たわる、巨大な竜の玉子が白く浮かび上がるのが見て取れた。
静寂が辺りを包み、玉子と草々の合間より覗く小さな花々の周りを羽虫が行き来する様子に神秘的な物を感じ、暫く身動きの出来ないままその場に佇んでいた。
玉子の表面にはしっとりと水滴が汗の様に浮かび、まるでそれが生きているかの様に思えて来て、じっと見詰めていると、呼吸をしているかの様に殻が脈動している様だった。この玉子がその内部に胎動し、この世界に生れようとする生命を抱いている事を実感せずにいられなかった。
傍らの男は、玉子を目にした時から心ここにあらず、と云った調子で、何事かを呟きながら玉子に近付いて行った。辛うじて聞き取れた事から判断するに、この男はどうやらこの玉子を壊す為にこの場所まで来た、という事だった。そして矢庭にこちらに向き直ると、さも重要な事とでも云う様に、この有様をしっかりと目に収める様、自分に言い含めるのだった。
何故そんな事に拘るのか、と尋ね、帰って来た返答は……、俄かには理解しがたい事だった。即ち、竜と云う神秘の領域に属する存在に干渉するには、同じく神秘に属する手続きを経なければ為し得ない。この場合、物語、という体裁を整えなければならないのだ、と。即ち、登場人物の他に、語り手と云う観測者としての存在無くして竜と云う存在を感知する事も、こうして玉子にまで到達する事も叶わなかった、という事らしい。
正直いている事の半分も理解できなかったし、これまでこういった類の世界に無縁だった事もあり、もう、そう言う物だとして納得するより他ない、と半ば諦めの境地で、このまま事の顛末を眺める事しか他に出来る事は無かったのである。
とは言え、終わりは呆気無い物だった。男が今正に玉子に触れようと云う段になって、玉子が一際大きく揺れ動いたかと思うと、見る間に殻に罅が入り始め、やがてそれは顕著に分かる程の大きな亀裂となって、大きな穴になるまで広がって行き……。
中から現れたのは、良く絵で見る様な竜の姿その物であった。ただ、生まれたばかりと云う事もあって、その姿は全体的に丸みを帯び、口元に並ぶ歯も細かく、赤子特有の大きな目は、何も見ていないかの様な無表情さで、辺りを眩しそうに見回していた。
と、その視線が、近くに佇み身動き一つ出来ずにいる男に向けられたかと思うと、声を上げる間もなく竜の仔は男に齧り付き、一息にその身体を飲み込んでしまった。
余りの出来事に、こちらは竜の仔みたいに状況を一息で飲み込む訳にもいかず、順当に考えれば、つぎに呑み込まれるのはこの自分と云う事にすら考えが及ばず、ただ唖然とその場に立ち尽くしている事しか出来なかった。
そんな自分の事など気にも留めた様子もなく、竜の仔はじっと目を閉じたまま満足げに喉を鳴らしながら、暫くの間そうしていた。
そして不意に大きく羽を広げたと見る間に、思った以上の風圧で自分をなぎ倒し、行方を追おうと見上げた時には既に、竜の仔は天井に空いた穴から飛び立って行ってしまっていた。
何かポッカリと心に穴の開いた様な気分で、自分は暫く動けずにいた。
自分をここまで連れて来た男は、今や竜の仔の腹の中。その竜の仔も何処かへと飛び去った後。全てが夢の中での出来事だったとでも言うのだろうか。神秘の世界は既に遠く、陽の傾きかけた中洞窟内は赤く染まり、全てが終わった、そんな雰囲気を否応なく醸し出していた。
力無く歩む中、街に戻って来た時、その気分は確信へと変わった。
最初に見た高揚は何処にも無く、ただ有り触れた貧しい気配を漂わす、そんな味気無さを覚え、もうこれ以上この場所に留まる気にもなれず、逃げる様に街から去るべく帰りの列車へと乗り込むのであった。
列車に揺られ、何も考えず頬杖をついている内に、ふと、もう自分の休暇も残り僅かであり、そう間もない内に再び現実の世界に戻らなければならない、という事に気付くのだった。
もう、幾ら見上げた所で、竜の姿を見付ける事は出来ない。
終
竜の玉子 色街アゲハ @iromatiageha
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