第4話 検査をしよう

私は教卓の前に棒立ちになっていた。さながら不条理な審判を受けたヨーゼフ・Kの心持である。どうして僕が、何がどうしてこうなった。


担任に促され自分の席に戻っても、僕の頭の中は不安でいっぱいだった。

なんで、どうして。


自問自答するように、あの日のことを思い出す。


**********


私はどうにも朝は苦手なたちである。起きてからはしばらく頭の中に霞がかかったようで、霞が晴れるのは通学路の半分ぐらいまで到達したあたりである。


いつものように食卓に向かうと、母君が言った。

「今日は検便の提出日でしょ?ちゃんと持ってきなさいよ」

食卓で便の話をするとはなんとデリカシィのない母だろうか。私は傲岸不遜ごうがんふそんな言葉に対して睨むという返答をした。


検便は一週間以内のものを提出するように言われているが、平素より便秘気味の私は昔から苦肉の策として前日までにひりだしたモノから採取したものをリビングの一角にあるペット用のごみ箱の近くで保存するようにしている。


検便というのは、採便管という蓋つきの試験管のような器具で行うのだが、採便管の蓋にはさじがついており、それ少量採取したものを保存液の入った容器の中に入れて密閉して保存するというものである。

昔はスプーンのような木製のへらでやっていたとスーパーカップを食べている私にげらげら語る父に辟易へきえきとしていたが、内心それに比べればマシだと幾分か救われている思いはあった。


少量で密閉性が高いものであるというのはわかっていても便は便。身近に置きたくないものである。

我が家には一頭の犬がいる。気高い存在となってほしいという意味を込めて私はガイウス・ユリウス・カエサルと名付けた。しかし何故か家族全員チロちゃんと呼んでいる。カエサル自身チロと呼ばないと自分を認識しないらしく、私自身チロと呼びながら内心でカエサルと呼んでいる。


先日からチロことカエサルは腹の具合が悪いらしく、姉君がペットトイレの前で便を観察していた。


退け、れ者」姉君が邪魔で採便管が取れないので私は穏便にどいて欲しい旨を伝えた。


「今日チロちゃんを病院に連れてくからうんちの様子を伝えなきゃなんないのよ」

姉君はそう言った。なんと親子そろって朝から便の話を恥ずかしげもなくするではないか。私はこの無知蒙昧むちもうまいな連中とは朝から話しをする気がない。


私はカエサルことチロのトイレの上に置いてあった採便管を捥ぎ取り急いでその場を去った。


**********


検便を提出してから1週間、私はクラスルームが終了した際に教卓へと呼び出された。何事かと怪訝に思いながら担任のもとに向かうと、1枚の紙を渡された。


「この間の健康診断の結果についてだ。ちゃんと読んでおけよ」


その紙には検便について異常があり『要再検査』の旨が書いてあった。


私は教卓の前に棒立ちになっていた。


検便が異常。大腸菌か、はたまたその他の恐ろしい感染症か。私は感染源なのか。こんなことが周囲にバレてはバイキン扱いされること必至である。入学当初から『鼻血の人』のレッテルを貼られたのに、この上さらに『バイキンマン』か、もっと酷いと『ウンコマン』などと呼ばれかねない。そんなことでは輝かしいハイスクールライフどころか人生が終わったも同然である。大学に進学しても周辺からウンコマンの噂は漏れ伝わり、社会人になっても勤務先は便所の中で、棺桶はTOTO製となるのだ。


僕は放課後の校内の廊下を彷徨さまよい歩き、気づいたら文芸部室の前にいた。

誰にも知られたくない、しかし、このまま黙っていても精神衛生的によろしくない。誰かに相談したい。そんな思いだった。


部室の金属製の引き戸はいつもより重かった。


部室の中では、鈴木と佐々木が将棋を打っていた。両者真剣な面持ちで静かに将棋盤を眺めている。よく見ると将棋盤の中央に山盛りになった駒がある。どうやら普通の一局ではなく、ただの将棋崩しをやっているようだった。そんなことに歴戦の棋士のような長考の表情をしているとはなんとも阿呆なことだ。


「参った。」佐々木は頭を下げた。何に負けたのかさっぱりわからない。


「やあ結城氏、来ていたのか」将棋盤から目を離した鈴木氏は言った。


私は努めて笑顔で返事をしたつもりであったが、しかし鈴木らにはベルリオーズが描く断頭台に向かう芸術家のような表情に見えたそうだ。


**********


斯々然々がくがく馬々といった感じで私はめそめそと事実2割、悲観的妄想8割で語った。その間、両氏は腕を組みながら聴いていた。


「なるほど、それは大変だったな、ウンコマン」鈴木が言ったので、飛びかかって首を絞めた。


「そう落ち込むな、ウンコマン」佐々木も涼しい顔で言い放ったが、相手が悪いので引き続き鈴木の首を絞めることにした。


「しかしなんだ、近年ではぎょう虫検査も無くなったのになんで我が校は検便など行うのだろうな。学園祭の時期でも無かろうに」鈴木が三途の川の向こうのご先祖に挨拶を行っている最中に、佐々木は平然と言った。


「それはほれ、アレだ」チョークスリーパー状態の中、今際の際から帰還した鈴木が言った。

「我が校は新入生が6月に宿泊学習を行うんだ。調理実習があるんだが、そのときに食中毒がないように事前に調査してるんだろう」


なるほど、道理である。


つまりアレか、僕だけ宿泊学習は外される?すなわち一人だけハブられる?それだけで噂になるんじゃないか?明らかに怪しまれるじゃないか?すぐバレるんじゃないか?僕のハイスクールライフは?


「じゃあ残念だったな。ウンコマン」佐々木が言った。


「またな、ウンコマン」鈴木が言った。そのまま天龍源一郎戦のアントニオ猪木さながらのスリーパーを効かせると鈴木は声にならない悲鳴を上げた。


「この通知には連絡されたしとあるではないか。今日はさっさと帰って家から自分からか親からかで電話し給えよ。たいていこういう窓口は17時に閉まるからな」佐々木は言った。


それもまた道理である。


私は立ち上がり、部室から見える外の景色を見た。夕日が目に染みる。

「それでは、私は帰路につく。いや、此処から先が戦地かもしれん。俺の亡骸を超えて桃色ハイスクールライフを謳歌してくれ」私はそう言った。


「何をいうか、ちゃんと病院に行って、しっかり治してから胸を張って学校に帰ってこい」両氏は笑顔で言った。


私は無言で頷いた。そして、扉に手をかけ、勢いよく開けた。眼の前の放課後の校庭を見る私の瞳は一点の曇もなく、澄み渡る初夏の空のようであった。


通りがかった先生から「静かに開けなさい」と怒られた。


**********


帰宅すると、ちょうど玄関に居合わせた姉君と目があった。私の顔を見るやいなや、このようなことを言った。


「あんた、検便間違えて持っていったでしょ」


検便、なんだ、既に家には伝わっていたのか。私の検査結果が。


…間違えて?


「チロのうんちの検査についてペット病院から連絡があって、『うちでやってる検査の容器じゃない』って。よくよく聞いたらあんたの名前が書いてあったってさ」


私は学校でもらった紙に書いてあった連絡先に電話をしてみる。


繋がった担当者曰く、「検査をしてみたら人間の腸内細菌叢とは違う結果になって、調べてみたら容器がうちが取り扱っているものではなかった」そうである。

学校では受け取ったままその日のうちに検査に出して、検査側も数が多いため容器の違いに気づかなかったらしい。

こちらの不手際で申し訳ございません、と言われたが、私はじゃあまた容器が届きましたら改めて提出させていただきますと努めて大人の対応をした。


部屋の鏡を見てみると、そこには赤すぎて赤銅色になった自分の顔が映っていた。


自室で隠れて電話したつもりだったが、通りがかった母君が聞いていたらしく、後で「あんた、あんな気の抜けた声でどこに電話してたの」と怪訝そうに尋ねられた。


**********


翌日には検査容器が既に届いていたようで、コソコソと職員室で受け取った私は逃げるように文芸部室に隠れた。


鈴木、佐々木両氏に事の顛末を話すと、概ね既にわかっていたようである。

そもそも、検査結果は陽性か陰性で表記されるのにそれが***となっており、結果が合っていれば検査済みと書いて病院への勧めがあるはずである。両氏に指摘され、早とちりした自分が余計恥ずかしく感じれた。


「良かったじゃないか、ウンコマン」と佐々木が言った。


「おめでとう、ウンコマン」鈴木が言った。


私は、飛びかかる気力もなくへなへなと膝をついた。

うっすら泣いていたかも知れない。


その様子を、両氏はどこまでも意地の悪い表情で眺めていた。


**********


1週間後、検査結果が改めて届いた。結果は『陰性』。

一応、宿泊学習のことを担任に聞いてみると、担任はそんな事知ってたのかと少し驚きながら、全く問題ないと返答した。


初夏から夏へ移ろう季節。

まだ私の桃色ハイスクールライフへの道は閉ざされていないようである。


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何かを起こしそうな男子高校生たち 泡沫 河童 @kappa_utakata

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