悪魔が科学を見ているぞ

弟夕 写行

悪魔が科学を見ているぞ

始業して3時間、キニーネ・フォークランドは姿勢も変えずにずっと頭を抱えていた。


ここ数年、全くといっていいほど研究成果を上げれていない彼の耳に、次の人事異動でこのニューデオにあるウォーホル研究所本部から、人材の墓場と名高い、スヴァールヴァルの無人島にあるバスキア極地観測所の観測員に3人送られるという悪い噂が入った。


キニーネにはすぐにその3人が自らと、同僚のシェパード、先輩研究員のロン=ミュールであることを察知した。悲しいかな、まさしく彼の予想はドンピシャリであった。


こんなことなら町の一教師にでもなれば良かった、キャリアの終わりを直前にそんなことを頭によぎらせつつ、彼はようやく頭から手を離し、2年前の同窓会の写真を眺め、思い思いの職に就いた面々から、1人学道を突き進む姿を誇らしいと賞賛されたことを思い出す。

このままでは彼らの期待を裏切るチンケな男になってしまう。


「誰か、俺を助けておくれ。おお、神よ、天使よ、何だったら悪魔でもいいから……」


無神論者をいつも気取っている男とは思えない情けない感情を露わにして頭を掻いた。


その時、ノックの音がした。


「はい。どなたです?」


戸を開けると、そこには老紳士が立っていた。

本当に誰もが思うような英国紳士然とした老紳士が。


「キニーネさん、お呼びいただき有難うございます。」


老紳士の言葉にキニーネは訝しんだ。

今日は誰の来客も無い。翌日もその翌日も、ここ30日は部屋にはキニーネ1人だけの筈だ。


「いや、すみません。私はあなたを呼んだ覚えは……」


「先程言っていたではないですか。誰でもいいから助けてくれ、なんなら悪魔でもと。悪魔です。キニーネさん、初めまして」






10年後。


カメラのフラッシュが彼に向かって焚かれる。

今日も彼は科学雑誌の取材に大忙しだ。


今や、キニーネ・フォークランドのことを科学界に関わる人間で知らないものはいない。

何せ10年のうちにノーベル化学賞を3度、物理学賞を2度受賞したのだ。


しかし、そんな順風満帆な日々の中でも彼の頭の中ではあの老紳士の姿をした悪魔と交わした約束がぐるぐると駆け巡り、彼を憂鬱にさせる。




キニーネはあの日会った悪魔に類い稀なる化学と物理学の才能を願い、ノーベル賞5度受賞という前人未踏の偉業を成し遂げたわけだ。


そこまでは良いのだが、悪魔が願いを叶えるのは3度まで。3度目を叶えた10日後に魂を地獄へと引っ張り込むのだという。


これを回避しようとキニーネは常に頭を悩ませていた。

しかし、何度嘆息しても良いアイデアは浮かばない。どんなに時代を先走る発明は浮かんでも最も大事なことは1mmも浮かんでこない。




しかし、何としても逃げ切らなくては。地獄になど行ってたまるか。


そうして焼け焦げんとフル回転し続けた頭は10年間の粋としてようやく1滴、アイデアの滴を彼に落とした。





「ようやく最後の願いですか。それで何を願いますか。」


「悪魔よ、俺はアンタの名前が聞きたいんだ。あんたはマクスウェルか?ラプラスか?」


「いいえ。そのどっちとも確かに悪魔として存在してますが、私はエルゴール。これで良いんですか?」


「ああ、十分だ。」




3日後、キニーネ・フォークランドは悪魔の前からも、世間からも姿を消した。いや、正確には世界に拡散したために見えなくなった。


彼は3日で悪魔からもらった頭脳で自らを分子に完全分解する機構を作り上げ、そのまま宙を漂う分子となった。



マクスウェルでもラプラスでもない、悪魔のエルゴールには分子の情報全てを知って予知することも、分子の動きを観察することもできないのでキニーネを見つけることは出来なかった。


キニーネは上手くやったわけである。

しかし、バラバラの分子になった生命とも言えるか怪しいキニーネが幸せを勝ち取ったのかは、もう誰にも、キニーネにでさえ永遠に謎である。

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