十四回目の、冬

煙 亜月

邂逅

 どさっ。

 特売のたまごが入っていようが新聞紙でくるまれたマグカップが入っていようが、すべて分け隔てなくこの扱いだ。大体さ、退勤してから寄った買い物で炭酸のお酒よりも気を遣うべきものなどあるのだろうか?

 大きめの卓上カレンダーを見る。

「へ、今日なん」

 カレンダーには、大きな赤マルと『流星群』の文字。酔って書いたのだろう、文字が狂ったようにのた打ち回っている。これを識別できるのはわたしと、あとはまあ、いや、そんなことはもういい。


 ——流星群。

 幼少期はよく近所に住む男の子に誘われて公園に流星群を見に行っていたっけ。だがさすがに誘われることもないだろう。わたしの名前を憶えていたらモーセが海を割るくらいの奇蹟だし、この姿かたちと当時のわたしとを結び付けられたら寝たきり老人が突如としてベッドでブレイクダンスを披露するくらいの驚異だ。つまり、断じてありえない。


 同い年のその男の子は十四年前、別の町に引っ越して行った。それからというもの、夜の星を見上げる事もなくなった。わたしはただその子の遊びに付き合っていただけなのだろう。その子——名前は何といったか、まあ思い出すのも奇蹟なんだけど——のお遊戯が終われば眠り姫もまた心置きなく高いびきをし始めた、まあ、そういうこと。


「くそ」

 部屋の外は夕方よりさらに冷え込んできている。ベランダ喫煙が、ホタル族にはかなり厳しい環境だ。ご説明しますとただくそ寒いだけでなく雪まで降って来やがりましてですね、これは換気扇の下で——いや、だめだ。この物件、だめなんだ。そういうの。わざとらしい舌打ちをしてたばこの火を消し、部屋に戻る。


 こごえた身体が喜ぶ温かいものを飲んでみようか。今日はココア。で、昨日は燗酒。その前は——何だっけ。忘れたけどホットウィスキーみたいなものだろう。

 マグカップに牛乳を注ぎ、レンジにブチ込む。でも突沸するとビビるから温度を確認しながらじんわりとレンジアップする。もしかしたらこの牛乳、わたしよりわたしに愛されているのかもしれない。牛乳にジェラった自分を戒めるように、あえてぬるめでマグカップを取り出す。ミルクココアの口を開け、一杯、二杯、三杯——の半分をマグカップに投じ、かき混ぜる。けっ、だれが作り方通りに作るかよ。料理は魂だ——ココアが料理だと仮定すればの話だが。


 座卓でココアを飲みながら考える、私はこの十四年でどんな風に成長できただろう。いい大学でいい講義を受け、いい会社にも入れた。勉学の面では様々なことを学んだ。使いづらい公式を使って意地の悪い問題を解いたり、有体にいってつまらないが価値のあるらしい小説や、示威行為かもしくは自慰行為のような論説を読んで、だんだんと自分もそっち側の人間に染まりかけた時期もあった。


「でもなー」

 学生時代から続く出世街道とは反対に、まったくといっていいほどできなくなったこともある。

 人前に出ることだ。

 ゼミ生時代からその兆しは見え、就活は文字通り命がけだった。一対複数ならまだいい。集団面接のディベートともなると、過呼吸で倒れたことも一度や二度ではなかった。とはいえ、今の職種は会議といっても弛緩しきった課内のミーティングが主だったから、就活のときのような極限状態とは程遠い。あんな状況はもうごめんだが、就活が今までの人生でマックスの緊張であったため、今は落ち着いて本来の仕事に専念できていた。ただただ無表情で、無感情で、無思考で——これでよく総合職にそこそこの給料と立場を与え、それで社内風紀が揺るがないものだと我が社の将来を少し危惧する。


 でも、わたしの上がり症が出始めた大学時代を知らない周りの子は「なんか、前ほどスマイリーじゃじゃなくなったね。昔ならスマイル売って生計立てられたのにさ」と、無邪気にも無自覚にも棘のような言葉をかけてきた。

 当たり前のこと、変わること。

「クソご馳走様でした」

 中身の空いたマグカップを流しへと運ぶ。家を出てすぐに自炊もするようになった。遠い遠い過去の話であるが。

 時間が経過するにつれて、たくさんのことが変わっていく。生活する環境も、もっと細かくいえば自分の食べ物の好みから煙草の銘柄まで。


「今どうしてんのかねえ。知ってるかい、オリオンよ」

 最近ふと思うことがある。時間が流れているのは向こうも同じ。十四年も経っているのだ、私も変わったしあの子も変わっただろう。お互い、誰が誰だかわからないなんてこともあるかもしれない。それでもあの子はあの時のように、星の話をしてくれるのだろうか。


「なーにを、婆さんみたいに懐古趣味に溺れちょるんだ、わたしは」だが、こんなことを毎日考えている。そして決まったように「あー、やめやめ。これ以上はだめ。フラ語でフェアボーテン。キモいってこと」

 こんなセリフで私は思考を無理やり止める。いや、止められたことがかつてあっただろうか。

「だめ。きょうはだめな日やわ。あかん方にしかいかんアレや」


 きょうは思考を止めるのが少し遅かったようで、セリフを口走ったあとも煩悩や懊悩で頭はぐるぐるしていた。いま人に会うのはマズい。きっと頭部がぐるぐる回っている妖怪女として月間ム―に掲載されるのがオチだ。嫁にいけない。商売女として働かざるを得ない。これでは『ムーンリヴァー』のタッ君に一銭も貢げなければ一線も越えられない。

 こうなってしまうと、マグカップひとつ洗うのもかなり時間がかかる。手が動かない。思考を司る神経は脳だけで完結し、それ以降にはまったくもってパルスが行き届かない。よからぬことばかりにEnergyが集中してしまう。おっと癖でイギリス英語で発言してしまったが、要するに流しっぱなしの水道を止めよう。そういうことだ。


 だけど——それにもまして優先する人間がいるんだ、わたしの記憶には。水道は流れ続け、買ったばかりのマグカップは心底ダサいと思えてきて、透かして見れば煙草の焦げ跡が星座のように散りばめられた着る毛布を着た。ワンマイルウェアとして認識しているこの着る毛布、コートを焦がすわけにはいかない。そこらの近場なら十分コイツで事足りる。わたしは外に出て星空を眺めながらボトルごとウィスキーをちびちびやるのが最適解と判断した。

 

「今の気温は——マイナス四℃。はっ、ヨンドシーね。ああ、いいじゃない、わたしもなかなか安くなってるよ。二十五まで生きてきて、清い身体で、アホみたいに働いて、きっといつか誰のためにもならないで死ぬ。最高だよ」

 洗剤入りのぬるま湯を張ったマグカップをシンクに置いて、洗剤のついた手を流して、スマホで天気を見、雪のちらつく外へ出た。


「ごめんね、将来の自分。八分ほど前の過去の自分がいささかロックだったためにパジャマの上、着る毛布しか着ずに出ちゃったよ。でもいいさ、安バーボンで暖かくなるはずだからね」

 あ、と気づく。

「水道、凍るな」

 またやってしまった。気分転換する時は家のことは考えないって決めたのに。行き先も決めずにしばらくぼーっと歩いていると、小さい頃によくあの子と遊んでいた公園を通りかかった。

「よくもまあ——この学区の物件見つけたもんだわ。そのあたりらへんのちほど突撃取材してみます」

 小学生くらいの時はあのジャングルジムの一番上に上がって、一緒に星を眺めたっけ。

「なーんも、変わってねえな」

 わたしだけが、止まったままなんだ。時間は進んでいるのに、社会やそれに随伴する公人としてのわたしが進歩しているのに、ウィスキーをかっ食らっているわたしだけが十四年前で止まっている。アルコールの入った身体で苦労してジャングルジムを登る。ポリ公来たら職質もんだな、これは。

 でも、会いたい。心の底からそう思う。バカみたい。そんなバカが君と会ってさ、昔みたいにここで遊んで、一緒に星を見上げながら星の話をしてね。


「知ってる」

 急に後ろから声をかけられて危うくバーボンを取り落としそうになる。「だッ、だれ」

「一番困るのはストーカー扱いされること。さらにもっと困るのは、忘れ去られてしまうこと」そういって、歯を見せて笑う。——瞬間的にありとあらゆることが思い出された。土岐将人。

「と、とき君? とき——まさと」半分ジャングルジムから滑り落ちかけ、着ているものは着る毛布にもこもこのパジャマ、足さえもこもこのクロックス――のパチモンで固め、何よりも大事そうにウィスキーのボトルを抱えているわたしはそう問うた。


「正解、みさき姉」

 会社帰りか、スーツ姿にステンコートのまー君は少し(照れくさそうに)笑っていった。

「でも、なんで」

「登っていいかな?」

 ぎこちなくうなずくと、まー君はビジネストートをベンチに置き、軽い身のこなしでジャングルジムを登り、すぐにわたしの隣に座った。「うわっ、狭い」とはにかんで笑う。「子どもの頃はあんなにでかかったのに、このジャングルジム」

 瞬時に自分の身なりを恥じてわたしはうつむく。ウィスキーをなるべく見えないように隠す。

「でも、なんで」二度目のこの言葉は少なからず警戒心をにじませていた。聡明な読者諸賢はお憶えになっているだろうが、わたしだって、実は女なのだ。


「今日、何の日か覚えてる?」

「わ――わたしの誕生日」

「それ一番大事やね。もうひとつ」

「——こ、こぐま座流星群の極大日」


 まー君はわたしにコートを掛け、「ひと口ちょうだい」といってウィスキーをぐびっと、いや、ぐびぐびぐびぐびっと飲んだ。

 それきりまー君は黙りこんでしまった。


 どれくらい経っただろうか。目の前で流星がひとつふたつ、やがて群を成して飛び交った。まー君はしゃべらない。わたしの顔を見ようともしない。黙りこくったまま、だんだんと流星がその数を減らし夜空は元に戻りかけている。

 わたしはまー君の肩にもたれる。まー君はなにもいわない。


 結局、ジャングルジムを下りてもひとことも発さず、まー君は鞄を持って帰ろうとした。「ま、待って。コート――」

「そんな薄着で来る方が悪い」そういったまー君はまるで悪童のように歯を見せて笑った。



 まー君のコートは今もわたしの手元にある。ストーカー説も首をもたげたが、それも些末な問題のように思えた。それならそれで、結納でも何でもすればいいことだ。


 まー君のコートを羽織る。

 雪が顔を打つなか、わたしは出勤する。


 まー君が本当に実在したのか。よくわからない。酔っぱらって道に落ちていたコートをネコババしただけなのかもしれない——でも、いい。

 十四年前、土岐将人が実在したのかも怪しいのだから。

 その証拠がこのコートではなく、わたしの脳内に留保している事実は、わたしを極端に幸せな気分にしてくれた。だから、今はそれでいい。


 ね、まー君?



        ————了

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