ろくろ首の第三頸椎

ユッキー

ろくろ首の第三頸椎

 オレが首に両手を掛けると、彼は低く呻いた。

てなぁ、骨と筋肉、どっちが伸びるのかねえ?」

「は?」

 思わず両耳の後ろの出っ張った骨─乳様突起の下に親指が深く入り、「ぐえっ」と声が上がった。普段は親指の腹で押すようにしているが、指先で押してしまったので刺激が強かったのだろう。

「ろくろ首ってあの…首が伸びる妖怪の?」

「そーそー、江戸時代の怪談とかにあるだろ?夜中に女の首がにょ〜んって伸びて行燈あんどんの油舐めたとか──あれってどこが伸びてるんだと思う?」

 一体何を言い出すのか。

 オレは呆れつつも一応考えて、今度はうなじ周りの後頭下筋群を触りながら答える。

「やっぱり伸縮するのは筋肉じゃないスか」

「どこら辺?」

「まあ首を支える一番大きい筋肉はこの背中から繋がる僧帽そうぼう筋だけど…あとは耳の下のきょうにゅうとつ筋かな……」

「骨は伸びない?」

「椎間板は伸びてるかも」

 人間の首の骨は第一頸椎から第七頸椎まであるが、その骨同士を支える軟骨クッションが椎間板である。

「なるほど〜。

 あ、でもろくろ首の仲間で〈抜け首〉とか〈飛頭蛮〉ってのもいてさ、そいつらは頭が体から離れて飛んでいくんだってよ。それだと首の骨は外れてるよな。どこの骨が外れんのかな?」

 いや知らんわ。

「…頭だけ綺麗に取れるんなら頭蓋骨のすぐ下、第一頸椎の上でしょうけど、首もくっついて抜けるってんなら真ん中の第三頸椎辺りスかね」

「じゃあ普通のろくろ首もその第三頸椎が外れて、僧帽筋や胸鎖乳突筋が伸びてってカンジかな?」

 だから知らんて。

「どっちにしてもぶんさんの首は伸びないスよ」

「そんなに凝ってる?」

「僧帽筋も胸鎖乳突筋もガチガチ、伸びるどころか縮んでる。ハイうつ伏せね」

 乳様突起の下は東洋医学の経穴ツボで言えば天牖てんゆう、後頭下筋群には風池ふうちがあり、どちらも首凝りに関係するので反応を見ていたが、まあ酷い。ベッドに腰掛けて症状のチェックを受けていた文太さんは、オレの指示に従ってうつ伏せになる。ベッドと言ってもフカフカの羽毛だったり低反発のマットレスだったりする訳ではなく、レザー製の施術用だ。

 オレは〈柔道整復師〉である。

 一般的には『接骨院や整骨院の先生』として知られるこの仕事は、捻挫や打撲、骨折、脱臼等の怪我を〈施術〉で治す、国家資格を持った医療従事者だ。医療機関である整形外科の医師とは違って投薬や手術等の〈治療〉は出来ないが、受傷直後には冷却して炎症を抑え包帯やテーピングで固定し、ズレた骨や関節は手技で元の位置に戻して、ストレッチやトレーニング等のリハビリテーションも指導して──そんな治癒に至る過程に関わる事が出来る。

 更に急性症状だけではなく、肩凝りや腰痛等の慢性症状にもマッサージや骨格の歪みを矯正するカイロプラクティック等で対応するが、そこら辺は民間資格の〈整体師〉ともやる事が被るので間違われやすい。『なんとか』と看板を上げている所では怪我は治せないのだ。

 しかしオレは厚生省お墨付きの資格証明書を貰っている。

 ここはそんなオレの経営する──〈ぎゃらん堂〉。

 そして文太さんは週に二日通う常連の患者さんだ。

 ベッドが三床あるだけの小さな整骨院である。都心から近い千葉県北西部、五階建てのビルの二階にあるのだが、ここがいわゆるペンシルビルという縦に細長い造りで各階に一戸しかなく、その専有面積も四十平米弱、間取りにしたら狭めの2DKくらいの規模だ。実際、オレが借りているこの二階は初めからテナント用としてワンフロアブチ抜いた造りだが、三階から上は普通のマンションとして各階一世帯が住んでいる。当然同じ階にお隣さんはおらず、一階は五階に住むビルのオーナーのガレージである。つまり少々ドタバタしても苦情が来る事はない。

 と言ってもオレは施術をしているだけなので別に騒がないが──

「あが――っ!ごお――っ!」

「あらら〜」

 マッサージを開始して早々に太腿の裏側ハムストリングスを押されて悶絶する文太さんを、受付カウンターを背に包帯を巻き直していたマヨねえがニヤニヤと眺める。

「だいぶお疲れね文太さん。

 センセ、通報される前に窓閉めます?」

 マヨ姉が言う通り半分ほど開けられた窓は細い道路を挟んで川に面していて、爽やかな五月の風が白いカーテンを揺らしている。周りは駅や幹線道路からも離れた閑静な住宅街なので、この静かな月曜日の昼食時に体格の良い文太さんの野太い悲鳴は確かに響くだろう。

ひでぇな、面白がってるだろマヨ姉さん…」

 いかつい顔で角刈り頭、赤いダボシャツのアラフィフは情けない声で、ショートカットの茶髪に抗議した。オレもマヨ姉もハイネックの半袖シャツとズボンにセパレートされたケーシーと呼ばれるを着ているが、マヨ姉のケーシーはピンクである。受付担当の彼女は柔整の資格を持っている訳ではないが、一応制服っぽくケーシーを着てオレ同様胸に名札を付けて、ただ色は自由に好きなモノを選んでもらった。

「センセもちょっと手加減してくれよぉ…」

「全然力入れてないスよ。これでそんなに痛いのは、文太さんの腰がそんだけ重症なんスよ」

「腰痛とか坐骨神経痛に効くのよね。あたしもこの前車運転した後センセに揉んでもらったけど、キモチ良かったわよ」

 包帯を巻き終えたマヨ姉も会話に加わる。

「そんなちょっと運転したくらいならそうだろうけど、俺ぁ仕事でひと晩中座ってんだから仕方ないじゃん」

「その間深夜ラジオを聴いてるか、一人で歌いまくってるかなんでしょ?ウケる〜」

「おっ、カラオケ行って聴かせてやろうか?

『男のぉ旅はぁ一人旅ぃ〜♪…』ぐげあっ!」

 文太さんの熱唱は、やはり腰痛に効く太腿内側の内側広筋を押した瞬間の断末魔で強制終了となった。オレは今年で三十五、マヨ姉は小学生の息子がいるシングルマザーだがまだ三十前だ。五十過ぎのおっさんが眠気覚ましとストレス解消に歌う十八番おはこは『トラック野郎』の主題歌だと言われても全く知らず、その映画も観た事はない。第三作『望郷一番星』のヒロインの島田陽子が理想の女性だそうだが、当時は文太さん本人も幼稚園児だったはずだ。

 オレが分かるのはそんな座りっ放しの仕事のせいで腰痛も酷く、それ以上に最初にチェックした首凝りが酷過ぎるという事だけである。

 そうだ、首。

「さっきの質問、何なんスか?ろくろ首がどうしたとか…」

 マッサージを続けながらそう尋ねたオレに、しかし文太さんは質問で返す。

「今日オーナー来ないよね?」

うえ様?あれ、そうだっけ?」

「先週同じ土曜日に俺も来たけど、次は明日の火曜日に来るって言ってたぜ」

「ホントスか?今日上様の予約は?マヨ姉」

「伯父さんなら確かに今日は入ってないけど…。

 だから上様はやめてってセンセ。すぐ変なアダ名付けるんだから」

「だって名字が『松平』でこのビルの最上階に住んでるんだから、そりゃ『上様』だろ。オーナーも手叩いて喜んでたし」

 残念ながら下の名前は健ではないが、上様はこのビル─〈シャトー松平〉のオーナーにしてマヨ姉の伯父だ。

 元々オレは駅前の大きな整骨院で働いていたのだが、そこは近隣でいくつもの店舗を経営しているグループに属していて、オレはその雇われ院長を任されていた。上様はそこに一昨年おととしから通っていたのだが、オレの事を気に入っていつも指名してくれていた。同じ資格を持っている柔道整復師と言っても、そこは考え方やキャリアで個性が出る。実際マッサージの仕方ひとつ取っても指を入れる角度や圧の強弱は千差万別なのだが、上様はオレのやり方がお気に召したのだろう。

 だがそのグループ整骨院にはそんなオレ達の個性を消す様な、本部が決めた施術のマニュアルがあった。初診の際に作ったカルテを本部と共有して、そこで決めた方針に沿って毎回同じ施術をする事になっていたのだ。確かにマニュアル通りにやるだけなら経験の浅い新人でもこなせるので、ベテランを雇うより人件費を抑えられる。グループの営業戦略としては正しいかもしれない。だから大学を中退して柔整の専門学校に入学し直して三年、二十二歳で資格を得てから一昨年の時点でまだキャリア十年にも満たなかった若造のオレに院長が務まっていたのだ。

 だが急性にせよ慢性にせよ、患者の体の具合は日々変わるものだろう。腕を傷めた患者がそこを庇って生活した結果、思いがけず背中を痛めるなんて事はザラにあるのだ。そうなればその日の一大事は腕ではなく背中の痛みであって、オレはそれを臨機応変に治してあげたい──そう思って自分なりに勉強を続けて患者に寄り添ってきたつもりだ。

 しかし本部はそういう対応を一応許可はしているものの、いい顔はしなかった。施術する部位が変わる場合は健康保険の申請にも影響するので、事後報告は勿論ちゃんとしていた。しかし本部は先に報告しろと言う。しかしそれではその日の患者の痛みはどうなる。オレは何度も本部とぶつかり、煙たがられ、どんどん居心地が悪くなっていった。

 そんな時である。

 小学生になったばかりの子供が脚が動かなくなり歩行困難になったとして、母親と共に来院した。

 そういう〈歩行障害〉でオレ達柔道整復師が関われるのは、足の捻挫や骨折等による筋肉組織や骨組織の損傷、或いは背骨や骨盤の歪み等が原因で起こる神経の異常や血行不良の場合だ。

 しかしその子の場合転んだりぶつけたりした訳ではないといい、実際に先に整形外科で撮ってきたレントゲンを見せてもらっても骨格の目立った歪みや気付きにくい剥離骨折も無かった。脳梗塞等の脳神経疾患の後遺症でも歩行障害は起きるのだがそれも当て嵌まらない。それでもマニュアルだととりあえず脚のマッサージから入る事になっていたのだが──

 オレはマニュアルを無視して、その子と母親に徹底的に話を聞いた。全く口をきかないその子と『とにかく治して欲しい』と言うだけの母親に違和感を抱いたからである。

 粘り強く訊き出した結果、ようやく事情を話し出した母親によると、歩けなくなったのは今回が初めてではないという。幼稚園の頃にもそれまで普通に歩けていたのが突然歩けなくなり、それどころか立ち上がるのも困難になって、赤ん坊がやるいわゆる〈つかまり立ち〉しか出来なくなったのだそうだ。

 そしてその時もやはり声が上手く出せなくなったという。唯一聞き取れたのは掠れた声で呼びかける『ママ』だけだったと、当時を思い出したらしい母親は涙ぐんでいた。

 聞けばその頃親子は事情があって引っ越し、生活環境に急激な変化があったらしい。困窮して生活費を稼ぐ為に昼夜を問わず働いていた母親自身も疲弊していて、子供を病院に連れていく余裕も無かったという。だがやがてそんな生活が落ち着いてくるとその子もいつの間にか普通に立って歩いており、声も出せるようになったので、そのままにしていたと母親は申し訳なさそうに話した。

 しかしそれでオレはピンときたのだ。

 その子の歩行障害は、環境の変化でストレスを抱えた故の心因性のモノではないのか?

 何故なら発声器官には問題が無いのに喋れなくなる〈失声症〉も、同様に心理的要因で発症するからだ。

 それらが今回は小学校入学という新たな変化で再発したのではないか?

 ならばそれは整骨院ではなく精神科や心療内科の領域だ。オレはそっち方面にツテは無かったが、戸惑う母親に近くの心療内科の評判を調べて紹介した。子供が不安がるのがどうにも放っとけなくて、治療計画を相談したいという強引な名目で診察に一緒に行った。

 そこで聞いた話では心因性でもリハビリとして歩行訓練をするのは有効であり、その際には『治ったらスポーツしようね』とか具体的な目標を持たせるのが良いとの事だった。

 それでオレはその子に、心療内科に通うのと併せてウチの整骨院にも遊びのつもりでおいでと提案した。更に『治ったらキャッチボールしよう』とつい口走ったが、それは大学まで野球をやっていたオレがやりたかっただけでその子の希望ではない。実際それまで野球に縁が無かったらしい母親は『何故野球?』と呆気に取られていた。

 でもその子は目を丸くしながらもコクリと頷いてくれた──僅かに笑みも浮かべて。

 それからは来院の度に徐々に回復し言葉も取り戻し、お喋りしながらの脚のマッサージと骨格の調整を続け、やがて院内を歩き回れるようになったのだ。

 その時のオレは自分でも色々逸脱している自覚はあった。しかしその子にはそのが必要だったと信じている。

 だがそんな独断専行を本部が許すはずもなく、オレは院長を解任された。

 給料はガクンと下がり、同僚も腫れ物に触るかのごとく業務連絡以外の会話をしなくなり、それでも指名してくれる常連さんがいる限りは辞められないと働き続けていたが、そんなオレを見かねた上様が施術中にこっそり言ってくれたのだ。

 自分は今ビルを建てている。そこで個人の整骨院を開業してみないかと──

 そして去年シャトー松平は完成し、準備期間を経た今年初めにぎゃらん堂はオープンした。本当は初心に還って空っぽのゼロから始めるという意味を込めて〈がらん堂〉にしたかったのだが、調べたら既にその名前の整骨院や鍼灸しんきゅう院が存在していて、悩むオレをよそに上様が『私は西城秀樹ヒデキが好きでねえ』と『が』を『ぎゃ』に変えた。

 その上様は開業以来毎日のように通ってくれて、元の院の常連も知り合いも片っ端から誘ってくれて……オレが今何とかやれているのは全て上様のお陰だ。毎日シャトー最上階てっぺんに手を合わせている。

 しかしその上様が来るかどうかとろくろ首に何の関係があるんだ?

 文太さんは声を潜めて言った。


「俺、ろくろ首を見たんだよ。

 で……」


 川からの風が一瞬強くなる。

 オレは視界の隅に何かを認めて、目線を走らせた。

 パーテーションで区切ってあるのでここからは見えないが、玄関のガラス扉を入ってすぐのスペースには長椅子が一脚置いてある。まあ待合室だ。

 そのパーテーションの待合室側にオレの柔道整復師の資格証明書が額に入れて飾ってあるのだが、その周りにマヨ姉が毎月のストレッチを提案するカレンダーやら、可愛い女の子のキャラクターが描いてある鍼灸師募集のポスターやら、地元少年野球チームの部員募集やらを貼りまくったので、あまり目立ってはいない。

 その待合室にはオレから見て左端に受付のカウンターがあり、パーテーションはそのカウンター前で途切れて、ドア一枚分くらい空いている。その空間が待合室と施術室を行き来するな訳だが、そこに誰かが立っていた。

 白いワンピースの女性。

 小柄で痩せていて、雰囲気的には若い気がするがよく分からない。

 こちらを向いてはいるが俯いているので、長い黒髪が胸元まで垂れて顔をスッポリ隠していた。

(誰だ…初診の患者さんか?)

 顔は分からないがその佇まいに見覚えは無かった。  

 何だか影が薄いというか、存在感が無い。

 そのせいかずっと受付カウンターに背を向けていたマヨ姉も気付いていないようだ。

 オレは『いらっしゃいませ』と声を掛けようと思ったが、その女性は音も無く踵を返してパーテーションの向こうに消えた。長椅子に座ったのか?この後診察の予約は入っていただろうか…?


「何言ってんの文太さん。ろくろ首を?ここで?」

 呆れた様なマヨ姉の言葉にハッと我に返る。

 そうだ、その話題だった。

 オレはやはり腰痛に効果のある膝の裏の膝窩しっか筋から、ふくらはぎの腓腹ひふく筋、ヒラメ筋へと指を動かしながら尋ねる。

「もしかして首の牽引の話ですか?それならオレもやるし、整形外科なら専用の器具もあるけど」

 牽引とは頸椎や腰椎を引っ張って骨同士の圧迫を軽減させたり、ズレを矯正したりする治療法だ。頸椎くびの牽引ならオレは手技でやるが、設備のある所だと座った状態の患者さんの顎に天井から吊るしたベルトを装着して引っ張り、狭くなった骨の間隔を拡げる。それで神経根や椎間板への圧力を軽減させ痛みを緩和させるのだ。椎間板の血行不良改善や硬直した筋肉を緩める効果もある。

「姿勢が悪く縮こまって固まった首を牽引すれば、そりゃ1センチくらいは伸びるでしょうが……」

「そんなのろくろ首たぁ言わねえよ。

 俺ぁホンモノを見たんだ」

 マヨ姉が冷笑を浮かべる。

「え〜寝惚けてたんでしょ?」

「そんな事ねえって。声も聞いたよ」

「ろくろ首の〜?」

「ハハ、まさか…」

 マヨ姉の眉唾反応にオレも同意するが、文太さんは真面目に言い返した。

「このビルが建つ前、ここって三階建てのボロアパートだったろ?各階二世帯あったけど、土地の広さは変わんないから全室1Kの狭い部屋で……その一室にんだよ。

 それが川に面した二階の部屋だったから、まさになのさ!」

 川風で再びカーテンが揺れる。

「……三年前の七月だったよ。雨が降っててさ、蒸し暑い晩だった。

 俺ぁ仕事中だったんだけど、その頃は特に忙しくってさ。毎日徹夜で寝られなくて、座りっ放しで腰も股関節もガチガチに固まっちまって、首肩も酷くって目は霞むわ頭痛はするわ…そうじゃなくても梅雨の時季って調子悪いんだよ。天気痛ってやつ?

 だからちょっと体動かしたくって散歩に出たのさ。まだ十時過ぎでラジオも若者向けだし、ここらで眠気覚ましてひと晩中ブッ飛ばすぜってな。

 ただ今はこんなサッパリしてるけど、そん時の俺ぁホントに暇無くてなあ。髪も伸び放題でボサボサ、無精髭も剃ってなくてさ。格好もヨレヨレのジャージだし…平日──確か水曜日だったけど、繁華街はそれでも人多いだろ?見られたらみっともねえなって思って、人気ひとけの無い住宅街の方に向かったのよ、傘差して。

 そしたらそこの川沿いに出てよ。ああ、向こう岸ね。それでブラブラ歩いてたんだけど、気付いたら周りに誰もいないんだわ。前から来る人ともすれ違わないし、振り返っても街灯がポツンポツンと滲むのみ。聞こえてくるのは雨がパラパラと川面を叩く音だけ。 

 最初は静かでいいなとか思ってたんだけど、だんだん変な気分になってきた。そう、何だか俺独り、異界に入り込んじまったかの様な…暗い、あまりにも昏い空から雨が降り続けてよぉ……」

 文太さんは声のトーンを落として怖ろしげな雰囲気を演出しているつもりだろうが、内容は中学生が修学旅行の消灯後に語る怪談レベルだ。

 シャトー松平の前の川は県境の江戸川から分かれた支流の一つで、洪水対策で護岸はコンクリートで固められているものの両岸に桜の樹が並ぶエリアもあり、確かにウチの窓からものんびり散歩する市民の姿をよく見かける。

 しかしさすがに夜桜ならぬ梅雨の夜にブラつく物好きはそうそういなかろう。周りに誰もいなくても別におかしくはない。オレは演出過剰な文太さんにツッコもうと思ったが、ふとマヨ姉の顔を見て口を噤む。

 マヨ姉は目を丸くして、息を呑んでいた。

 こんなベタな話に惹き込まれているのか?

「嫌な予感がしてきたんで俺、もう帰ろうと思ってさ。次の街灯んとこ曲がって戻ろうって前を見たら──ぐおおっ!」

「キャッ…」

 突然の悲鳴にマヨ姉が首を竦めるが、オレがお尻の梨状りじょう筋を肘で強く押したからである。ここは股関節痛に効く。

 文太さんは絞り出す様に続ける。

「…その街灯の光を遮るようにが浮かんでた。

 思わず立ち止まってしばらく睨み合ったけど、そいつはフワフワと膨らんだり縮んだりしながらずっとそこに浮いている。

 俺ぁ固まって動けなかったけど、あまり怖くはなかったな。ただ呆然と思ってた。

 これが〈黒玉〉かと……」

「黒玉…?」

 マヨ姉が丸い目のまま尋ねる。

「こいつも妖怪の一種でね、人の頭くらいの黒い玉がポウッと浮いてるの。いや、俺も初めて見たけどさ。

 夏の夜に蚊帳かやを吊って寝てるとその蚊帳をすり抜けて中へ入り込むっていうから、七月の夜に出るのは季節は合ってる訳よ。そんで寝てる人の足に止まっては体を伝って、胸を押さえ付けて苦しめたり、更には顔の上まで移動して呼吸困難にするんだと。けど苦しくて目を覚ますとすぐ逃げ去っちゃうから大した害は無いって話で、だからまあ怖くなかったんだけど──」

「それもラジオで仕入れた知識?夜中に怪談聴いてんスか?」

 オレは苦笑しつつ腰周りのマッサージを終え、問題の首肩をほぐす為に文太さんの頭側に移動した。首の後ろの頭板状とうばんじょう筋と頸板状けいばんじょう筋を丁寧に揉む間も、怪しい民間伝承だか都市伝説だかの語り部と化した文太さんは止まらない。

「だけどその黒玉に足から胸、顔と伸し掛かられて息が出来なくなるカンジって、まさに〈金縛り〉と同じだよな。だから俺、黒玉は昔の人が当時は説明が付かなかった『体が動かなくなる現象』を妖怪の仕業に例えたんだと思ってた。でも今は金縛りも説明付くんだろ?」

「そうスね、金縛りは筋肉が弛緩し体は眠っている〈レム睡眠〉中に、脳だけが突然目覚める事で発生する〈睡眠麻痺〉スよ。〈ノンレム睡眠〉なら脳も体も深く眠ってるんスけどね。

 その交互に規則正しく繰り返すはずのレム睡眠とノンレム睡眠のバランスは、不規則な生活や睡眠不足、飲酒なんかのストレスで崩れてしまう。そうすると睡眠麻痺を起こして目が覚めてるのに力が入らず体を動かせなかったり、声を出せない、何かが胸の上に乗ってきて息が苦しくなるみたいな事が起きる。

 そんな金縛りを起こさない為にはストレスを溜めないのが大前提で、リンパの流れを良くして自律神経を整えれば熟睡できてストレスも解消できる。そういう時ははり治療も有効なんスよね。でもオレはツボの勉強はしてるけど鍼灸の免許持ってないから今度──」

「金縛りの時に唯一動くのは目だろ?

 俺はこのまま固まってるといけないと思って目線を黒玉から逸らしてさ」

 聞けよ人の話を最後まで!

「そんでその目線が向くままに川の対岸を見たら、ちょうどそれがこのビルになる前のアパート。

 二階の部屋の窓もカーテンも蒸し暑かったからか三分の二くらい開いててさ。

 電気が薄暗くて部屋の中はハッキリとは見えなかったけど、中に人がいるのはシルエットで分かって。

 髪の長い、痩せた女が部屋の真ん中に立ってた」


 オレはさっき待合室で見た女性を思い出す。


「その女、ちゃんと足元は床に着いてるんだよ。

 二本の足で立って……

 でもその首はさ、天井に向かって伸びてるんだ。

 グニャアって曲がりながら──」


「ひっ…」マヨ姉が短く息を吸い込む。

「まさに昔の絵巻物とかで見る絵そのものでさ、あるだろ『画図百鬼夜行』とか…真っすぐじゃねえんだよ、曲がって伸びてんの。さすがに俺もビビって、でも目が離せなくて、しばらく凝視してた。

 そのろくろ首はさ、頭をユラユラ揺らしながら、足もフラフラして、何だか酔っ払ってるか寝惚けてるみたいな……いや俺も思ったよ、さっきの黒玉といい、これは俺の方が疲れて夢視てんのかってさ。何度も瞬きして、目擦って──

 そしたら次の瞬間、女の首がスッと下に落ちるみたいに縮んだ。

 でそのまま床に崩れるみたいに座り込んだと思ったら、ドスンとかバタンとか音がしてさ。あっ、これは夢じゃないって…。

 そうなるとさ、確かめてみたくなるじゃん」

「確かめる?」

 首から背中まで続く頭半棘とうはんきょく筋を指圧していたオレは眉をひそめる。

「そうだよ、ろくろ首がどんな顔してんのか、気になるじゃん」

「怖くなかったの…?」

 マヨ姉の声は少し震えている。確かにさっきは文太さんも『ビビった』と言っていた。

「思い出したんだよ。ろくろ首の仲間には首が離れて飛ぶ抜け首とか飛頭蛮とかってのがいるって言ったろ?このタイプのヤツはさ、人間を襲って血を吸ったりするんだ。小泉八雲の小説に出てくるのもこの抜け首でさ、山の木こりのフリしてるろくろ首の一族が泊めた旅人を食い殺す話なんだぜ。

 ボルネオ島の〈ペナンガラン〉って吸血鬼も自在に空を飛び回る女の頭の姿をしてて、首の下には胃袋やら腸やらをぶら下げてるんだってよ。その内臓を夜空で蛍みてえに光らせて──」

 う…気持ち悪い。

「けど首が伸びるタイプはそんなにおっかなくねえんだ。言ったろ?女の首が伸びて行燈の油舐める怪談。あれの元になったのはさ、江戸時代の随筆の芸者の首が寝てる間に伸びたって話で、そのオチは『眠ると心が緩んで首が伸びるだろう』で終わってんだ。妖怪扱いすらされてねえ。それが後に怪談として流行したのは、吉原の遊女が添い寝してる客が寝静まった頃合いに首をするすると伸ばしてって、ちょっと色っぽいイメージがウケたからだと思うぜ。

 そもそもこのろくろ首は魂が煙みたいに口から抜ける〈エクトプラズム現象〉が首が伸びた様に視えただけって説があるし、〈離魂病〉って病気だとも言われてる。中には殺された女の怨念が取り憑いて、その犯人の娘がろくろ首になっちまったってパターンもあるけどさ、基本無関係の人間にはあんまり害の無い妖怪なんだよ」

「それで…アパートに凸したの…?」

「おうよ」

 呆然とするマヨ姉に対し、文太さんは何だか得意げだ。

「ろくろ首をネタにした落語もあってさ、それも頭に浮かんだ。

 ある独身の男がご隠居に縁談を持ち掛けられて、それが資産家の娘で器量好し、ただひとつだけ欠点があるという。男は身構えるがご隠居は『大した事じゃない、ただ夜中にシューッと首が伸びるだけだ』と。男は半信半疑ながら結婚して、その初夜にホントに花嫁の首が伸びて、驚いた男は逃げ出しちまう。そんでご隠居のとこに転がり込んで抗議するんだが、ご隠居は呆れながら言うんだな、『嫁さんが待ってるから早く帰ってやれ』って。男は返す。

『どんな風に待ってますか?』──

『そりゃお前、首を長くして待っている』」

 を取ってからサゲて上手い事言った感を出している文太さんが鼻についたので、肩の僧帽筋が盛り上がっている辺り─肩井けんせいを少し強く押して「ぐげっ」と言わせてやった。

「そ、それにさ、の可能性もあるじゃん?マジックっつーか見世物っつーか、幕で体を隠した人が頭だけ出して、それを人形の胴体と作り物の長い首とに結んで、後は立ったりしゃがんだりする事で首が伸び縮みしてる様に見せる。そんなのが昔はお祭りの縁日や見世物小屋で人気だったそうだけど、今はハロウィンの仮装なんかでもリアルなろくろ首見かけるからな。夏前でコミケの準備をしてたのかもしれねえ。

 とにかくそんなカンジでろくろ首には怖いイメージがあまり無かったんで、思い切って動けたのよ。川の向こう岸だったんでちょっと離れたとこまで行ってやっと橋渡って、アパートまで戻ってさ。そんで階段で二階に上がって、川に向いた側の部屋は二〇一号室だった。廊下の照明も薄暗くて嫌な雰囲気だったけど、玄関ドアの前でちょっと様子見てな。

 部屋の中からは最初、何の物音も聞こえなかった。表札も無くてさ、もしかしたら空き室でやっぱり俺の見間違いかもと思ったけど、ドアの郵便受けにはチラシとダイレクトメールがまとまって差されたままで、封筒の宛名の下の方だけ見えてた。『なんとか子様』って書いてあってよ。一瞬『貞子』に見えたんだが…女が住んでるのは間違いなさそうだ。

 気付いたら、部屋の中から何か聞こえる。

 耳をすませば小さな啜り泣きさ、女の声の。

 やっぱ中にいるんだ、ろくろ首が。

 そのうち嗚咽の合間に『ゴメンね…ゴメンね…』って。

 俺ぁ迷った末に、ドアをノックした。

 途端に啜り泣きは止まったよ。

 それでとりあえず『何かありましたか?』って訊いてみた。ドタバタしてたから、近所の人が様子見に来た事にしてもおかしくないだろ?

 でも反応は無かった。

 それでもう一度ノックして、やっぱり音沙汰無いからどうしようかって考えてさ……そんでつい、落語から連想して呟いちまった。

『旦那に謝ってんのかな?』って──

 そしたら急に後ろから『何してんだあんた!』って怒鳴られてさ。

 それはビビった。ろくろ首よりビビった。

 恐る恐る肩越しにチラリと見たら、格好はパジャマなのに、何だか妙に威厳のあるおっさんが仁王立ちしててさ。そんで怖い声で言うのよ『接近禁止!』って。『そこに住んでるのは独身の女性だ。旦那なんかいない。おかしな事言ってると警察呼ぶぞ』って。

 そう言われて、俺も自分が不審者そのものだった事に気付いてな。顔隠したまま『すんません、すんません』って連呼して逃げた訳さ…。

 誓って夢じゃない。証拠は無いけどな」

 オレは思わずマヨ姉と顔を見合わせた。荒唐無稽な話だ。信じろと言われても困る。

 ろくろ首の貞子?妖怪だか幽霊だか分からない名前だが、確かにそれなら『髪の長いお化け』って条件はクリアする……


 また待合室の女性を思い出した。


 とりあえず何て返そうか…肩甲骨周りのきょく下筋やりょう形筋を解しながら悩んでいたら、文太さんは意外な事を言い出した。

「それでさセンセ、ここの賃料、意外と安いだろ?」

「え?」

 確かに去年完成した新築ビルの割には、このぎゃらん堂のテナント料は相場より安い。

「それはオーナーの上様のご厚意スよ。ホント、前からの常連さんだったとはいえ、オレの独立を応援してもらって感謝してます。受付のコを探してたらマヨ姉紹介してくれて…」

 上様の一族は代々農家を営んでいた大地主だが、この地域が都心のベッドタウンとして発展していく過程でその土地の半分は国に売って幹線道路となり、分断された残りの土地を活かしてシャトー松平以外にもマンションや駐車場を所有している御大名だ。

 その妹の娘だというマヨ姉はずっと離れた土地で暮らしていたが数年前にシングルマザーになり、上様が所有する駅向こうのマンションに越してきたという。それでスーパーのパート等をしていたそうだが、ぎゃらん堂開業以来専属のスタッフとして働いてくれている。明るくサッパリとした気質で、ぎっくり腰の爺さん婆さんから部活で捻挫した中学生まで分け隔てない接し方が出来る人気者だ。

「おかしいと思わねえか?」

「は?何が?」

「だからその安さよ。

 それに一階はオーナーのガレージにしてるからまあいいとして、三階以上は普通のマンションだろ?何でこの二階だけテナントなのよ」

「さあ、それは……」

「事故物件、なんじゃねえか?」

「はあ?」

「ろくろ首が住んでた事故物件だから人を住まわせねえで、センセに安く貸したんじゃねえか?」

「なっ、バっ…」

 つい『馬鹿』と言いそうになって呑み込んだ。一応患者さんだ。

 代わりに左脇の下の前鋸ぜんきょ筋を揉む。ここは五十肩に効くので文太さんにはピッタリなのだが、いかんせん──

「あっ、ギャハハッ…くすぐってえっ…!」

「ハーイ我慢してー」

 ヒイヒイ言わせたので溜飲が下がった。

「おかしな事言わないで。営業妨害スよ。

 それに事故物件ってそこで自殺があったとか人死にが出た時でしょ?ろくろ首が住んでたからなんて聞いた事がない」

「でも変だと思わない?

 俺、どうしても気になったから、次の日の昼間アパートに行ったのよ。

 そしたらろくろ首のいた二階の部屋、もう空き部屋になっててさ。家財道具とか一切見当たらない。カーテンが全開で中見えたから間違いねえ。明らかに急過ぎる。正体がバレたんで逃げ出したんじゃねえのか?ただのコスプレイヤーの訳がねえ。

 更に不自然なのは、他に住んでた人達もそれからすぐに皆引っ越して、気が付いたら取り壊しの工事が始まったんだ。もしかしてアパート全体に何か曰くがあったのか──人外ばかりが棲む妖怪アパートだったのかもしれねえ」

「そんなの偶々たまたまよ」

 マヨ姉が硬い声で言う。

「いや、絶対おかしいって。

 だから俺ここがオープンした時、センセが何か知ってんじゃねえか、事故物件だって分かってて借りてんじゃねえかって思ったのさ。それで真相が知りたくて通うようになって──ギャハハッ…!」

 通院の動機が不純だ。今度は右脇を攻める。

「変な勘繰りしないでください。オレは何にも知らないスよ」

「だ、だってっ…ヒイヒイ……

 あの時オレを不審者扱いしたのは、当時もアパートのオーナーだった上様なんだよ!」

「えっ?」 

「オレにろくろ首を見られたから、慌ててビルに建て替えたんじゃねえの?」

「あ、それで今日上様来るか気にしてたんスか!」

「そうだよ、ここに通い始めたらあのおっさんがいるじゃんか。焦ったけど俺の事は覚えてなさそうでホッとした。あの時は髪ボサボサの髭ボーボーだったから。

 けど上様がいたんじゃセンセにろくろ首の話出来ないだろ?しょっちゅういるからさ、あの人。それでタイミングを窺ってて、やっと今日っ…!」

 オレはちょっとだけ真面目に考える。

 もしホントに上様に知られたくない秘密があったなら。

 それを封印する為にアパートを壊し、新しいビルを建て、秘密をしたのなら。


 その秘密が──ろくろ首…?


「ブブー!残念でした〜」

 マヨ姉が顔の前で両腕をクロスする。バツ印だ。

 うつ伏せの文太さんが思わず顔を上げて見た先に、悪戯っ子の様な笑顔があった。

「伯父さん言ってたわ。前のアパートは古くなってたんで随分前から建て替える予定で、その年に住民が退去するのも話し合って同意してもらってたって。だからその独身女性が出ていったのも不思議はない。他に住んでたのはお年寄り二人と単身赴任で来てたサラリーマンだったそうで、お年寄りは家族と暮らす事になって、サラリーマンは単身赴任が終わって地元に帰ったの。

 でね伯父さん、新しく作るビルは自分も奥さんと住むし、高齢者が住みやすいとこにしたかったんだって。年齢としで足腰が弱くなってくるのは仕方無いじゃない?それでアパートの時は各階二世帯だったのを一世帯に減らして、その分のスペースで階段とエレベーターを両方設置したのよ。

 そして同じビルに整骨院があったら、通うのがラクで高齢者にはもってこいでしょ。だから賃料を安くしてでも、センセにここで開業して欲しかったって訳よ」

「そう…なの?」

 ケラケラと笑うマヨ姉のもっともな説明に、文太さんの声もトーンダウンする。

 上様はオレには『応援させてくれ』としか言ってなかったが、確かにエレベーターが付いていた事はここで開業する決意を後押ししてくれた。二階とはいえ脚を傷めた人──それこそ松葉杖の患者なんかに階段はキツ過ぎる。

「ろくろ首なんて夢じゃなければ見間違い。やっぱり文太さんお疲れなのよ。ウデの見せ所ねセンセ〜」

 マヨ姉はヒラヒラと右手を振りながら、パーテーションの向こうに消えた。さっき来た女性に気が付いたのか?初診なら問診票を書いてもらわなければならない。渡してくれただろうか。

 オレはしゅんとして静かになった文太さんに仰向けになるよう指示をする。

 そしてその頭上側の床にしゃがみ込み、両手を首の下に差し込んだ。首の骨を調整するのだ。さっき首肩を解しはしたが、一時的に張りを緩めてもそれはその場しのぎに過ぎず、首凝りの原因自体を解消しなければすぐにまた筋肉は緊張して硬くなる。原因は筋肉ではなく骨にある。

 そもそも二本足で直立歩行するヒトは、体重の約一割を占める重たい頭を首や肩で支えなければならない。その日常的に負荷が掛かっている部位に、猫背や前屈みといったクセのある姿勢で骨格が歪んで更なる負担が加わると、首肩の凝りはどんどん悪化する。座りっ放しのデスクワークや長距離のドライバー、美容師等の同じ姿勢を取り続ける職業の人がなりやすいと言われてきたのだが、近年はスマートフォンの長時間使用によるスマホ首─ストレートネックが原因で、誰もがいつ酷い首凝りを発症してもおかしくない。

 オレはまず首の土台となる一番下の第七頸椎を整えながら話しかけた。

「眼科とか通ってますか?文太さん」

「いや、老眼は酷いけど…何、センセもろくろ首は俺の見間違いだって言うの?」

「ああいや、そういう訳じゃ…」

 頸椎が正しい位置からズレると頭が前後左右に傾き、身体の重心バランスは崩れる。そのズレを補正する為に今度は背骨や骨盤が歪み、姿勢が悪くなって身体全体の関節にも影響が及ぶ。骨格が歪めば筋肉に影響が出て、血液やリンパ液の流れも悪くなり体調の異常が起こる。更に主に内臓の働きを司るのは交感神経と副交感神経から成る自律神経だが、その自律神経の最高中枢である視床下部の機能を最大限に引き出すのにも頸椎の調整は効果があるのだ。

 そう、一見離れ離れの部位も実は全て繋がっている。

 オレは文太さんの頸椎を第七から第一まで順に整えた後、後頭部と首の繋ぎ目に両手の人差指と中指を揃えて当てる。この人差指が触れる部分にある下頭斜かとうしゃ筋が首を横に捻る回旋の動きを担い、デスクワークやスマホ首の状態で目だけ左右に動かすと特に固まりやすい。その下頭斜筋を丁寧に解した後、最後にもう一度ベッドに腰掛けさせて、背後から両手で両耳と両こめかみを揉み解した。

 これで頭蓋骨の中心─蝶形骨が緩む。

 頭蓋骨を形成する二十三個の骨全てのの役割を担うここを緩める事で、固く詰まっていたり塞がってしまっている頭蓋骨の繋ぎ目に隙間を作る事が出来るのだ。場所的に自律神経や視神経、脳神経にも影響を与えるこの蝶形骨のバランスを整えると、血液やリンパ液、脳脊髄液等の流れが良くなって全身の不調が改善されていく。

「──よし、じゃあ今日はいいスよ」

「おおう、何か頭がスッキリしてきたな……」

 施術が終わり気持ち良さげに目を閉じて天井を仰ぐ文太さんに、受付カウンターの中に戻っていたマヨ姉がからかう様に声を掛ける。

「これでもう、ろくろ首なんて視ないでしょ?」

「分かったよ…まあ証明しようもねえしな」

 何だかんだマヨ姉と仲の良い文太さんはサバサバと笑う。

 文太さんがマヨ姉に会計をしてもらっているのを横目に、オレは使っていたベッドをアルコール消毒してタオルで拭く。次の患者さんの為だ…あの髪の長い女性の。

 でもまずは症状の確認からだ。新しいカルテを奥から持ってこなければ──オレが部屋の一番奥にある書類棚でカルテを探していると、会計を終えた文太さんとマヨ姉の声が聞こえてきた。

「そいじゃセンセ、また」

「あ、あたしもヒロム迎えに行かなきゃ。今日先生達の研修で、低学年は給食食べたら終わりなんだって。学童が始まるまでちょっと間が空くから、一旦ウチに連れて帰る」

「えっ?」

 慌てて間仕切りのカーテンから首だけ出して見ると、既に文太さんの姿は無く、マヨ姉もバイバイと手を振って出ていこうとしている。

 確かにこのぎゃらん堂は午前の受付が十二時まで、その時間内に来た患者の施術が終わったら午後三時までは昼休みを取り、その後夜八時までまた営業する形になっていた。だから午前の最後の患者が帰る時にマヨ姉が一緒に出ていくのは本来問題ない。彼女の息子のヒロムはまだ小学二年生、授業が午前中で終わる事も多く、夜まで預かってくれる学童保育を利用しているのだが、今日の様にイレギュラーな状況になる事もたまにある。

 しかし──

「でもマヨ姉、まだ患者さんいるんだから…」

「患者さんなんていないわよ」

 ──え?

「あっ、遅れちゃう!

 ゴメンねセンセ、あたしはあのコのお陰で生きてるの〜っ」

 呆然とするオレに構わず、マヨ姉はバタバタとパーテーションの向こうに消えた。

 慌てて追いかけて待合室に出て、そこで再び呆然とする。


 誰もいない。

 マヨ姉も文太さんも。


 あの髪の長い女性も。


「そんな…マジか……」

 また風が吹き込み、オレは首を巡らせて窓の外を見る。

 オレだけにが視えたと言うのか…?

 こんな真っ昼間に…?

 やっぱりは事故物件なのか…?

 ろくろ首だか怨霊だか知らないが……


「ホントに…貞子サダコ……?」


「いいえ」

「わっ?」

 不意に背後から声がして飛び上がる。

 振り向くと、扉の外に長い髪で顔を隠したサダコが立っていた。

「サダコではありません」

 中に入ってきながら呟く様に言うサダコ。

「私は──」

 そしてサダコはフッと顔を上げた。顔の前の髪がサラリと二つに分かれる。

 その時初めて気が付いた。

 さっきも今もこの女性は俯いていたのではなく、オレに向かってお辞儀をしていたのだ。

菜倉なくら真見まみです。

 まことを見ると書きます。

 よろしくお願いします」

 色白で儚げな印象の女性である。

 ジッとこちらを見上げる目は少し眠たげだ。

 成人しているのは間違いないだろうがどこか少女然としていて、どう見ても歳下なのだが、しかし何だか彼女には逆らってはいけない様な不思議な目力めぢからを感じる…。

「そ、そうスか…真見クンね。なるほど……」

烏頭うとう先生…でいいんですよね?」

「あ、ハイ!」

 一瞬何故こちらの名前を…と思ったが、彼女の目線はオレの胸元の名札を見ていた。

 しかしマヨ姉は『患者はいない』と言っていたではないか。この真見という女性が患者ではなく妖怪やお化けの類でもないのなら、一体何者だというのか。

 真見は首を捻るオレの顔を再び黙って見上げた。何だかさっきより目が冷たくなった様な…?

「私、鍼灸師の面接に来たんですけど…」

「え……ああっ!」

 オレは思わず脇のパーテーションを振り返って見る。

 そこに貼ってある鍼灸師募集のポスターはホームページにもアップしてあるのだが、先日遂に問い合わせがあったとマヨ姉が言っていたのは覚えている。しかしその時はちょうど近くの高校のサッカー部員が三人でボールに向かっていって衝突、全員捻挫で揃って来院していた。その高校生達がアイシングをしながら『だからジェットストリームアタックはダメだって言ったのに』とか『お前が俺を踏み台にしたんだろ』とか罵り合う修羅場だったので、細かい事を聞き流してしまったのだ。

「そっか、今日だったんスねっ…これは失礼をっ……」

「こちらのポスターに惹かれて連絡しました。可愛いですもんね、このイラスト」

『可愛い』と言ってる割には表情は淡々としたまま、真見はポスターを見つめている。

 その視線の先で、マヨ姉と同じピンクのケーシーを着た赤毛フワフワお目々キラキラの女の子が、笑顔で巨大な鍼をフェンシングの様に構えていた。オレは詳しくないのだが、マヨ姉に言わせると『萌える』んだそうだ。

「えっと、鍼灸師の資格は持ってるって事スよね。実務経験はどのくらい?」

 オレのとりあえずの質問に、真見が振り向く。

「半年勤めてた鍼灸院をこの春クビになりました。

 鍼灸師になって三年目ですが、その間五ヶ所の鍼灸院や整骨院を渡り歩き、一番長くったのが最後の半年です」

「え?」──何だって?

「それでも雇ってもらえますか?」

 不穏な事をサラリと言う真見に、オレは啞然として上手く反応出来ない。

「あ、えっと、そうだな…とにかく鍼灸師としての技量ウデを一応確認させてもらってから……」

「勿論です。先生も治療で腕や肩は張ってるでしょうから、鍼打って差し上げましょうか?

 それともろくろ首の首を治療しろとおっしゃるならやりますけど」

「は?」

「だってにはろくろ首がいるんでしょ?」

「いや、それは──」

「私、ろくろ首には詳しくないんですが…『甲子夜話』という江戸後期の随筆にこんな話があるんです。ろくろ首と疑われたある女中の寝ている様子をその雇い主が確かめたところ、胸の辺りから水蒸気の様なモノが立ち昇ると共に頭部が消えて首が伸びたんだそうです。しかし女中が寝返りを打つと、首は瞬時に元通りになっていた──これ、生物学的に正しい動きだと思いません?筋肉って伸びる時ではなく、縮む時にこそ力を出せますからね。ろくろ首の生態として首が伸びる時より縮む時の方が速いのは。そういう意味ではこの伝承は実際の出来事だった可能性もあると思うんです。

 文太さんもおっしゃってましたよね、曲がりながら伸びていた首がと。やはり理に適った動きです。彼が見たのもホンモノだったかもしれない。

 だとしたら私、いずれにはろくろ首の患者さんがいらっしゃるかもしれないと思うんです。プロとしてキチンと対応を考えておかなくてはいけないんじゃないでしょうか?」

 冗談だと思いたいが…本気で言っているのか?

 無表情なので判断がつかない。

「生物学者でも『何故ろくろ首の首が伸びるのか』を真面目に考察された方がいます。

 それによるとただ筋肉がゴムの様に伸びるだけだとしたら、その動きを繰り返す事は筋肉に相当なダメージを与える事になる。そうなるとゴムが伸びたままになったり切れたりしてしまうのと同様に、最悪筋肉の断裂を引き起こしてしまいますよね。

 ですから考えられるろくろ首の首の構造は、消防のはしご車の様な元々長い状態の筋組織が細胞レベルで折り畳まれていて、それが必要な時にカメレオンの舌みたいに伸びる。そういうのある構造なら生物学的にろくろ首も存在しうるのではないか──そうおっしゃってるんです。

 私、なるほどと思いました。

 しかしそうするとろくろ首の首の筋肉は、身体の他のどの部分よりも長い事になります。

 ご存知だと思いますが人体で一番長い筋肉は大腿前面の内側表層、骨盤の外側から膝の内側に向けて大腿四頭筋を横断する縫工ほうこう筋です。しかしその縫工筋もせいぜい50センチ程度ですから。

 それに対してろくろ首の首の長さは諸説ありますが、山陰地方に伝わる〈七尋ななひろ女房〉の首は七尋─13メートル伸びたと言いますよね?」

 いや知らない。

「筋力は筋肥大を要因とする筋肉量と、神経性要因の質的な動員数によって発揮されます。この量と質のバランスが整って初めて筋肉はしっかり働くんです。筋肉がいくら太くても神経の伝達が非効率だったり、逆に神経の伝達が良くても筋疲労していたり、或いは何らかの原因で筋肉自体が細い場合は筋力は充分に発揮されません。

 私の専門である鍼治療では、元々乏しい筋肉量を増やしたり、運動不足や寝たきり等が原因で痩せてしまった筋肉を太くする事は出来ません。

 ですが骨の偏位ズレにより神経が圧迫されて手や足腰に力が入らない場合や、スポーツや仕事で体を酷使した筋疲労のせいで力が出なかったり痛みがある場合には有効な施術です。

 神経が圧迫されてしまっている場合、その神経は血流低下、循環不全により上手く働かず、本来動かせるはずの筋肉量が減ります。つまり筋力が低下する訳です。この圧迫されている局所や関係する神経支配領域に鍼を打つと、血流量が改善し神経が本来の機能を取り戻します。これが筋力回復のメカニズムですね。

 また筋疲労によって本来の力が発揮できない場合も、鍼で血流の改善、疲労物質の除去が出来ます。

 ではろくろ首の場合はどうでしょう。

 重い頭を支え何メートルも首を伸ばす訳ですから、その筋肉量はかなりのモノだと思われます。しかも直線的に伸ばすだけではなく、グニャグニャと自在に曲げられるのでしょう?人間の動作において中心的な働きをする〈主動作筋〉と、その反対側に位置して主動作を緩めたり止めたりする〈拮抗筋〉が、よほど素早くバランス良く動いているはずです。つまり筋肉の質も良い。ろくろ首の首は鍛えられたアスリートの様な筋力を備えているんです。

 しかし当然、それだけの激しく精緻な伸縮を繰り返す筋肉の負担は大きく、疲労も半端ではないはずです。

 またその長さ故に、デリケートな神経伝達にも問題が起こりやすいのではないでしょうか。

 となるとろくろ首に鍼治療は有効という事になります。

 また鍼治療で筋肉や神経が本来の機能を取り戻した後は、運動や筋トレで更に筋肉の量と質をレベルアップする事が可能です。そうすると首の伸ばし過ぎによる筋疲労や何百年生きてるか知りませんが年齢的な筋力低下、それを原因とする痛みや骨の偏位の予防にもなる訳です。そういうリハビリにも通じるトレーニングメニューは柔整師の烏頭先生の方がご専門ですよね?

 つまり、私と先生が一緒なら、ろくろ首も安心して通える訳です」

 だから、自分を雇えと…?

 オレは何だかクラクラしてきた。相変わらず無表情なままでオレをジッと見つめる目の前の彼女は、確実に変な人だ。前の職場をクビになった理由も知るのが怖くなってきた。

 そしてさっきからろくろ首に詳し過ぎる。

 真見の圧の強い視線に耐えかねてオレは視線を逸らす。再び視界に入ったこの『萌え〜』なイラストのポスターが、特定の人材を引き寄せる怪しげなフェロモンを出しているのならちょっと考えなくては……


「ところで、このイラストを描いたのですね?」


「えっ?」

 何気なく言ってのける真見に啞然とした。何故分かった?

 普通あの角刈りでダボシャツの厳ついおっさんが、こんな可愛いらしい女の子の絵を描くとは思わないはずだが…。

「私がこちらに着いた時、ちょうど文太さんが『ろくろ首の首は骨と筋肉どっちが伸びるのか』って喋ってました。それで最初はおとなしく待合室で待ってるつもりが面白い事言ってるなって診察室を覗いてみたら、文太さんの格好はトラックドライバーそのもの。『一番星ブルース』も歌ってますし。

 でも話を聞いてると変なんですよね。座りっ放しの仕事と深夜ラジオはドライバーでもおかしくないけど、徹夜仕事が続いてて体を動かす為に散歩に出たと言っている。トラックを運転してる最中に?──そこで気付きました。

 これも烏頭先生が付けたアダ名なんだって。

 深夜に座りっ放しで机にかじり付いてラジオを聴いているだから〈さん〉なんだって」

 その通りだ。

 勿論、本人の趣味嗜好に沿って『トラック野郎』の菅原文太と掛けたのは言うまでもない。そんな見た目だが物書きなだけに妖怪だ何だと変な知識が豊富で、だから余計に怪しいのである。

 しかしその菅原文太が歌う主題歌のタイトルまで知っているのか、このコは……

「それでもしかしてと思って、さっき出ていったマヨ姉さんを外まで追いかけて確認しました。文筆業は文筆業でも、漫画家さんなんですね。それでこのイラスト描いてくれたって。隅っこに入ってるサインの『やしろとらた』ってのが文太さんのペンネームなんでしょ?」

 マヨ姉を追いかけたから一瞬いなかったのか…オレがそんな事をボンヤリと考えている間も真見の話は進む。

「でも文太さんがトラックドライバーでも漫画家でも、座りっ放しで腰や股関節が痛むのは同じです。ハンドルでもペンでも長時間握って動かしてたら、腕も肩もパンパンになるはず。

 そして首。

 文太さんの首凝りは相当酷いんでしょう?

 だから先生は首周りの筋肉を特に念入りに解し、最後に改めて頸椎の調整をした。蝶形骨まで気にされて」

「あ、うん……」

「ですからろくろ首が実在していた可能性もある一方、文太さんの首こそろくろ首の正体だったと考えられます」 

「う…ん?は?」

 呆然と頷いていたオレの声が裏返る。

「え、どういう事?伸びたのは文太さんの首?」

「そうですね、『自分或いは他人の首が伸びたように』場合は何らかの疾患の可能性が考えられるでしょう。

 ご存知だと思いますが偏頭痛では稀に〈体感幻覚〉が起きます。これは自分の身体の一部が伸びたり縮んだりする様に感じるモノですよね。『不思議の国のアリス』の作者のルイス・キャロルが偏頭痛持ちで、作中でアリスの首だけが伸びる描写はその体感幻覚を反映したと言われています。

 一方、充分な睡眠を取っているにも関わらず日中突然眠りに落ちてしまう〈ナルコレプシー〉の患者が入眠時に鮮明な夢の形で、知人の首が浮遊している幻覚を視た例があるそうです」

「じゃあ文太さんも幻覚を視た?」

「どうでしょう、視ただけじゃなくドタバタとした物音と室内からの女性の声も聴いてますからね。勿論、首凝りは耳鳴りにも繋がったりしますから、その音も声も幻聴の可能性はありますが──

 でも先生も分かってるでしょう?首凝りがもたらす症状はまだある。

 首肩周辺の骨格の歪みと筋肉の張り、そして血行障害が影響を及ぼすのは脳神経、自律神経、そして──

 視神経。


 文太さん、首凝りが原因で〈〉を起こしてたんじゃないですか?」


 その可能性ならオレも考えていた。

 変視症とはその名の通り『真っすぐな線の真ん中近くが歪んだりくびれて視える』、或いは『読もうとした文字がグチャッと潰れて視える』等の症状を指す。領域としては眼科だが、ストレスによる自律神経の乱れや周辺筋肉の緊張による視神経の圧迫でも起こるので、柔整や鍼灸の治療が有効なケースもあるのだ。

「変視症を引き起こす目の疾患は幾つかありますが、話を聞いていて私、文太さんは〈中心性漿液性脈絡網膜症〉ではないかと思いました。光を感じる網膜のうちでも最も視力に関係する部分──〈黄斑おうはん〉に網膜剥離が発生するモノです。片方の目に発症することが多いのですが、時に両目に発症する事もあります。

 三十代から五十代の働き盛りの男性が多く発症し、原因は不明ですがストレスが悪影響を与えるとも言われますから、当時忙しくて寝る暇も無かった文太さんの状況に当て嵌まりますよね。梅雨の低気圧も自律神経にはダメージ与えますし。

 ただこの中心性漿液性脈絡網膜症、ほとんどは良好な経過を辿り自然に治る事が多いので、文太さんも自分が発症していた事に気付いてなかったんじゃないでしょうか。烏頭先生も確認されてましたが、その後眼科にも行ってないようですし……」

 オレは目の疾患そのものには詳しくないので、その中心性しょうえき…なんたらは知らなかった。しかし変視症の症状自体はある程度把握している。

 歪んで視える以外で特徴的な症状の一つに〈中心暗点〉がある。視界の中心部分がぽっかり黒い穴が空いたかの様に暗くなるのだ。

 だから文太さんが『目の前に黒い玉が浮いている』と言った時、もしやと思った。

 これが疲れやストレスが原因の変視症なら、その症状緩和には睡眠と自律神経を整えるのが肝要だ。だから首肩周りの眼精疲労と自律神経に効く筋肉を念入りに解しつつ、金縛りの件から睡眠不足が原因ではないかと話を持っていこうとしたのに──しかし。

「ちょっと待って、確かに妖怪・黒玉とやらは変視症で説明が付く。

 でも肝心のろくろ首は?

 変視症で物が伸びて視える症状あったっけ?」

 真見はまたジッとオレの目を見つめてしばらく黙った。相変わらず無表情なので感情は読みづらいが、何となく逡巡ためらいの様なモノを感じる。

「…先生も言ってましたけど、整形で牽引をする時は天井から首を吊るしますよね。そんな状況に変視症が重なって途中が歪んだら、首が伸びてる様に視えませんか?天井に向かって、グニャアって曲がって…」

「ああっなるほど!」

 オレが思い浮かべたのは変視症の症状を説明した写真だった。

 それは東京スカイツリーの写真を加工したモノで、地上634メートルのてっぺんは普通に見えているのに、その下の450メートル部分の第二展望台と350メートル部分の第一展望台との間が歪んで細く視えていた。

 これを天井から首を牽引した状態に当て嵌めるなら、頭の下から歪んで細く視える上半身全体を伸びた首と見間違えても不思議ではない。まして文太さんは変視症を自覚していなかったのだ。

 確かにこれなら、ろくろ首の説明も付く──

 いや、待て。

 自宅で首を牽引?

 どうしたらそんな状況が……

 そこでオレは真見が言いづらそうにしていた理由に思い当たった。


 


 この場所で自殺があった?

 それでビルに建て替えて、それでも賃料が安かったのはホントに事故物件だったから?そんな、まさか──

 いや。

「文太さんはそのろくろ首はって言ってたよね?二本の足が確かに床に着いてたって。

 首吊りする為の椅子や台を足元に置いてたとしても、いくらシルエットでハッキリ見えなかったとはいえ、それを足とは見間違えないんじゃないかな」

「もう一人いたんじゃないでしょうか、首を吊ってる人の足元に。

 そのもう一人の足がぶら下がってる人と椅子とかに重なってたら、シルエットでは床に足が着いたに視えるでしょう?」

「もう一人?」

 途端に嫌な想像に囚われる。

 天井から吊るしたロープにぶら下がる髪の長い女性とその体を抱えている何者か。

 やがてその何者かは両手を離す。

 首だけで吊るされた女性は苦しみドタバタと暴れるが、すぐに静かになり……

「まさか…自殺に見せかけた殺人?」

 文太さんは啜り泣きを聞いたと言っていた。その『ゴメンね』と繰り返す何者かが犯人で、罪の意識があったというのか──オレはゴクリと生唾を呑み込んだ。

「それはどうでしょう」

「え?」

「わざわざ自殺に見せかける為の工作をしたのなら、その首吊り死体は見付からなくては意味が無い。でも翌日にはもうアパートの部屋には誰もいなかったんでしょ?カーテンが全開で中が見えたって、文太さん言ってたじゃないですか。それで警察も来ていないのなら、つまり首吊り死体も無かったって事です」

「じゃあ一体どういう事…?」

 真見は戸惑うオレにすぐには応えず俯いた。再び髪が表情を隠す。

「……ここからは私の憶測です。

 そこに住んでいたのはホントに独身女性だったんでしょうか?」

「え?でも当時アパートのオーナーだった上様がそう言ってた訳だから…」

「文太さんが聞いた『そこに住んでるのは独身の女性だ。旦那なんかいない』ってやつですね。

 でも気になったのはその前の言葉です。

『接近禁止!』ってやつ。

 変ですよね?自分のアパートに部外者が無断で侵入してるのを咎めるなら、普通は『立入禁止』でしょ」

 ──言われてみれば。

「上様が現れる直前、ろくろ首の落語を思い浮かべてた文太さんは思わず『旦那に謝ってるのかな?』って呟いた。上様はそれに過敏に反応したんじゃないでしょうか。つまり、その部屋にいる女性の旦那さんの関係者が来たと思った。

 〈旦那さんの──」

 え?

「そ、それって、裁判所が出すやつ?あのDVやストーカーの加害者から被害者を守る為の…」

 上様が守りたい女性…?

「部屋の中から聞こえてきた声は『ゴメンね』だったんですよね。素直に捉えるなら女性はそこにいたもう一人に助けてもらって、謝ってたんじゃないでしょうか。

 同居していたもう一人に……」

 同居していた…?

「細かい事情は分かりませんが、旦那さんに接近禁止命令を出される様な仕打ちを受けたその女性が逃げてきて、アパートの二階で隠れて暮らしていた。しかし生活苦なのか精神的に参っていたかで耐えられなくなり、自殺しようとした──それを同居人が止めたんです。

 文太さんが見たのはそのシーンだったと考えれば、辻褄が合いませんか?」

 まさか……

「ど、同居人って…?」

 そう尋ねたオレの声は掠れていた。

 真見はやはり淡々と答える。

「可能性が高いのは、一緒に旦那さんから逃げてきたお子さんでしょう」

 オレはギュッと目を瞑った。

 やっぱり、一見離れ離れの部位も実は全て繋がっている。

 真見はさっき、マヨ姉を追いかけたと言った。そこで確認したのは文太さんが漫画家だという事だけではなかったのだろう。

 マヨ姉もオレ同様に胸に名札を付けている。そこには勿論、彼女のが書いてあるのだ。『マヨネーズが大好きだから』という理由でオレが付けたアダ名─マヨ姉ではないその名は──

 松平貴子。

 何故気付かなかったのか。文太さんが言っていたではないか、アパートの郵便受けに入っていた封筒の宛名は下の方しか見えなかったと。『貞子』などと適当に言っていたが要は『貝』の部分しか見えてなかったという事だ。

 おそらく三年前のマヨ姉は旦那から逃げて、ここにあった伯父さん─上様のアパートに匿われていたのだ。

 それでも不安と恐怖が消えなかったのだろう。追い詰められて、衝動的に首を吊ろうとしたのではないか。

 それを彼女の息子が止めたのだ。


 歩行障害で幼稚園にも行けなかったヒロムが。


 そう、後に小学校入学を機にその歩行障害が再発したヒロムを、オレが雇われ院長をしていたグループ整骨院に連れてきたのがマヨ姉だ。勿論、常連だった上様の紹介である。

 離婚の原因になったのが本当に旦那のDV─家庭内の暴力ドメスティック・バイオレンスだったかどうかは分からないが、もしそうならそれは母親だけでなく、息子にも向けられていたかもしれない。であれば幼稚園児のヒロムが抱えるストレスはあまりにも大きく、歩行障害だけではなく失声症になっていたのも頷ける。そしてその我が子の姿がマヨ姉を更に追い詰めて──

「…日本には古来より『恨みを残して死んだ者は怨霊となって災いを為す』という〈怨霊信仰〉が根付いています。妖怪や幽霊の話で圧倒的に女性が多いのは、かつて社会的な弱者として虐げられ非業の死を遂げた女性達が、同時に祟る存在として怖れられてもいたからです。

 江戸時代、酷使された末に腺病質─貧血性の虚弱体質となって痩せ衰えた哀れな遊女は、何とか生き延びようと当時の行燈に使われていた魚の油を舐めて脂肪分を摂取していたそうです。その影が首の長い人間に視えて、ろくろ首が生まれたんだという悲しい説もあるんですよ、先生……」

 真見の言葉にオレはその場面を思い浮かべる。

 今より若いはずだがやつれきったマヨ姉。

 当時髪が長かった彼女が、天井からぶら下がったロープにノロノロと首を掛ける。

 そして足元の椅子を蹴り倒そうとしたその時──


 ヒロムがヨロヨロとその椅子に縋り付き、をする。

 それがこの時ヒロムに出来た精一杯の事だから。

 懸命に椅子に掴まって、マヨ姉を見上げる。

 声は出ない。

 それでも振り絞って、母親に語りかける。

 母親が何をしようとしているのか、分かっていなかったかもしれないけれど。

 それでも、言える言葉だけ必死に。


 ママ…

 ママ…

 ママ…

 ママ…

 ママ………


「ただの憶測です。

 だけどマヨ姉さん言ってましたよね。

『あたしはあのコのお陰で生きてるの』って」


 鼻の奥がツンとする。このままでは泣く。

 ヒロムのお陰で自殺を思い留まったものの、そこにタイミング悪く文太さんが現れた。上様が勘違いしたのと同様、マヨ姉も旦那の知り合いか、或いは雇われた私立探偵か何かが自分と息子の居場所を突き止めようとしていると思ったのではないか?

 だからすぐにアパートを引き払い、上様が所有する別のマンションに引っ越した。それでも最初は不安だったと思うが…。

 しかしその時のヒロムの歩行障害はじきに治ったと言っていたし、今のマヨ姉は髪もショートカットにして表情も明るい。それは二人にストレスがかかっていないからで、おそらく旦那は現在に至るまで接触してきていないのだろう。そもそも文太さんはただの通りすがりの漫画家なのだ、マヨ姉の居場所もバレていない。

 オレも前の整骨院こそ辞めたが、再発したヒロムの症状を治癒させた事で上様だけでなくマヨ姉にも信頼されて、今ウチで働いてくれている訳だ。

 良かった良かった──

「…これ、使ってください」

 そう言って真見が白いハンカチを差し出してくる。

 無理やり脳内をハッピーな方向でまとめようとしていたのだが、オレはやっぱり号泣していた。

 ハンカチを受け取って涙を拭うオレを、真見が前髪の隙間から上目遣いで見つめてくる。

「…ホントに今まで何も知らなかったんですね。

 つまり私の憶測が当たっているなら、烏頭先生は細かい事情は知らずにを雇ったと」

「うん、まあ…」

「でもそんな過去、気にしませんよね?」

 そう、今はマヨ姉もヒロムも元気に暮らしている。

 だったら過去に何があったとしても問題ない。

 オレの名字は烏頭だが、昔からよく鳥頭とりあたまと間違えられてきた。だからという訳でもないが、三歩歩くとすぐ忘れるのが長所だ。

 オレは真見にニッコリと笑いかけた。 

「──勿論」

「良かった」

 彼女は少し顔を上げる。

私も雇ってもらえますね」

 そうだ、忘れてた。

 マヨ姉以上に真見はワケありっぽかった。

(やっぱり、前のとこクビになった理由だけは聞いときたいかも……)


「…ひとつだけ、烏頭先生に言いたい事があります」

 ──もしや?


「ろくろ首の首が伸びる時に外れる部位を、先生は第三頸椎ではないかと言いましたよね?

 私は第一頸椎と第二頸椎の間ではないかと思うんです。

 第二頸椎は〈軸椎〉とも呼ばれてる、体の軸に対して頭を回旋させるジョイント部分ですよね。ですから回旋の為の下頭斜筋も第一頸椎と第二頸椎を繋いでます。頸椎は基本輪っか状の骨ですけど、第二頸椎はその輪っかの真ん中から上に突起が立っている。その形が仏が結跏趺坐している姿に見えるので第二頸椎は〈〉とも呼ばれます。成人男性の首の前に突き出た喉仏とは別ですけどね。その仏様の頭部分にパコッと第一頸椎が載っかる訳です。

 それでよく『首吊り自殺や首を締められた死では首の骨が折れる』と言いますが、その喉仏が折れやすいんですよ。だったらそんなデリケートな骨を傷付けない為にも、第二頸椎の上の第一頸椎がネジの様に回って外れると考えた方が、安全で理に適ってるんじゃないでしょうか?

 そしてその『回って』『伸びる』イメージこそ、ろくろ首の名前の由来と言われる陶芸の〈ろくろ〉に繋がると思います。あれも粘土が回って伸びるでしょう?

 ろくろ首の第二頸椎──これは譲れません」

 いや──そこ?

 点になったオレの目を見て、真見は初めて薄っすらと微笑わらった。                                    

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ろくろ首の第三頸椎 ユッキー @Myuuky

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