紫陽花は自由に踊る

大場 康平

紫陽花は自由に踊る【読切】

 始まってすぐで申し訳ないが、少々難しい話をさせてもらう。



 人生とは、皆平等に与えられた時間という資産を、いつ、誰に、どこに、何を、どのようにして、利用するかのシミュレーションゲームである。



 そして「なぜ」自分は今、そこに時間をかけているのか。そこに個人差が出てくるからこそ、世界には沢山の仕事があるのである。



 だが、君がやったことのあるシミュレーションゲームやアニメ、マンガを1つ、少し想像してほしい。主人公は最初から最後まで「超ハッピーラッキー成功人生」だろうか?


 多分、答えは「否」だろう。何かしらのトラブルや問題、くじけそうになる災難が主人公を襲うはずだ。



 だけど、それを乗り越え、最終的に仲間に助けられたり、敵だった人物が味方となって共通の敵を倒す、っていうのがセオリーだ。



 そう、人生も同じ。失敗があるから、挫折があるから物語は面白くなるのだ。自分にとってキツイと思ったこと、辛いことを乗り越えるからこそ、人生は面白くなる。










 2秒でそのまま上にスクロールされる文章。脳死で文章や動画をとにかくスワイプ。普段SNSなんてほとんど見ないのだが、今だけは、何も考えれなかった。何も考えたくなかった。



 西日が差し込む都内のワンルーム。首都圏まで電車で30分。家賃3万5千円、最寄り駅まで徒歩20分。都内とは思えないほど人通りのない大通り。そんな築40年のアパート302号室。



 俺、森坪大星(もりつぼ たいせい)は、ぐしゃぐしゃにされた掛布団を腹にかけ、力なく、無表情であった。コンパクトな白箱から短めのタバコを取り出す。ため息と共に吐き出される灰色の煙。灰皿の上で針山のように積みあがった吸い殻。



 今の俺には、何もない。本当に、なにも。











 3か月前、俺は仕事に行けなくなった。



 俺は大手飲食チェーンの正社員として働いていた。



 入った当初は、本当に仕事に行くのが楽しくてしょうがなかった。



「森坪くん、わからないことをすぐ聞いてて凄くいいね!」


「森坪さん、仕事覚えるの早くて本当にすごいです!」


「森坪くん、君は本当に期待の新人だよ。」



 期待されて、その期待に応えられることが本当にうれしかった。



 もともと俺は器用な方ではある。学生時代、あまり出席していなかった授業も、ちょっと勉強してテストで合格点を取れていたような人間。



 誰かとコミュニケーションを取るのも苦ではない。周りからの目がよく見られがちではある。



 入ってすぐに彼女もできた。アルバイトの子で同時期に入り、推しの配信者がなんと一緒。大学で知っている人が誰もいなかったのもあり、仕事が終わってから一緒に飲みに行ったり。すっかり意気投合して付き合うことになった。



 俺の社会人デビューは完璧、に思えた。






 だが、2か月が経つと、周りの目は徐々にその色を変えていった。


 皆の口角が段々と下向きになっている感じがする。



「また配膳ミス?何度やれば気が済むの?」


「またお皿の置き方間違えてる!何回言えば覚えるんだお前は!」


「森坪くんには期待してたんだけどね、こんなに遅刻してたら昇進なんて夢のまた夢だよ。」



 常に不注意、覚えたことをすぐに忘れる、部屋中にアラームを鳴り響せても起きれない。


 本当に、小学生の時からずっと怒られていた。



 それが、社会に出ても治らない自分。怒られる度に、何もできない自分を責めた。その度につけたタバコの火は弱々しく灰と化していく。



 唯一、彼女だけは


「大丈夫だよ、大星くんが頑張り屋なのはよく分かる。きっと周りも認めてくれるよ。」


 俺は彼女に本当に救われていた。






 俺はまだやれる、自己管理ができるようになれば、それで解決。


 俺も普通の生活が欲しい。


 学生の時に負った借金200万、しっかりと1年ちょっと、働ければ返しきることができる。



 そう、あとちょっと。それで俺の人生は綺麗になれる。



 そう、本当に、あとちょっと。



 ちょっと、ちょっとなんだ……






 そして、何かがはち切れた。










 朝9時。いつも通りの朝。掛布団を横に投げ捨て、


 1杯の水を飲み、着替えよう、とした。


 


 その瞬間、何かが弾けた。




 目から涙が溢れて止まらない。その場から動くこともできない。



 こんな自分が職場で何かできるのか。社員である以上、アルバイトの子のモチベーション管理、遅刻や報連相等を教える側の立場の人間。


 そんな奴が遅刻を繰り返し、何度も同じことを聞き続ける。信頼を回復することに絶望してしまった。




 そして、俺は辞職した。来月はボーナス月だった。それを思い出したのは辞職後1か月後。当時の俺にはそれを考える余裕は少なくともなかった。




 貯金もほとんど無い。でも、「仕事を辞めた」という事実。重い足かせを外されたような浮遊感。楽になったという気持ちが先行している。




 精神科に「うつ病」と診断された。睡眠導入剤と向精神薬をもらい、毎日服用の生活となった。



「今は自分を休めてあげる時間。傷病手当金もありますし、しっかりと睡眠と食事を摂りましょう。」



 先生に言われたように、俺はとにかく休んだ。










 ……のはずだった。



「自分がやれなかったことをやろう」



 俺が小さく鼻歌を歌いながらチャリを漕いで向かった先は。






 パチンコ屋。



 お金もどうせ傷病手当が来る。


 1%で当たるというこのパチンコ台。大当たりが70%で続くのだから、実質これだけゲームを回せれば期待値的には確実に勝てる。



 今の俺なら、できる。



 ほうら、当たった。どう?この甲高く鳴り響く大当たりの音。キュインキュイン、店内中に俺の台の音が響き渡っているよ。この大当たりが連続さえすれば、もう怖いものなし。


 煌々と輝く台のランプ。震えるボタン。チャンス!と俺の好きなアニメのキャラが叫ぶ。そしてまた当たり。



 そんな経験をすると、人はもう一回経験してみたくなるもので。







 パチンコというのは「マイナスサムゲーム」と呼ばれており、遊戯している人全員が掛けた金額と全員が獲得できた金額を比べると、前者が少なくなる。要は「負けやすい遊戯」ということ。



 今日はいくら勝てるかな、とルンルンの気持ちで向かう店。



 そして、爪が食い込むほどに強く握ったこぶしで、チャリの持ち手を殴りながら帰る家路。



 それを繰り返す日々が続いた。




 ただ、その生活は長くは続かない。










 そうして、俺の財布はちゃらちゃらと小さいコインがぶつかる音が鳴るだけになった。紙は一枚も入っていない。



 彼女と飲みに行くのもままならない金銭状況。彼女の、


「この店行ってみたいんだよね~」


 この言葉を聞くたびに、ワンチャン無いかと、何度財布、手提げの中を探し回ったか。



 スーパーの特売袋麺を大量買い。1食あたり50円ほどの生活。






 このままではダメだ。どうすればいい。



 俺ができること。飲食の経験はある。でも、飲食で働くことを考えると、喉の奥がキュッと閉まる感覚がする。


 昔、橋場育三、サッカー会の名将とも呼ばれた彼の元でプレーしてたし、サッカーを教える仕事を探そうか。


 いや、サッカーは正直しんどいし、自分が行けないとなったときに代わりがいない。




 自分が好きな時にできる仕事。そして不注意も寝坊も、個性として受け入れてくれる場所。




 そんなもの無いか。




 6畳のワンルームでタバコをふかす。もう何も考えたくない。



 もういっそ、人生を辞めた方がいいのか。


 「死にたい 借金」で検索し、自殺予防センターに電話する。


「ただいまお電話が大変混み合っております、もう少々お待ちください。」




 馬鹿らしい。俺みたいなやつが今、ほかにいるんだな。



 タバコの火を手のひらに押し付けて出来たやけど。その痛みを思い返していた。



 とめどなく上に流れていくSNSの投稿。




 ふと、スワイプする左指が止まった。










 俺の推しの配信者。彼は10年以上配信を続けており、今では有名実況者。



 彼は配信の中で言い放った。



「素の自分でやれるから、配信者になってよかったと思ってる。おもろいこと言おうとしたことないもの。周りが笑かしてくれるから、楽しく続けられてる。」





 時が止まった気がした。


 思考も、身体も、大当たりを引いた瞬間のような気持ち、フリーズした。


 医療ドラマに出てくる心拍系のような形状の電流が頭に走ったと感じた。


 


 


 配信者になろう。










 そうと決まってからは本当に早かった。



 フードデリバリーを朝10時から夜0時まで、空いた時間とデリバリーの無い時間で、新しく作ったSNSのフォロワーを増やそうと毎日投稿。コメントしてくれた人には全て返信。色んな人の配信を見に行き勉強。そして投稿。



 毎日が猫の手も借りたい状態。マジで時間が足りない。でも、とんでもなく面白かった。この期間が本当に今でも鮮明に記憶に残っている。




 3か月経つ頃にはフォロワーは3000人まで増えた。投稿に付くいいねの数も、最初と比べれば文字通り桁違いになっていた。




 所持金は30万。借金毎月5万も返しながら、一か月10万円の貯金。




「自分がやりたいことがやっと見つかったんだ。今やらなかったら、今後絶対後悔する。」


 


 空には雲ひとつなく広がる青い海。久々にきっちりとした服装。大きく息を吐き、俺は電車に乗った。向かう先には背の高い数々のビルが軒並み連なっている。




 俺は初めて、ゲーミングPCを購入した。30万円、現金一括払い。渡す手に持たれた札束が小刻みに震えている。



 「ポイントはお付けしますか?」



 もはや、それしか覚えていない。ギリギリ回った思考回路で、5000ポイントくらいは付くと計算。財布からポイントカードを出すのに焦って、体感10分は出せていなかった。




 てきぱきと包装され、紙袋に入れられる俺のPC。そう、俺のPC。俺は配信者になれる。




 そう考えていた俺の帰路は、もうほとんど覚えていない。なんだか、有名になったら……とか、こんなゲームやりたいな……とか妄想していたと思う。



 この時のワクワクを忘れない。忘れてはいけない。










 俺はPCの電源をつけた。ふう、やっと終わった。PCを組み立てるのって意外と大変なんだな。



 すぐに配信のアカウントを作る。最初からゲーム実況をしようと考えていた。自分が素を出せるのはゲームが一番だろうと感じたから。




 買ったばかりのPCキーボードには既に指紋の跡がくっきりと付いていた。



 誤字がいつもよりも多い。1時間ほどかかった。



 正社員の面接を受けた時以上に緊張しているのが自分でもよくわかる。




 そして、SNSに配信の告知を投稿。SNSでは配信者になることを既に発表しており、応援の返信も送ってくれている人もいる。その人に、届くといいな、この告知。




 初配信はあさっての日曜日。今から楽しみと緊張が相まって、心の中がぐちゃぐちゃ。



 でも、今できることを1つずつやろう。まずは軽く台本を作っておいて、マイクとかPCの設定も確認しておいて、ちゃんと配信出来ているかの確認も非公開モードでやって…………




 たかぶる気持ちとは裏腹に、その日はあっという間にやってくる。










 「皆様、はじめまして。Ajisaiです。」


 活動名はAjisai。




 幼いころ、実家の近くの大きな公園のアジサイを背景に撮ってもらった写真。



 実家を思い出したとき、一番真っ先に浮かんできたのがそれだった。




 「本日は初めての配信で、やっぱり緊張しています……でも、皆様に楽しんでいただける配信、そして動画投稿もしていきたいと思っています。これからよろしくお願いします!」




 正直、ゲームの実力は人並みか、それ以下。でも、そうじゃない。


 


 「俺」という存在を知ってほしい。




 「俺」という人がここにいたと証明したい。




 こんな俺でも、この世界で生きていると、大きな声で叫びたいんだ。










 配信を始めてから2か月が経った。



 配信者としての俺は、充実していた。



 ゲーム実況をほとんど毎日。その素材を編集して、動画を随時投稿。SNSで告知や宣伝活動も毎日欠かさず行っていた。



 いつも応援メッセージをくれる「ピンポイ」さん。まだ数人しかいない配信にいつも遊びに来てくれて、ゲームのアドバイスもくれる。ゲーム配信初心者にとって、まさに神。


 

 SNSでも仲良くさせてもらっていて、結構趣味も合うみたい。いい友達になれそう。




 動画作成に専念したかった俺は、デリバリーを引き続き行いながら、SNSで知り合った女性に運用を頼むことにした。



 彼女はSNS運用を幅広く行っていて、プロフ写真やプロフページの映えまでしてくれた。本当にありがたい。




 最近話題のFPSゲーム、いわゆる銃撃戦を配信した時には、たまたま上手くいったプレイで初めて投げ銭をもらった。



 今まで貰ってきた給料、お小遣いと比べれば、その桁は2つも3つも違う。


 

 ただ俺はこれを貰った時、配信そっちのけで、椅子を蹴っ飛ばして大はしゃぎしていた。



「ありがとうございます!マジで!」を繰り返すbotになっていたと後に配信を見返して気づき、ドカッっという音が入り込んでいて俺は思わずニヤケてしまった。




 まだファンは少ない。一定数アンチもいる。でも、いける。俺にとっての天職なのかもしれない。マジで楽しい。無限に配信していたい。



 「さて!今日も元気に配信していきますよ~!」



 今日も楽しく。マウスとキーボードに手を伸ばす。深く腰掛けたゲーミングチェアが、鈍い音を出したが、俺は気付きもしなかった。










 白箱からタバコを取り出す。火がなかなか点かない。やっと点いた短いタバコを右手に、下向きに大きく黒い煙を吐き出す。




 俺は、もう、潮時なのかな。




 ある日、一通のダイレクトメールが届いた。




 「昨日私を襲ったのあなただよね。この写真が証拠。これ公開するね、ざまあ」


 そこにいたのは俺。


 一糸まとわぬ姿で、高級感のある白いベッドの上で横になる俺と女。


 



 配信者Ajisaiは昨日私と一夜を共にしました。私は彼の事を信じていたのに……





 俺は本当に、本当に限界だった。




 一定数いたアンチが拡大し、その険悪さが増した。住所を特定されそうになったり、脅迫まがいのようなレベルまで。



 下手なゲームを垂れ流していることが不快、その周りもペコペコしててキモい、終いには詐欺師、裏で犯罪しているとまで言われた。




 正直、しんどさしかなかった。真っ暗の映像。よそ者を村から追い出すように、社会から追放させられている。



 ビル間を架ける一本の鉄骨を目隠しで渡り続けるような感覚だった。



 缶チューハイを何本も毎日開ける日々。タバコに火をつける回数が格段に多くなっていた。



 

 彼女は、といってもSheの方だが、自分の愚痴と鼻をすする音を何度も聞いてくれた。



 でも、本当になんとか、応援してくれている人たちが、騒動を止めようと動いてくれているのが、唯一の救いだった。「ピンポイ」さんをはじめ、最初よりすごく増え、配信でも応援してくれていた。





 その希望は、完膚なきまでに砕かれた。





 お金もない。定職もない。デリバリーぐるぐるもう限界。


 こんな俺、いやだ。



 育三さんも同じことを思っていたことがあるのだろうか。人は本当につらくなると、三大欲求の破壊力がとんでもないことになる。


 


 酒におぼれる毎日。食費が月10万。1日12時間睡眠。いつしか共に夜を過ごす女性の名を何人も書くようになっていた。


 


 


 その日々は唐突に転換点を迎えた。



 出会い系アプリで会ったとある女性。一緒にランチ、ディナーを重ね、ネオン街へ。特段と激しい夜だった。




 俺が気付いた時にはもう朝だった。俺の隣に彼女はいなかった。


 


 そして届いたダイレクトメール。



 俺のフォロワーは5万人。対して彼女のフォロワーは20万人。彼女は俺に対する批判投稿がとんでもなく多い。いわゆるアンチだ。



 本人が、文字通り身を削って俺を落としに来た。




 結果、大炎上。住所まで特定された。



「配信で紳士ぶってんのに、ヤることヤってんだ」


「正直ガチ恋だったけど、萎えた」


「こんな火の海になってたら、エクスカリバーも再起不能だろwww」


「これは引退やな。若い芽が潰されたなあ……」





 俺は布団を頭から被り、体育座りでうずくまっていた。もう、アプリの通知も聞きたくない。携帯に触りたくもない。




 いたずらで家に配達が20人前届いてから、インターホンは全て無視。携帯を開くのも1日1回ほどになっていた。




 謝らなきゃ。俺の責任だ。でも、今発信したら、絶対に叩かれる。もうこれ以上、俺をいじめないでくれ。俺の手はずっと小刻みに震えていた。手のひらが湿ってしょうがない。




 もう、無理だ。










 俺は本当に酔っぱらっている時の記憶は残らないタイプだ。だが、唯一記憶に残っている。



「人生は失敗があるから、挫折があるから物語は面白くなるのだ。自分にとってキツイと思ったこと、辛いことを乗り越えるからこそ、人生は面白くなる。」




 ふとトイレに行った時に携帯を見たのだろう。その文章がダイナマイトのように頭の中で爆発した気がしたのを覚えている。





 目が覚めると夜だった。というよりいつ寝たかも覚えていない。体が針金のように固くなっていてうまく動かせない。



 本当に、なぜだかわからない。思考じゃない、身体が勝手に動いた。



 シャワーを浴び、新しい1dayコンタクトを入れ、髪をセットした。



 久々の久々にきっちりとした服装。




 今思えば配信で顔を出したことはなかった。



 でも、この時は、迷いがなかった。



 セルフカメラを起動し、自分の全身が写るようセッティング。




 夜20時、配信、開始。










 「えーと。こんにちは。お久しぶりです。



  この度は私の軽率な行動により、皆さまにご迷惑をおかけし申し訳ございませんでした。



  この落ち度は全国公開されている以上、一生拭えないものであることを自覚しています。



  ですが、私は、


  


  


  『配信を引退する気は一切ありません。』






  私は、ある人の言葉を聞いて、配信者を目指し始めました。



  私は。



  いや、俺は、


 


  仮面を被り、格好のいい男を演じ続けてきました。


 



  社会人であり続ける事がきつくなって、



  自分が本当に嫌になって。



  もう何もわからなくなって。




  無意味にお金を溶かし続ける人生を送ってきました。


  



  でも、俺は彼の言葉を聞き、変われた。




  『素の自分を出していい』こと。



  俺を応援してくれていた人。



  客観的に見たコメントを送ってくれた人。



  叩いて住所を特定した人。


 


  みんなに、俺が、笑って




  配信のネタになったわ!ありがと!




  って雑談できるようにしたい。




  どうか、素の俺でいることを許してください。



  どうか、変わらずとは言いません。




  新しい、【Ajisai】として。



  応援していただけると本当に救われます。




  今後もよろしくお願いいたします。」










 まだまだ言いたいことは沢山あった。



 配信の音声をミュートにして、画面の外へフォードアウトした。



 鼻をすする音と泣きわめく声が、6畳の部屋に響き渡っていた。



 小鳥が桜の木にとまり、ちゅんちゅんと鳴いている。




 落ち着いた俺は、改めて配信カメラの前に立った。



 だが、そこで俺はやっと、本当に、素を出すことになった。


 








「大丈夫だよー!」



 俺に初めて投げ銭してくれた人だ。



「むしろよく言ってくれた!」



「辛いことを教えてくれてありがとう」



「こいつを本当に悪い奴っていうやつ、いねえよなぁ!」



「アジサイの方がよっぽど大人」



「なんでこいつが叩かれてるんや、めっちゃええやつやん」




 俺はカメラの前で号泣した。もう、何も覚えちゃいない。




 ただ、ただ、泣いた。




 配信を終了したのは、翌朝の5時だった。










 上を見れば、本当に、雲一つない青空。きっちりとした服装も着慣れてきた。小さく息を吐き、俺は電車に乗った。向かう先には、トタンの屋根と古びたアパートが多く連なっている。




「ここから、始まったんだよな。」




 3年ぶりに、ここに帰ってきた。



 俺は東京から出ることにした。新たな、自分の門出に向けて。




 俺は配信も、動画投稿も、SNSも続けていた。




 正社員時代、アルバイトとして俺を慕ってくれていた子。彼が歌手としてデビュー、すい星のごとく人気絶頂に達していた。



 本当にすごい。1日かけても話しきれないほど、沢山の壁にぶち当たったのだろう。




 ある日、彼から俺に連絡がきた。



「森坪さんを題材にしたテーマソングを書きたいんですよ。それ、公開してもいいですかね?」



 俺は何度ほっぺたをつねったか分からない。


 


 彼が題材にした【Ajisai】の知名度は瞬く間に急上昇した。その数は、動画の再生回数、いいねの数の違いが一目でわかるほど。



 ありがたくも、投げ銭だけで余裕で生活できるほどになった。動画の収益は、今までお世話になったみんなに恩を返すために使っている。






「マジで、あの配信やってて、寿命3年は縮んだわ。」



 俺の愚痴をまた、聞いてくれる人がいる。



 俺と別れてからも、俺の配信を見て、応援してくれていたらしい。



 若くして上場企業の次期社長候補の男性とお付き合いしてるらしい。なんでも、彼も【Ajisai】のファンなんだとか。てことは俺は愛のキューピットか。照れるな。




 


 今日も帰ったら配信しよう。



 今日はなんてったって、「ピンポイ」さん、もとい超有名実況者の小野守さんとのコラボなんだから。



 まさか、「ピンポイ」さんが趣味垢で、俺のデビュー前から応援してくれていたとは。



 本当に最近「絶句」という言葉を経験しすぎている。







 久々に帰ってきたこの地。短いタバコを吸いながら、色々と思い出す。



 ああ、そういえば。彼女がここの写真撮ってたっけ。お隣さん家の白い紫陽花。



 あなたにピッタリですよ、お客様って。






 ここから、俺は始まった。



 何度も終わりかけた。



 でも、その度に、誰かの言葉に救われた。




 今度は、俺が助ける番。




 この日のことは鮮明に、はっきりと覚えている。



 財布を握る手はもう震えていない。一度しか使っていない家電量販店のポイントカードの下にあるICカードを改札にタッチして、帰路につく。



 ICカードに指紋がはっきりと付いた。



 電車に揺られながら、あの日見た投稿をいいね、引用して投稿しておいた。彼への感謝を返そう。ダイレクトメールを送っておこう。




 夕日を背に、ビル群の見える首都圏へ向かう特急電車は、どこか懐かしく、そしてどこまでも続くかのようにオレンジ色の街を走り抜けていった。



(終)

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紫陽花は自由に踊る 大場 康平 @koh_life_is_free

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