第9話 交差点

 昼休み。凪の手には未だに持ち主の手に返っていないシャープペンシルが一つ。


「……凪、どうかした? 今朝も遅刻してたけど。珍しいよね、凪が遅刻だなんて」


 隣の席から柚の心配そうな声が飛んでくる。

 今ここで柚に全てを打ち明けてしまおうか。きっと柚は怒って、霞を非難するだろう。

 

 そうしてしまえば、このもやもやとした気持ちも楽になるだろうか。


「……ううん、なんでもないよ。今朝ちょっと寝坊しちゃって。心配かけてごめん」

「そっか」


 いや、きっと柚がどれだけ霞を責めたとしても楽になることはないだろう。

 だから凪は喉まで出かかった言葉を飲み込んでぎこちなく笑った。


 朝送ったメッセージは既読になっていたけど、返信が返ってくることはなかった。




(もう帰っちゃったかな。……私の方が先だったら良いんだけど)


 放課後の昇降口。

 生徒が賑わう隙間から、目立つ亜麻色の髪を見つける。

 その人は色んな生徒に挨拶を交わしながら、それでも誰も寄せ付けないかのように一人で昇降口へと歩いてきた。


「……水見先輩」


 凪が声をかけると、目の前のその人は信じられないものでも見たように目を見開いた。

 予想以上に驚いているようで、取り出そうとしていた靴がばらばらに落ちる。


「……仲月さん? どうして、ここに」

「先輩。一緒に、帰りませんか」


 拒絶されることのないように、霞の目をじっと見つめて凪は誘った。

 それは誘いというよりも最早圧に近い。


「……うん、分かった」


 だけどそれは正解だったようで、霞は戸惑いながらもゆっくりと頷いた。



「どうして今日、一緒に帰ろうと思ったの? 朝あんなこといったばかりなのに」

「シャーペン、まだ返してなかったから。それにこのまま関係を無かったことにすることはできないと思って」

「……そっか。シャーペン、ありがとう」


 本来の目的だったシャープペンシルを返すと、霞はそれを丁寧に受け取って鞄にしまった。


「……」

「……」


 何を話していいのか、分からない。


 小鳥がさえずる声と、車が横を通りすぎる音が二人の間に響く。以前よりも離れてしまった距離は、まるで二人の心を表しているみたいだ。


 心臓がばくばくと音を立てている。一つ音を口に出すだけでも、心臓が口から出てしまいそうだった。

それでも凪は放課後までに考え抜いた答えを示す。

 きっとこれを言ってしまったらもう元には戻れないけど、それでも凪は告げることを止められなかった。


「このまま、恋人ごっこ続けますか?」

「……え?」

「だって先輩、演劇の練習のために恋人が必要なんでしょ? ならこのまま関係を続けても良いですよね?」

「それは……そうだけど」


 返事をする霞の声は弱っているようで、それが凪にとってはどうしてもずるく思えた。

 本来その声を出すのは自分のはずなのに、と。


「私も恋人、誰でも良かったんです。先輩と付き合ったのだって先輩から告白されたからだし」

「……」


 凪にとってこれは賭けのようなものでもあった。この提案が断られてしまったら、霞とはもう関わりを持つことはないだろうから。


「……いいの?」


 だから霞が目を伏せてこちらを見た時、思わず安堵のため息が出そうになった。

 それを悟られることのないよう、「仕方がない」と言わんばかりのため息を吐いて霞を見つめる。


「別に私は良いですよ。誰かと恋人らしいことをするのは嫌いではなかったですし」

「でも私にとって、仲月さんは都合のいい存在になっちゃうんだよ?」

「これは私が決めたことです。先輩が心配することはありません。そもそも、私だって先輩を利用しているようなものですから」


 「まあ、嫌ならいいんですけど」なんて思ってもいないことを言いながら拗ねたふりをする。

 霞は凪の様子に焦ったのか、慌てて手を握ってきた。

 だけどその顔は安堵に満ちている。思わず凪が離れないことに安堵しているように見えて、危うく勘違いしそうになった。


「……い、嫌なわけないよ! これからも私と恋人のふり、してほしい。そうしてくれたら助かる。ありがとう、仲月さん」


 ぐん、と手を引かれて二人の距離が縮まる。先ほどまでの気まずい雰囲気が嘘のようだ。


「はい。これからもよろしくお願いします。先輩」




 電車で霞と別れた後、いつもより重い足で帰路に着く。

 手と手を離すことがいつもよりも惜しくて、霞の温度を逃がさないよう手を握りしめた。


(……なんで、恋人ごっこをしましょうなんて言っちゃったのかな)


 客観的に見れば凪たちの関係は歪で、正しいものではない。それは凪も霞も分かっている。


(それでも恋人ごっこをしたかったのは──それはきっと……私が寂しいからだ)


 一人でいることが嫌だった。偶然選ばれただけの恋人役でも、凪を選んだのは霞で──。

 その人に見捨てられたくなかった。その一心だった。


 恋人ごっこがこれからどんな意味を持つのか、凪はそんなことも知らずに霞の手の温度を感じながら足を進めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

中庭で告白を盗み聞きしてしまったら、先輩にキスされました。 ふじな @huji_na

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画