第8話 恋人の特訓
それはある昼休み、突然のことだった。
(あ、先輩のシャーペン間違えて持ってきちゃった)
霞との勉強会の翌日。朝、自習をするために筆箱を開いた凪は、見慣れない薄い水色のシャーペンが入っていることに気がついた。どうやら昨日、霞のシャーペンを持ってきてしまったらしい。
昨日の帰り、霞は帰ったら演劇の練習をしなくてはいけないと言っていたし、彼女も気づいていないのだろう。
(先輩困ってるかな。帰りには会えるけど早めに返した方が良いよね)
凪はスクールバッグからスマートフォンを取り出した。
『先輩、おはようございます。実は先輩のシャーペン、昨日私が持ってきてしまったみたいです』
そうしてスマートフォンとシャープペンシルを持ち、急いで一階上の二年一組の教室に向かう。しかし中には霞の姿はなかった。
彼女は時間にルーズな性格でもなさそうだし、教室にすでにいるのではないかと考えたが凪の予想は外れていたようだ。
まだスマートフォンの通知も鳴りを潜めている。
さすがにホームルームまで二年生の教室前にいるわけにはいかないし、どうしたものか。
『まあでも、それ故に
「……あ」
凪が霞と出会った日、彼女がそんな一言を口にしていたことを思い出す。
確か、霞は中庭をお気に入りだと言っていた。あの時は昼休みであったが、朝の時間にもいる可能性はある。
(まだ連絡帰ってこないし。……中庭にも居なかったら仕方がないよね。帰りに返そう)
階段を下り中庭に向かう。
入口の緑を通り抜けると、そこから風に靡いて揺れている亜麻色の長い髪が見えた。
(いた、良かった。……でも、誰かと話してる?)
ここにいるということはまた告白を受けているのだろうか。だとしたら声を掛ける前に様子を伺った方が良いだろう。
霞にばれないようにしゃがみながらゆっくりと聞き耳を立てる。
「ちゃんと──く──から。──んと恋人の特訓──てるから」
葉と葉の間から見える霞はいつもの穏やかな雰囲気を
(告白? それにしては何だか穏やかじゃないような。……大丈夫かな)
他人の告白を盗み聞きするなんて、今までなら絶対にしないと思っていた。けれど霞を心配する気持ちが勝ってしまって目の前の光景から目を離せそうにない。
「分かってるよ、中野さん。相手にもちゃんと一目惚れだって言って付き合ってるし。相手の子にも気づかれてないから、上手くやる」
「……え?」
手に持っていたスマートフォンとシャープペンシルが地面に落ちる。
凪が霞に近づきすぎていたからか、その音は彼女の耳にも届いてしまったらしい。肩を揺らして振り返った霞の目には、目を見開く凪が映った。
「仲月、さん?」
どうやら霞は告白を受けていただけではなくて、スマートフォンで誰かと話していたようだ。
だがそのスマートフォンも彼女が驚いた拍子に、地面へと落ちてしまっている。
霞が何を言っているのか、理解できない。
うまく頭が働かなくて、呼吸をすることさえ難しかった。
恋人の特訓? 一目惚れだって言って付き合ってる? 気づかれてない?
目の前の彼女は、一体何を言っているのだろうか。
「先輩、今の。何なん、ですか。恋人の特訓って、聞こえましたけど……」
「仲月さん、これは──」
「もしかして……私のこと、ですか?」
「それは──」
目の前の彼女は少しの間沈黙して一歩足を引いた後、地面に落ちていたスマートフォンを拾った。
先ほどまで動揺に満ちていた瞳はじっと凪を見つめている。
その瞳が怖くて、今度は凪が一歩足を引く番だった。
「……そうだよ。仲月さんのこと」
「……」
「さっき聞いただろうけど、もう一回言うね。一目惚れっていうのは嘘。嘘をついて仲月さんには私の恋人になってもらったの」
「……なんで、そんなこと」
「今度演劇の主役をするって言ったでしょ? 『スクールスイート』っていうやつ。それって恋愛ものなの。でも私は今までに恋愛経験が無いから、適当な誰かに恋人になってもらいたくって。仲月さん、恋人なら誰でもいいっていってたでしょ? なら、ちょうどいいかなって」
それはつまり、手を繋いで帰ったことも、一緒に勉強をしたことも彼女にとってはただの恋人の特訓に過ぎなかったということだ。
「……だから、私を恋人に?」
「そうだよ。まあ、もうばれちゃったから恋人ごっこもおしまいだけどね」
恋人ごっこ。
情報の量が多くて、今にも凪の頭はパンクしそうだった。それでも目の前の彼女は言葉を紡ぐことを止めようとはしない。
凪が静止の声を発しようとしたとき、ちょうど予鈴を告げるチャイムが鳴った。
「もうすぐホームルーム、始まるね。じゃあ、私はこれで」
チャイムを聞くや否や、彼女は返事も聞かずに中庭を出て行ってしまった。残されたのは未だに一歩たりとも動くことができない凪が一人。
「……私自身が選ばれた訳じゃ、なかったんだ」
未だに凪は呼吸が整えられなくて、すうっと必死に息を吸う。
やっと教室に帰ることができたのは、一時間目が始まって少しの時間が経った頃だった。
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