第7話 演繹法

 春の温度も消えて、五月も終盤になった。日に日に暑さも増してきて、衣替えの衣替えももうすぐ。

 そしてそれは中間試験の始まりを告げる合図でもあった。


「あー、今回の数学のテスト終わったわ」

「分かる、補修確定かも。ファミレスで勉強会しようぜ」

「いいなそれ。行こう」


 すれ違う生徒からの嘆きの声。心の中で凪は同調しながら肩にかかっていたスクールバッグを持ち直した。


 学校に入ってから初めての定期テストということもあり、一年生の間の空気は不安と気合で満ちている。

 その光景を見ていると自分が置いていかれる気がした。


(……今日は図書室、寄っていこう)


 誰に責められているわけでもないが、凪は観念したかのように息を吐いた。

 昇降口に向かっていた足を図書館の方に向けて、ポケットからスマホを取り出す。今日も霞と帰る約束をしているから、断らなければいけない。


「あれ、仲月さん?」


 声のする方向を見ると、霞の姿があった。


「あ、先輩。今ちょうど連絡しようと思っていたんです。今日は図書館で勉強するので一緒に帰れなくて」

「そうだったんだ。……そういうことなら私も一緒に勉強しようかな。いい?」

「いいですよ。分からないところ、沢山教えてもらおうかな」

「勿論いいよ。じゃあ行こっか」


 霞と一緒に図書室の扉を開けると、中にはたくさんの生徒たちがそれぞれ参考書やノートを広げている。

 凪たちの学校は生徒数が多いので、そんな光景すら圧巻に思えた。


「二人で勉強できるところ、ありますかね……」

「あ、あそこ。隣同士で座れるよ」

「ラッキーですね」


 図書室の一番奥。カウンターの席を見つけた二人は、小声で話しながら机と机の合間を縫って席に着く。

 人目に付きにくい故に空いていたのだろう。

 

「まずは何の教科からやろうか?」

「数学、やります。高校に入ってからかなり難しくて……」

「分からないところがあったら何でも聞いてね。ほとんどは教えられると思うから」

「ありがとうございます」


 霞は図書室へ向かう途中の会話をしっかりと覚えてくれていたようで、凪を安心させるように微笑んだ。


 そうして勉強を始めた霞の表情は、すぐに真面目なものになる。


 亜麻色の瞳は真っ直ぐとノートに向けられていて、今まで見たことが無かったその横顔に思わず胸が高鳴った。

 今までこんな顔、見たことがないからだらうか。

 

 真剣な顔でも様になってしまうだなんて、流石有名人といったところだ。


(なんだか、こうして先輩と近づくの初めてかも。いつもの帰り道だって手は繋いでいるけど、体はもう少しだけど離れてるし)


 思えば私、この人の恋人になって、手を繋ぎながら帰ってるんだよな。それにこの前は、キス、だって──


(──いやいや、何考えてるんだ。集中集中)


 集中しなくてはいけないときに何を考えているんだろう。凪は顔を横に振ってキスの感触を振り切る。

 ぎゅっと手の中のシャープペンシルを握り直すと、先の方の芯が折れた。


「……仲月さん?」


 凪がじっと視線を向けていることに気がついたのか、真剣な顔をしていた霞は不思議そうに顔を上げる。

 しばらくして霞は凪が自分に見惚れていたことに気がついたのか、悪戯な子どものように目を細めて笑った。


「もしかして今、見惚れてた?」

「……そんなことないです」

「そんな。もっと見惚れてくれていいんだよ?」

「見ませんし、見惚れません」

「私としては見惚れてほしいところなんだけど。だって──」


 艶やかで柔らかそうなピンク色の唇が、凪の耳元に寄せられる。


「私たち、恋人なんだし」


 鼓膜が霞の温かい息を感じ取って、体がぞわっと震える。凪の髪を霞の息が少しだけ揺らした。


「な、何言ってるんですか!」


 小声の叫び声が図書室に響く。幸いなことに誰にも聞こえていなかったみたいで、他の生徒や司書に注意されることはなかった。


 周りを見渡した凪は安心したように座り直してため息を吐く。


(駄目駄目、これは単なる揶揄いなんだから。どきどきするだけ無駄だ)


「ごめんね。仲月さんの反応がついつい面白くって。……勉強、始めよっか」

「先輩、ずるいです。もう知りません。帰ってもいいですか」

「勉強しなくていいの?」

「……します」


 言いくるめられたことが悔しくて、頬を膨らませて威嚇する以外にできることは凪には無い。

 霞はそんな凪を見てもう一度微笑むと、今度こそ勉強に取り掛かった。




 その後は滞りなく勉強は進み、あっという間に下校時間になった。そうして霞は凪と別れた後の電車の中で揺られている。


 扉に頭を寄せて外の景色に目を向けた。五月の夕方はまだ明るさが残っていて、陽の光は寄りかかる霞を温かく包む。


(拗ねる仲月さん、可愛かったな。あんな顔されるともっと揶揄いたくなっちゃうよ)


 霞の頬は無意識に緩まる。

 そのことにまだ霞自身は気づくことができずに、外の陽はだんだんと暮れていった。

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