第一章
第6話 立ち位置について
あれから霞は凪を帰りに誘ってくるようになった。「せっかく恋人になったんだし、一緒に帰りたい」という連絡が、恋人になった昨日の夜にきたのだ。
凪も満更でもなかったから了承の意を返すと、嬉しそうなイルカのスタンプが送られてきた。
(魚、好きなのかな。アイコンもペンギンだし)
何度も霞との会話を見返しては口元が緩む。どうやら凪は自分が思っているよりも、恋人という存在ができたことに浮かれているらしい。
「凪、一緒に帰らない? 今日部活休みになっちゃってさ……凪?」
「あ、ごめん。ぼうっとしてた。今日は先約があって帰れないや」
「先約? もしかして……彼氏できた?」
「ち、違うよ! そうじゃなくてこの前話した水見先輩、知り合いになってさ。帰る約束してるの」
「え、水見先輩?」
隣で聞いていた柚は大きく目を丸くする。
まあ、恋人だということには違いないのだけど。さすがに恋人になりましたとは言えなくて、凪は心の中で苦笑いをこぼすと誤魔化した。
「こんにちは、仲月さん。昨日ぶりだね」
「……こんにちは、水見先輩。昨日ぶり、ですね」
放課後。昨日と同じように昇降口で待ち合わせることにした。
凪は霞と会うことに緊張して遅れたというのに、霞は何も言わなかった。片手を少し挙げて微笑んでいる。
待ち合わせの相手が男子生徒だったら騒ぎになるところだろうけど、凪が女子生徒であるが故に周りもちらりと二人に視線を向けるだけだった。
「仲月さんの家って、どのあたりにあるの?」
「三つ隣の駅が最寄りです。先輩は?」
「私は五個隣。
「じゃあ電車は一緒だ」
お互いの自己を紹介しながら、ゆっくりと帰路に着く。
二人はまだお互いのことをほとんどといって良い程知らないからだ。だから当然緊張もするし、自己紹介以外に何を話して良いのかも分からない。
「……そういえば、今度演劇の主役やるんですよね。宣伝見ました。スクールスイートってやつ。おめでとうございます」
「え、あ、ああ。うん。……ありがとう」
「……」
「……」
それは霞も一緒のようで、一通りの会話が終わると二人の間には沈黙が流れた。
(考えてみれば先輩のこと、ほとんど何も知らないな。呼び名だってまだよそよそしいし。……それなのに恋人だなんて、変なの)
今の自分が置かれている状況がおかしくなって、口許が弧を描いた。
隣の霞はいきなり笑いだした凪を不思議そうに見つめる。
「仲月さん?」
「すみません、知り合って間もない先輩とこんな関係になっているのが不思議になって」
「それは確かにそうかも。告白した私が言うことではないんだろうけどね」
霞も口に手を当てながら微笑むと、お互いの間を流れる空気が少しだけ緩くなったように思えた。
「ねえ、仲月さん」
「なんですか?」
「手、繋いでみたいな。せっかく恋人になれたんだし、恋人らしいこと、したい」
「恋人らしいことって。……でも、周りに見られたら」
「誰もいないし大丈夫だよ。ちょっとだけ、お願い」
「……分かりました。本当にちょっとだけですからね」
ゆっくりと話しながら歩いていたお陰か、霞の言うように周りには人一人いなかった。
それに霞の言うように「恋人らしいこと」をしたい気持ちも分かる。
言葉とは裏腹に満更でもなかった凪と霞の手は、ゆっくりと重なっていく。
人差し指から中指、薬指、小指。お互いの感触を感じながら合わさっていた指は交互に絡み合って、ついに手の平同士が合わさった。
指と指の間からは柔らかい感触が伝わってきて、少し力を入れただけで温度が分かってしまう。
心臓がばくばくと悲鳴を上げていて、口から飛び出してしまうそうだ。
誰かとこうして手を繋ぐことが初めてだから、だろうか。
「……」
「……」
「……緊張、するね」
「……そう、ですね」
先程までゆるやかだった空気がまた強ばって、お互いに何も言えなくなってしまった。
目的地の駅には大勢の人がいる。きっと凪たちの高校の生徒だって。
だからこうしていられるのは、駅に着く少し手前の道までだ。
「……駅に着く少し前には離しますからね」
「……うん」
その言葉と同時に、霞の指先が手の甲をゆっくりと撫でる。まるで繋いでいる手の感触を刻み付けるように。
背中から鳥肌がたって、思わず手を握っていた力が緩まった。
そのことに気がついたのか、霞は反対に手を握る力をぎゅっと強める。
それが凪にとっては霞の余裕に感じられて、悔しくなった凪も手の力を強めた。
まるで、言葉を交わさない駆け引きのようだ。
そうして言葉のないやり取りをしていると、あっという間に駅の近くになった。
「……手、離しましょうか」
「……そうだね。これ以上は誰かに見られちゃいそう」
手と手は徐々に離れていって、二人は駅に向かった。
「じゃあまた明日ね、仲月さん」
「はい、また明日。先輩」
『ドア、閉まります。ご注意ください』
凪の降りる駅に着くと、電車の扉越しに霞が手を振って別れを告げる。
電車が遠く走っていくのを見ながら、凪はその場から動けずにいた。
そっと、繋がれていた手を唇に当てて刻みつけた温度を思い出す。
(またね、水見先輩)
凪はそっと目を閉じて、もう一度霞に別れを告げた。
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