あなた以外のあなたの淘汰

@qwegat

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 あなたは倉庫を発見する。

 あなたの幸運は何かというと、座礁した貿易船から海に投げ出されたというのに、どういうわけだか助かって、見知らぬ海岸で目を覚ましたことだ。あなたの不運は何かというと、脇腹に抱えたいつ開くかもわからない傷と、先ほどから思考を鈍らせている飢餓が、このままいけばいっそう酷くなることだ。

 この付近にはかつて人が住んでいたらしいが、建造物の残骸はあっても、残された食糧はまるで見つからない。魚を捕るだけの体力はもう残っておらず、狩猟となればなおさらだ。

 ――あの倉庫が唯一の希望だ。

 自然とあなたはそう判断し、脚を引きずりながら、石造りの倉庫めがけて歩き出す。

 それが幸運なのか不運なのかは、扉を開くまでわからない。


 女帝は極めて美しかった。

 この一文には語弊があって、なぜなら女帝の美しさは、本当のところ「極めて」という言葉の範囲を優に超えたものだったからだ。「この上なく」、「現実とは思えないほど」、「極めてこの上なく現実とは思えないほど」。そういう他の候補を探してみても、やはり女帝の美しさを表現するには至らない。

 そういう言い表しようのない――「言い表しようのない」という言葉自体、言い表せていない――彼女の美貌は、帝国に生きる数百万の男たちの心を動かし、数百万の女たちの心も同様に動かした。帝国は女帝の美しさただ一つをもって統治され、繁栄し、拡大した。女帝の美しさはそれ自体が魔法のようなものだった――月光に似た鋭いまなざしは、一度貫かれた者をすべて虜にした。均整のとれたしなやかな肉体は、衣服越しに対面者の思考を支配した。女帝は言うなれば、己の容姿という名の杖を操る、一人の魔術師だったのだ。

「絵画だ」

 と、ある日彼女はそう言った。

「絵画ですか」

 謁見の間に敷かれた紅の絨毯から視線を上げ、女帝の顔貌を目の当たりにした大臣は――彼女の言葉に、ほとんど鸚鵡返しにしかなっていない返事をした。

 彼を四方から取り囲む高い石壁、その上端部より少し下。窓枠に嵌まった鋳造硝子ごしに射し込んでくる日光が、女帝の相貌を如何に照らし、強調して見せたかを鑑みれば――惚けたようにしか見えないその態度も、無理からぬものであると言えた。

 女帝が厳かな声色で答える。

「ああ、絵画だ。それも、わたしを描いた絵画」

 大臣は依然として惚けているが、惚けているなりに耳に入った言葉について考える――これができるから彼は大臣なのだ。暫くの沈黙を終えて、小太りの謁見者は聞く。

「……陛下が描かれた絵画を作れ、との命でしょうか」

 少々怪訝そうに発されたその問いに、女帝は即答する。

「そうだ」

 大臣が目を丸くする。

「理由をお聞きしても?」

「ああ。わたしも帝国を統べてそろそろ――」女帝は短くない年数を述べた。「――もの時を過ごすことになる。まだ自分の美しさには自信があるが、それがいつまで続くかはわからない」

「陛下はどれだけお年を――」

 言いかけた大臣を、女帝が遮る。

「世辞はいい。わたしの肌はいずれ萎れるだろうし、瞳は輝きを失って、頭髪も醜い灰色に染まるだろう」

「しかし――」

 また遮る。

「仮にそうならなかったとしても、わたしがいずれ死ぬのは避けられない。死ねば美しさも何もないだろう」

「…………」

 大臣はいよいよ黙ってしまって、それを見た女帝は更に勢いよく続ける。

「だからこそ――」

 外ではすでに夕焼けが始まっているらしく、窓の光が女帝の足元に描く影は、本体の数倍に及ぶ長さをしている。とはいえ太陽が完全に沈んでしまえば、影は丸ごと床から消えるだろう。

「――絵画だ。わたしを描いた絵画を残し、この美を恒久のものとするのだ」

 女帝の高い鼻筋が、彼女の顔を左右に区切っている。左半分には夕陽が当たり、右半分には――薄影が落ちる。双眸が放つ二条の視線だけが、光の影響を受けず、際限なき鋭さで走っている。

「……しばしお待ちを」

 と大臣は手を挙げて、やはり女帝に見とれながら、内心で彼女の言い分について考える。

 ――この王国は文字通り、女帝の美しさ一つでここまで来た。

 それは大臣も認めているところだ。

 資源の乏しさ、厳しい気候、長く続く宗教的対立――並び立つ悪要素のすべてについて、革命の末就任した女帝は、その美しさ一つで対処してきた。民衆は食料が少なくても、女帝が美しいから何とか耐えた。災害に襲われて街が瓦礫に代わっても、女帝が美しいから諦めず復興させた。生まれそうになった不和は女帝が美しいから消滅した。そうして苦境を乗り越えたからこそ、国勢も徐々に安定してきているのだ。

 しかし――もし、女帝の美しさが失われたらどうなるか?

 この国を動かすのは彼女の美貌だけだから、それが消えれば当然国は動かなくなる。飢えた民衆は暴動を起こし、放置された瓦礫の横で犯罪が蔓延り、封じられてきた争闘は再び姿を現す。ちょうど、魔術を解かれた白鳥が、醜い一羽の鴉になってしまうようなものだ。

 だから、絵画という箱でもって、己の美しさを保護しようという――その考えは、よくわかる。

 ――しかし。

「お言葉ですが、陛下」

 大臣は、女帝の案を受け入れられずにいた。

「何だ?」

「数百年前、この土地に君臨した女王のことは御存知かと思います」

「ああ」

 女帝は控えめに頷き、頷く姿もやはり完璧に美しかった。

「女王は大変な美貌を――もちろん、陛下には劣るでしょうが――持っており、その美しさでもって民をまとめ、大国を築いたと伝えられています」

 大臣はあえて「陛下と同じようなやり方で」という言葉を使わなかった。女帝を他者と比較するのが失礼に当たると考えたからだ。

「わたしと同じだな」

 もっとも、女帝本人にとってはそうでもなかったようだが。

 調子が狂った大臣は、一つ咳払いをして続ける。

「……女王は……ええと。陛下と同じようなやり方で、自分の姿を絵画に残し、美しさを後世に伝えようと考えました。当時最高の画家に命じて、それ以上ないほどの人物画を描かせたのです。……陛下も、女王の絵画をご覧になったことがあるのではないでしょうか?」

「……貴様の言いたいことが分かってきたぞ。確かにそうだ、以前、文献かなにかで目にしたはずだ」

「それでは話が早いかと思います。その絵を見て……陛下は、どのような印象を抱かれましたか?」

 女帝は一瞬だけ目を伏せて考え、すぐに居直るとこう答えた。

「道化師のようだと思った」

 大臣が嬉しそうに言う。

「そういうことなのです」

 女帝の理解を得られて調子づいた彼は、人差し指を立てたりなんかもしつつ論を展開する。

「女王の絵画が道化師のように見えるのは、担当した画家の描き損じではありません――数百年前の時点では、道化師のように描かれた女性こそが最も美しいと考えられていたのです。しかし年月は民の目つきを変え、絵に対する審美眼も変じてみせた。結果として」

 大臣は一拍置いて、結んだ。

「絵画に吹き込まれたはずの美貌は虚空へと消えてしまい、王国は崩壊したのです」

 これで議論は終わりになるだろう――大臣は思った。彼はかなり具体的な前例を出したし、それが成功しなかったことも示した。女帝は「だとしても、民の価値観が変化するまでの数年は効果があるのではないか」といったことを言うかもしれないが、それは絵画を残すことの悪側面に目が行っていないからだ。民衆が絵画を「美しくない」と思うだけならまだ良い――「醜い」と思われてしまった場合、本来より女帝の求心力を下げる可能性すらある。その旨を伝えればいいだけだ。

「……なるほど。絵画に関する美的感覚は数年経てば変化してしまうから、一枚の絵でわたしの美しさを伝え続けるのは難しい……というわけか」

「ええ」

 大臣はそういう腹積もりでいたから、女帝が次に発する言葉を聞いて、大いに驚くことになる。

「ならば、絵画は一年ごとに描き直すことにしよう」


 九人の画家が選ばれた。

 個々人に関する詳説は省くが、全員が帝国に名を轟かせる一流の画家だった。大臣の部下により選定された九人は、女帝の住居を兼ねる巨大な宮殿――その中でも一番大きな部屋に集められた。

 部屋は円柱形をしていて窓を持たず、壁際に木製の棚を構えていた。その大きな棚の中には、帝国内で用意できるあらゆる種類の画材が、ちょうど九人ぶん収められているのだった。

 彼らは画材の多様さに驚きながらも、床に落とした濃い影を交わらせつつ、うろうろしたり談笑したりした。九人もいれば――それも芸術家となれば――、一人や二人、気難しかったり人見知りだったりして、他者とかかわることを嫌うものもいるだろう。そもそも、こうした企画に異を唱える者もいるかもしれない。しかしそういう個人のえり好みより、彼らの心を掴んで離さない、女帝の美しさのほうがよっぽど強かった。

 画家たちがしばらくそうしていると、棚と向かい合う形で置かれた大扉の向こうから、つかつかという足音が聞こえた。扉に背を向けていたものは振り返ったし、そうでないものは動かなかった。九人に見守られながら、扉はゆっくりと開かれていき――その向こうに立っていた一人の人物は、部屋の中へと踏み入った。

「さあ――」

 女帝であった。

 彼女は十八の瞳から放たれる視線を一身に浴びながら、部屋の中央に置かれた台の上に立った。台の周囲に並べられた椅子に画家たちが座れば、ちょうど九人で女帝を取り囲むような恰好になる。灯火器が放つ揺らめくような明かりに照らされながら、美しい唇が開閉される。

「――描き始めよ」

 それがはじまりの合図となった。

 画家たちは各々の道具を取ると、各々の調子で絵画を描き始めた。――染料を使うものもいれば、黒鉛を使うものもいたし、あるいは墨を使うものもいた。共通事項はただ一つだ――九人のうち全てが、女帝の美しさを表すために絵画を描く。

 誰もが言葉は不要と判断したらしく、それからずいぶん長い間、部屋の中は沈黙が支配することになった。音らしい音と言えば、支持体と画具が触れ合うたびに上がる、僅かな摩擦音くらいのものだった。

 窓が存在しない以上、宮殿の上空で流転する昼夜も、室内においては存在しないのと一緒だ。言葉もなければ日の巡りもなく、誰もが集中して視線を動かさない――言うなれば、大部屋の中では時間が止まっていた。

 ただ女帝に憑依した美という名の魔人だけが、次なる依代を求めて天井の下を彷徨っていた。


 当然の話だが、九枚の絵画が完成した。

 どの作品も非常にすばらしく、非常にすばらしいという言葉では足りないようなものだった。一目見るだけで、作者の魂が支持体全体に投入されているのがすぐわかった。作業を終えて部屋から出ていく画家たちの瞳が、一つ残らず気迫と興奮の色を帯びていたのも、その証明だといえるだろう。

 絵画は識別のための番号を振られ、極めて慎重に輸送されると、帝国の中央に位置する都市の、中央に位置する地区の、中央に位置する広場の、更に中央に並べられた。広場およびその周辺には数万の観衆が集まって、数十万の言葉によって喧騒を生み出していた。彼らの話題のほとんどは――女帝と、女帝を描いた絵画に関するものだった。砕けて混ざった文章の群れは、やはり観衆が生み出す熱気に乗って、ときおり人ごみを通り抜ける強風の煽りを受けつつも、広場を取り囲むように渦を巻く。

 その喧騒がぴたりと止んだ。

 九枚の絵画の後ろから、女帝が静かに歩いてきたからだ。

 女帝は相変わらずの美しさで、ゆっくりと、絵画の背面の壇上に登った。雨によって絵画が濡れないよう、その頭上には大きな屋根が設けられている。――その屋根が作った影すらもが、葡萄色の衣服と合わさって、彼女の艶やかさを増す材料となっていた。ほとんどの観衆は気づかなかったが、先ほどから断続的に吹いている強風も、女帝が現れてからまったくの沈黙を保っている。

 九つに分裂した己の容姿に囲まれ、数万の視界を占有して――ついでに、数万の声帯を封印して――女帝は、凛とした声を張り上げた。

「投票だ」

 投票だった。

 投票権をもつのは、その日広場に集まれたもの。投票期限は、上空に星が見え始めるまで。投票内容は、九枚の絵画でどれが最も美しいか。はっきり言うなら、不平等な要件だった。いくらこの広場が帝国の中央に位置するとはいえ、国土の外縁部――帝国は島国であるから、海沿いのあたり――に住む人々にとっては、中央に移動するだけでもかなりの時間と労力が必要になる。実際、移動の困難さを理由に投票を諦めたものは少なくなかった。

 とはいえ、その不平等さに異論が唱えられることはなかった。

 理由は二つある。

 一つは、来年以降も毎年投票があるという宣言が既になされていたこと。初回にあたる今年の制度が不完全でも、二回目、三回目と徐々に改善していけばいい――そういう風潮が存在したのだ。

 もう一つの理由は――言わずもがな、女帝が美しかったことである。

「終了!」

 太陽が地平線のかなたに消えてしばらく経ってから、一人の記録係が声を張り上げて合図をした。広場に置かれた大きな銅鑼が、追って二、三度叩かれる。星空に吸い込まれていく音響は、観衆の高揚感を鎮めるには不十分だったらしく、残響が完全になくなった後も、いまだ広場は話し声で埋まっていた。しかし、

「――鎮まれ」

 と女帝が一言命じれば、すべては沈黙を取り戻すのだった。

 女帝が記録係に目配せをする。その瞳の中には、夜空から降る一等星たちの光より、遥かに明るい煌めきが宿っている。記録係はどうにかなりそうだったが、なんとか耐えて向き直った。観衆は――点々と見える照明器具の灯りに輪郭をなぞられながら、女帝の命令通りの沈黙を貫いて、記録係が口を開くのを待っている。記録係は一度だけ唾をのんで、口を開いた。

「本来であれば投票結果計上の時間を設ける予定だったが、概括的に見ても最多得票がどの候補かは明らかだ。よって計上は省略し、即座に結果の発表に移る」

 観衆たちは驚かなかった。

 今回の選挙には、投票先の黙秘に関する掟が存在しない。これだけの人々がいれば自然と雑談が生まれるし、その流れで投票先に話題が移ることもある。自分以外の数人と投票先を教え合えば、飛びぬけて人気のある候補が一つあることはわかるだろうし――広場に未だ留まっている人々のほとんどは、実際にそうして大方の予想を済ませていた。

 もはや太陽は空から隠れたが、九枚の絵画はあらかじめ用意されていた灯火器の光に照らされていたので、そこに描かれた女帝たちは夜闇に飲まれず、昼頃と何ら変わらない見え方をしていた。並ぶそれらに視線が集まったところで、記録係は沈黙を破る。

「選出されたのは――」

 彼はゆっくりと、観衆が確かに聞き取れるように言った。

「第四の絵画だ」

 その瞬間のことだった。

 第四の絵画は、九人の画家の中ではもっとも若い、新進気鋭の彩色画家の手によるものだった。彩色画家の筆は少しの誇張を添えた繊細な輪郭で女帝の面様を捉え、輪郭の隙間を鮮烈な配色で彩った。写実性からはどちらかと言えば遠く、けれども概観としては地に足がついた印象を与える。総合的に言って、美しい絵画だった。

 ほとんどの観衆は、「第四の絵画は他の八枚に比べ、頭一つ抜けて美しい」と考えていた。しかし彼らはまた同時に、「とはいえそんな傑作ですらも、女帝の美貌には遠く及ばない。代わりにはならないだろう」とも考えていた。考えていたが口には出さなかった。口に出して、この企画を否定するような流れを作りたがらなかった。企画者である女帝が美しかったからである。

 しかしながら。

 改めて――その瞬間のことだった。

 記録係が発表を終えると同時に、数万の視界に変化が起きた。その中央に収まった第四の絵画が、それまでと比べ物にならないほど美しく見え始めたのだ。あらゆる要素が印象を強め、凛々しい眼球は更に凛々しく、気高い鼻筋は更に気高く、麗しい口唇は更に麗しく見え始めた。他の絵画に投票した人々も少数派とはいえ存在したが、彼らもすぐに鞍替えをした。

 不思議なことに観衆は、この事態を違和感なく受け入れていた。異常を疑って己の眼を擦ることも、周囲の人々に見え方を訊くこともしなかった。恐らく、見惚れていたからだ。第四の絵画が美しかったからだ、と言い換えても良かった。

 ――この美しさは、女帝にも匹敵するほどではないか?

 と、数万のうちの一人が思った。

 続けて二人が思い、三人が思い、十人が思い百人が思い、あっという間に全員が思った。観衆たちは無礼を知りながら、第四の絵画と女帝を比較したいという衝動を抑えられなくなりつつあった。

 ――実際に見比べてみよう。

 そんな殊更無礼な思い付きを、耐えられなくなった一人が実行した。無意識のまま第四の絵画に釘付けされていた視線を引き剥がして、そのすぐ近くに置かれた壇上に向け、女帝の姿を確認しようとした。続けて二人が実行し、三人が実行し、あとは言うまでもなかった。しかし数万の実行者のうち、「実際に見比べてみる」ことに成功したものは一人としていなかった。

 女帝は、いつの間にか壇上から姿を消していたのだ。

 広場を通り抜ける夜風たちは、月光が滲み出たものに変わりつつあった。


 三日後になって大臣たちは、女帝が逝去したと発表した。

 発表の内容はそれだけだった。それだけというのはつまり、女帝が逝去したということはわかっても、どこで逝去したのかとか、どうして逝去したのかとか、いつ逝去したのかとか、そういう付属情報が一つとして開示されていなかったということだ。ただ女帝の死という一つの言葉だけが、竜巻のように突拍子もなく誕生し、そのまま帝国に生きる数多の民の間を駆け抜けていった。

 大臣たちはこれを「混乱を防ぐため」と説明していたが、それにしても情報は不足しすぎていた。国民のうちのいくらかは、

 ――もしかして、大臣たちも情報を持っていないのではないか。

 そんなことを考え始めた。

 女帝が最後に衆目のもとに立ったのは、三日前の投票の日のことである。あの時の女帝はものも言わず、前触れもなく、みなが意識を外している間に消えた。その「みな」に大臣も含まれるとするなら、あの瞬間、女帝がどこにいたかは誰も知らないことになる。

 ――女帝はあの夜、この世界から姿を消してしまったのでは。

 それは飛躍した考えで、思いついた者たちも口に出すことはなかった。ただし心の奥底には、もっと飛躍していない別の考えをいくつも持っていて――それを言葉にしないための理由を探していた。今まで使ってきた「女帝が美しいから」は、今となっては役をなさない。彼らの視線は助けを求めて虚空を彷徨い、例の絵画を発見した。絵画は三日前から美しさを保ち続けていて、理由を担うに十分だった。人々は胸をなでおろした。

 そんなわけで、

 ――女帝はあの夜、この絵画に美しさを吸い取られてしまったのではないか。

 大勢の頭に訪れたこんな発想は、字面の印象ほど飛躍したものではなかったのだが、やはり口に出されることはなかった。理由は一つ、女帝の絵画が美しかったからである。

 その日から、帝国の王は絵画になった。


 夜闇のむこうで、炎がめらめらと燃えている。

 そこに投入された一枚の絵画が、勢いよく面積を減じていく。堂々と描かれた女帝の顔面が、劣化の侵食をうけて溶け消えていく。瞳が識別できなくなったあたりで、二枚、三枚と絵画たちが続く。燃焼の音は切れ目を持たない。

 投票で第四の絵画に敗れた他の八枚は、それから一年間、もしもの場合のための予備として保管されてきた。第四の絵画が何かの理由で破損した場合、大差をつけられたとはいえ二位に選ばれた絵画を代わりに使う。それも破損したら、三位だったまた別の絵画を――という具合だ。しかし第四の絵画は丁重に管理され、結局八枚に出番が訪れることはなかった。

 そういうわけで、八枚は燃やされることになった。

 絵画たちの上げる炎は篝火となって、月夜の天蓋にもうもうと煙を上げている。星明かりに照らされるそれは、遠くから見れば、天から垂らされた一条の縄のようだった。

「選出されたのは――」

 偶然にもその縄は、声を張り上げる記録係の、ちょうど真後ろに垂れていた。

「第二の絵画だ」

 唐突に比類なく美しく見え始めた第二の絵画を前に、観衆たちが歓声を上げる。その隙をついて、あまり美しく見えなくなったかつての第四の絵画は運び出される。

 当初の案では、役目を終えた九枚の絵画はすべて燃やされる予定だった。しかし諸々の審議の結果、一位に選ばれた絵画だけは燃やさず、帝国でも外縁部の、辺鄙な地域に建てられた、目立たない倉庫に保管することになった。

 褐色の布をかけられたかつての王は、月明りの一片として浴びることもなく、辺境の壁際で眠りにつく。


 一年の月日を隔ててなお、帝国は平穏を保っていた。

 女帝が死んだという発表は、予想されていたほどの混乱をもたらさなかった。それは、かつて女帝が座っていたほとんどそのままの位置に、女帝を描いた第四の絵画が新たに座り直したからだった。民という操り人形の四肢に繋がった細糸の名前が、女帝の美しさから、女帝の絵画の美しさに変化しただけの話だった。

 もっとも――立ち位置に変化がなかったとはいえ、民衆の行動方針がまるで変わらなかったというわけではない。

 簡単な話、女帝はものを言い、女帝の絵画はものを言わない。女帝に従う分には彼女の命令をそのまま聞いていればよかったが、絵画を王とすればそうはいかない。だから民は各々で考えて――結果として、彼らは女帝の絵画を維持する方向に動くようになった。

 二年目の選挙が終わってからも、それは変わらない。

 人々はとにかく――女帝を表現した絵画を、一年ごとに更新しつつ維持することに心血を注いだ。まずは選挙に関わる規則を更に整備して、なるべく投票率が高くなるよう努めた。より多様な種類の絵画が存在できるよう、新たな画材の開発に勤しんだ。国家の発展はあくまで過程だった。通信技術は遠隔投票のために研究され、利便性の高い新素材が発見されるときも、起点は常に画材にあった。たびたびの災害も絵画を維持するために乗り越えて、帝国は年月を受け入れていった。

 女帝の当初の計画通り、季節が一巡するたびに、彼らの王は描き直された。そしてやはり女帝が予想した通り、絵画の画風は時期に合わせて、少しずつ少しずつ変化していった。

 絵画は一枚しか公開保存されない決まりだったから、絵画たちは倉庫に仕舞われた順に忘れ去られた。そのうち本来の女帝の顔も忘れられて、画家たちはいよいよ、絵画から得た情報だけで新たな絵画を描くようになった。誰かが間違えて落とした黒の絵の具が、十数代後には黒子だったことになり、更に十数代すると化粧だったことになって、もう十数代先では跡形もなくなった。――薄れていく記憶の悪戯は、そういう微妙な流転を生んだ。絵画の中の女帝の顔は、もはや本来とはまるで違ったものになっていき、しかし美しいという一点だけで、女帝は常に女帝であった。

 そんな調子で、数百年が経過した。


「それでは――」

 声が響く。聞き取りやすい、女性の声だ。投票会場の天井に据え付けられた電気音響変換機が、ぶるぶる震えてそれを吐き出している。

 ずらりと並ぶ長机には、第二百八十五区に住む有権者のうち、最後に投票する組に割り振られた千人強が、一つの机あたり二十人ほど、等間隔で座っている。彼らは暇を持て余し、変換機の中央に位置する丸い振動板を、特に意味もなく見つめている。振動板を取り囲む銀色の金属枠が、蛍光灯の光を受けて鈍い光沢をあらわす。

「――投票を開始してください」

 切替音が一斉に響く。

 今年の選挙の候補となる絵画は、わずか二枚だ。絵画選挙に出せるほどの傑作を描ける画家が二人しかいないというわけではない。他の画家たちも十分な力を持ってはいたが、二人と比べれば誰もが見劣りした。民衆は二人の実力を別格だと判断し、事前に行われた画家選挙において、他の候補を軒並み落としてしまったのだ。

 選挙管理省はこれを好機と見た。彼らは従来の投票用紙を大量に消費する選挙方式を変えようと考えており、一つの案として電気信号の使用を検討していた。候補が二つしかなく、棄権の概念もないということは、各投票者は二通りしか投票選択肢を持っていない。それは二状態開閉器ひとつで投票先を表現できることを意味する。今回の場合、開閉器の取っ手を左に倒せば第一の絵画、右に倒せば第二の絵画に、自分の持つ票が入れられる方式だ。

 かちかちと、開閉器の状態が切り替えられる音が響く。それは雨粒が絶え間なく屋根を叩く音に似ていたりする。

「残り十秒です」

 再び先ほどの声が告げて、切替音は更に加速する。投票者たちのほとんどは、事前に模造品を見比べた感想を元に、二つの絵画のどちらに投票するか最初から決めていた。しかし投票の瞬間になってみれば、その決定を簡単に揺るがすような別の要素が、思考の死角から濁流に似て押し寄せてくるのだった。瀬戸際に立ってこそ生まれる迷いが、雨なき雨音を更に強くしていく。雨音は秒読みがもう五つほど進んだところで急速にまばらになり、「零」が唱えられたところで完全に消える。

「集計を開始します」

 そう振動板が告げるなか、会場に二枚の複製画が搬入される。今回の絵画選挙の候補となった二枚だ。「投票作業中に候補を見ると意志が揺らいでしまう」という理由で、搬入は投票が締め切られてから行う決まりになっている。しかし先ほどの雷雨のような切替音を考えると、この掟が意味を成しているかについては疑問の余地があった。

「集計が完了いたしました。これで本会場に設定されていた投票はすべて終了となりますので、選挙管理省本部へ全体結果を電送いたします」

 ここからは、去年までの紙の選挙と変わらない。各会場の集計結果は選挙管理省に集められ、機械式加算器を用いてさらなる計算にかけられる。選挙管理省はその結果を踏まえ、どの絵画が次の一年の王を担うのか、各選挙会場に折り返しで送信する。

 電気信号方式が絵画選挙に齎した最も大きな変化は、無効票の概念がなくなったことだ。

 開閉器に入力できるのは、取っ手が左右どちらに倒れているかという情報だけだ。紙による選挙で無効票の原因となった誤字や塗り損ないも、開閉器では起こりようがない。そのため、その年の絵画選挙は……数百年の歴史を持つ帝国にあって初めての、有権者すべてが投票し、その投票の全てが有効で、稀計算誤りもすべて排除された――言うなれば、帝国に生きるすべての民の美意識を、一つの例外もなく反映した選挙であると言えたのだ。

「本部より、総合的な集計結果を受信しました」

 振動板が言い、投票者たちの間に少し騒めきが広がって、すぐに消えた。彼らは幸運にも、この選挙会場で最後に投票する権利――つまり、投票の興奮冷めやらぬままに、会場に留まって結果発表を聞ける権利――を持っている。それをみんなが自覚していたから、喧騒はすぐに打ち消されて、ただ発表にふさわしい、厳かな静寂だけが広がった。

「選出されたのは――」

 誰もが静かに座っており、同時に自分自身の心臓の鼓動を鬱陶しく感じている。緊張感が漂う投票会場に、よく通る声が響いた。

「第一の絵画と第二の絵画です。同票でした」

 その瞬間のことだった。

 運営者が発表を終えると同時に、千の――あるいは、帝国全土の数千万の視界に変化が起きた。第一の絵画に投票したものは第一の絵画が、第二の絵画に投票したものは第二の絵画が、それぞれ、それまでと比べ物にならないほど美しく見え始めたのだ。あらゆる要素が印象を強め、凛々しい眼球は更に凛々しく、気高い鼻筋は更に気高く、麗しい口唇は更に麗しく見え始めた。

 人々は己の王に見惚れた。見惚れると同時に、己の王に見惚れていない他者の存在を、直観的に把握した。絵画に描かれた女帝の眼差しが、「そんなものを許してはいけない」と語り掛けているかのように見えた。

 あまねく場所で雷鳴が響いた。


 開け放たれた扉から射し込んだ日光が、倉庫を埋め尽くす絵画たちを強調する。

 そう――絵画。何百枚もの絵画が、棚に収まり並んでいる。その画風や画材は統一されておらず、支持体の劣化状態を見るに、描かれた年代もばらばららしい。共通事項はただ一つだ――絵画は全て、一人の女性を描いている。

 ――こんな光景は、何かしらの魔力がなければ生まれえないものだ。

 あなたは直観的にそう感じる。

 けれどもその割に、あなたは並ぶ絵画たちから魔力を感じない。美女というより道化師のようにしか見えない作品もあるとはいえ、好みの絵柄の作品も中には存在するし、それを見れば「美しい」とも感じる。しかしながらその美しさは、あなたに何かの衝動を与える類のものではない。

 ――それでは、この光景を生んだ魔力たちはどこへ行ってしまったのか?

 あなたは、自分が飢えに直面していることに気付く。肉体的なものとは別の、言うなれば未知に対する飢えだ。かつて眼前の絵画たちが確かに纏っていた言いようのない力を、どうにかその手に宿してみたいと感じ始める。

 気付けばあなたの脇腹の傷は開いていて、吐き出された血液がなまぬるい感触を生む。あなたはそれに対処しようともしない。なぜなら、既に遅いからだ。倉庫の中に絵画はあっても、食糧はない。どの道、ここで死ぬしかないだろう。

 朦朧とし始めた視界の中で、あなたは利き手の人差し指を立てる。ほとんど無意識のうちに脇腹に伸ばして、真紅をまとった血液を――絵具を付着させる。

 ――描きたい。

 考えたのはそれだけだった。

 指先で触れた壁は、ひどくひんやりとしていた。

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