アトラスの傲慢

木園 碧雄

地の果てにて

 ギリシャ神話は口承――即ち民間伝承として、古代ギリシャの時代から連綿と受け継がれてきた神話の一つであり、今日では欧州はおろか世界中に広く伝播した神話でもある。


 信仰されているかどうかは別として。


 ギリシャ神話の創生は非常に古く、その起源はおよそ紀元前十五世紀にまで遡ると言われている。


 当時の言葉で「アオイドス」と呼ばれていた吟遊詩人たちが、彫塑しながら語り継いできたのであろう物語のうち、現存している中で有名な作品が、トロイア戦争を題材にしたホメーロスの『イーリアス』と『オデュッセイア』である。


 それら口伝の物語や神話から、ギリシャの神々に関する事象を抽出し、体系としてまとめ上げ文章化したのが、ヘーシオドスという詩人の『神統記』である。


 この作品に登場する、オリュンポス十二神を基軸とした神々は――エピソードによって若干の差異はあるが――現代の我々がギリシャ神話の神々に対して抱くイメージと、ほぼ一致していると言えよう。


 その神話体系を新たな礎とし、古代ギリシャの詩人たちは新たな悲劇や喜劇を想像し、物語として伝承した。


 それらの物語は絵画や彫刻、曲を創造する芸術家たちのイマジネーションを刺激し、新たな作品を生み出すという相乗効果をもたらした。


 ギリシャ神話の主な舞台となる、ギリシャ最高峰であるオリュンポスに住まう主神は、十二名。


 主神の中の主神たるゼウスと、彼の妻ヘーラー。


 ゼウスの兄弟であるポセイドンと姉妹のヘスティア、デメテル。


 ゼウスの子であるアテナ、アポロン、アルテミス、アレス、ヘイパストス、ヘルメス、そしてアフロディーテ。


 また一説には、十二と数が決まった後に誕生し神々の仲間入りを果たしたディオニューソスが加わったとも言われている。


 この場合、代わりに十二神から外されるのは、十二神に加えてもらえないことを嘆くディオニューソスを憐れみ、彼と自らの座を入れ替えることにした、叔母のヘスティアということになっている。


 ところで、日本神話や北欧神話、ヒンドゥー神話といった多神教の神話には、共通の特徴がある。


 神は一人ではなく、また優劣強弱の差があるが故に、神々が間違いを起こすこともあれば、感情的な理由や格上たる神の命令により人間を苦しめることがある。


 これは、人間に多様な恵みを与えながらも時として害を及ぼす厳しい自然の摂理を、そのまま神として具現化し崇め奉った結果とも言えよう。


 ギリシャ神話もその例に漏れず、オリュンポス十二神は時として人間を苦しめる目的で災害を起こしたり、王や英雄に狂気や病、呪いの類を吹き込んだりもする。健全の代名詞とも言える太陽神であり治療神でもあるアポロンですら、『イーリアス』では軍勢に疫病を蔓延させているぐらいである。


 特に際立っているのが、主神ゼウスの好色である。


 好色で浮気性のゼウスは、ヘーラーを制裁に迎えるまでに他の女神二人との間に四人の娘をもうけ、さらに結婚後もヘーラー以外の女神や人間の女性と交わり、彼の子として生まれた人間の子は、英雄や王となる者数多であった。


 ただし、好色はゼウスだけに限らない。


 兄弟のポセイドンや息子のヘルメス、娘のアフロディーテや父のクロノスまでも愛人がおり、それぞれ子をもうけている。


 その神々――主に男性神だ――と人間の女性とが交わることで誕生した、神の血を引いていたり、半身が神とも言えたりする英雄たちが多数登場するのも、ギリシャ神話の魅力と言えよう。


 もっとも神々の好色には、それなりの理由がある。


 ギリシャ神話の神々には、長い年月のうちに他の信教の神々と融合、ないし同一視されている神も多い。その際に曖昧になった出自を、ギリシャ神話の内容に適合させるべく、主神ゼウスの子――若しくはオリュンポス十二神の身内――である、という形に変容してきたのである。


 英雄の場合は、もっと簡単だ。


 文字通り、神懸かりとしか思えぬ能力を発揮し偉業を残した英雄に対し、もっともらしい理由と「神の子」「半神」という栄誉を与えたのである。


 この御都合主義とも我田引水とも呼べる融合は、ゼウスの正妻ヘーラーの嫉妬という、新たな要素を生み出した。


 貞淑だが気が強く嫉妬深いヘーラーが、ゼウスと他の女との間に生まれた子供に苦難を与えるーーというのも、ギリシャ神話の定番である。


 その出自故に能力に秀で、また神々の愛憎を受けた彼らが苦難に満ちた冒険の末に勇名をギリシャ中に轟かし、時として悲劇的な結末を迎える「叙事詩」の数々は、非常に有名である。


 前述の『イーリアス』や『オデュッセイア』も、神話としての発端は女神たちの美貌争いであり、審判者であるパリスが報酬として他国の王妃を攫ったことから、英雄ヘクトールやアキレウスを戦没させ十年の長きに渡って死者を出し続けてきたトロイア戦争を勃発させている。


 また怪物メドゥーサの首を斬り落とし、アンドロメダ姫を救い妃とした英雄ペルセウスは、過失で自らの祖父を殺めており、郷里への旅路で様々な困難を潜り抜けたオデュッセウスは、逆に父の顔を知らなかった我が子に殺されるという、悲劇的な結末を迎えている。


 トロイア戦争は人間同士が争う戦争であったが、ゼウスら神々もまた、自らの先代とも言うべきティターン神族や巨人たちとの間に戦争を起こしており――当然ながら――どちらの戦にも勝利している。


 


 ヘーシオドスの『神統記』によれば、宇宙にはまずカオスという原初の神が存在し、そこから誕生した大地母神ガイアが天空神ウラノスを産み、そのウラノスとの間にクロノスやテーティウスといった男女をもうけた。


 彼らが、ゼウス誕生までの神とも言えるティターン神族である。


 しかしウラノスは、クロノスらと同様に産まれた独眼巨人のキュープロクスや百腕巨人のヘカトンケイルといった醜悪な巨人――彼にとって兄弟なのだが――を嫌い、冥界の最奥に存在する奈落「タルタロス」に幽閉した。


 この「タルタロス」は原初から存在する流刑地のような場所であり、陽光は決して届かず悪臭の絶えない、澱みきった荒野とも無間とも言われ、死者の国よりも苛烈な地であるとも言われている。


 ウラノスの妻にして母たるガイアはこの暴挙に怒り、末子であるクロノスに魔法の金属で作られた鎌を与え、ウラノスの性器を切り落とすよう命じた。


 性器と同時に父権をも失い、主神の玉座から追放されたウラノスに代わって主神の座に就いたクロノスだったが、父がタルタロスに押し込めた巨人たちを解放しようとはせず、また己の子どもに主神の座を奪われるという予言を懼れ、正妻レアーとの間に産まれたヘスティア、デメテル、ヘーラー、ハデス、ポセイドンの五人を次々と呑み込んでしまった。


 産まれた我が子が次々と夫に呑み込まれていると知ったレアーは、新たに産まれた男子ゼウスの身代わりにと、産着で包んだ石を夫に見せた。


 簒奪の恐怖に怯えるクロノスは、中身を確認しようともせず、レアーから奪い取った石をそのまま呑み込んだという。


 母の機転により難を逃れたゼウスは離島で育てられ、成人してから兄や姉の救出と父への復讐を決意する。


 まずは嘔吐薬を混ぜた神酒ネクタルをクロノスに飲ませ、呑み込まれた五人の兄と姉とを一斉に吐き出させた。


 ちなみに、これにより「誕生の順番」が逆になり、長女だったヘスティアが末妹、末弟だったゼウスが長兄になったと言われている。


 再び世に生を受けた兄弟姉妹とゼウスは一致団結し、父であるクロノスに戦いを挑んだ。


 これに対しクロノスも主神として、またティターンの長として同族を集めて応戦した。


 これが、後に「ティターノマキア」と呼ばれる大戦である。


 この大戦に先立ち、「先見の明を持つ者」として広く知られていたティターンのプロメテウスは、クロノスとティターン神族の敗北を予見し、開戦前から降伏するようクロノスに呼び掛けていたのだが受け入れられず、思い悩んだ挙句に弟のエピテメウス――「箱」を開けたパンドラの夫だ――と共に、ゼウスに降伏したという。


 序盤は決して優勢とは言えなかったゼウスたちを勝利へと導いたのは、双方の母とも祖母とも言うべき大地母神ガイアの助言だった。


「我が夫ウラヌスが幽閉し、我が子クロノスがそのまま放置しているキュープロクスとヘカトンケイルを、タルタロスから解放しなさい。彼らは必ず、貴方がたの役に立ってくれることでしょう」


 助言に従い、タルタロスの番人である怪物カムペーを倒して自分たちを解放してくれたゼウスたちに恩義を感じたヘカトンケイルは、戦場において百本の腕で巨岩を持ち上げてはティターンめがけて投げつけ、彼らを手こずらせたという。


 キュープロクスたちの返礼は、それをさらに上回るものだった。


 彼らは持ち前の冶金術を駆使し、ポセイドンには大地を揺るがす三叉銛を、ハデスには被れば絶対に姿が見えなくなる隠れ兜を、そしてゼウスには万物を瞬時に破壊できる雷霆を作り与えた。


 特に雷霆の破壊力は凄まじく、不死であるティターンすらも一撃で消滅させ、持ちうる力を最大まで引き出せば、世界の事象まで歪めることができたという。


 焼き尽くされ物言わぬ黒炭の骸と化した同胞の無残な姿は、それまで不老不死を謳っていたティターンたちに畏怖と戦慄を与えた。


「雷霆に焼かれると、他の生きものと同じように死ぬ」


 これまで決して自分たちが味わうことがなかった事実に、ティターンたちの戦意は容易く挫け、追い詰める側と追い詰められる側の立場は忽ち逆転した。


 同胞が次々と降伏し、そうでなければ雷霆の餌食となる中、一人だけ気を吐いていたのが、ティターンのアトラスだった。


 ウラノスの子であるイアペトスの長兄であり、強靭な肉体と無双の怪力を誇る彼は、ポセイドンの三叉銛にも屈せず、ヘカトンケイルの投げつける巨岩をも拳で叩き割り、徹底的に抗戦を続けていた。


 アトラスに関しては、怪力だけではなく強靭な生命力と不屈の精神も、またゼウスたちの悩みの種となっていた。


 ゼウスの雷霆の前に倒れぬ者などいない。


 ティターン側の戦意が著しく喪失したのは、その絶大な威力が彼らの間に浸透したからである。


 しかし、果たしてティターン随一の豪遊であるアトラスに通用するのか。


 万が一、雷霆で倒せなかったならば、どうなるか。


 死ぬとは限らないと知ったティターンが、再び勢力を巻き返してくるのではあるまいか。


 賢しきハデスの元、一計を案じたゼウスたちはアトラスに挑戦を呼びかけ、彼が出てきたところをポセイドンの三叉銛で大地を引き裂き孤立させ、次いで雷霆で周囲の「空間」を焼き切ることで即席の独房を作り上げ、そこにアトラスを閉じ込めた。


 それでも負けを認めないアトラスに対し、ゼウスは最後の手段を試みる。


「降伏しなければ、この場で弟のプロメテウスとエピテメウスに対して雷霆を使うぞ」


 弟たちを殺されては堪らんと観念したのか、それとも肉親の処刑を見せつけようというゼウスたちの非情さに身が震えたのか、ともあれアトラスはこの脅しに膝を屈した。


 ゼウスと彼の兄弟姉妹は勝利し、クロノスらティターンの生き残りをタルタロスに幽閉した。


 カムペーに代わる新たな番人となったのが、かつてタルタロスに幽閉されていたヘカトンケイルというあたりが、ゼウスなりの皮肉と言える。


 ティターンのうち数名は、ゼウスたちに逆らわなかったか協力した者として、タルタロス幽閉を免れた。


 ティターンではあるがゼウスたちの母でもあるレアー。


 アポロンとアルテミスの母であるレート―。


 先立って降伏していたプロメテウスとエピテメウスの兄弟。


 同じく早々に幸福を申し出ていた海流神オケアノスとその娘ステュクス。


 天空の監視者であるヘリオンと、その妹の暁の女神エーオース等である。


 意外なことに、免除者の中にはアトラスの名も加えられていた。


 ただし彼の場合は、最後までゼウスら新しき神々に抵抗した罰として、タルタロス幽閉を上回る苦行を課する為であった。


 即ち、世界の果てにて天空を背負い続ける役目である。


 不老不死であるが故に、いつ終息を迎えるとも知れぬ、追放以上の刑罰と言えよう。




 さて。





 巨人と呼ばれているわりには、背丈はそれ程でもない。


 大柄で、筋骨隆々とした逞しい偉丈夫ではあるが、その背丈は自分より若干高いという程度か。


 本当にこの男が、オリュンポスに住まう神々と祖を同じくし、主神たるゼウスに逆らい戦を起こしたティターンの生き残りなのか――と疑いたくもなる。


 だが、ヘラクレスはすぐに己の疑念を払拭した。


 以前に助けたティターン――プロメテウスも、自分と変わらぬ背丈だったではないか。


 その兄もまた人と大差なき姿であるというのは、恐らくはゼウスの御力によるものであろう。


 男は、異様なまでに両腕を大きく広げ、片膝を地につけ前屈したまま、微動だにしない。


 俯きながら、ただ同じ姿勢を取り続けているだけだというのに、厳つい顔に苦悶を浮かべる男の全身からは、珠の如き汗が絶えず流れ落ちている。


 衆人もいない荒野の只中で、このような意味の無い行為を続ける理由などあろうものか。


 否。


 この男が本物ならば、プロメテウスの兄ならば、世界の果てに一人でいる理由も、石造の如く微動だにしない理由も納得できる。


 ただ、その両肩に圧し掛かっているはずのものが目視出来ない。


「天空は、人間には目視出来ない。人間にとっての天空は際限なく広がり、何処から何処までが天空であると区別することが不可能だからだ。いや、捉えようとすること自体が、人間には出来ないのだ。無理に捉えようとすれば逆に天空に呑み込まれ、己を失う」


 プロメテウスは、こうも言っていた。


「天空とは天に瞬く星々やアポロンの司る太陽、アルテミスの司る月なども含めたすべて、それにオリュンポスの神々やティターン神族、キュープロクスやヘカトンケイル、全ての父とも言えるウラノスそのものだ。つまり、兄は世界の半分を担いでいるに等しい。よく圧し潰されないもんだよ」


 ヘラクレスは、ゆっくりと男に近づき声を掛ける。


「失礼する。汝はアトラスか?」


 問われた男は、顔を上げた。


「人間よ、定命のものよ……こんな場所で、こんな格好している奴が、他にいると思うか?」


 男――アトラスは言葉を続ける。


「いるとしたら、そいつはゼウスに誑かされた大馬鹿者だろうな」


 答えてから、くいと口の端を吊り上げる。


「私は」


「知っておる。ヘラクレスであろう?」


 ヘラクレスの言葉を、アトラスの声が遮った。


「獅子の毛皮を纏った屈強な若者で、しかもこんな僻地まで旅するような人間はヘラクレスか、さもなければよっぽどの大馬鹿者だけだ」


 その意味では俺に似ている、と付け加えるアトラスの額に、珠の汗が滲む。


 その通りではあるが、しかしどこか人を小馬鹿にしたかのようなアトラスの態度に、ヘラクレスは微かに不快感を抱いた。


 考えてみれば、この男は父ゼウスと敵対していたティターン随一の猛者なのである。


 はたして自分に協力してくれるであろうか。


 弟のプロメテウスは協力してくれたが、それはカウカーソス山の頂上に鎖で縛り付けられ、生きたまま大鷲に腸を啄まれるという責苦を受けていた彼を解放したからであって、特に恩義があるわけでもないアトラスが自分の願いを喜んで聞き入れてくれるとは、到底思えない。


「こんな所にまで、私の名は広まっているのだな」


「当然だろう。英雄ペルセウスの子孫である美女アルクメーネーと、オリュンポスの主神たる絶対神ゼウスとの間に産まれた英雄なのだからな……ところで」


 珠の汗が頬を伝い、顎の先端から地面に滴り落ちる。


「ゼウスは、お前の父でありながら、同時にお前の先祖ペルセウスの父でもあるという。これは一体どういうことなのだろうな? お前とペルセウスの関係は、子孫と先祖になるのか、それとも異父兄弟になるのか、どちらであろうな」


 父の好色を皮肉ったアトラスに対し、ヘラクレスの胸中では怒りの炎がむらむらと燃え上がっていた。


 己が右手には、双頭の怪物犬オルトロスを打ち殺したこん棒が握られているが、果たしてティターンに通用するものであろうか。


 否、とヘラクレスは頭を振った。


 自分が最果ての地まで旅してきたのは、この男を撲殺する為ではない。


 怒りに身を委ねるな。「また」狂気に陥るぞ。


 胸中で呟き己に言い聞かせようとするヘラクレスだが、アトラスの誹謗讒訴は留まるところを知らない。


「ゼウスは女を愛し我が子を愛するが、自分より早く生まれた神々に対する敬意や、美女以外の人間への愛情が著しく欠如しておる。我らの母たるガイアも、その瑕疵については心を痛めておられる。ゼウス自身が痛い目を見なければ改めないのであろうか、とも言っておられるようだな」


 そうは言われても、ヘラクレスにはガイアの恐ろしさが理解できない。

 ただ漫然と、そういう女神がいるのだ――と教えられてきただけである。


「ヘラクレスよ。お前は不義の子であるというだけでなく、産まれてからも父の正妻に迷惑をかけているのだそうだな。お前に不死の力を与えたいゼウスが、ヘーラーが寝ているうちにお前を抱えて寝室に忍び込み、不死の力を得る彼女の乳を吸わせたのだそうだな。まったく破廉恥なことをしたものだ」


「ティターンの勇者は、人が覚えてもいない赤ん坊の頃の行いを挙げて、辱めようとするのか」


「お前を責めておるのではない。お前の父を責めておるのだ。お前には、むしろ同情しておるのだぞ。何も知らないお前が、実の母と勘違いして無断で乳を吸った意趣返しにと、揺り籠に蛇を差し向けられたのだからな。もっとも、お前はそいつを絞め殺したそうじゃないか」


 これも、ヘラクレスは覚えていない。


 自分が覚えていないことでは、責められるのは勿論、褒められても良い気はしない。


「成人したお前はテーバイの戦士として活躍し、王の娘であるメガラーと結ばれたが、産まれた我が子と異父弟イーピクレースの子を炎に投じて焼き殺したそうではないか」


 やはり、それも伝わっていたか。


 ヘラクレスは嘆息した。


 当然と言えば当然だろう。この苦難に満ちた旅路も、元はといえばその事件が発端なのだから。


「お前はそれを、嫉妬に怒り狂うヘーラーにより吹き込まれた狂気のせいだと声高に訴えているが、彼女が嫉妬する原因はゼウスの溺愛と依怙贔屓ではないか。つまり大元を質せば、父が悪いのだ。何故彼を非難しない?」


「父親に逆らう子がいると思うか」


「神の世界では聞かぬルールだ。このアトラスは、天空神ウラノスの子イアペトスの長兄であり、同じくウラノスを父とするクロノスの息子であるゼウスとは似たような境遇だ。その俺から見れば、父親に逆らいタルタロスに閉じ込めておきながら、我が子には恩恵を与え己が手足にせんとするゼウスの行動は矛盾だらけ、まさに矛盾の塊よ」


「誰だって我が子は可愛いものだ」


「可愛さ余って殺す男もいる」


 アトラスの流す汗が、次々と大地に滴り落ちては吸い込まれていく。


 まあいい、とアトラスは話題を変えた。


「それよりお前だ、ヘラクレス。お前は子殺しの贖罪として神託を受け、ミュケーナイの王とかいう、つまらん輩に仕えることになった」


「エウリュステウス様は、つまらん輩などではない」


「嘘を吐け。奴がお前に相応しい王ならば、神託が下る前に仕えておるはずだろう? ともあれ、そのエウなんとかって奴が欲しがる物、解決したがっている問題の一切をお前にやらせることにした。それが十の偉業というやつだ。まずは、ネメアーの谷に棲む人食い獅子の退治だ。ここでゼウスは、お前に祝福を与えた」


「どこがだ」


 冗談ではない。


 あの獅子には矢もこん棒も通じず、最後は組みついて三日間に渡って首を絞め続けなければならなかったのだ。


 その間、絶えず獅子は暴れ続け、少しでも気を緩めれば忽ち組み付きから抜け出され、こちらが喰い殺されてしまう。筋肉に力を入れ続けたまま、ヘラクレスは始終その恐怖に耐え続けなければならなかったのだ。


「祝福であろう。その獅子を殺し、剥いだ毛皮を鎧として身に付けたことで、あらゆる打撃や弓矢を受けても傷つかなくなったのだからな。その先も続く偉業達成の手助けとしては、最適の祝福だ」


「残ったものを有効に使っただけだ。祝福ではない」


「どう使うのかは、問題ではない。英雄と呼ばれながら、そんなものを身に纏わなければ戦えないのかと皮肉っているのだ。そんなに刃や鏃が怖いのか」


「あいにく、俺は人間なのだ。ティターンとは違い、人間は傷つけられたら脆いし、時には死ぬこともあるのだ。だからティターンには無い知恵を絞って、身を護る為の防具を作っているのさ」


「こいつぁ一本取られた」


 意外にも、アトラスはやり返されたことに腹を立てるどころか、嬉しそうに笑った。


 その笑顔も、苦悶の汗を流してはいたが。


「だが、まだまだ。次のヒュドラ退治だが、こいつもお前一人の手柄とするわけにはいかんな。イオラオスとかいう従者が、首を斬り落としても再生するヒュドラ対策にと、傷口を焼く手口を思いついたからこそだ。その知恵が無ければ、お前もヒュドラの犠牲になっていたところだ」


「言っただろう? 人間は知恵を振り絞ると」


「褒めてやろう。お前ではなく従者をな」


「一本だけ残った不死の首を斬り落として岩の下に埋めたのは、このヘラクレスだ」


「首一本だけなら、英雄でなくとも始末できるさ。ここでもお前は、ヒュドラの毒を鏃に塗ることを思いついた。これも英雄にあるまじき行為だな。まぁ助太刀があったからという理由で偉業に加えられなかったというのは、同情に値するが」


「同情されるとは思わなかった」


「ヒュドラに正面から挑んだことは、賞賛に値するべきだろうよ……さてケリュネイアの牝鹿とエリュマントスの大猪については、どちらもありきたりな生け捕りだから、語ったところでつまらん。傑作なのは、アウゲイアースとかいう王の家畜小屋を掃除した話だな。かれこれ三十年も掃除してこなかった糞まみれの家畜小屋を一日で綺麗にしようと思いついたのが、小屋の近くを流れる河二つの流れを小屋の方へと変え、中身をあらかた押し流すという手口だ。ところが洗い流したのは良いが、河の流れを元に戻すのを忘れていたが為に洪水が頻発し、罰として偉業と認められなかったそうではないか。まったく、浅知恵は身を滅ぼすとはよく言ったものだ」


 認められなかった理由は、流れを元に戻さなかったからではない。


「家畜小屋を一日で掃除したならば、家畜の一割をくれてやろう。出来るのならばな」


 そういう賭けをアウゲイアースと行っていたのがばれたからなのだと、ヘラクレスは胸中で反論したが、別にアトラスに真実を告げる必要はない。


「ディオメデスという王が飼っていた、四頭の人喰い馬を連れ帰る偉業では、馬を満腹にする為にディオメデス自身を喰わせたそうだし、アマゾンの女王が持つ腰帯を持参するという偉業でも、結局は女王を殺しているではないか……王を殺してばかりだな」


「何が言いたい」


 アトラスは、怒りを含んだヘラクレスの声を無視して続ける。


「ここへ来る前に成した偉業も、ゲーリュオーンが飼っていた紅い牛を献上したのだったな。その時に殺したのが牛の番人と、番犬のオルトロス。ヘラクレスよ、お前の偉業は殺すか奪うばかり。まるで災害だな」


「全てはエウリュステウス様のご希望によるもの。さらに言うならば、オリュンポスの神託によるもの。なにも間違ってはおらぬ」


「ならば、偉業と賞される方がおかしいのだな」


「なんだと?」


「考えてもみろ。怪物退治も、お前が近隣の人間たちの為に行ったわけではない。子殺しという己の罪を浄化する為、さらに言うならば、そのエウリュステウスに命じられて行ってきただけではないか」


「それの、どこが間違っているというのだ」


「真の英雄とは、自分以外の誰かを救う為に物を奪ったり怪物に挑んだりする者のことであろう。罪の許しを乞う為、自己救済の為に行ったのであれば、とても偉業とは呼べん。殺された怪物たちも、いい迷惑だ」


「結果として、人の為になっているではないか」


「結果を求めるならば、洪水で苦しむ人間たちにはどう言い訳するつもりだ?」


 言葉も無い。後で元に戻すつもりだったというのも、詭弁に過ぎない。


「それで、此処へ来たのも新たな偉業の為というわけか。なんの用だ?」


 尋ねるアトラスの視線が、ヘラクレスの厳つい顔から、彼の手に握られているこん棒へと移った。


「そうか。今度は、俺をそいつで殴り殺せと命じられたか……止めておけ、俺の頭が砕ける前に、そいつが折れる」


 何故、そこまで豪語できるのか。


 不死といえども、殴られて聞かぬわけがないであろうに。


 そういえば、プロメテウスも不死のティターンであるが故に、鎖で縛りつけられ永劫の苦しみを与えられていたと聞く。


「そのつもりはない。あんたに聞きたいことがあって、わざわざ此処まで旅をしてきたのだ」


「俺だけが知っていることなど、ごく僅かに過ぎん」


「その、ごく僅かの一つについて聞きたい。へスペリデスの庭園がある場所だ」


「ほう!」


 意外そうな声に合わせるかのように、アトラスの露わな上半身が、微かに膨張する。


「聞いてどうする。まさか、行くつもりではあるまい?」


「その、まさかだ。へスペリデスの庭園に生えているという樹から、黄金の林檎を持ち帰るのか、今回の偉業なのだ」


「何故、俺が庭園の場所を知っていると思った?」


「そう聞いたからだ。黄金の林檎を求めるならば、ヘスペリデスの住む庭園へ行け。庭園の場所は、女主人ヘスペリデスたちの父親であるアトラスが知っているであろう、と」


「教えた奴が誰なのか、わかったぞ。娘たちからすれば、あいつは叔父にあたるからな。俺に聞けと言ったのも、ある意味当然か」


 プロメテウスからすれば、自分を解放してくれたヘラクレスに対する返礼のつもりなのだろう。


 ゼウスとキュープロクスの関係に近い。


「庭園の場所を教えてはくれまいか」


「嫌だね」


 汗を流しながら、にべもなく断るアトラス。


「ゼウスの息子に、娘の居場所を教える父親がいると思うか? 狂気に陥って我が子を殺すような英雄に、子どもの住居を教える親がいると思うてか」


「誓って、貴方の娘たちに手は出さない」


「信じろという方が無理だな。お前の父親は、そう断言できるだけのことをやってきた。それに庭園に行ったとして、ラードーンはどうするつもりだ」


「ラードーン?」


「我が賢しき弟は教えなかったのか。へスペリデスの庭園には、黄金の林檎の樹を見張っている番人がおるのだ。それがラードーンよ。百頭の大蛇と言われているが、実際に頭が幾つあるかは俺にもわからん。数えたことがないからな」


「ヒュドラと同類ということか」


「一つだけ確実に言えるのは、獅子やヒュドラのように容易くはいかんということだ。頭一つを叩き潰す間に、他の頭が一斉に襲い掛かってくるだろうし、ヒュドラなんぞとは比べものにならないくらい素早い。百対の目で絶えず黄金の林檎の樹を見張っておるし、奴に見つかったら最後、逃げ出そうと背を向けた時点で追いつかれ、全身に咬みつかれているだろうな」


「弱点は無いのか」


「あったとして、俺がそれをお前に教えると思うか? ――そうだ。教えると言えば、もう一つ難関がある。こいつは弟も知らぬはずだ」


「それは?」


「帰り道よ。ヘスペリデスの庭園は、陽の傾きによって道が変わる。来た道を逆に辿れば無事に戻れる、というわけではないのだ。出口までの正しい道のりを知っているのは娘たちだけだが、黄金の林檎を取りに来た奴に教えるわけがない」


「貴方の名を出せば、教えてくれるだろうか?」


「さぁな。それより、もっと確実な方法があるぞ」


 アトラスが、口元を微かに吊り上げた。


「聞こう」


「お前の代わりに俺が庭園へ行って、黄金の林檎を貰ってくるのさ」


「えっ!」


 意外な提案に、天にも届きそうな驚きの声を上げるヘラクレス。


「何を馬鹿な」


「まぁ聞け。父である俺ならば、娘たちも歓迎してくれるであろうし、ラードーンを嗾けてもこないだろう。欲しいと言えば、黄金の林檎もくれるだろうさ」


「そうは言うが、貴方は天空を担ぎ続けなければならぬ身だ。一体どうやってヘスペリデスの庭園に行くつもりなのだ」


「そこで、お前の出番だ。俺が庭園に行っている間、俺の代わりにこの天空を担いではくれんか」


「ええっ!」


 今度こそ、ヘラクレスの声は天に届いただろう。


 また途方もない交換条件である。


「それは困る。それでは偉業にならない」


「そんなことはあるまい。王が命令したのは、黄金の林檎を取ってこいというだけであろう。一人で行ってこいとも、ラードーンを倒せとも言わなかったはずだ」


「それはそうだが」


「ならば、お前の代わりになる者を派遣したとしても咎められることはあるまい。俺は、娘に何をしでかすかわからぬゼウスの息子に、娘たちがいる庭園を荒らされたくはないのだ。だから代わりに黄金の林檎を取ってきてやろうと言っているに過ぎん。上手くいけば、双方望みを果たせるのだぞ」


「それはそうだが」


 ヘラクレスは逡巡した。


 アトラスの提案は確かに魅力的だが、それでは自分がラードーンを懼れてアトラスに任せたことになりはしないだろうか?


 代理として、怪物の棲む地へ他者を派遣することは、臆病者のする行為ではなかろうか?


「それとも、お前には天空を担ぐだけの力も度胸も無いのか。ヘラクレスともあろうものが、天空に圧し潰されることを恐れるのか」


「なんだと」


「考えてみろ。俺と入れ替わることで、お前は天空を担ぐだけの怪力と、この怪腕アトラスを代行させたという智慧を、遍く天下に知らしめることが出来るのだぞ」


「智慧」


 その言葉は、ヘラクレスにとって甘い蜜の如き誘惑となった。


 アウゲイアースの家畜小屋掃除では、智慧を使ったつもりが洪水を引き起こし、アマゾンの女王ヒッポリュテーの腰帯は、交渉だけで平和に収まるはずだったものを、誤解から無実のヒッポリュテーを殺めてしまった。


 どちらも、自分があの場で熟考し最善の手段を導き出してさえいれば、被害は出なかった筈である。


 世間は、さぞかしヘラクレスの浅慮を嘲笑っていることだろう。


 ヘラクレスの胸中で「彼らを見返してやりたい」という強い気持ちが、アトラスへの警戒を上回ってしまった。


「よし。まずは、その天空を担いでみせよう」






 英雄であろうと、己の軽率さを呪いたくなる時はある。


 天空は、目で捉えなくとも確かに存在することを、その背と双肩にズシリと圧し掛かる桁外れの重量により痛感するヘラクレス。


 胸の内で――これでもう、何も知らず自由に世界を歩き回ることは出来なくなったのだな、という不可思議な理解と納得が、ごく自然に流れ込み融和していた。


 カウカーソスの山頂に縛り付けられたプロメテウスが、再生する腸を生きたままハゲワシに啄まれる拷問を受け続けていたそうだが、彼の兄もまた凄烈な責め苦に遭わされていたのだ。


 天空は、ヘラクレスがこれまでの半生で知り得たもの全てより、遥かに重い。


 ネメアーの獅子を絞め殺し、クレタの牡牛を捻じ伏せたヘラクレスですら、肩に乗せたまま両手で支えるのが精一杯である。


 何故、片膝を地に付けたままなのか。立ち上がろうとしないのか。


 気がつけば、そう小馬鹿にしていたアトラスと寸分違わぬ姿勢のまま、硬直したかのように動けない自分がいた。


 アトラスが戻ってくるまでの間とはいえ、果たして自分がどれだけ支え続けていられるものか。


 ただ重い、というだけではない。


 動けぬヘラクレスの耳に入ってくるのは、天空を駆け巡る疾風と共に流れ、時折彼の耳朶に流れ込んでくる人々の声。


 その多くは飢えと貧しさに苦しみながら生きる者たちの苦悩や、世間に対する怨嗟ばかりである。


 ごく稀に、恵まれた環境に生きる富裕層の、オリュンポス十二神を讃える歌声も混じってはいるものの、貧者の赤誠な声を同時に聞いているヘラクレスにとっては、薄っぺらな感情の込められていない雑音にしか聞こえない。


 これらの聞き流せぬ声も、またヘラクレスを懊悩させていた。


 少しでも気を緩めようものなら、忽ち肉体と精神が天空の重みに圧し潰されそうになる。


 耐えながら、ヘラクレスは己の傲慢を詰り、後悔していた。


 何故、軽率に身代わりを引き受けてしまったのか。


 自分ならばアトラスの代わりが出来る、などと思ってしまったのか。


 傍から見るのと自分でやって見せるのとでは大違いなのだ。


 天空の風と共に流れ込んできた声の一つに、「俺ならば、ネメアーの獅子など一晩で絞め殺していただろうに」と力自慢が豪語していたではないか。


 あれと同じだ。労苦や腐心を知らぬ愚か者であるからこそ、偉そうに言えるのだ。


 アトラスは、父ゼウスとの戦いに敗れてから今まで、ずっとこの重圧に耐え生き永らえてきたのか。


 自分には、アトラスが帰って来るまでという条件が付いており、それがこの責め苦から解放される瞬間であるとも知っている。


 だが彼は、黄金の林檎を手に帰還してからも、またこの重圧を担がなければならぬ運命にあるのだ。


 憐憫より先に、それまで予期しなかった不安がヘラクレスを襲った。


 アトラスは、本当に戻ってくるのであろうか?


 再び、このような苦しみを味わう為に戻ってくるものだろうか?


 ここは西の果て、訪れる者も稀な荒野である。


 アトラスがそのまま東の果て、いやギリシャの何処かに出奔したとしても、ヘラクレスにはそれを知る術が無い。


 唯一の望みは、天空の監視役であるヘリオス神による告知ぐらいだろうが、縦しんばその事実を知ったからといって、アトラスをこの場に連れ戻す手段があるだろうか?


 何故、アトラスの代行を認めてしまったのか。


 庭園の場所を知っている者は、彼一人だけではなかったはずだ。


 己自身が、はるばる西の果てまで旅を続けながら空振りに終わった――などと人々に言われたくなかったからではあるまいか。


 否。


 横着は、此処までの行程だけではない。


 アトラスの提案を受け入れた自分は、本当は楽がしたかっただけではなかろうか?


 この状況は、恐ろしきラードーンと戦うよりも、こちらの方が容易であろうと思い込んでしまった自分に対する、罰なのではあるまいか。


 そして、アトラスがこのまま行方を眩ませてしまえば、未来永劫この罰は続けられることとなる。


 もしそうなったならば、と苦悩したヘラクレスの体内に、失望と怒りが湧き上がる。


 アトラスが嘘を吐き逃げ出したのならば、今すぐにでも彼を見つけ出し、天空を担いでいた方がましだと思うくらいの目に遭わせてやりたい。


 しかし今のヘラクレスは、その天空を担ぎ支える身である。


 到底脱け出せないし、脱け出すわけにもいかない。


 彼にここでヘラクレスが渾身の力を振るい、天空を持ち上げ脱け出せば、世界は一体どうなってしまうのか。


 支えを失った天空は大地に激突し、ギリシャどころか世界全体に地割れや津波が発生し、戦争などとは比べものにならない数の死者が出ることだろう。


 どれだけ苦しかろうと、どれだけ罵られようと、脱け出すわけにはいかないのだ。


 とにかくアトラスを信じて待つしかないのだ。


 覚悟を決め、やはり額から珠の汗を流しながら耐え続けるヘラクレスだが、時が経つにつれ、己に関する意外な事実に気がついた。


 今まで、このような時間を持ったことがあっただろうか。


 神の為に祈り、国の為に戦い、家族の為に働き続けていたヘラクレスにとって、一ヶ所に留まりじっとしているのは、新鮮な感覚とも言えた。


 もちろん、王であり義父でもあるクレオーンや、現在の主と言えるエウリュステウスの到着を待っているようなことはあったが、二人ともヘラクレスを長々と待たせるような人物ではないし、その際にヘラクレスが考えていることは、彼らからかけられる言葉や命令についての想像や憶測である。


 出来ることが見ること聞くこと耐えること、そして考えることぐらいしかなくなってしまったヘラクレスは、ふと己の所業――特に自分が成してきた偉業について省みることを思いついた。


 アトラスの指摘にも、正しいところはある。


 時には他人の手を借り、時には自分にとって手間が掛からない手段を取った挙句、自分は結果的に周囲に被害を及ぼし、時には偉業達成の為に排除すべき障害として手に掛けてきたのではないか。知恵を絞り、もっと穏健な手段を探り出すべきではなかったか。


 そもそも、本当に十の偉業を果たすことが、贖罪に繋がるのだろうか?


 結局のところ、凡人には到底達成し得ぬことを行い名声を高めることで、己自身と周囲の視線を、我が子殺しの事実から遠ざけようとしている「欺き」なのではあるまいか?


 最終的にはヘラクレスとエウリュステウスを利するのみで、殺された我が子と甥の魂が、本当に救われるのか。


 罪は、ヘーラーに吹き込まれた狂気と同様、ヘラクレスに生涯付きまとって離れないものなのではなかろうか? だとすれば、これ以上無駄な血を流すべきではないのではなかろうか。


 天空の途方もない重さに耐えながら、内省を続けるヘラクレスを現実に引き戻したのは、ずしんずしんと大地を揺らしながら、此方へと近づいて来る者の足音だった。


 足音の主は、確かめるまでもない。


「よお、生きてるか」


 ヘラクレスは、出発前とは別人――別神のように晴れ晴れとした表情のアトラスを仰ぎ見ながら、信じて良かったと安堵した。


「遅かったじゃないか」


「お前が行っていたならば、遅いでは済まされなかったぞ」


 ヘラクレスが詰ったところで、アトラスは恐れもたじろぎもしない。


「娘たちは、俺以外の誰かが来たならば問答無用でラードーンを嗾けるつもりだった、と言っていたからな。あの様子では、出口を教えてくれることもあるまい。大方、ヘーラーあたりに吹き込まれたのだろうよ」


 豪快に笑いながら、天を担いだまま動けないヘラクレスの眼前に、握り拳大の果実――「黄金の林檎」を置くアトラス。


 彼が持ってきた「黄金の林檎」は、ヘラクレスの知る赤や青の林檎とは違い、黄金色に輝く球体の表面は凸凹しており、軽く握っただけでも潰れてしまいそうである。


 アトラスの手は止まらず、さらに同じものを立て続けに二つ、合計三つの黄金リンゴを地面に置いた。


「一つで良いのだが」


「その天空を担いでいる間に、折角手に入れた若返りの妙薬を帰還中に横取りされた、ギルガメッシュという英雄の嘆きを聞いたことがあったのでな。そいつと同じ過ちを犯したくなかったのだ。」


 初めて聞く名前である。


「時間が掛かったのは、ラードーンが手強かったからか」


「俺の話を聞いていなかったのか。ラードーンは大人しいものだったぞ。蛇とはいえ、賢いものだ。飼い主の父を覚えていたらしく、百頭いずれも俺を襲う素振りすら見せなかった」


「それならば、黄金の林檎は簡単に手に入ったのではないか。どうしてこんなに時間が掛かったのだ?」


「久々に再会した親子だぞ? 数日泊りがけで歓待を受けたに決まっておるだろう。まったく、ゼウスは娘に手が早いくせに、その息子は親子の情に疎いのか」


「それは関係なかろう」


 今さらながら、父親の女好きを揶揄され、苦悶の表情を浮かべているヘラクレスの顔が朱に染まった。


「まぁ庭園までの道中、弟達とも会っていたからな。多少は遅くなったかもしれん」


「弟たち? プロメテウスとエピテメウスのことか」


「そうだ。その前に、ちょっと思いついてレルネーの沼地にも行ってみた」


 ヘラクレスが、ヒュドラを退治した地である。


「ヒュドラの身体は、骨しか残っていなかったな。近くに大きな岩があったのだが、あの下に不死の首が埋まっているのだろう? 持ち上げて直接見てやろうかとも思ったが、面倒臭いから止めた」


 天空を担ぐ剛力アトラスである。ヒュドラの首を埋めた岩など、片手で容易に持ち上げてしまうだろう。


「お前に踏み潰された大蟹の死骸も見つけたぞ」


「なんだ、それは。知らないぞ」


 ヘラクレスには、蟹と戦った記憶が無い。


 そういえば、ヒュドラと戦っている最中、何かぬるりとしたものを踏んだような覚えがある。


「やれやれ。弱き者の死は、英雄の視界にも入らぬものか。そこを離れてから弟たちに会ったのだが、プロメテウスはえらく驚いていたぞ。天空はどうしたのだと尋ねてきたので、代わりにお前が担いでいると教えてやったら、天を仰いで嘆息しておった。英雄とはいえ、人間が天空を担いでいるなどと知れたら、如何に彼の父ゼウスであろうと良い顔はすまい……だそうだ」


 そうは言っても、ヘラクレスにアトラスの居場所を教えたのは当のプロメテウスだし、彼ならばこうなることを予見できたのではあるまいか。


 プロメテウスの矛盾を気味悪く思ったものの、アトラスの帰還を喜び気が緩んだヘラクレスに、それを追求する余裕は無い。


 一抹の不安を抱えながらも、ヘラクレスは声を絞り出す。


「ともあれ、黄金の林檎を持ち帰ってきてくれたことには礼を言おう。それでは、俺と交替してくれ。俺はミュケーナイに戻り、そいつをエウリュステウス様に献上しなければならんのだ」


「それなのだが」


 ほうら、来た。


 一抹の不安が的中したと、ヘラクレスは胸中で舌打ちした。


「どうせなら、俺が黄金の林檎をエウなんとかという王に届けても良いとは思わんか?」


「何故に?」


「ものはついで、という言葉があるだろう。それに、俺がお前の代わりに届けるならば、それだけ俺が自由でいられる時間が増える」


 やはり、アトラスは天空を担ぎたくはないのだ。


 このままでは、彼がエウリュステウスに黄金の林檎を献上したとしても、そのまま行方を眩ますに違いない。そうなったら、ヘラクレスは未来永劫、天空を担いでいなければならなくなる。


「なぁに、王から新たな偉業を命じられたとしても、俺ならば果たせるだろうさ」


 これは、秘かに考えていた策を実行に移すべきだ、とヘラクレスは決意した。


「そいつは有難い話だ。貴方なら、怪物だろうが百万の軍勢だろうが、ものの数ではないだろうからな。代わりにこのまま天空を担いでいるだけというのであれば、俺としても悪くない条件だ」


「そうであろう?」


 うむ、と頷いてから、ヘラクレスは今まで以上に沈痛な表情を作った。


「ただ、黄金の林檎を届ける前に、教えてもらいたいことがある」


「なんだ?」


「貴方と交替して天空を担いだ時、どうも首の傾け加減を間違えたらしく、痛むのだ。これまではじっと耐え続けていたが、これからも続くとなれば、いずれ首が折れてしまう。正しい担ぎ方を教えてはくれまいか?」


「そんなことか」


 地面に置いた黄金の林檎に伸ばしていた手を止め、アトラスは小馬鹿にしたかのような顔つきでヘラクレスをねめつける。


「首で支えていたら、痛めるのは当然だろう。良いか、天空の重さは両肩で受け止めるのだ。それと、下から手を使って持ち上げようとするな。両手は、左右から天空を支える為にのみ使うのだ」


「何を言っているのか、よくわからん」


「だから肩と両手を、こうしてだな」


 眼前で天空を担ぐポーズを取って見せたアトラスに、ヘラクレスは横槍を入れる。


「こうしてと言われても、その毛皮ではよく見えん」


「それもそうだな」


 納得したアトラスは、獅子の毛皮を脱ぎ捨て、再び同じポーズを取ったが、それでもヘラクレスは「ううん」と唸る。


「その手の位置は、本当に正しいのか? 言っては悪いが、貴方が思っていることと説明の内容が一致していないのではないか?」


「理解できんお前の頭が悪いのだ」


「そうかもしれんな。そのせいで、今まで何度も失敗している。どうだろう、この非力で頭の悪いヘラクレスに、ひとつ手本を見せてはくれまいか?」


「良かろう」


 卑屈に頼み込むヘラクレスを見下しながら、大地に片膝を付くアトラス。


 その両肩へと天空を移したヘラクレスは、立ち上がるなり獅子の毛皮と黄金の林檎を拾い上げた。


「なんのつもりだ、人の子よ」


「最初の約束を忠実に実行したまでだ、ティターンの豪勇よ。俺は、二度とその天空は担がんぞ。その任は、一生お前のものだ」


「あっ!」






 哄笑を上げたのは、意外にもアトラスの方が先だった。


「やりおるな、ゼウスの息子。しかし、いずれにせよ勝者はこのアトラスだ」


 ヘラクレスの策に引っ掛かり、再び永遠の責め苦に遭う身に戻ってしまったというのに、それすら瑣末なことであるかのように勝ち誇るアトラス。


「久々に担いだが、やはり重いな。人の身でこれに圧し潰されず支え続けていたのだから、偉業に加えられるのも頷ける話だ。しかし短期間でも讃えられるのならば、永劫担ぎ続けているこのアトラスの怪力は、どう褒め称えられるのであろうな」


 まるで他人事のように語るアトラスの余裕は、ヘラクレスにとって不気味でさえある。


「まあ、悪くは言われないであろうな。お前の好色な父親や嫉妬深い義母に比べれば、ましであろう」


「何故だ?」


 内心の動揺を隠そうともせず、アトラスに尋ねるヘラクレス。


「何故、そう笑っていられる? 貴方は、もう二度と解放されぬ身となったのだぞ。笑うより、このヘラクレスに対し怒り面罵するのが先ではないか?」


「ゼウスの子よ。何故ならば、お前は俺を出し抜いたつもりだろうが、実際のところは俺、このアトラスの方が賢しいのだと証明されたからだ」


 ヘラクレスには、意味がわからない。


「おかしなことを言うな。こうして俺の策に嵌り、動けなくなっているではないか」


「確かに、天空の重きから逃れることは叶わなかった。それでも、勝者はこのアトラスに変わりあるまい」


 ますます意味がわからない。


「娘たちから歓待を受けた。それは事実だが、到着が遅れた理由の一つに過ぎぬ。実は、此処を発ってから庭園に辿り着くまでの間に、色々と寄り道していたのだ」


「寄り道?」


「そうだ。両肩と首、背中に掛かる重圧から解放されると、あんなにも気分が良くなるものなのだな。清々しさに浮かれた俺は、ついあちらこちらを訪ね回ってしまった。その獅子の皮は頑丈だが、温かくもあるだろう? どれほどの寒さに耐えられるのか気になったので、北へと行ってみたのだが、其処に棲む霜の巨人とやらと揉めて、ついこん棒で叩き殺してしまった」


「えっ!」


「やはり北の地は良くないな、気性の荒い連中が多い。その点、南方は穏やかなものだ。道中の集落で食い物を奪い、生き物を殺しまくっても、怯えるだけで何もしてこなかった」


「なんと!」


「西を出発して北へ行き、南に移動したとくれば、残るは東だ。東の果てには、オリュンポスの神々ですら名を知らぬ、我々とは源を異とする神々がおるのだ。彼らとは気が合い、楽しく語り明かしたぞ」


「なんということを」


 事実ならば、いずれも神々に裁かれるべき罪業である。


「それからもしばらく歩き回っていたが、さすがにお前に悪いと思ったのでな。多少時間はかかったが、寄り道せずに庭園に向かった。庭園を出てからは、むしろ早足で戻ってきたぐらいだ」


「何が、お前に悪いと思ったのでな、だ。俺は、貴方にそのような悪行を働かせる為に交代したのではない!」


「そうとも。しかしお前は、ラードーンと戦ったり俺の娘たちから道を聞き出したりすることより、俺を身代わりとして送り込むことを選んだ。俺とお前は体格が似ているし、共に怪力自慢だからな。ところで、お前に良く似たこのアトラスが、獅子の毛皮を身に纏っていたとしたら、何も知らない人間はアトラスと思うだろうか?」


 あっとヘラクレスは声を上げた。


「気付いたようだな。数々の悪行とやらは、アトラスではなくヘラクレスの行いになる」


「馬鹿な。俺は何もしておらぬ」


「では、ヘラクレスに良く似た男が世界中を荒らし回っていた間、本物のヘラクレス様は何処で何をしておられたのかな?」


 天空を担いでいた、と言いかけたヘラクレスは、その言葉を呑み込む。


「天空を担いでいる代わりに、俺を庭園に行かせたわけだ。何故、俺を行かせたのか。自分で取りに行くのが難しいと思ったからだ。違うか?」


「その通りだが、代わりに行ってやろうと言い出したのは貴方だ」


「提案したのは確かに俺だが、決断したのはお前だよ、ヘラクレス。俺の案を断って、庭園への道を自力で探し出し、ラードーンを倒したうえで、知恵を振り絞って帰り道を見つけ出すという選択もあったはずだぞ」


「出来るわけがなかろう」


「何故だ?」


 地に片膝を付き、天空の重圧に耐えながら、顔を上げヘラクレスを睨みつけるアトラス。


「出来る、出来ないではあるまい? 十の偉業を果たす目的は、敢えて艱難辛苦に立ち向かい打ち勝つことで、子殺しの贖罪とするのであろう? それなのに、お前はラードーンとの戦いや庭園からの帰路捜索を避け、身代わりを立て楽をしようと試みたわけだ。それが、贖罪になる思うか?」


「それは違う。代わりに天空を担ぎ続けることで、偉業になると思ったのだ」


「今までの偉業は、王に命じられて行ってきたのだろう? 自分で決めて行ったものは、果たして偉業に含まれるべきなのか? 含まれるというならば、河の流れを変えて洪水を起こしたことと、飼い主を餌にしたことは、偉業に含まれるのかな?」


 アトラスの詰問は、矢の如くヘラクレスの魂を貫いた。


「そういえば」


 アトラスは、ヘラクレスの驚愕に目もくれず語り続ける。


「アンタイオスという力自慢とも戦ったな。旅人を見つけては格闘を挑み、大地に打ち倒しては殺していたらしい」


 力自慢と聞いたヘラクレスは、ネメアーの獅子などひと晩で仕留めると豪語していた力自慢を思い出した。


 よもや、あの声の主がアンタイオスだったのではあるまいか。


「天空を担いでいると、世間の声が耳に届いてくることがあるだろう? その声の中に、アンタイオスは不死身であるが、ただしそれは地面に手足が触れていなければならぬという話が混じっていてな。奴の挑戦を受けた俺は、何度か奴を殴り倒し、地面に叩きつけ、その噂が真実であることを確かめた」


 ヒュドラの首と同じ、ということか。


「奴は大地に倒れる度に、何事も無かったかのように元気を取り戻し、襲い掛かってきた。これではこちらが疲れるだけだと思った俺は、覚悟を決めて正面から奴に抱きつき、胴に腕を回して持ち上げた。地面に足が届かず宙吊りになったアンタイオスは、俺の縛めから逃れようと両の拳を振り回し、盛んに顔を殴りつけてきたが、怯んで腕を解くようなアトラス様ではない。逃すものかと筋肉を膨張させ、ぐいぐいと力任せに絞め続けているうちに、奴は血を吐いて動かなくなったよ。どうやら背骨とあばら骨を砕いてしまったらしい」


 ヘラクレスすら驚嘆する怪力である。


 天空を担ぎ支えるほどの力で絞めつけられたのだ。たとえアンタイオスの両足が地に着いていたとしても、果たして耐えきれたかどうか。


「聞けば、アンタイオスはポセイドンの息子だというではないか。ひと言伝えておくべきだろうと、オリュンポスの宮殿に向かったのだが、どういうわけか十二神は揃って留守にしておった。仕方がないので、厨房で我々神たる者の食物アムブロシアを喰い、神酒ネクタルをたらふく呑んだ。久々に口にしたが、やはり味は格別だな。アンタイオスに殴られてできたたん瘤も、忽ち癒えてしまったぞ」


「盗みではないか」


「誰か見る者がいたら、そう思っただろうな。そして戻ってきた神々に告げ口するだろう。犯人は、ヘラクレスであると」


「濡れ衣だ。俺はやっていない」


「獅子の毛皮を身に纏い、オリュンポスの宮殿に足を踏み入れる度胸のある者など、ヘラクレス以外におるまい。つまりこれも、ヘラクレスの偉業と讃えられるのであろうな」


 冗談ではない。泥棒が、偉業になるものか。


「その代わり、オリュンポスの神々からは嫌われることだろう。特にヘーラーからは、今まで以上に嫌われる。只でさえ、亭主が浮気して出来た子として憎まれているというのに」


 可哀想になぁ、とわざとらしいため息を吐くアトラス。


「おお、そうだ。オリュンポスを離れてから、方々で女を口説き、時には力づくでモノにしたぞ。何年か経ったら、ヘラクレスの息子や娘を名乗る子供が、世に数百と現れるだろうな。お前の評判は、父と同じように惨落するだろうて」


「何を言うか。このヘラクレスは、英雄としてギリシャ中の人々から尊敬され慕われておる。たとえ偽者の子であろうと、ヘラクレスの子であることを恥じ、父を憎むような子などあろうはずがない!」


「何が尊敬され慕われている、だ。笑わせるな。お前の場合は、敬して遠ざけられている、というのだ。人間たちは皆、お前の内に潜む狂気を恐れ、近づこうとせんではないか」


 痛いところを突かれたヘラクレスは、すぐには直ぐには反論の言葉が思い浮かばない。


 現にエウリュステウスなどは、ネメアーの獅子の皮を剥ぎ取り鎧にしたヘラクレスの姿に怖じ気づき、巨大な甕の中に逃げ込んだとまで言われている。


「俺が旅をしている間、何処で誰を殺そうが、それを咎める者は一人もいなかった。誰もが皆、お前の狂気の犠牲になりたくはないと、自ずから関わり合いになろうとはしなかったようだな。まったく、ヘーラーの呪いが思わぬところで俺の役に立ったものだ」


「そうだ、俺の狂気はヘーラーが吹き込んだものだ。皆が俺を遠ざけるのも、元はといえばヘーラーの嫉妬が原因なのだ」


「それを言うならば、正妻がいる身で方々に愛人を作り、数多の乙女を孕ませてきたゼウスが悪いのではないか。奴の女好きが、奴の子として世に産まれてきた子どもとその母を苦しめておるのだ。違うか?」


「しかし、子の中には平穏な人生を送っている者もいるのではないか? いや、もちろん浮気は良くないのだが」


 ヘラクレスの弁護を、しかしアトラスは鼻で笑い飛ばす。


「おおヘラクレスよ、いや人間よ。お前はゼウスに対する警戒が薄すぎる。あれは人だろうが神だろうが、一時の感情だけで躊躇なく殺める。それ以上の問題は、奴を咎める者が正妻と実母しかおらぬ、という点だ」


「神の神たる父ゼウスだぞ。そう軽率な行動を取るはずがあるまい」


「ならば、お前の狂気に対して尋ねよう。ヘーラーが吹き込んだというが、神の神たるゼウスならば、狂気を抑える方法ぐらいは知っているはずだ。何故、それをお前に教えないのか? それどころか、お前も含めて誰も解決法を見つけようとしないのは、一体どういうわけなのだ?」


 両眼を大きく見開き、汗を流しながら天空を担いでいるアトラスを凝視するヘラクレス。


 言われてみれば、確かにアトラスの言う通りだ。どうして自分は、狂気に侵された我が身を嘆きながら、それを解消する方法を探そうとはしなかったのだ?


 頭の中が渦巻いたヘラクレスの動揺をよそに、アトラスの追及は止まらない。


「ゼウスがアフロディーテを自分の娘としている、これもおかしいと思わんか? 聞けば、かの娘は、ウラノスの斬り落とされた陽根が泡となって誕生したというではないか。そのような与太話があってたまるか。あれの正体は元始の娘、我らが母の母たるガイアに比肩する神の末裔に違いあるまい。それを知るゼウスは、己が玉座を脅かす力のある者であると他者に知られたくないが故、アフロディーテを自分の娘と認定したのだろう」


「まさか」


 アトラスの妄言を笑い飛ばそうとしたヘラクレスだが、顔が引きつり強ばって、まともな笑顔が作れない。


「爾来、オリュンポスで起こっている騒動の大半は、ゼウスとポセイドンが原因ではないか。他の神々もそれに不満を持ってはいるが、皆ゼウスの雷霆とポセイドンの三叉銛を恐れて、何も言えぬらしいな」


「そんなわけあるか」


「ゼウスの父クロノスは、生まれた我が子に地位を奪われると予言され、ゼウス以外の我が子を残らず呑み込んだ。そのクロノスを追放したゼウスも、やはり母の母たるガイアから、最初に生まれた子が男子ならば地位を奪われると予言され、懐妊した妻メーティスを呑み込んだという。己の父と同じ愚行をやらかしているではないか」


「黙れ」


 オリュンポスの神々、そして自分に対する侮蔑を止めようとしないアトラスを一喝し、ヘラクレスはこん棒の柄を強く握った。


 それを察したのか、アトラスの口の端が吊り上がる。


「荒涼たるこの地を訪れた時に言ったはずだぞ。こん棒でいくら俺の頭を殴ったところで、そいつの方が先に砕ける、とな」


 確かに、このティターンはそう言っていた。


 しかも、ヘラクレスは今まで天空を担いでいたことで疲弊している。先に音を上げるのは、ヘラクレスの方だろう。


 ならば。


「ヒュドラの毒矢を使うつもりなら、止めておけ」


 まるで心の内を見透かしたかのように、先手を打ってくるアトラス。


「ヘラクレスよ、お前はこれ以上罪業を重ねるつもりか?」


「貴方を殺すことが罪になるというのならば、甘んじて受けよう」


「それだけではない。今ここで俺を殺せば、いや力を弱めただけでも、お前は天を大地に叩きつけた罪を負うことになるぞ」


「どういう意味だ?」


「考えてもみろ。俺が死ぬか、天空を担ぐ力を失えば、支える者がいなくなった天空は大地に激突するだろう。大地は割れ津波が起こり、火山は軒並み噴火するだろう。命を落とす人間の数は、それこそ天空の星々にも匹敵するだろう。お前の妻や母親とて、その災厄からは逃れられぬ」


 うっと息を詰まらせるヘラクレスに対し、アトラスは言葉を続ける。


「無論、オリンポスとて無事では済まい。その罪の重さは、我が子殺しの比ではなかろう。二度と英雄などとは呼ばれなくなるが、それでも構わぬならば、ヒュドラの毒矢を試してみるがいい」


 如何に怒り狂ったところで、アトラスを殺すわけにはいかない。


 殺せば、自分が今まで築き上げてきた全てを失う。


 その事実に気づき、がくりと膝をついた英雄ヘラクレスの目線が、アトラスと同じ高さになる。


 傲慢にも勝ち誇る、アトラスと同じ高さに。


「こうなることがわかっていたからこそ、俺はこの荒涼たる西の果てに戻り、お前の策に嵌っても怒らなかったのだ。俺が再び天空を担ぐことになろうと、俺の代わりにお前が担ぎ続けることになろうと、どのみち俺が勝者となることに変わりはないからな。何故ならば、お前は既に天空を担いでいるからだ。俺が死ねば、この場にいるのはお前一人だけ。俺の代わりに、お前が天空を担ぎ続けなければならん。しかし、そうなると一体誰が黄金の林檎をミュケーナイの王に届けるのだ? 従って、お前は絶対に天空を担ぐわけにはいかないし、その為には絶対に俺を殺すわけにはいかない。同時に俺の罪業はヘラクレス、お前の行いとしなければならない。何故ならば、俺はお前の頼みを聞き受けて、娘たちの住む庭園に向かったのだからな。道中で何か起ころうと、それは全てお前の責任になる」


 どうにか反論したいヘラクレスだが、その為に必要な言葉が思いつかない。


「わかるか。俺を殺せば、人間の世界が危機に陥る。オリュンポスの神々はさして気にせぬであろうが、人間であるお前はそうもいくまい。俺には絶対に手を出さぬとわかっていたからこそ、道中でヘラクレスの名を騙って悪事を働いたのだ。ゼウスは俺を苦しめても殺そうとはせぬ。万が一、奴の雷霆で俺を殺せなかったと知れ渡れば、つまり雷霆でも滅ぼせぬものが存在すると知れようものなら、必ずや神々たちが相次いで反乱を起こすだろう。その中には、オリュンポスの神々も含まれているかもしれん。ゼウスとしては、そのような危うい橋は渡りたくないのだ」


 しかしアトラスの熱弁は、ヘラクレスの耳には届いていなかった。


 正確には、話の後半を聞いていなかったのである。


 迂闊だった。アトラスを甘く見ていた。


 力自慢相手に賢しさを披露しようなどと、考えるべきではなかったのだ。


 足元を掬われ、己の悪評を広めてしまっただけではないか。


「さて、天空を担ぐ苦しみをお前に押し付けることが出来なかったのは残念だが、ゼウスに対する意趣返しも出来たことだし、ここらで良しとしておこう。ヘラクレスよ、人の子よ。黄金の林檎を手にミュケーナイへ戻り、エウリュステウスに献上するが良い。その為に、お前は荒涼たるこの地を訪れたのだからな……遠き親戚として忠告しておくが、妻のいる身で女に惚れるなよ。必ずや、災厄が降りかかるからな」






 この後、見事十二の偉業を成し遂げたヘラクレスはオイカリアとの戦争に参加し、王女イオレーを捕虜にしたが、彼女の美しさの虜になってしまう。


 ヘラクレスの、当時の正妻だったデーイアネイラは夫の寵愛を失うのではないかと不安になり、ケンタウロスに騙され惚れ薬と思い込んでいた毒薬を夫の下着に塗り込んでしまった。


 毒付きの下着を身に付けたヘラクレスは、毒の苦しみに耐えきれず、自らの手で焚死したという。


 後年、英雄ペルセウスがメドゥーサの首を使い、天空を担ぐアトラスを石に変えたとも伝えられているが、冒頭で述べた通り彼はヘラクレスの祖先にあたるので、この話とは矛盾する。


                                  (了)

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アトラスの傲慢 木園 碧雄 @h-kisono

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