婚約破棄に備えた令嬢が、結果的に婚約破棄されるも、ダメージゼロだった話

 

 つらい時に、誰か頼れる人はいますか?

 頼れる人と聞いて、すぐに家族の顔が思い浮かんだ人は、環境に恵まれているかもしれない。

 私の場合、残念ながら父に助けを求めることはできなかった。


 * * *


 社交界で「イルザ・フォルシー伯爵令嬢に何か問題はある?」と私のことが話題に上ったならば、おそらく全員が「おかしなところはないわ」と答えるだろう。「イルザさんの実家は堅実で、お母様はだいぶ昔に亡くなっているけれど、ご当主であるお父様は健在けんざい――ご家族は皆さん常識的だし、何も問題はないと思うわ」と――たぶん皆はそんなふうに語るはず。


 けれど私と父のあいだには、まるで冷たい大きな川が流れているかのようだった。

 いつだって父は私に冷ややかだったし、私も父を好きになれなかった。


 父は自分の意見を持つ女性を憎んでいるのだ。

 以前父とふたりで教会に出かけた帰り、煙突掃除の子供がすぐそばで転んだ。私は子供を助け起こしたあとで、父の馬車に同乗しようとした。すると先に乗った父が、冷たい目で私を見据えてこう言った――「汚い子供に触れたその手袋を通りに捨ててから、私の馬車に乗れ」


 私は自分の手を見おろしたあとで、顔を上げて真っ直ぐに父を見返して答えた――「それなら歩いて帰りますので、乗せていただかなくて結構です」


 すると父は私の鼻先でピシャリと馬車の扉を閉めてしまった。

 この少し前に教会で、父は恵まれない子供のために、かなりの金額を寄付した。だからほかの人は父のこういう一面を知らない。父は少し人相が悪いけれど、慈善活動には積極的に参加しているため、悪評は立ちづらい。

 ……いっそ父が、誰から見ても嫌な人間だったらよかったのに……そう思うこともある。

 私が父を好きになれないと公言こうげんしたなら、きっと皆は軽蔑する――なんて冷たい娘だろう、と。


 でも仕方ない。

 私は父と性格が合わない。合わせるつもりもない。

 だから困っても助けてもらえない。


 ――本日、初めて顔合わせをした婚約者から、


「どうせ金目当てなんだろう」


 と冷たく突き放され、先行きは暗いと悟った。

 実家で息が詰まりそうな生活を送っているけれど、結婚後もそうなりそう。


 それで――動揺していたのかしら。

 婚約者との面会を終えひとりになった私は、衝動的に露店ろてん絵葉書えはがきを一枚買い、公園のベンチに腰かけた。

 そこでメッセージを書いたの――もう十年も会っていない、隣国へ嫁いだセシル叔母様に。

 結婚が上手くいかなそうで、とても不安だと書きつづった。

 配達所にそれを持ち込んで郵送を頼んだあと、ひとり馬車に揺られて自宅に戻りながら、私は手のひらで顔を覆った。

 セシル叔母様に助けを求めるなんて……どうかしている。

 あちらには私を気にかける義理なんてない。


 私の父とセシル叔母様は、兄と妹の関係で、十年前は同じ屋敷で暮らしていた。

 ふたりの両親はすでに亡くなっていたので、父はこの時点でフォルシー伯爵の名前を継いでおり、当主として好きに権力を振るっていた。

 当時十九歳だったセシル叔母様は、実家では居心地が悪かったと思う。「早く婚約しろ」とせっつかれ、それならば……と相手を探そうとすれば、「男漁おとこあさりをしようだなんて、みっともない」と叱責される。父は実妹であるセシル叔母様に意地悪だった。

 私はあの時まだ八歳で子供だったけれど、セシル叔母様をいじめる父を見て、とても嫌な気持ちになったのを憶えている。

 母は私が五歳の時に病死しているので、五歳から八歳までの手がかかる時期に、セシル叔母様の世話になった。父は自分の子供の面倒を、当時十代だったセシル叔母様に押しつけて楽をしたくせに、「早く結婚しろ」だの「みっともない」だの、そんなひどいことをよくぞ言えたものだと思う。


 そのうちに父が自分の友人をセシル叔母様に紹介し、婚約を結ばせたのだが、その男は浮気者のロクデナシで、ほかの令嬢を妊娠させたため、数カ月後に破談となった。

 父は「結婚まで貞操ていそうを守ろうとしたお前が悪い、体を使わないから浮気されたんだ、あいつの家は金持ちだったのに」とセシル叔母様をののしり、家から追い出した。

 ただ追い出すだけでは気が済まず、隣国の、十六も年上の男性に嫁がせた。相手はマレシャル中佐といって当時三十五歳、子持ちだった。マレシャル中佐の妻は八年前に病死したらしい。

 セシル叔母様は当時十九歳、初婚であるのに、結婚相手はだいぶ年上の子持ち、おまけに慣れない隣国に渡らねばならず――とても苦労したと思う。

 その後何年か経って父が「妹の夫は、中佐から大佐に昇進したという噂だ」と言っていたので、今は「マレシャル大佐」に変わっているが、お会いしたことはないし、これからも直接お名前を呼ぶ機会はないだろう。


 セシル叔母様は実家で同居していた時、私をとても可愛がってくれた。

 私はセシル叔母様が大好きだった。

 幼い頃に母を亡くした私が寂しさに耐えられたのは、そばでセシル叔母様が見守ってくれたからだ。

 だけど家を追い出されたセシル叔母様のために、八歳の子供だった私は何もできなかったの。

 たぶん……今さら絵葉書を送られても、セシル叔母様は困るはずだわ。

 昔の嫌なことを思い出して、腹を立てるかもしれない。

 きっと返事は来ない。


 * * *


 ――半月後、メイドから来客の知らせを受けて玄関エントランスに向かった私は、懐かしい人と対面することになる。


「セシル叔母様が来ましたよ」


 口元にチャーミングな笑みを浮かべ、上げた右手を振りながら照れたようにそう挨拶してくれたのは、今私が一番会いたい人だった。

 別れた時、セシル叔母様は十九歳だったから――今は二十九歳? だけど見た目はほとんど変わっていない。

 ああ、来てくれた――……。

 一瞬、頭が真っ白になった。

 混乱して、叫び出したくて、でも声は出なくて、胸が焼けるようにジンと痺れた。

 私はセシル叔母様に抱き着いていた。

 視界がじわりと滲む。

 セシル叔母様は私を優しく抱き返してくれた。

 ふたりは十年ぶりの再会を喜んだ。


「……絵葉書をありがとう」


 耳もとで聞こえたセシル叔母様の声は少し震えていた。


 * * *



「――一緒に来て」


 促され、私は夢心地で屋敷を出て、セシル叔母様の馬車に乗り込んだ。

 ふたり横並びに座ったタイミングで、ゆっくりと馬車が走り出す。

 門を出るまでは父の陰気な支配が続いている気がして、互いに口を開く気になれなかった。馬のひづめが地を蹴る音を聞きながら、チラリと横目でセシル叔母様の顔を窺うと、表情が硬く強張っている。もしかすると私の顔も同様かもしれない。治安の悪いエリアから慌てて遠ざかっている最中のような、奇妙な焦りがあった。

 セシル叔母様がぎこちなくこちらを向く。


「イルザ……怒っている?」


 尋ねられ、私は呆気に取られた。

 え……なぜ私が怒るの?


「私、セシル叔母様にずっとお会いしたかったのよ」


「だけどあなたは私を拒絶したでしょう?」


「え?」


「まだ子供だったあなたを置いて出て行ったから、嫌われても当然だけれど」


 意味が分からない。セシル叔母様は父に実家を追い出されたのだし、離れ離れになったのは仕方のないことだった。私は嫌ってなんかいないし、ずっとセシル叔母様を恋しく思っていた。そして何より、とついだ先で幸せに暮らしてほしい……それを願っていた。

 身を乗り出し、セシル叔母様の手を取る。


「私……隣国のマレシャル大佐のお屋敷に宛てて、何度か手紙を書いたわ。でもセシル叔母様は返事をくださらなくて……もう昔のことは思い出したくないのかと」


「そんな――どうして?」


 今度はセシル叔母様が呆気に取られる番だった。眉根を寄せ、こちらを覗き込み、早口に続ける。


「あなたの手紙は一通も届いていない。私だってあなたに何度も手紙を書いたのよ」


「私のもとに、セシル叔母様の手紙は一通も届いていないわ」


 しばらくのあいだ、ふたりは言葉もなく見つめ合っていた。

 やがてふたりが「ああ……」とため息を吐いたのは、ほぼ同時だった。


「兄がやりそうなことよ」


「父がやりそうなことね」


 屋敷に届いたセシル叔母様の手紙は、父が焼いてしまったのだろう。執事は手紙を私に渡さず、まず父のもとに持って行ったに違いない。

 そして私が執事に投函を頼んだ手紙は、表に出ることはなく、それもまた父の手に渡って勝手に処分された。

 私もセシル叔母様も、相手から返事が来なかったことで、『怒っているのかしら』『これ以上関わろうとするのは迷惑かしら』と心に傷を負い、関係が途絶えてしまった。

 どちらかが思い切って会いに行き、対面で話せば、誤解は解けたはずなのに……。


「ごめんなさい、私のせいだわ。大人の私が気づくべきだった」


 セシル叔母様が眉尻を下げ、泣きながら抱き着いてきた。

 私も涙腺が崩壊し、声を上げて泣いた。まるで八歳の昔に戻ったみたいだった――屋敷から去って行く大好きなセシル叔母様の背中を、泣きながら見送るしかできなかった、子供時代の自分がよみがえる。


「セシル叔母様がいたから、私は生きてこられたの――子供の頃、私のそばにいてくれてありがとう」


 たどたどしく告げると、それを聞いたセシル叔母様の泣き声が大きくなる……ああ……私はそれを聞き、共に泣きながら妙に安心していた。普段は理性的な女性なのに、根っこの部分はピュアで、こういう時に大泣きしてしまう……セシル叔母様の気取らないところが大好きだった。それは十年たっても変わっていない――だからたぶん、嫁いだ先で幸せなのね。

 実家にいた時は互いが支えとなり、ふたりとも心が死なずに済んだ。そしてセシル叔母様は単身隣国に渡り、知り合いが誰もいない環境であるにもかかわらず、優しさを失くさなかった。それは新しい家族が心の支えとなったからだろう。

 夫のマレシャル大佐がセシル叔母様の素の部分を温かく受け入れて、大切に護ってくれているなら、良かった。

 本当に良かったわ……。


 * * *



「――宿泊先のトレモント地区に向かいますが、それでよろしいですか?」


 涙がやっと止まってふたりが落ち着いた頃、不意に声をかけられて驚いた。

 馬車の中には私とセシル叔母様、ふたりしかいない。けれど御者席とのあいだを仕切る小窓が開いていて、手綱を持つ若い青年が振り返り、車内を覗き込んでいる。

 青い空を背景に、綺麗なダークブロンドがキラキラ輝いていた。

 年齢は十八歳の私とそう変わらないだろうか……もしかするといくつか年上かもしれない。

 薄青の瞳には灰がわずかに混ざり、謎めいた雰囲気がある。陽気そうで、理知的で、けれど悪戯で、少し猫っぽさもあるけれど、トータルで見ると端正な青年だ。

 セシル叔母様が涙を指で拭い、背筋を伸ばして「んん」と咳払いをする。


「そうね、お願い」


 セシル叔母様がそう答えるのを聞き、私は『トレモント地区といえば一等地だわ』と戸惑いを覚えた。貴族の中でもひと握りの選ばれた者だけが、トレモント地区に邸宅を構えることができる。そのうちの一区画は国の所有になっていて、海外の要人が滞在する際に貸すらしいが、マレシャル大佐は当国でそこまでされるほどの重要人物なのだろうか。

 考えを巡らせているあいだに、


「それだけ? 私を紹介してはいただけないのですか?」


 青年が悪戯に尋ねる。


「まったくもう、トレモント地区まで大人しく待てないの? 運転に集中して、前を向いたら?」


 セシル叔母様はズケズケと文句を言っているけれど、言葉には親愛の情が込められている。姉と弟、みたいな気安いやり取りだ。


「馬たちは賢いので道なりに進みます、大丈夫ですよ」


「あらあなた、馬の気持ちまで分かるのね? 結構ですこと」


 セシル叔母様がのらりくらり、まったく紹介しようとしないので、痺れを切らしたのか、青年が小窓から右手を突き出してきた。


「私はマレシャル大佐の部下で、リロイと申します。大佐の奥方の護衛、兼、従者役で同行しました――どうぞよろしく」


 私は大泣きしたばかりでボロボロだし、人と挨拶する気分ではなかった。けれどここまでグイグイ来られると仕方ない――身を乗り出し、リロイと握手をする。

 こちらが手を伸ばしたことで、リロイはにっこりと満足そうに笑った。

 優男やさおとこに見えるのに、女性の手よりずっと大きいわ……私のほうは笑い返すほどの余裕はなかった。触れた瞬間、なぜか動揺してしまったのだ。

 そういえば舞踏会以外で男性と触れ合ったのは、これが初めての経験かもしれない。先日対面した婚約者殿はツンケン気取っていて、ハグも握手も手の甲にキスもしなかったから。


「……攻め方が強引なのは、ボスのマレシャル大佐に似たのかしらね?」


 セシル叔母様がボソボソと呟きを漏らし、呆れたようにくるりと目を回した。


 * * *


 トレモント地区の一角に建つ屋敷は見事なものだった。

 庭が広く、カエデの木や、カシの木、クルミの木が茂っていて、林に囲まれているかのようにひっそりしている。ここはタウンハウスが並ぶエリアなのに、都会の喧騒けんそうが一切ない。


「なんて素敵なお屋敷なのかしら……」


 馬車を降りたあとでそう呟きを漏らすと、セシル叔母様の護衛であるリロイが隣に並び、悪戯な笑みを浮かべる。


「本当はもっと広い屋敷を勧められたんですけど、それはさすがに断ったんですよ」


 え……これ以上?

 呆気に取られて長身のリロイを見上げれば、横からセシル叔母様が怒ったように口を挟んだ。


「ちょっと、余計なことを言わないで」


 叱られたリロイはまったく悪びれずに、軽く肩をすくめてみせた。


 * * *


 応接広間に通され、縁談について話すことになった。

 なぜかちゃっかりとリロイも付いて来て、「護衛任務をまっとうするには正確な情報が必要なので、一緒に話を伺います」とよく分からない理屈をこねて、同席することになった。

 私とセシル叔母様は向かい合って腰かけ、リロイはふたりの中間、斜め向かいの位置に座る。

 メイドがお茶を給仕してくれるのを待ってから、セシル叔母様が改まった様子で口を開いた。


「それで――絵葉書には『結婚が上手くいかなそうで、とても不安』と書いてあったわね。詳しい状況を教えてくれる?」


 絵葉書のスペースは限られていて、詳細を書くことはできなかった。だからセシル叔母様は姪っ子の縁談に、どんな問題があるか知らないのだ。

 私は気鬱きうつになりながら答えた。


「父が決めた婚約者は、ジェンキンス・プラット子爵令息です。年齢は私と同じ十八歳」


 セシル叔母様がそれを聞き、パチリと瞬きした。


「意外だわ」


「セシル叔母様?」


「ほら――兄は絶対に『損』をしたくない人間でしょう? 自分が『伯爵』だから、高望みをして『侯爵家』あたりと縁を結びたがるかと」


 確かに父の性格からすると、道具である娘を最大限に利用したがるはずで、格下の『子爵家』と婚約させたのは不自然に思われるかもしれない。しかし事情があるのだ。


「婚約者のお父様――プラット子爵は大金持ちなんです」


「ん……だけど十年前、プラット子爵が大金持ちなんて話は聞いたことがなかったけれど」


 セシル叔母様は瞳を彷徨わせ、昔を思い出すように呟いた。

 そう……十年前はね。


「プラット子爵は鉱山への投資を熱心にしていたようですが、最近、投資先の鉱山のひとつから大量の銀が出て、莫大な財を築いたそうですわ」


 とはいえ世界に名をとどろかせるほどの大金持ちになったわけでは、もちろんない。当国全体で資産額をランクづけしていったとしたら、上位一割のグループに滑り込んだ程度だ。誰もが知る大富豪ではなくとも、こうした資産家は縁談相手としては人気である。父が乗り気になるわけだ。

 ――私が『鉱山への投資』と言った途端、セシル叔母様とリロイが素早く視線を交わした。

 ……どうしたのだろう?

 気にはなったが、話を続けることにした。


「先日、婚約者との初顔合わせがありました。父は縁談をまとめるまでは非常に熱心でしたが、あとは私がどうなろうと知ったことではないらしく、その場に同席しませんでした。そうなるとお相手のご両親だけ立ち会うのも変なので、カフェでふたりきりで会うことになり」


「それで……相手の態度はどんな感じだった?」


 探るように尋ねられ、私は俯いてしまった。


「彼は挨拶の段階ですでに敵意剥き出しでした。その後雑談を振ってもむっつり黙り込んでいましたが、やがてこう言ったんです――どうせ金目当てなんだろう、と」


 シン……と重い沈黙が落ちる。やがて一番に口を開いたのは、無関係のはずのリロイだった。


「その男はロクなもんじゃない、即刻破談にすべきだ」


 きっぱり言い切られ、私とセシル叔母様は唖然として彼を眺めた。

 いえ……確かにそうかもしれないけれど、人生というのは、発作的に白か黒かを決められない。

 対面席のセシル叔母様が、段々と顔をしかめていき、強めに言葉を返した。


「あなたに関係ないでしょう、イルザを混乱させないで」


 ところがリロイも負けていない。


「第三者のほうが、冷静に物事を見ることができる。私の意見を参考にすべきでは?」


「いいえ違います――正しい判断ができるのは、いつだって本人だけよ」


「そんな馬鹿な」


「自分がこれから背負うリスクを考えて、本人が苦しんで出した答えだけが、重みを持つの。無責任な第三者の意見は、時に有害」


 ふたりはポンポン意見を投げ合っているけれど、不思議と嫌な空気にはなっていない。議論に慣れているのだろう。あるいは互いの気性がさっぱりしているだけなのか。

 セシル叔母様がこちらに顔を向けて、慎重に尋ねる。


「今のあなたの気持ちを教えて」


「私の、気持ち……」


「この縁談が壊れればいいと思う? どう?」


 問われ、答えはすぐに出た。私はほとんど絶望しながら答えた。


「いいえ――私は婚約という約束を大切にすべきだと思っています。だってそれが社会のルールだから」


 * * *


 考えを整理しながら、なるべく冷静に語った。


「人間社会において、私は『約束を大切にすべき』という考えを持っています。数百年前は乱世で、なんでも殺し合いで物事を決めていた――けれど時代は変わりました」


 腹の中に消しようのない怒りがある。なぜ人は約束を大切にしないのか――私はそれが理解できない。好き嫌いは関係ない、一度『婚約』という約束をしたなら、それを守るべきではないか? 約束を破って良いケースは、しいたげてくる相手から逃げるためとか、やむをえない事情に限定されるべきだ。機嫌に左右されて、皆が傲慢な気分で約束を破って良いのだとしたら、社会は滅茶苦茶になってしまう。

 一番身近にいた父は、外面は良いけれど、常に誰かを裏切る人だった。こっそり、ズルく――私はそんな父に踏みにじられ続けてきた――だから『卑怯な振舞い』をされるのが耐えがたいのだ。


「昔は腕力の強い人間が尊敬されたかもしれないけれど、今は違う。人々は隣人に向けていた剣を手放したのだから、世界の変化に従うべきです。話し合いで決めたことを誠実に守るのが、この世界で生きる最低限のルールだと思います。文明社会で『不誠実』なことをする人は、愚かで、滑稽こっけいな存在です」


「あなたの真っ直ぐさは正しい?」セシル叔母様の瞳はどこか悲しげだった。「先ほどリロイが言ったことは一理あるかも……一度結んだ約束だとしても、それが不幸を招く内容ならば、思い切って断ち切ったほうが良い場合もある。愚か者と関わり続けて、あなたは幸せになれるの?」


「だけど破談になった結果、セシル叔母様は……」


 そう言いかけて、私はハッとして口を閉じた。これは言ってはいけないことだわ……。

 セシル叔母様が静かにこちらを見据えて尋ねた。


「いいのよ、ありのまま気持ちを話して――私に気を遣わず。あなたにとって、それは大事なことだから」


 私の瞳から涙がこぼれた。


「十年前、セシル叔母様の婚約は破談になったでしょう……それは相手が浮気したことが原因で、あちらがすべて悪いけれど、でも……婚約という約束が破られたことで、セシル叔母様はこの国を追い出された。大好きなセシル叔母様が私の前から消えてしまった……あの時の心の傷がまだえていない。私、怖いの……この婚約が破談になったら、また怖いことが起きるかも」


 私の言葉はまったく論理的ではないし、セシル叔母様に対してひどいことを言っている自覚はあった。悲しくなり顔を覆って泣き出すと、セシル叔母様が対面席から立ち上がり、隣にやって来た。

 そっと寄り添い、肩を抱いてくれる。

 セシル叔母様が優しく体をさすってくれて、私は許された気がした。


 * * *


 しばらくして私が落ち着いてから、セシル叔母様が優しく声をかけてくれた。


「まだ結論を出すのは早いわ――しっかり見極める必要がある」


「ええ」


「もしかすると、婚約者のジェンキンス・プラット氏は『まとも』という可能性だってあるわ」


 セシル叔母様がそう言うと、リロイがふたたび口を挟んだ。


「それはない。初対面でイカレてると感じるやつは、大体イカレてます。これ、世の真理しんり


「おだまり」

 セシル叔母様はリロイをひと睨みしてから、こちらに視線を戻す。


「今回の縁談、あなたの父親が強引にまとめたってことはない? それでお相手はそのやり口に反発している、とか……? だとすると『敵の敵は味方』理論で、イルザとは気が合うかもよ」


 なるほど……その発想はなかった。

 私は光明こうみょうを見い出した心地で、まじまじとセシル叔母様を見返した。リロイが「ないない」と茶々を入れるのを無視して、しっかりと頷いてみせる。


「彼が父のようなズルい人間を嫌うタイプなら、確かに私とは合うかもしれません」


「ね? まあ違ったら違ったで、その時考えましょう。とりあえず『最低な婚約者』という先入観は捨てて、こちらは誠実に関わるの。まともな相手なら、いつか気持ちが通じるはず」


 するとリロイが「相手が馬鹿ならどうする? こちらが誠実に振舞うほど、馬鹿はつけあがるぞ」と警告したので、セシル叔母様がすさまじい目つきで彼を睨んだ。

 私は場の空気を変えるために咳払いをして、セシル叔母様に告げた。


「後悔したくないから、やれることはすべて試します」


「その意気よ――婚約破棄を警戒することで、それを避けられるならば、一番良いんだもの」


 リロイが「ありえない、僕に仕切らせろ」とまだ抗議しているが、ふたりはそれを無視した。


 * * *


 有意義な話し合いを終え、屋敷を辞去する前に、玄関口でセシル叔母様に尋ねられた。


「少し気になることがあるのだけれど」


「なんでしょう?」


「最近、何か変わった出来事がなかった? たとえば……新しいお友達ができた、とか」


 なぜそんなことを訊くのだろうと不思議に思ったものの、心当たりがあったので、正直に答えた。


「ええ……ひと月ほど前かしら、ウーナさんという子爵令嬢と友達になりました。私よりひとつ年下の十七歳です」


「きっかけは?」


「私がよく行く菓子店で出会いました。前を横切った彼女がハンカチを落として、それを私が拾って声をかけたことから、付き合いが始まって」


「どんなタイプ?」


「可愛らしいタイプです。ハキハキしていて、社交的で、控えめで……」


 ウーナのキャンディみたいに甘い外見を思い出しながら説明すると、


「……社交的で控えめ? なんだか矛盾していない?」


 と突っ込まれる。


「なんと言ったらいいのか……彼女、自分のことはあまり喋らないんです」


「どういうこと?」


「たとえば――『イルザさんはどんなフルーツが好きなんですか?』とウーナさんから尋ねられたとして、私が『イチゴかしら』と答えるとするでしょう? そうしたらウーナさんは『イルザさんはイチゴがお好きなのですね、知ることができて嬉しいです、ありがとうございます』と笑みを浮かべて、礼儀正しく会話を締めくくるの」


 一見、言葉数が多いので、『ウーナはお喋り好きなのだ』という印象を受ける。けれどそう――よくよく考えてみると、彼女はこちらに質問をするばかりで、答えを引き出したあとは、それをオウム返しして丁寧に礼をつけ加えるという、定型文ばかりを利用していた気がする。

 セシル叔母様が深刻な表情を浮かべ、私の手を取った。


「ひとつお願いがあるの」


「なんでしょう?」


「以降、ウーナさんと関わる際は、個人的なことを訊かれたとしても、正直に答えないで」


「え?」


「先ほどの『好きなフルーツは?』みたいな質問なら、素直に答えてもいいわ――でもそういう会話に付き合うことで、ほかの問いにも答えなければいけない空気になるのよね。だから質問タイムが始まったら、なんとかはぐらかして」


 私はぎこちなく頷くことしかできなかった。

 少し離れた場所に立つリロイが腕組みをして、「そうそう、気をつけなさい」とセシル叔母様の意見に同意した。


 * * *


 ――婚約者との面会、二回目。

 初回と同じカフェで、ジェンキンス・プラット子爵令息と会うことになった。

 彼が善人である可能性に賭け、心を開いて挨拶してみたのだが、前回同様そっけなくされ、続いて天気の話をしてみても、つっけんどんに流されてしまった。


 ……手強てごわい……。

 私は小さく息を吐き、表の景色を眺めた。着席しているのが通りに面したテラス席だったので、眺めは良い。

 今日はつばの広い、レース細工がついた帽子ボンネットをかぶっている。髪も下ろしているので、これで横を向けば、対面のジェンキンスからは、帽子と髪くらいしか見えないだろう。

 しばらくのあいだ沈黙が流れた。

 するとなぜかジェンキンスのほうから話しかけてきた。


「……今日は赤色の帽子ボンネットをかぶっているのですね」


 初めて声からとげが消えた気がして、意外に思いながら視線を戻す。


「ええ、昨夜『春の夜に』を読んだのですが、それに影響されて」


 小説『春の夜に』は隣国の作家が書いたもので、構成が非常に複雑である。

 ……ジェンキンスは読んだことがあるだろうか?

 彼の人となりが分からないので、会話のきっかけになるかもしれないと、『春の夜に』の主人公がかぶっていたものと、同じ色の帽子ボンネットを選んでみたのだが……。


「ああ、やはり――僕は君の帽子を見て、まさに『春の夜に』を思い出したんだよ」


「あの話、難しいですよね」


 せっかくのチャンスなので、私はこの話題を広げることにした。


「序盤、主人公と友人が語り合うシーン――あれが一番難解な気がします。初っ端でつまずくと、読み進めるのが困難になってしまって」


「だけどね、あのシーンで空が暗転していくところ、何気ない描写だけれど、ちゃんと意味があるんだよ。あれは主人公の幼少期の思い出が投影されていて――……」


 好きな話題なのか、ジェンキンスが滑らかに語り出した。

 とても興味深い内容ではあったけれど、耳を傾けていた私は「あら……」と冷や汗をかいた。

 これ、隣国の有名な評論家が発表した説、そのままだわ……。

 ジェンキンスは「という説を専門家が唱えているよ」と言わず、自分が発見したかのように語っている。

 彼が饒舌じょうぜつに語るのを聞いていると、不意に横手から声をかえられた。


「――あら! イルザさん、偶然ですね!」


 振り返ると、表通りで足を止めたウーナが、前かがみになりこちらを覗き込んでいる。

 先日セシル叔母様から警告されたこともあり、彼女の登場に、私はドキリとした。

 私と婚約者が着席しているのは通りに面したテラス席なので、ウーナの立っている場所はほとんど真横であり、とても近い。


「ウーナさん、ごきげんよう」


 とりあえず挨拶を返すと、ウーナはますます前のめりになる。


「私、イルザさんとお話ししたいことがあったんですの」


「そうですか、でも今、人と会っていて――」


不躾ぶしつけにすみません! 私ったら空気も読まず……同席するわけにもいきませんものね」


 すると対面席の彼が咳払いをして口を開いた。


「いいじゃない、一緒に座ったら? 少し話しても、レッスンには間に合うだろうし」


「え、いいのですか?」


 きゃわ……とウーナがその場ではしゃいだように跳ねる。

 私が介入する間もなく、婚約者とウーナ、ふたりの連携で同席が決まったようだ。

 ウーナは着席したあとで、ジェンキンスにほがらかに笑いかけた。


「――はじめまして!」


「ああ……どうも」


 口ごもる彼をにこにこ顔で眺めたあと、ウーナの鳶色とびいろの瞳が私のほうに戻ってきた。


「イルザさん、よろしければご紹介いただいても?」


 ……必要あるかしら? そう思ったものの、この時の私は隠された多くの事実を読み取っていたので、抵抗は諦め、感情を殺した笑みを浮かべて口を開いた。


「こちら、ジェンキンス・プラットさんです――それでジェンキンスさん、こちらはウーナさん」


 私が機械的に仲介すると、ふたりは「どうも」「うふふ」と浮ついたやり取りをした。その気持ちが悪い空気が落ち着いたあとで、


「もしかしてジェンキンスさんは、イルザさんの婚約者ですか?」


 ウーナの先制攻撃――……私は答えを拒否して、張りついた笑みを浮かべたまま、彼を見遣った。

 あなたが答えるべきよね、という私の気持ちが通じたのか、ジェンキンスがふたたび咳払いをしてぎこちなく頷く。


「まあええと……そうだね」


「そうでしたか! おふたりは婚約関係でしたか!」


 複雑で、奇妙な構図である――この三人が役者だとしたら、舞台監督から「感情を込めて、まともな演技をしろ!」と叱責されただろう――そのくらい空気がギクシャクしてわざとらしい。

 ――その後はウーナとジェンキンスだけが盛り上がっていた。

 私は淡く笑み、ふたりに割って入ることはしなかった。

 ではそろそろ解散しましょうか……となった時、私は、


「もう少しゆっくりしてから帰ります」


 と告げた。

 ウーナとジェンキンスは仲良く並んで立ち、


「では我々はここで」


 とふたり連れ立って去っていった。


 * * *


 やれやれ……カフェにひとりで残った私は、がっくりと肩を落とした。

 人生で一番無駄な時間な時間を過ごした気がするが、これで色々はっきりしたわけだから、有益だったとも言えるのだろうか……。


「――ハンカチを貸しましょうか? 泣けばスッキリするかも」


 背後から声をかけられ、驚いて振り返る。


「リロイさん?」


 彼は後ろのテーブルに席を取っており、椅子の上で体を半回転させて、背もたれに肘をついてこちらを見ている。

 私は思わず眉根を寄せていた。


「もしかしてセシル叔母様の指示で、私を監視していたの?」


「いいや、これは僕の独断」


「プライベートな会話をこっそり盗み聞きするなんて、悪趣味よ」


「ごめん」


「どういうつもり?」


 私が問い詰めると、いつも飄々としているリロイが、困ったように視線を彷徨わせる。そのセンシティブな仕草が意外で、私は興味を引かれて、彼の端正な横顔を見つめた。


「……僕らしくない行動なのは確かだ」


「そう」


「上手く言えないけれど……君に共感しているのかも」


「共感?」


「僕も幼い頃、母を亡くしている。だから境遇が似ている君を放っておけないというか……説明になっていないけれど」


 彼の声は静かで、落ち着いていた。

 ああもうやられたわ……私は泣き笑いのような笑みを浮かべた。


「そんなふうに言われたら、盗み聞きの件を怒れない」


「だろう? 上手くいった」


 私も彼にならって椅子の背に肘を置き、愚痴を言う。


「ねえ聞いた? あのふたり、バレバレなのに初対面のフリをしたのよ!」


「あれはひどかったな……ジェンキンスはウーナに、『少し話しても、レッスンには間に合うだろう』と言ったよな。ふたりだけで分かり合っている、気持ち悪い感じ……なんだあれ」


「ウーナさんは週始めにピアノのレッスンを受けていると言っていたわ。だから今日はレッスンの日なのね……初対面のはずの彼がそれを知っていたらおかしいのに、うっかり口を滑らせたんだわ」


「なるほど、そういうことか」


「ねえ――こちらの席に移らない?」


 私がそう誘うと、彼がにっこり笑って対面席に移動してくる。

 給仕にジェンキンスとウーナが使ったカップを下げてもらい、ふたりはランチを頼んだ。

 料理を待つあいだ、彼がふと瞳を細めて言う。


帽子ボンネット――君は水色を選ぶべきだったかもね」


 彼の視線が、私の赤い帽子ボンネットの上をなぞる――……。


「どうして?」


「小説『春の夜に』で、赤い帽子ボンネットは主人公マーガレットのトレードマークだ――けれどマーガレットは物語が終わるまでに、三度も嘘をつくだろう?」


「あれは悪意のない、軽い嘘だわ」


「だけど君なら同じ場面で、絶対に嘘はつかない」


 彼の青灰の瞳がこちらを真っ直ぐに見つめる。


「あの物語には、実直なメイドが出て来るよね――そちらは水色の帽子ボンネットをかぶっていたから、君のイメージにぴったりだ」


「……水色は私に似合うと思う?」


「ああ、君には澄んだ空の色が似合うよ」


 軽薄さの欠片かけらもなく、さらりと上品に彼が言う。

 私は言葉を失い、リロイを見つめた。


 * * *


 その後、リロイと一緒にトレモント地区に建つ屋敷をふたたび訪ねた私は、セシル叔母様からある頼みごとをされる。

 私は軽く眉根を寄せながら確認した。


「ウーナさんに会って、今の話を伝えればいいのですか?」


「ええそうよ」


 セシル叔母様が悪戯な笑みを浮かべて頷く。


「じゃあ覚えているか確認ね――言ってみて」


 促され、私は先ほどセシル叔母様に言われた内容を繰り返した。


「ええと……『私の叔母は十年前、隣国のマレシャル大佐のもとに嫁いだ。夫のマレシャル大佐は顔が広く、銀鉱山をいくつも持っているオディールきょうと親しくしていたのだけれど、先月の生誕祭で大喧嘩をして、ふたりは絶縁ぜつえんした』……合っている?」


「合っているわ――さあ、次はこちらから攻めるわよ。面白くなってきたわね」


 セシル叔母様の目が、狩りをするたかの目になっている。

 隣にいるリロイも同じだ。

 ねえちょっと……事情が分からないのは、私だけ?

 でもまあいいか……このふたりが付いているなら、百人力ひゃくにんりきだものね。


 * * *


 セシル叔母様の計画通り、私はウーナに会って、例の内容を伝えた――銀鉱山をいくつも持つ大金持ちと、叔母の夫であるマレシャル大佐が、先月大喧嘩したという、あの話だ。

 これは事実なのかどうか、私には分からない。セシル叔母様を問い詰めて、あれこれ聞き出すことはしなかった。真相を知ってしまうと、私はすぐに顔に出るので、ウーナに疑問を持たれてしまう。セシル叔母様の足を引っ張りたくない私は、計画の全貌ぜんぼうを知らないまま、ただのこまとして動くことにした。


 私との会話では『定型文返し』を得意とするウーナだが、この時ばかりは様子が違った。ぐいぐい距離を詰めてきて、不適切な相槌を打ったり、「それでそれで?」と追加情報をねだってきたりと、明らかに興奮していた。

 もっと聞かせてと深堀りされても、提供できるネタはそれ以上ない。だから「ああ、喋りすぎたみたい」と顔をしかめてみせ、適当に話を切り上げた。


 ――その数日後。

 王宮主催の大規模な夜会にて、セシル叔母様が本領を発揮する。


 * * *


 夜会には、父、兄と一緒の馬車で向かった。


 五歳年上の兄は、性格が父によく似ている。そのせいか兄は子供時代、当時同居していたセシル叔母様にまったく懐かなかった。むしろ私に親切なセシル叔母様に対し、嫌悪の感情を向けていたように思う。

 子供の頃から、兄が私の味方になってくれたことは一度もなかった。父が私にひどいことをしても、いつもそれを見物しているだけ。さらに言えば、傷つく私を眺める視線は、冷笑的ですらあった。

 一度兄から言われて印象的だったのは、


「父に気に入られていないお前は、普通じゃないし、どうしようもない人間だよな」


 という言葉だ。

 この時私は悟った――世界には二種類の人間がいる――『いじめの加害者を支えることで安定を得ようとする、信念のない人間』と『自分の頭で正しさを判断しようとする、信念のある人間』――その二種類。

 たとえ損をするとしても、私は後者でありたい……だから信念のない兄とは、性格が合わない。これまでの人生で、兄から直接嫌がらせをされたことはなかったけれど、私からすると『傷心の被害者をさげすむ傍観者であり続ける兄のほうが、父よりも残酷』だと思うことがあった。


 父、兄、私の三人が同乗する馬車の中には、葬式のように冷えた空気が漂っていた。

 父と兄は性格がよく似ているけれど、互いに愛情を抱いているわけではないから、他人の目がないOFFの時間は雑談すら交わさない。私には彼らを盛り上げる義理もないので、口を閉ざしたまま窓の外を眺めて移動時間を潰した。


 王宮の夜会会場に着くと、家族三人固まって、必要な挨拶回りをこなした。

 やがてそれを終えると、解散となる――私たちは視線を合わせることもなく、全員表情を消し、会場で散り散りになった。


 * * *



「――ごきげんよう」


 ひとりになった私が壁際に向かって歩いていると、横手から不意に声をかけられた。

 振り返れば、着飾った美しい淑女が、優雅にこちらを覗き込んでいる――やだ驚いた、セシル叔母様だわ!

 普段のセシル叔母様が好むような、実用的な装いとはまるで違う。肌の露出は控えめなものの、対面していると華やかさに目がくらみそうになる。洗練されたドレスを身に纏い、一分いちぶすきもない。


「セシル叔母様も夜会に出席するのですか?」


 驚きすぎて、声が細く裏返ってしまった。


「サプラーイズ」


 セシル叔母様が顔の前で扇を広げ、笑みながら口元を隠して続ける。


「具体的な計画を話すことで、イルザが緊張したら可哀想だから、ここで仕かけることは黙っていたの」


「何か……たくらんでいます?」


「あら人聞きの悪い」


 ふふ、とセシル叔母様が優雅に笑う。


「わたくしはたくらむだけでなく、可愛い姪っ子のためなら、とことんやり切りますわよ――あなたを苦しめた全員、泣きっツラにさせます」


 セシル叔母様は味方のはずなのに、背筋がぞくりとした。


「……もしかしてリロイさんも来ています?」


「彼にはあとで会えるわ」


 セシル叔母様は小粋にウィンクをしてみせ、「じゃあ一旦解散しましょう」と言い置き、人混みの中に消えて行った。


 * * *


 これからセシル叔母様が何か仕かけると知ってしまった私は、落ち着きを失い、ソワソワしながら父の姿を探した。

 あなたを苦しめた全員、泣きっツラにさせます――セシル叔母様はそう言っていたから、父もターゲットのひとりだろう。『知らないところで始まり、いつの間にか終わっていた』とならぬよう、視界に入る位置に移動しておこうと思った。

 会場を横切っていた私は、上座の一角に父の姿を見つけた――いた!

 父から目を離さず、人の邪魔にならぬよう、柱のそばに寄る。

 足を止めたところで、横手から不躾ぶしつけに誰かが抱き着いてきた。ふわりと甘い香水の香りが漂う。


「――イルザさん、残念ですわ」


 その人物は、吐く声も甘ったるい。

 絡みつく蛇のように、こちらの左腕をギュウッと締め上げてくる。少し顔をしかめて横を見れば、至近距離にウーナの小作りな顔が迫っていた。


「何が残念なのかしら?」


「私、イルザさんに憧れていました……あなたは白百合のように清らかで、実家は堅実、すべてを持っていましたから。それなのに、お可哀想に……」


 ウーナの「お可哀想に」という台詞が、なぜか「ざまあみろ」に聞こえた。


「私は可哀想なの?」


「イルザさん、先日おっしゃっていたでしょう――先月、生誕祭にて、叔母様の夫であるマレシャル大佐が、銀鉱山をたくさん持つ大富豪・オディール卿を激怒させた、と。それってまだ誰も知らない、最新情報ですわよね?」


 私は沈黙を守り、質問に答えなかった。

 ウーナが続ける。


「イルザさん――だけどその裏話、婚約者であるジェンキンスさんには、正直に打ち明けるべきでしたわ」


「なぜ? 何があったのだとしても、それはセシル叔母様の家庭の事情――ジェンキンスさんには関係ない」


「関係ありますよ! ジェンキンスさんのお父上であるプラット子爵は、銀鉱山への投資で財を築いた方です。銀鉱山に取りかれていると言ってもいい――だからプラット子爵は、息子さんの花嫁を探す際、投資の面でプラスになる相手を選んだのですわ」


「それでうちが?」


「ええ、あなたの親戚であるセシル叔母様が嫁いだ隣国のマレシャル大佐は、鉱山王であるオディール卿から一目置かれていて、近年ではすべての取引の代理人になっていました――つまり鉱山投資で成功したいなら、マレシャル大佐と親しくなる必要があります」


 マレシャル大佐がすべての取引の代理人?

 そうだったのか……私は驚いた。父は実妹であるセシル叔母様と、絶縁状態になっている。だから隣国のマレシャル大佐がどれだけ重要人物であるか、父は把握していなかったのではないか。

 父はそういった裏事情を知らず、今勢いのあるプラット子爵家から縁談を持ちかけられ、小躍りしただろう――相手はうちより爵位は劣るものの、金持ちだ。


「ジェンキンスさんは……初めて会った時から、私に怒りを向けてきたの。どうしてかしら?」


 彼から「どうせ金目当てなんだろう」と言われた。けれど今の話を聞くと、むしろプラット子爵家のほうが、金目当てで当家と縁を結んだようだけど?

 ウーナが苦笑いを漏らす。


「それはほら……ええと、たとえばの話ですけど、ジェンキンスさんのご友人が、忠告して差し上げたのかも」


「どんなふうに?」


「派手好きなイルザさんには多額の借金があり、金持ちと結婚したがっていた。自分の親戚には鉱山のコネがあるんだと主張して、無理に縁談をまとめた……とか?」


 聞いていた私は怒りを覚えた――『ジェンキンスに忠告した友人というのは、あなたね』と真相が分かったからだ。私に借金なんてないわよ、嘘ばっかり!

 元々、ウーナはジェンキンスを狙っていたのだろう。なんとかしてお近づきになり、これからじっくり落とそうと思っていた矢先、電撃的に彼の婚約が決まったのではないか。

 そこでウーナは私に関する嘘の悪口を、ジェンキンスに吹き込んだ。


 私の父は人間性に問題はあるものの、外面は良い。だからこそお相手のプラット子爵も縁談を望んだのだろうし、その際に息子の意向も確認したはずだ。

 本来は円満な形でまとまった婚約だった。

 それなのに初対面の際、ジェンキンスがあんなに喧嘩腰だったのはおかしい――それは誰かが彼の思考を捻じ曲げたからだ。

 ……まあ大人なのに簡単に操られてしまうのもどうかと思うが、それはそれとして、ウーナが目的を持って私たちの仲を乱していたなら、すべて筋が通る。


 セシル叔母様は状況の不自然な点に気づき、以前、私に尋ねたんだわ――「最近、何か変わった出来事がなかった? たとえば新しいお友達ができなかった?」と。

 悪意のある第三者が背後で動いているとすれば、ジェンキンス側だけでなく、私のほうにも接触していると推理したのだろう。

 それは見事に当たっていた。


「――今夜、何か起こるの?」


 私が訪ねると、ウーナが残酷な笑みを浮かべる。


「かもしれないですね」


「なぜ今夜なの?」


「知らないんですか? 月の終わりに開かれる、この定例の夜会では、直近で提出された婚約届が、国王陛下から各貴族に返されるの――承認の王印を押されてね」


「じゃあそれが返されてしまうと、婚約が正式に認められてしまう」


「そう、だから婚約破棄するなら、『今』しかない」


 馬鹿げている、と私は思った。


「それならもっと早くにそうすべきだったわ」


「だけど地味に話し合いを進めていると、間に合わないかもしれないわ。国王陛下が見ているこの場で、派手に婚約破棄をすれば、すっきり一度で解決する。あなたに非があるという内容で騒ぎを起こしたかったから、弱みを探っていたのだけれど……まさか本人が、とっておきのネタを提供してくれるなんてね!」


 ではマレシャル大佐の醜聞しゅうぶんを知る前から、どのみち今夜ここで、私に言いがかりをつけてはずかしめるつもりだったのか。

 それで婚約破棄された私の人生がズタボロになっても、あなたは構わないというわけね。なんという自己中心的な思考だろう。

 そして私を破滅させるだけでは飽きたらず、さらに打ちのめしてトドメを刺すために、こうして真相を話し『気づかなかったなんて間抜けだわ』と嘲笑あざわらっている。


 けれどね――あなたは大事なことが見えていない。

 獲物えもの蜘蛛くもの巣でからめとったつもりでも、捕食者ほしょくしゃはほかにいるかもしれないわよ――大空を飛ぶたかが、遥か上空から、あなたに狙いを定めているかも。

 上には上がいる――それを忘れないことね。


 * * *



「――イルザ・フォルシー伯爵令嬢、君との婚約を破棄する!」


 それはいきなり始まった。

 いつの間にか目の前に、ジェンキンス・プラット子爵令息が来ている。

 会場中に響き渡るような大声で、彼が婚約破棄を宣言したので、夜会に参加していた貴族たちがピタリと動きを止めた。一体どうしたの……という困惑の空気が辺りに広がる。

 私にからみついていたウーナは「ふふ」と勝ち誇った笑みを漏らし、ポンポンと慰めるようにこちらの腕を撫でてから、ジェンキンスのほうに歩いて行った。

 横並びになったふたりは寄り添い、ジェンキンスが私への断罪を再開した。


「君の叔母セシルは、隣国の有力者であるマレシャル大佐と結婚している――間違いないか」


 私は背筋を伸ばし、堂々と答えた。


「間違いありません、それが何か?」


「しかしマレシャル大佐は、先月の生誕祭で、とんでもない失態を犯したらしいな」


「とんでもない失態とは、なんのことでしょう?」


「とぼけるな――鉱山王を激怒させたそうじゃないか。莫大な財を持つオディール卿に睨まれたら、その者に未来はない。マレシャル大佐は破滅する」


「話が見えません――あなたはマレシャル大佐を中傷していますが、それと先ほどの婚約破棄宣言と、何がどう繋がるのです?」


「繋がるに決まっている――お前の親戚は、隣国で罪人レベルまで落ちぶれたのだから、もっと恥ずかしそうにしたらどうなんだ!」


 ジェンキンスが高らかにこちらを侮辱したところで、彼の父であるプラット子爵が、人混みをかきわけて前に出て来た。


「ジェンキンス――お前、なんてことを!」


「父上、この場はお任せください、今けじめを着けているところです」


「馬鹿な……私になんの相談もなく、こんな……」


「マレシャル大佐は終わりなんです、父上」


「しかし私は一度、マレシャル大佐にお会いしたことがある。公正で、立派な方だった。オディール卿と少し揉めたのだとしても、きっと誤解は解けるはずだ。マレシャル大佐の過去の功績まで消えることはない」


「違います、終わりです。マレシャル大佐自身が、これまでの輝かしい功績に泥を塗ったのですよ」


 このやり取りを聞いていた私は『プラット子爵はまともなのか』と衝撃を受けた。ジェンキンスの大暴走よりも、プラット子爵が見せた誠意のほうが、むしろ私を混乱させたかもしれない。

 プラット子爵はマレシャル大佐のことを尊敬しているようだ。その気持ちを大切にしていて、考えにブレがない。悪評を聞かされてもすぐに信じたりせず、冷静に対処しようとしている。この人が意見を変えるのは、自分の目で確認して、慎重に判断したあとだろう。賢く、堅実な人だ。

 ただ一点、プラット子爵に非があるとするなら、息子の教育を失敗したことくらいか……。


 この込み入った状況で、ついにあの人が動く。


「――わたくしの夫、マレシャル大佐のことで、何か揉めているのかしら?」


 来た……私の心臓が大きく跳ねた。

 セシル叔母様が美しく背を伸ばし、騒動の渦中に入って来た。


 * * *


 会場にどよめきが走った。

 皆、この騒動に釘づけになっており、興味が最高潮に達したところで、『まさかマレシャル大佐の奥方が登場するとは!』という驚きに襲われ、全員が目を丸くしている。

 それはこれまで威勢良く悪態をついていたジェンキンスも同様だった。

 善良なプラット子爵は可哀想に、卒中そっちゅうを起こしそうな顔つきになっている。


 セシル叔母様は一番目立つ中央に進み出たあとで、関係者をぐるりと見渡し、目当ての人物に狙いを定めた。

 会場の一角を見据え、鋭く問いかける。


「フォルシー伯爵――何かおっしゃりたいことは?」


 おお……ここで父を呼ぶのか……私はセシル叔母様の容赦ないやり口にしびれた。


 父はゾッとするような邪悪な目つきでセシル叔母様を睨んだあとで、取り澄ました常識人の仮面をかぶり直し、前に進み出た。


「セシル――久しぶりだな」


 セシル叔母様は扇をパチンと畳み、冷ややかに応じる。


「わたくしはマレシャル大佐の妻です。マレシャル夫人とお呼びいただけますか?」


 父の顔が痙攣し、ふたたび生来せいらいの邪悪さが漏れ出た。


「……マレシャル大佐は破滅したようだが、まだその名にこだわるのか」


「夫への敬意を欠いた、すいぶん無礼ぶれいな物言いですわね」


「ふん……ああ、分かったぞ」


 父が小馬鹿にしたように冷笑する。


「何が分かったのです?」


「強がっているが、進退きわまっているな? 隣国で居場所がなくなり、逃げ帰って来たか……私の慈悲じひにすがるつもりなんだろう。甘えてもらっちゃ困る」


「ですが」セシル叔母様は瞳を細め、手の中の扇を気まぐれに動かしながら続けた。「あなたは私の兄ですよね? 血が繋がっているのは確かだし、どちらかが困ったら、助ける義務はあるのでは?」


「では縁を切ろう――マレシャル大佐はオディール卿を激怒させた、恥ずべき男だ。そんな男に嫁いだお前は、国の恥――私とは今後一切関係がない、他人だ」


 それを聞き、セシル叔母様が『やれやれ』とため息を吐く。


「イルザはどうなります? あなたの娘でしょう――公衆の面前で言いがかりをつけられ、婚約破棄されたのですよ。あなたは身をていして、かばうべきです」


「イルザはお前にくれてやる。恥ずべき繋がりは、ここですべて断つことにしよう」


「よろしいのですね?」


「ああ、もちろんだ」


 * * *


 眼前で繰り広げられるやり取りを夢中で見ていると、不意に横手から、


「――君は居場所を選ぶことができる」


 と声をかけられた。

 落ち着いた声音は聞き覚えのあるものだったので、私は半ば油断しながら振り返り――……彼の姿を見て目を瞠った。


「リロイさん、それ……」


 呆気に取られて呟きを漏らすと、彼が青灰の瞳を細めて口角を上げる。


「どうかした?」


「騎士服ですか?」


「そう、礼服で出席するように言われて。似合う?」


 余裕たっぷりに尋ねてくるのが憎い……「NO」と言われるわけがないと信じきっている態度だ。

 彼は普段着でも端正だったけれど、こうして儀礼用の制服を身にまとえば、気品と清廉さが加わる。

 私が「似合う」と言わずにいると、彼がくすりと笑みをこぼした。


「君が沈黙を守っても、僕は言葉を惜しまないよ」


「どんなふうに惜しまないの?」


「君は薄水色のドレスがとても良く似合っている」


「……ありがとう」


「そのドレスには、これが合うだろう」


 リロイはそう言って、自身の胸ポケットに挿していた水色の生花一輪を手に取り、私の髪に飾った。

 顔が熱い……だってこの色は。


「やはり君には、澄んだ空の色が似合う」


 先日交わした、『春の夜に』の登場人物にからめた会話――それを彼がふたたびここで繰り返した。

 私は言葉もなく、彼を見つめる。

 リロイが私の心をからめとった。


「もう君の答えは決まっているだろう、イルザ――この国に留まっても、退屈なだけだ。僕と一緒に、隣国へ来ないか?」


 * * *



「――一体、なんの騒ぎですか。色々と幻聴が聞こえたような気がするけれど」


 凛とした声が響き、ここでまた新たな人物が登場した。三十代の、えもいわれぬ気品をまとった高貴な女性だ。


「王妃殿下」


 セシル叔母様が綺麗な礼をとり、その人物を迎える。

 国王陛下は妻を溺愛しており、加えて王妃殿下の実家は名家である――つまりこの国で最も強い権力を持っているのが、今現れた女性というわけだ。

 王妃殿下がセシル叔母様に話しかける。


「ねえセシル、あなたの夫のマレシャル大佐に、わたくし、お礼を言わなければならないわ」


「とんでもないことでございます」


 セシル叔母様が落ち着いた態度で答える。

 しかし落ち着いているのはこのふたりのみで、周囲は大混乱だ――先ほどまで公然とマレシャル大佐は中傷されていたはずだが、王妃殿下は彼に敬意を払っているのか? 真実はどこにあるのだ?

 王妃殿下がよく通る声で続ける。


「先々週、わたくしは隣国を訪ねて、あなたと、マレシャル大佐と、鉱山王のオディール卿――仲の良い皆さんで集まって、お食事会を楽しんだのよね?」


「王妃殿下は当国のキノコ料理を気に入ってくださいましたね」


「そうなの、とても美味しかったし、楽しい会だったわ。それなのに」


 王妃殿下が悲しげに瞳を伏せ、次いで、氷のように冷たい瞳で、ジェンキンスとウーナを流し見た。


「マレシャル大佐と、鉱山王のオディール卿が先月喧嘩した――先ほど、そんなありえない作り話が聞こえたのだけれど」


 ウーナは青ざめ、よろよろと後ずさる。彼女に寄り添っていたジェンキンスは、信じがたいという顔で、ウーナを眺めおろすことしかできない。

 王妃殿下は優美さを崩していないものの、明らかに苛立っていた。


「先月ふたりが喧嘩して決別したというのなら、先々週、わたくしが会ったマレシャル大佐とオディール卿は、まぼろしだったということ?」


「いいえ、どちらも本人でございます」


「オディール卿は終始マレシャル大佐に笑いかけていたわねえ……実の息子に対するような愛情が、オディール卿の瞳に浮かんでいましたよ」


「ふたりには不思議な繋がりがあるようです。見ていて微笑ましいですわ」


「わたくしも同感よ――この社会には、あのように互いを思い合う、他者への誠実さが必要だわ。非のない他人をおとしめるなんて、まともな人間がすることではないものね」


 王妃殿下が周囲を見渡し、堂々と告げる。


「わたくしが仕切る夜会で、礼儀を知らぬ動物に暴れてほしくないわね――いつまでわたくしは我慢をいられるのかしら?」


 衛兵がウーナ、ジェンキンス、両名を取り囲む。

 そしてマレシャル大佐を侮辱ぶじょくした上でセシル叔母様に絶縁を突きつけた父のそばにも、衛兵の姿が。

 私は会場に視線を走らせた――兄はどこ? 見つけた。

 父の気性を引き継いだ兄は、会場の片隅ですっかり青ざめていた。誰よりも評判を気にする人だから、今日の出来事は精神的に耐えられないだろう。

 兄が背中を向け、よろよろと逃げ出すのを、私は黙って見送った。


 実直なプラット子爵が自主的に退去しようとするのを見て、セシル叔母様がそれを止めた。


「プラット子爵――先ほどは誠実に対応くださり、ありがとうございました」


 セシル叔母様が礼を言うと、プラット子爵は恥ずかしそうに背を丸めた。


愚息ぐそく無礼ぶれいについてお詫び申し上げます。処罰はつつしんでお受けいたします」


「姪のイルザとの婚約、それは当然破棄となります」


「はい、承知しております」


「ご子息の行いは、水に流すことはできません。ただ、プラット子爵は正しい行動をお取りになったので、こちらとしましては、子爵家を訴えるつもりはございません」


 その言葉を聞き、プラット子爵が目を瞠る。彼の瞳を見つめ、セシル叔母様がこう言った。


「――プラット子爵にはご子息が、おふたりいらっしゃいましたね」


 そう言われたプラット子爵は涙ぐみ、恥じたように顔を赤らめた。


「当家の長男……ジェンキンスは廃嫡はいちゃくいたします。家督かとくは次男に継がせ、以降は私がしっかり息子を監督いたします」


 こうしてプラット子爵は賢く家を守った。彼には娘もいるし、愚かなジェンキンスの巻き添えで、皆が破滅するのはあまりに気の毒だ。

 セシル叔母様が示した温情に感謝し、プラット子爵は深く頭を下げた。


 * * *


 騒動が決着し、会場に和やかな空気が戻った。


「君に、ひとつ謝らなければならないことがあって」


 隣に立つリロイが、ふとそんなことを言う。


「何かしら?」


「自己紹介で、僕はマレシャル大佐の部下だと名乗った。それは嘘ではないのだが、隠していた事実がある」


 なんだ……そのこと。

 私は笑みを浮かべ、彼を横目で眺める。


「知っているわ――あなた、マレシャル大佐の息子さんでしょう」


「ん……なんでバレた?」


「セシル叔母様があなたを見る目は、私を見る目と同じ――つまり、家族に向ける視線だった」


「なるほど」


「なんで嘘をついたの?」


「君に悪くてさ……大好きな叔母様を、マレシャル家に盗られたような気持ちだっただろうと思って。できれば先入観なく関わって、仲良くなりたかった」


「そう」


「それで、僕たちは仲良くなれたかな?」


「どうかしら」


 私がつれない答えを返すと、彼が握手を求めて、こちらに手を伸ばしてくる。


「そろそろ君の口から、YESが聞きたいな――僕と一緒に隣国に来るだろう?」


 もう……「僕と一緒に」という言葉、必要?


「隣国には行きたいわね、楽しそう」


「そうか、僕と一緒に来てくれるか」


 リロイはにっこり笑い、勝手に私の手を取って握手をした。


   * * *


 それで……彼との関係はどうなったか、って?

 リロイはそれから毎年、私の誕生日に水色の花を贈ってくれる。





   * * *


 婚約破棄に備えた令嬢が、結果的に婚約破棄されるも、ダメージゼロだった話(終)

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異世界恋愛短編集/山田露子 山田露子☆12/10ヴェール漫画3巻発売 @yamada_tsuyuko

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